naoさんへの返信。その7。

nao 2015/05/13 17:39


いやーもういつまで続いちゃうのか分かりませんが、続けちゃいましょう!それで僕はADHDじゃないです。ADDはチェックしたところいくつか当てはまるというか、考えちゃう癖あるんで、それ系統はある程度当てはまりますが、まあでも違うでしょう。僕はなんというか集中力が常になく、一定というか、集中力が異様によかったとかってことはないんですよね。好きなことなら異常に集中できるとかってこともないですね。本読むのにしたって途切れ途切れでまあ30分も読めば休まないとダメなんですよ。ちょっとボーっとするなりネサフィやったりしてまた続き読むか別の本読み出すかそのままネサフィかですね(笑)。


というか下手に興奮したりするとなんか続きは後でみたいになって一旦中断しないといけないんですね。思考も、あ、考えてるとか思うとそこでストップしちゃうし、数学は特にそうだし、まあ数学の思索ってなかなかできなくて、雑念だらけですぐ別のこと考えたちゃってる感じです。先月みたいな調子いいときありましたが(数日ほど)、そんときは哲学や数学やら物理学やらぐじゃぐじゃのままでも根本的なことはちゃんと考えてるんですけど混ざった感じで考えてる感じというか、思索と読書自体も混ざってるしっていう感じでした。ゲロというか離乳食とか流動食的なイメージですかね。グチャグチャでも栄養価はあるっていう。そういうときはシャワーとかでも建設的な思索ができてるんですが、常はロクでもないこと、たわいないこと、マイナスの泥沼のどれかって感じです。それかボーっとしてるとか。「頭がめちゃめちゃハイパーで色んなことが常に頭にあって渦巻いているみたいな感じですよね?」とのことですが、まあそういうのはごく稀ですね。通常はボーっとしてますよ。というかこう書くと全然脳使ってないなぁーっていうか考えてないなっていう感じです。まあそんなわけでただ睡眠系の問題と考えちゃう癖のある普通の人って感じです。


年のためあてにならんでしょうがネットによくある診断やりましたが、可能性低いとのことです。ただまあいきなりひらめくみたいなことはあります。ウォール伝にも過去に天文学のひらめいたやつありましたが、まあああいう感じなのはたまにあります。まあでもそういったことは学問やってれば多分誰でもあるんでしょう。まああとは肌が敏感で、服とかは着れないのが多いです。ジーパンみたいなゴワゴワしたやつは履けないっていう。あで睡眠ですが、本当に支障はないんですよね。あるとすれば不眠を意識し過ぎて苦しんでること、あとはなかなかそれを理解してもらえないことでだんだんそっちでイライラしたりはあります。今んところそれくらいです。まあでも苦しみを理解しろっていうのも勝手かもしれませんし、なんというか具体的な支障がないこと考えると、僕の睡眠ですら、「お前程度で不眠症言うな!」レベルかもしれません。まあでも寝つきの悪さと中断目覚めるのは確かなんですが、気にし過ぎはよくないです。あと睡眠の問題なんてやっぱり強迫観念的なものが大半でしょうから、睡眠薬とかやめたほうがよさそうですね。寝る時間は気にしてなく数学やら哲学にしても夜集中できるので夜型生活だったりしますが、おそらくまあ僕はショートスリーパーなんでしょう、一日4〜7時間くらいしか寝れてない感じします、だからまあ午後も起きていたりもしますが。


あとやっぱ24時間周期というのは不便ですね(笑)。夜寝るのは夜寝るサイクルの時期じゃないと無理ですね。寝つきが悪過ぎます。眠くて1時くらいに寝ようとして結局5時くらいようやく寝るみたいな。それでも学校行ってた頃は眠れないといいつつもまだ寝てたわけですから、身体的な動きがなくなったので余計寝れないのかもしれません。まあ学校がなくなったことは性欲激減とも大いに影響あるでしょう。当然。で、性器問題あったり若干包茎気味だったりもするので(性欲とは関係ないかもしれませんが)、オナ禁のつもりなくても実質オナ禁みたいな感じだったりすると、(それと睡眠も関係ないかもしれませんが)余計寝れないのかもしれません(笑)。ショートスリーパーといいつつも稀にまあ数回目覚めながらですが10時間以上寝ることもあります。あまりにも寝れないので眠くなるまで待っていると30時間くらいかもうちょっと寝れないことあって眠くなったので寝ると5,6時間しか寝てないこともありました。書くと異常そうですが、たまにボーっとするくらいしか影響ないので、なんかだんだん気にし過ぎなだけな気がしてきました。やっぱりお前程度で不眠症ぶるなっていうレベルかもしれません。あとやっぱり頭使ってないのでしょうか。考えてるようで考えてないっていう。頭使ってれば疲れて寝るだろうっていう。


