Alter EgoとしてのMax博士。

mimisemi2010-02-22

勝手に臨場感を演出するって大きな勘違いっつーか大いなる勘違いに必要なメソッドだよね。そこでまぁ俺はね、前にまぁもう大数学者のつもりでいるって書いたけど、大数学者なのに学歴のためにペーパー書くっつーのも変な話なんで、まぁペーパーを書くっつー意味だとまぁ博士課程の生徒のつもりでいるっつー臨場感にしようと思ったのね。行ってる学校はマンハッタンでも一番洗練されていないコミカレだけども、自分の中ではそれはバイトで通ってるようなもんで、実際は自分の博士課程用の研究とかプロジェクトをやってるつもりでいるっていう。で、気がついたのはさ、ペーパーを書くっつー前提で文献読んでると集中力が違うっていうか理解しようと思う意志が全然違うのね。所謂精読っつーのかな?読破したからオッケーってことじゃなくて、何かを書けるぐらい理解してないとダメってことで、自ずと精読になるんだよね。結果、まぁ理解が増すわけだ。普通の読書の時よりね。普段はまぁ俺は特定のものを除いては精読なんてしないからね。かなり速読に近い読み方をしてるねっつーかだからまぁこんだけ本を読めるんだけど。


一冊一冊精読してたら年間300冊とか読めないよね。やっぱ。ただ量っつーよりかは質っつーよりかは理解力じゃん?だからまぁ何冊っていう量に重きを置くのは馬鹿げてるんだけどね。ただまぁ前にも書いたように速読できるような本を読む機会ってのが無くなったんだよね。速読で読むような本は今まで知らなかったやつとか新刊とかを除いてはもう無いよね。まぁこっちの紀伊国屋とかブックオフで手に入るような文庫とか新書に関してはもう読み尽くしちゃった感があってさ、だから無いのね。ただあれなんだよね、臨場感ってことでさ、ペーパーの書き方ってのをやらなきゃなってことで本買ってきたんだけど、その本ってのがね、日本語のやつでは論文のレトリックっつー定番のやつだけど、洋書ではHow to Survive Your PhdっつーやつとかWriting Your Dissertation in Fifteen Minutes a Dayってやつとかね、あとはThe Craft of Researchってやつとかなんだけど、特に前者二つに関してはドクター用の本なんだけどさ、でも俺はドクターを取るっていう勝手な臨場感を演出してるじゃん?アドバイザーの先生もいるわけで臨場感はバッチリじゃん?undergraduateの試験的なSurvey Paperだけどさ、やるのはね、でもまぁ俺は勝手のドクター論文ぐらいの臨場感でいるっていう。


で、結果的にこういう本とかも真剣に読むようになるんだよね。将来やるかもしれないってことじゃなくてもうその状況にいるって勝手に思ってるからね。で、Writing Your Dissertationのほうだけどさ、タイトルにもあるようにね、とりあえずまぁリサーチに関するものを読んで思った事を日記みたいに毎日15分ぐらいは書き綴る癖をつけるみたいなさ、ようは90パーセントぐらいの人が何かを真面目に書くってことは億劫だって感じてるのが事実なわけで、だからフリーライティングでも思いつきでもとりあえず書いてみるっていうところから始めるのが良いみたいなことが書いてあってさ、なるほどな!だよね。ジジェク師匠も言ってたことだけど、書くのが嫌だからとりあえず書きたい事を書きまくるとあとはエディットするだけになって、そのときには書かなきゃいけないということが消えているっていうさ、まぁこれってようは方法論的に割と普遍的に使えるメソッドなんだなってことだよね。


論文って不自然だもんね。凄く。普段使わないような言い回しとかさ、日本語の場合、である口調であったりさ、そういうのって普段やらないじゃん?だからすげー変な感じだよね。まぁそういうのも慣れなのかもしれないけど、まぁ基本的につまらないよね。文章的には。まぁ面白さに重きを置いてないからなんだろうけど、俺が思うにそれが学術的な価値があるなら別にフリーライティングとかでもいいと思うんだよね。形式は一切問わないみたいな。だからダイアログ形式でもいいし、リサーチ結果を数学ガールみたいなフォーマットを使って物語にしちゃうとかさ、あとはお楽しみ学術エッセイみたいにしちゃうとかさ、そういうもありっつーかむしろそういうほうがいいよね。そういうほうがより多くの人の目に触れる事になるじゃん?つまらない論文って結局審査する人とかさ、その分野の限られた人にだけ読まれるだけであとは消えていくだけでしょ?まぁふつーの生徒が書くようなやつはね。だったらどうせリサーチ結果もたいしたことなくてつまらないものだったらせめて文章とかストラクチャぐらいは面白くてもいいじゃん!って思うんだよね。SF小説みたいにして概念を説明するとかさ、そっちのほうがずーっと埋もれないよね。面白い!っつって読む人も増えるじゃん?


