ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

セロトニン100%ドリンク。

mimisemi2007-08-07

テストの結果、というかチェックしても何が悪くて何が良いのかさっぱり分からず、とりあえずEnglishと書かれたやつのスコアが5点で凄くヘコんだわけね。100点中5点?もしくは10点満点中5点?分からぬ。とりあえず準備してなかった俺というか、準備なんてしなくてもいいんだけど、改めて自分の英語力の無さにヘコんでね、とりあえずごきんじょ冒険隊やったりして童心に帰ってたわけ。数学は20点とか15点とかでさ、これが100点満点中だろうが50満点中だろうがかまわないんだけど、English5って凄く侮辱された感じよね。・・・リーディングは65って書いてあってさ、100点満点中65だったら俺としては悪くないんだけど、なんか絶望的な気分になったわけね。


とりあえずオナニーして大学のHPでテストについて調べてみようと思ってさ、テスト自体がナンセンスだと思うんで、まぁめんどくせーなとか思いながら調べてたんだけどテストの詳細が書かれてるページにまぁなんつーかテストの概要とサンプル問題が載ってるPDFファイルがあってね、それでまぁ見たわけ。そしたら驚きだったのがライティングのスコアは6段階で計られているらしく、俺はその5だったというわけ。でもね、まだ分からんのが、レベル6を取れる人のエッセイはこんな感じですよっていうサンプルとかね、レベル5の人はこんな感じで、レベル4はこんな感じで・・・ってのが載ってて、どうも俺のエッセイが5だとは思えんのよね。まぁ内容は俺が書いたやつなんだから良いに決まってるけど、文法が怪しいんでね、せいぜい2とか3ぐらい取って補修のクラスをガンガンに受けなきゃいけないんだって思っててさ、そしたら上位の5ってちょっとねー。


最初に知ったときにさ、テストなんてどうでもいいとか思ってたのにも関わらず、かなり結果が良かったってのをね、まぁ勘違いしてたってのもあるんだけど、全然悪く無いじゃんって思ったらさ、やっぱ嬉しいわけね。ただまだ分からんな。100点満点中の5点か6段階中の5かは分からん。あくまで俺の判断なので。ただ5だったら半端じゃないよね。英語学校なんて行ってる場合じゃないじゃんってぐらい良いわけじゃんね。リーディングも65点がボーダーラインらしく、ななななんと俺パスしてるじゃんって思ったわけ。ってことは英語の補修取らなくていいわけ?とか勝手に思ったんだけど、まぁとりあえず数学は絶対受けなきゃいけないなって思ったんだけど、これで普通の日本人並みに数学が出来てたらいきなりアカデミックに行けたってことなの?とか思うとちょっと信じられない。まぁいいや。基本的にまぁ期待しないようにしよう。これって全部俺の勝手な判断だからね。


でもなーエッセイの評価が本当に5だったら俺って自分が思ってるより頭悪くないかもしれないわけよ。頭の良し悪しというか、やっぱ俺って中学2年の初めあたりからさ、もうドロップアウトしててさ、基礎的な学力が皆無に近いわけ。それは数学を見れば分かるけども。英語もそうよ。はっきりいって最初にリバーデールの英語学校に通ったときにさ、すげー初級のクラスでさ、で、一年経ってロードアイランドの英語学校に通い始めたときもリバーデールの英語学校と同じレベルから始めたからね。一年なにやってたんだ?って話だけど、まぁ色々とね、渡米前はいざこざがあったからさ、まぁそれはそれとして問題は英語力なわけ。よく留学関係の本に書いてあることだけど、やっぱ高校3年間ぐらいの範囲の英語がとりあえず出来ている人と基礎が全く出来ていない人とでは雲泥の差があるわけ。思っている以上に。だからスピーキングとかリスニングがさっぱりダメでもね、やっぱ高校レベルの英語が出来ている人だと伸びが早いわけ。何しろ基礎が出来てるんで、あとはやり方とか出力の仕方を覚えればいいだけじゃん。ただ俺みたいな中学英語すらもダメなやつが留学するとさっぱり伸びない。