プラス思考についてですが、未来とか過去とか、今じゃないことならプラス思考のほうがいいでしょう。将来どうなるんだ?みたいなことをリアルな視点で考えてもロクなことないんで、誤魔化すしかないっていいますか。「今」についてどうかはまあ難しいですが、でもケースバイケースな感じですね。でもあえて普通の人のブログとかいくと「仕事は大変だが、家族は親切だし・・・」系の空ポジティブなもの読むとこっちがネガティブになりますね。「幸福について考える気力すらもない」っていうのを読んだときに、なんか結局自分もそうかなーとか思っちゃいました。まあでも幸福についてみたいなことは一応考えてるんでしょうけど。雑念があるのも一応そういうことを意識してるからでしょうけど。まあでもなんというかそういうのを置き去りにして、現在をポジティブに塗り替えるのはやっぱ危険かなぁーっていう感じですね。僕はその実存的問題を置き去りにして数学やってた感じなんで、最近マイナス思考も多いし、そういうことにも向き合ったほうがいいかなって思って、まあそうなると哲学中心になるわけで、で、ニーチェとかはどうでもいいけどでもどうでもよくないんですね。というか全部まあそうなんですが(笑)。ある意味。数学もです。


どうでもいいけど、これもまあ価値観というかポジティブ思考っていうか、そういうのを知りたいって思うことでやることを自分で増やすことで生きれるっていうんですかね。というかニーチェとかは読もうか迷ってたんですが、原書読んでくださいっていわれるとそれを機に読めるんであのあとすぐ注文したんですが、だからちょうどよかったっていう感じです。まあ哲学と数学は結局一緒といえどもやっぱりニーチェ読むのと、数学の哲学みたいな感じで現象学らへんの哲学とか数学やるのとは違う感じするんで哲学中心ってことは数学禁止!でもあるんですね。数学は雑念だらけで考えれないというのもそこまで没頭できないからなんでしょう。あと自分の中で数学=美徳になりかねないというか。そういうことをおととい思ってたら、久しぶりに夢で数学の登場です。やっぱり数学はやりたいんでしょう(笑)。本当は。やっぱり好きなんですね。まあでもそういうときは必ずなんか目覚めますね。そういうとき生活音とかちょうどあって起きるとか。でもおかげで寝起きいきなり数学モードで、佐藤幹夫が言う、寝てる間も起きてすでに数学モードだったんですが、すぐマイナス思考の泥沼になってしまいました。


それにしても衝動買いじゃないですけど、買う快楽ってありますけど、その後賢者モードじゃないですけど、また読むやつ増えたっていうかむなしさがくるというか、一気にたとえば10冊買ったとしても5冊目読む頃にはもうそれ興味ないみたいな(笑)、そういうのも積ん読を促進させますよね。一気に買うため時差みたいのが起こるというか。そういうのもあってむなしさというか買うとか注文後になんか罪悪感みたいのを感じますね。で、一冊ずつとか買えばいいのに、これとこれ関連するだろうから同時に買っておこうみたいになっちゃうこともあって・・・。コレクター精神は凄い分かるというか。でも積ん読ありますけど前ほど気にならなくなりましたね。そんなことよりも考えてるかどうかなんですよね。考えてるだろうかみたいな監視はすごいですよ。