まぁ俺はかねてからそう思ってたわけで、だからつまらないである口調の論文は書かないっつーコンセプトで勝手に自称論文を書いちゃおうと思ってさ、試しに書いてみたのね。ようは自主的にだよね。論文っぽいストラクチャを使いつつ基本的にフリーライティングみたいな形式でさ、まぁウォール伝ほどの瞬発力は言語的な問題で無いにしても、まぁでも英語でも書きたい事が浮かべばそれを書くんだよね。ウォール伝的なナンセンスも含めてっつーか半分ぐらいがそんな感じだけど。そしたら驚いたことにさ、1時間半ぐらいでダブルスペースじゃない5ページぐらいのペーパーが出来上がったんだよね!まぁペーパーと言える代物じゃないにしても、学術的にはちゃんとしてるものなんだよねっつーか学術的なものを根拠に書いてるエッセイみたいなもんなんでさ、完全にナンセンスじゃないわけ。


そこでまぁ思ったね。まぁウォール伝みたいなノリで今後もペーパー類を書いていけばいいんじゃないかと。まぁそれを提出するかはともかくとして、俺が英語で何かを書くのが凄く嫌なのは最初からつまらないものを要求されてるからなんだよね。ようは俺が英語で何か書くときっつったらメールか学校の宿題ぐらいなわけ。ってことはメールはともかくとして、ペーパー類に関しては大抵が日本語でも書くのが億劫なものばかりなわけ。だから結果的に嫌になるのね。英語で書くということが。それを打破するのが今回の方法論だよね。勝手に博士課程の生徒だと自分を仮定して、論文をバリバリ書くっつーイメージを持って論文風なウォール伝の英語バージョンみたいなノリで書きたい事をとりあえず書きまくるっていう。ただそれが一応論文というつもりで書いているのだから、学術的な根拠とかリファレンスとかに関しては多いに活用するっていうね。ウォール伝は完全なフリーライティングで基本的にノンストップだけどさ、ようは考えて書くっつーよりかは書きたい事がタイピングに追いついてないって感じなわけでさ、まぁたまにスピード感が無いやつとかあるけど、ああいうのは大抵まぁダメなときね。勢いが無い時はああいう感じになる。


まぁただ俺の仮想論文に関してもさ、英語で何かを書くということを習慣づけることと、あとはリサーチ結果みたいなのをまとめるって意味でも効果的でしょ?ようは理解したって思うなら何か書いたほうがより理解に繋がるじゃん?これって理解の基本だと思うんだけど、それをようは英語でやるってことだね。特に数学的なものに関してはウォール伝で書くのもいいけど、仮想論文を勝手に書いちゃうっつーのが大いにアリなんだよね。結果、英語で書くということが億劫にならなかったりさ、あとはまぁ単純に筆力が上がるじゃん?だからこの方法論は効果的だなと思って。


学術的根拠さえちゃんと押さえていればあとは何を書いてもいいっつールールだよね。で、恐らく学術的な根拠さえ押さえてれば結局はフォーマットの問題でさ、フォーマルなものを書かなきゃいけないってことになったら俺のフリーライティング仮想論文の文体を変えるとかさ、ジョークみたいなのを削るとかしていけばまぁ学術的なエッセンスだけが残るってことになるじゃん?で、そうなればまぁ質とかはともかくとして学術的根拠が元々あるものなんだからまぁフォーマルな提出物にも値するってことになるよね。


まぁウォール伝みたいなペースでは書けないけどさ、でもまぁ仮にウォール伝みたいなペースでそれを書いてたら年間何百本って書けるよね。それって結構凄いよね。提出するかはともかくとして、理解した事を出力するとかさ、英語で理解したものを書くっていう訓練とかさ、あとは数学の場合、結局まぁ数式の説明とか概念の説明とかもあるわけで、そういうのを例えばウォール伝みたいにふざけたような感じで書いてもまぁ英語の表現力が上がるよね。英語でふざけたことを書ければ結構いいよね。ウォール伝の独特な文体とか造語とかもまぁ書きながら勝手にそれが定着していったものなわけでさ、最初からこうだったわけじゃないわけで、まぁそう思うともう10年ぐらい書いてるってことなんだけど、まぁ継続は力なりだよね。で、今度はまぁそれを英語でやっていこうじゃないか!っていう試みだね。敏腕数学研究者にでもなったつもりで論文を書きまくるっつーイメージでフリーライティングをやるっていう。