あ、それにしても前回の不眠症のくだりの説明はなんか、「・・・なんだよ!」みたいな書き方がキチガイっぽかったかもしれません。あと重症ぶるのはクズみたいなのも書きましたが、その境界って難しいなと思いました。診断にしても曖昧でしょうし。まあでもようは軽症でもよくて、「俺もそうだよ」っていう言葉ですよね。「俺もそうだよ」系には二種類あって、まあ同情というか安心させるためってのはありますよね。ばあちゃんとかそうで、僕が眠れないとか言うと「おばあちゃんだって眠れないよ。」って言うっていうか。いや、もう一方のパターンはお前だけ特別みたいなこと言うな的な匂いがするんですぐ分かるわけで、そうじゃなかったら多分安心させるというかなんというか。ケガした子供見て、うわぁー酷い!!みたいに騒ぐのよりも、こんなケガよくあるって嘘でも言うほうがいいっていうのはありますよね。そんな感じで、安心させるっていうんでしょうか。いや、「俺もそうだよ」系で二つをゴッチャにしてて、ばあちゃんに腹立ってたこともありましたが、それはお門違いだったなっていうことです。


で、なんというか齟齬系の話ですが、僕はその概念エラーを恐れているってことですね。ようするに。まあ僕はあくまでも考えてるつもりに過ぎないのかもしれませんが、でも考えてるわけで、だから自分の中でのコペ転もあるんで、僕の場合概念エラーが仮にあっても訂正できるんじゃないかって思ったりもしますが(笑)、もうでも概念エラーの相手を補正するのが大変なのは分かります。僕の知り合いにモロ懐疑主義みたいな人がいて、大変です。イデア的なものを信じてないというか。科学への疑問持っている科学万能主義でない点ではいいんですが、ちょっと行き過ぎ感があるというか。といってもファイヤアーベントだかの物理学も占術と同じだとか言われると、そうだなって思っちゃうっていうか(笑)。でもあの人も行き過ぎだし、懐疑主義者といえ科学はやっぱり信頼してるだろうし、なんかの本にありましたが、病気があれば病院に行くだろうってことで、まあそういう意味で懐疑主義というのはあくまでもパフォーマンスというか。疑うことから思考が始まるのであればいいと思いますが、それで終始したらやっぱりそれはいかんでしょうっていう。僕の知り合いは、今後ろから隕石が落ちてきたかもしれない!とか言ったりもするんで実際そういう人いるのかーって、まあそういう話自体できる人自体貴重なんで、「そういう考えね」みたいな理解し合うみたいのな前提なしで、あえて話したりするんですけどね。


それにしても僕もmimisemiさんとは波長が合っていると思っていて、友人とのメールにしても口語体になるとウォール伝みたいな文体なんですよ(笑)。なんかゴメンなさい。なんかでもそれはときどき自分で笑っちゃいますね。まあでも長文って誤解とか避けるには必要なんですよね。でもメールの種類によっては70文字超えると送れないやつもあるんですよ。ちょっとしたこと送るのでも無理ですね。よくできるなっていうか。長文は重要です、なのにそれは一般には失礼になる。誤解を避けたりするための配慮だったりするのに。でも説明書とか無駄に長いというか分厚かったりしますが。


哲学は対話が基本というとやっぱり古代ギリシャですね。でたとえばプラトンとかの対話にしたって完全版じゃないですよね。だから思考が軸にあればいいわけで、あとそういうもんだって思わないで熟考するしかないってことですが、これは本当にそう思って、やっぱり読書してると気になりますよね。読んだだけになってないかっていう。本読むのっていいことと一応されてますけど、熟考なければ何の意味もないんですよね。でもその思考への影響も気にしてるとキリないわけで、たとえばネサフィしたら、興味なくてもいろいろ情報入ってきますからね。物理学関連でブログ行っても、そこにはニュースが載ってったりするわけで。まああとは僕はテレビとか新聞見ないですけど家族が言ってれば情報として入ってきちゃいますよね。まあそういうのと数学概念の熟考とかは関係ないかもしれませんが、でもいずれにしてもこの情報社会で思考へ影響あるものを遮断とか無理なんですよね。まあでもだからこそ考えるってことって重要になってきますよね。情報リテラシーという意味でも必要でしょう。


そのやっぱり話はちょっとずれるかもしれませんが、選択の重要性ですよね。いっぱいコンテンツがあるからこそ、そんなかからいいものを選ぶ能力が必要になってくるっていうんですかね。本にしろ論文にしろネットのニュースにしろ、まあ出回ってるいろんな物にしろなんにしろ、多いからこそ、選ぶ必要があるっていうか。コンテンツ数自体が増えていてもいいコンテンツが増えたわけでは決してないですから、いいコンテンツの割合は下がるわけで、だからこそ選別能力が重要になってくるというか。でもそれってまさにセンスとか感覚みたいのがないとわからないんですよね。まあこの出版社の本だからいいだろうとか、この新聞社だから本当の情報だろうとか、この人のオススメだからいいだろうみたいな信頼もある程度いいものかどうかの判断材料になりますが、でも最終的にそれがいいか悪いかを判断するのはその人ですし。


そうすると問題はというか、気になるのは認識の高次化みたいなことでセンスとか感覚を磨くことってできるんでしょうかね。ある程度は可能だと思いますが、やっぱり限界があるんでしょうかね。でも限界があるっていうのであれば、絶望的で、多感な時期がクソみたいな人生だったらもうなんかどうしようもないですよね。まあでもたとえば英語力っていうことでいうと、別に13歳だかまでに習得しなくたって英語力をつけることは可能ですよね。まあでもこれも耳がよくないとダメとかありますが。うーん、その辺どう思われますか?


思考停止的なポジティブ思考の危険性ってありますよね。おっしゃる通りやたらなんでもポジティブなものに塗り替えるって自分でイリュージョンを作り出すようなもんなんですよね。自分で自分を騙すというか。まぁ場合によっては良いときもあるんですけど、これが癖になるとそれをそれ自体として見るっていうことができなくなりますよね。だから結果的に暗くなってしまうようなものに目を向けなくなったり全部ポジティブにしようとしたり。まさにだから向き合ったほうがいいんですよね。まぁでも何でもポジティプに考えられるような人はそもそも哲学とかやらないでしょうって偏見なんですけどね(笑)まぁ純粋な研究対象として自分の実存とかとは関係無しに研究することもできるんでしょうが、やっぱり自分でやるとなると極端なぐらい物事について考えてしまうとか見てしまうみたいな性質が必要な気がしますね。だからまぁやろうと思ってやるっつーよりかはデフォルトで勝手にやっちゃうんですよね。これって別に勉強しようとか頭を使おう!とかって意識せずに勝手にやってしまうことなんで悩まされることのほうが多いんですが、でもこれがあるからずーっと考えられるんだなとは思いますね。これがなかったら多分ずーっとゲームやってると思いますね(笑)


まぁでもマイナス思考って言ってもあれですよね、客観的に観察した結果、ネガティブな性質しか観察できなかったとかってことならまぁマイナス思考というよりかは分析力があるってことなんだと思うんですよね。単純に。逆にもっと前向きに捉えられることも全部ネガティブにしてしまうというのがマイナス思考で、だから見なくてもいいようなことまで見てしまうという結果のマイナス思考って別にマイナス思考ではないんですよね。ただ客観的な目があるというだけで。これがありすぎるから気疲れするってのはありますよね。でもまぁニーチェにしてもそういう性質があるからこそ意思の力とかデュオニュソス的みたいな概念を生んだんですよね。それはまぁ実存的な苦痛の悲鳴みたいなもんなんですよね。でもまぁ本当のポジティブさってこういうところからしか来ないと思ってますね。救いようが無いようなものも含めて考えてだからこその力なんだっていうことですよね。まぁpower of willってやつなんですが。まぁこの辺はニーチェを買ったということみたいですし、じっくりと読んでみてください。


あ、んで勢いで買ってすぐ飽きるってのは僕はしょっちゅうありますよ(笑)なんたら全集みたいなのがあるとなんたらセレクションとかをつまみ食いするより包括的に読めるなーとか思ってつい買っちゃうんですが大体全部読まないですね(笑)途中で大体分かっちゃったりそんなに全部読む必要も無いなって思ったりあとはまぁ単純に飽きるってことですかね。でもまぁむなしさから来る衝動買いでも意味無いものを買ってるわけじゃなくてむなしさみたいなものを知的刺激によって覆いつくそうとするっていうことなんで無駄遣いよりかはよっぽどいいと思うんですよね。何かにハマるってことの理由の一つがむなしさであってもそれはいいと思うんですよね。