昨日はまぁそのね、買ってきた本からまぁインスピレーションを得てとりあえず書いてみようか!って思って書いたんだけど、あんなに書けるとは自分でも思ってなかったんだよね。結局は言語とフォームなんだなと。ウォール伝が長いのは書きたいことがあり過ぎるからだけど、それって別に言語に依存してないじゃん?別に英語で書ければ英語で書いてもいいわけで。まぁ今の所無理だけどね。でもそれを無理とは言わないで、学術的なサイドではウォール伝、敏腕数学研究者バージョンみたいな感じのコンテンツを自分で勝手に作っちゃってさ、それを継続させればいいんだよね。俺は論文っつー形式が死ぬほど大嫌いだからこそ、皮肉っぽく論文っつー形式を利用してフリーライティングをしてそれをぶち壊すっつー快感を得るみたいなね、これってまぁ相当有効だなと。で、昨日書いたやつに関しては内容はまだ秘密だけどさ、意外と手応えがあるもんだったから先生にまずは読んでもらおうと思うんだけど、執筆者の名前がMax Cohen Phdなのね。まぁドクターの生徒でPhd持ってるっつーのも矛盾なんだけど、ようはMax Cohen博士ってのが書いた論文っつーフィクションの形式の論文ってことね。まぁMax Cohenってパイの主人公だけど、パイの主人公が書いたものっつーよりかは自分の数学サイドのAlter Egoみたいなもんっていうイメージだね。それがMax Cohen博士っていう。


コンセプト倒れにならないようにまぁ継続していこうと思ったね。今後も。我ながら最高のコンセプトだと思うんだよね。すんげー軽いモチベーションで学術的なものを書くっつー動機が得られるっていう。Max博士の論文がどんどん増えるのが自分でも楽しみなわけじゃん?だから早くMax博士の仮想論文を書き上げたい!っつー理由でも数学的なものをディグるっていうさ、ウォール伝では哲学とか政治哲学とかのことをまぁ書いてたじゃん?意識はしてなかったけど、結果的にああやって書くことが自分なりのまとめとか読書感想文になってるっていう。それが書くというプロセスを通じて血肉化していくっていうね、まぁ完全に理解が正しいかはともかくとしてっつーかここがポイントだよね。学術的に完全に妥当なものを書こうと思ったら大変なわけでさ、だからまぁ読後感想文ぐらいの気持ちで概念とかを要約してみたりさ、ようは俺の動機としてはウォール伝のエントリーになるっつーのもあるし単純に書きたい!っていうモチベーションがあるから書くんだよね。そういうような感じのことを数学でやっていくっていうのがMax博士の論文ね。


いいな。方法論の名前が「Max博士の論文」ってよくない?Writing Tipsとして一冊の本が書けそうな感じだよね。論文を書くということが重く感じられるのは完全に妥当なものを書かなきゃいけないってことだからって部分は多いと思うのね。でもMax博士の論文形式ならとりあえず自分が理解したことを自分なりに書いてみるっていうさ、その出力だよね。で、学術的な正当性なんかは後でチェックできるわけだしさ、間違ってたら訂正すればいいわけでさ、まぁようはフィクショナルな論文っつー作品を作るってことだね。それが自分なりの理解の指標になるわけだ。同じコンセプトがDJ Little Dickだね。架空のDJネームを作って勝手にそういうDJが存在するっていう前提でミックス作るっていう。だからあれは俺のDJサイドのAlter Egoなわけでさ、まぁ一種のキャラクターだよね。まぁウォール伝だと耳蝉でさ、DJだとDJ Little Dickでさ、で、数学ではMax Cohenっていうね、面白いよね?まぁウェイトは違うけどね。DJと数学に関してはフィクショナルだけど、耳蝉は完全に俺みたいなもんだからさ、まぁ違うけどね。実際会うと多分がっかりすると思うけどっつーか意外に普通の人だったってKazさんと会った時に言われたからね。あーそうだろうなとは思ったよね。俺がすげー懸念してたことでもある。