で、センスとか感覚を磨くってことなんですけど僕は年齢は関係ないと思ってますね。というよりかは元々ある程度のセンスがあったり感性があったりして、で、それを何かのきっかけで磨くっていうことなんで、そもそも全く無いものは磨けないってことなんだと思うんですよ。まぁでも自分の場合は多感な時期に学校に行かずにひたすら自分の好きなことばっかりやっていたので、そういう意味では恵まれていたんですよね。まぁ実際はパニック発作とか鬱が大変だったんですが、浴びるように映画を見たり音楽を聴いたりしていたので、多感な時期において感性的なものが涵養されたというのはあるんですよね。それがあって今の自分があるので。だから仮になんていうんでしょうかね、多感な時期に普通の学校に通ってたりなんかしてたらどうなってたのかは分からないんでなんとも言えないんですよね。まぁでも絶対に目覚めていただろうっていう確信はあるんですが、でもこういうのってまぁきっかけですよね。でも多感な時期に色々なものに接していなかったからといって後に目覚めることがないとか目覚めるきっかけを失ってしまうっていうことは無いと思うんですよね。結局まぁいつ目覚めるか?ということなだけで。これってまぁようは元々感性的なものがあるからそういったものに触れるきっかけさえあればいつでも目覚めることができたってことなんだと思うんですよね。


まぁ自分の場合、音楽とか映像みたいなものに関しては多感な時期に色々と接することができましたが、学問ってことになるとかなり後ですし数学にいたっては目覚めたのは20代後半なんでまぁそういう意味で年齢は関係ないって言えますよね。色々とスポンジのように吸収できる10代の頃に数学をやってなかったからといって数学ができるようにならないってことではないってことなんですけどね。そもそもそういう意味でどちらかと言えば頭をスポンジのようにキープしておくってことのほうが重要っていうか、常に知的刺激に飢えていてそれを満たしてくれるものを探し続けるっていう探究心っていうんですかね。だから時期というよりかは日々のマインドセット次第だと思うんですよね。あとまぁ一部の例外を除いてもう若くは無いから新しいことをやるのは難しい的な話は大抵の場合、ただの言い訳だと思うんですよね。自分の場合、感性とか知性の衰えなんて感じませんし、まぁそりゃまだ若いからなんですが、でも若者というには微妙な歳ではあるんですよね。でも別になんの衰えも感じないわけですよ。まぁ普段から鍛えてるからって言えばそうなんですが、でも例えば鍛えると言えば筋トレとかにしたって別に歳を取ってからでもやれますよね。ダウンタウンの松っちゃんみたいに中年からやり始めてムキムキになったりするわけですし。


限界っていうとだからまぁどちらかと言えば適齢期みたいなときにそれをやっていたか?というよりかは元々規定されているような限界があるんじゃないか?みたいなところですよね。芸術にしたって膨大な量の芸術に接していたって別に凄い絵が描けるようになるわけでもないし、それってまぁ学問も同じですよね。知識量が増えたからといって認識の次元が上がるとは限らないっていう感じですかね。認識の次元とかにしても日々の生活の中での気づきとか考えるっていうことの中で涵養されるものだと思うので、やたら知識を詰め込めばいいという話でもないし、そういう意味でやっぱり普段のマインドセットと頭の使い方次第っていうか、habit次第みたいな感じだと思いますね。


まぁ英語とか芸術とか思想とかって全部違うものなので同列には語れないわけですが、例えば英語とかにしてもよく言われるのはクリティカルエイジだったかなんだったか適齢期みたいなのを越えると語学力は難しくなるって言いますけど、これってまぁあくまで適齢期に当たり前のように英語で生活して身につけるみたいなことに比べれば難しくなるというだけで、学習が不可能になるということではないし、語学力が適齢期に英語をやっていたかどうか?に依存するとは思えないですよね。実際に上手くなる人はめちゃめちゃ上手くなるし上手い人というのが必ずしも幼少期とかに英語圏で暮らしていたというわけではないですからね。


まぁ英語とか筋トレとかはともかく音楽とか数学とか哲学とかそういうものに関しては結局才能って話になっちゃうのかなとは思いますよね。そこそこセンスがあったり感性があったりするやつが到達できるレベルってのがあって、ただそれ以上となるともう才能の問題になるっていう。でもまぁこれを根拠に才能が無いからもうレベルアップは無理だって思うのはただの怠慢ですよね。だからといっても努力でなんとかなるという話でもないのでなんとも言えない話なんですけどね。


なんか決定打に欠けるような返信になってしまいましたが、今日のところはこの辺で失礼します。