ウォール伝では書きたい事書いてぶっ飛んでることも書いてたりするんでさぞかしエキセントリックで面白い人なのかな?と思ったらすげー大人しい地味な人だったっていう。実際はまぁそうじゃないんだけどさ、でもまぁそう思うとどっちがどっちなんだか分からないよね。書きたい事を書きまくる耳蝉っつーのが実際は本当の俺なんだよね。でもリアル生活でこんなことを言ったりする機会が無いってことで、まぁリアル生活では俺っつー肉体を利用してリアル社会を生き延びていくっていうある種の別のゲームをやってるって感じだよね。それもまた一つのアバターなわけで、どちらかと言うとリアル世界でのアバターのほうが噓が多い気がするよねっつーのはさ、だってウォール伝みたいに言いたいことばっか言ってたら生活成り立たなくなるじゃん?ムカつく先生とかに一回一回楯突いてたら生活が成り立たないわけで。だからまぁ結果的にリアル生活の俺では一応まぁ常識的に振る舞うっていうパーソナリティーが形成されていくことになるんだけど、俺は耳蝉であったりDJ Little Dickであったり、まぁ数学プロジェクトとして新規に立ち上げたMax博士にしても、こっちのほうがリアルだよねっつーか自分だよね。


こっちサイドでいる時のほうがモロに自分とのコネクションを感じるよね。自殺サークル風に言えば俺は俺の関係者であるって自分のAlter Egoの数々から言えるわけ。でもリアル社会での俺ってのはある種のまぁ迎合の結果でもあるわけでさ、本当は「くだらねぇー授業だ!とっとと失せろドアホ!」とかって仮に言いたかったとしても言わないじゃん?単位取りたいから。かなり実際は俺ってアグレッシヴでさ、いや、オタクがね、「俺、キレると何するか分からないよ」とかって噓をつくのとは違う意味で本質的にすげー感情的でアグレッシヴなわけ。完全に奔放な振る舞いが許されていればかなりのサイコパスなんだよね。社会不適応者ね。でもそれだとマズいから自分の感情的な部分をコントロールするための理性的な自分っていうのを振る舞いのコントロール装置として作り出して実生活の中でやっていってるわけだよね。だから本質的に自分との乖離が生まれるのは当然だよねっつーのはそれは他者とか社会っつー関係性の中で生まれてきたパーソナリティなわけで、俺の本質からかけ離れていくのは当然だけど、でも俺はその疎外が凄く嫌だから、なるべく自分のままでいられるような生活を送っていきたいと思うわけで、まぁそのためにはつまらないクラスも我慢して受けなきゃいけないわけで・・・・っていう結果がまぁリアル社会の俺というものになっていくわけだ。


なのでウォール伝を読んでるって人が俺に会って「イメージと全然違う」って思ってもある意味で当たり前だよね。んじゃあ耳蝉ってのは作られた人格なのか?っていうとそうじゃなくて、むしろ本当の俺に一番近いのがAlter Egoの数々なわけで、実社会での俺というのはただの器に過ぎないんだよね。俺の体を維持する為に動くためのパーソナリティだよね。それは物理的に買い物に行くとか洗濯するとか学校行くとかっていうね、そのためにインストールされているパーソナリティって感じだよね。かといってそこまで架空のものというわけではなくて、まぁそれは俺でもあるんだけど、逆にまぁ耳蝉ぐらい自分を出力できる術を俺は何かを書くということ以外に知らないってことだな。まぁ実生活でそれを表現する必要は無いしっつーのは何かを書いてそれはやってるからオッケーだしさ、別に実生活に耳蝉を呼び寄せる必要は無いんだよね。完全にトラブルメーカーになるからね。かといってビリーミリガン的な多重人格ってわけでもないのねっつーのは分かるでしょ?根源は一緒だけど、まぁ微妙なパーソナリティの違いが場によってあるっていう、まぁゲームのペルソナの特に最初のペルソナのテーマってこれだよね。


多分、俺が実質的に実体を持たない音楽とか本とか映画みたいなものと接しているときは直に俺がそれに接しているってことになるんだよね。で、それが恐らくダンスミュージックの場合、DJ Little DIckであったり数学の場合、Max博士だったりするわけでさ、で、そのモードの一つとしてリアル社会のものと接しているときの自分ってのがリアル社会での自分ってことなんだと思うよね。で、これまた相手によって違うしね。微妙に。親密な人と会話する時とさ、あんま親密じゃない人と会話するときとさ、あとはあんま親密じゃない人と英語で会話するときとかさ、個々が全部違うよね。それが独立した人格を持つってほど強いものじゃないにせよ、まぁある種ペルソナを使い分けてるってことになるよね。そういう意味でイデア的なAlter Egoの数々とリアル社会で顕在化する俺のパーソナリティの数々も本質的な違いは無いってことになるね。ただ俺が自分で一番好きだし近いと感じられるのがリアル社会で顕在化しているものではなくて、他の分野で顕在化するものの数々ってことね。


そういう意味でだからまぁ普段の生活だとただのつまらない男かもしれないね。無口でずーっとヘッドフォンしてるみたいな。で、俺が開かれる時ってのがまぁ傲慢な言い方になるけど、同じレベルで話せる人が出てきたときってなわけで、逆に俺がオープンになるとそれは俺に近い俺が出てくるんである意味で俺が耳蝉化するってことなんだよね。そうなると途端に多動になったりよく喋るようになる。こういうときの俺はかなりout of controlで耳蝉の文章みたいに「ガーッ!」って感じになるね。ただいつも書くようにリアル社会でそういう機会が滅多に無いんで、だからまぁリアル社会ではつまらない自分っつーか誰とも話さない自分ってのが多くなってるよね。それが結果的にウォール伝の出力を増やすわけだ。いつも書くけどリア充になるとウォール伝の出力は減るからね。リア充っつーかリアルでコミュニケーションがいっぱいあるとコミュニケーション欲みたいなのが満たされてウォール伝で書こうと思わなくなるっつーのかな?かといってまぁウォール伝で書けるようなことをリアル社会で喋れているか?っていうとそうではない場合の方が多いんだけど、ようは喋るってことがロゴスを顕在化させるっつープロセスなわけで、それがある程度成されるとまぁそれがエクリチュール化しなくなるってことだね。


はい。ってことでもう終わり。まぁとりあえず数学プロジェクトを勝手に立ち上げたってことでその名義がMax Cohen博士ってことで。例のアドバイザーの先生が最初の読者となるわけだ。次に会うのが楽しみになるなー。






数学への不安を克服する方法というよりかは「数学不安」全般に関する研究本って感じで凄く面白い。数学と性とかなんで高等数学になるとみんな数学を嫌がるようになるのか?とか、所謂、やっかいなものとしての数学みたいなものの現象とそれらにまつわる事柄なんかを徹底的に掘り下げている感じで凄くいいね。「数学なんて怖くない!」的な本かと思ったら凄く分析的で学術的で驚いたって話ね。脳の話とかも出てくるし。





変人伝記としても読めるっつーか人類の変人列伝の一部って感じ。




アフィリ過ぎ?いや、とりあえずオススメのやつは今まで紹介してきたのも含めて全部アフィってやろうと思って。ってことでもうちょっとアフィルわ。




詐欺師のサイモンに持っていかれた本の一つ。今思えばあいつの言っていたことの大半が噓だったっつーのがよく分かる。っつーか数学の知識が増えてきたからあいつの言ってた数学的なことを思い出すとデタラメかコピペだったってのがよく分かるわけね。まぁ知識って必要だねっていう。数式分からないくせにややこしそうな数式が並んでるだけで「凄い!賢そう!」って思うのって完全に素人だよね。やつのレッスンは高くついたけど皮肉なことに学校より勉強になっててしかも1セメスター分よりの学費よりかは安かったっつーからすげー皮肉だね。これって反面教師っていうジャンルに入るのかな?すげー変な恩師だよね。俺にとっては。





買ってから二年ぐらい放置してあってんで年末から今年の年始の頭ぐらいに一気に読んで読み終わったんだけど凄いね。これ。情報量が凄まじ過ぎる。なんつーか日本の政治学者とのこの圧倒的な差って何なのかな?日本のアカデミアは全部レベルが西洋に比べて低いと思うけど、特にこういう高水準の研究書を読むと余計に思うね。こんだけの情報量の体系的な研究書って国産のやつであるの?っていう。デミロヴィッチはマジで凄い。同じ左翼でもなんつーか視野の広さがムフとかと比べても半端じゃないよね。まぁムフと比べてもしょうがないんだけど。


ってことでもうアフィリ終えるわ。なんか簡単な耳蝉ブックフェアみたいになったね。ってことでんじゃあ耳蝉ブックフェアを占める最後の一冊として



を挙げておくわっつーかあとまぁアメリカのやつと比べると当然見劣りはするけど恐らく国産での唯一の研究書である



も挙げておくわっつーか高いけど恐らく今の所唯一の国産シュトラウス研究本なんで貴重だと思うのよね。