ブロークンには喋れるようにはなるけど、ちゃんとした英語が使えるようにはなれない。というか相当の努力が必要。ここでやっぱね、ダメと言われている日本の英語教育も捨てたもんじゃないなっつーのがやっぱあの暗記英語受験英語なわけ。やっぱアジア系の生徒は凄いよ。文法・語彙・読解力がさ、学校で鍛えられてるわけ。まぁその分、喋りは上手くなかったりするけど、大学でやっていくのであれば、やっぱこのさっき挙げた3点があったほうが有利なわけ。で、俺は明らかにね、三人称単数すらも分からないままこっちに来てから勉強し始めたからね、やっぱ元々やってた人というか、ちゃんと普通の道を歩んできた人と相当差があるわけ。なんでisが付くのと無いのとがあるの?とかね。She moveとShe is movingの差が分からなかったわけ。She is moveとかね、言ってたりもしたよね。そんな俺がよ、ライティングのテストでね、上位の評価を得られるとは到底思えないわけ。かなりマシにはなってきてはいるけど、やっぱまだまだちゃんとやっている人との差があると思うんだよね。ただまぁ変な話、俺の強みは読書好きというところでね、まぁ嫌でも英語で本を読むことを自分に課してるんだけど、自分の日本語もね、基本的に学校で学んだりさ、しなかったし、正直、18〜19ぐらいになるまで日本語の言い回しとかさ、単語とかね、分からないことだらけだったわけ。


そこでまぁ特に18ぐらいから読書中毒になったわけだけど、そっからだよね、飛躍的に語彙が増えて何かを書くのが得意になったのはね。もちろんウォール伝はあれよ、ちゃんとした日本語じゃないよ。当然。ただメールとかのさ、フォーマルなやりとりも一応俺出来るのよ。それってのがやっぱ読書から来てると思うんだよね。15〜17の時なんて親戚から「何を書いているのか分からない」って言われたぐらいメールの文がヒドかったわけ。なんでまともになったかっつーと明らかに読書。引きこもりのおかげ。で、英文もかなり自分の好きな書き手の文を真似るようにしてるわけね。もちろん喋り方とか口頭での語彙も自分の好きな人のやつを真似してるわけ。誰かは言いたくないけどね。恥ずかしいから。ただ仮にエッセイで5が取れてたとしたらもう自分流の英語勉強の成果としか言いようが無いわけ。半信半疑で自分のやり方を突き通してるけど、まぁはっきりいってテキストとかで勉強できないからね、俺、だから自分流のやり方しかできないわけだけど、今回さ、仮にこんな良いスコアが取れたとしたらもう感動モンだよね。英語学校でもライティングでは良い点を取ってたりはしたよ。


ただなんか常に俺の中で所詮英語学校だからってのがあって、大学とかになるとそんなの関係ないじゃん。もちろんテストの目的はガイジンの英語力を測るためのもので、ネイティブを基準としてはいないかもしれないんだけどさ、それにしたって良い点数が取れたなんて奇跡に近いわけ。まぁいきなりこんなバーッっとウォール伝を書くのかっつーのも躁鬱もあるけどね。今日は朝起きてからさ、とりあえずまぁテストの結果を見て愕然としてたんだけど、抗鬱剤飲んで気を取り直してテストの本当の結果の見方ってのをチェックしたら一気に悪く無いじゃんってことになってハイになってるわけ。相当あれだよね、テストなんて気にしないとか言っておきながら小さいことに振り回されてるよね。俺。まぁテストの結果が本当に正しかったらの話だけどね。いまだに信じられないけどね。ホント、特に英語力ってさ、分からないのよ。こうやって第三者が何らかの評価を下してくれないと。基本的に俺はダメだっていう思いがあるんで、常に自信が無いわけね。明日もプレゼンがあってさ、もう大学が始まるし、英語学校の授業は別に重要じゃないからやらなくてもいいんだけどインテリ先生の授業だから休みたくないんだよね。また緊張すんだろうなーとか思いつつ、基本的にテスト前の不安とかプレゼン前の不安とかってのは全部自分の自信の無さから来てるわけ。


基本的に俺は基礎が出来ててないし、アジアンな英語教育を受けてこなかったからダメみたいな変な考え方があってね、イマイチ自信が持てないわけ。ただよ、仮によ、こうやって少しずつね、自分のやり方でも結果が出るようになってくるとそれが自信に繋がってくるかもしれないよねって今は勘違いでもそう思ったわけ。特に昨日はさ、全く動いてなくて体が疲れてないから寝れなくてさ、色々なクスリのカクテルを飲んでラリりながら主にポーランド姫のことを考えたりしながら、昔のこととかもボーッっと考えてたわけ。


そしたらさ、今までの大半の俺の不安とか気力の無さって自信のなさから来てるんだよね。人前に出るのが苦手なのもなんっつったっけ、醜形恐怖症みたいなのが凄くあるのね。鳩胸というのもあるし、イマイチ容姿に自信が持てない。だから池面のやつが人前で自信げに何かを話してたりするのを見ると妬ましいんだよね。あーこいつ絶対自分がかっこいいって思ってるなって思うわけ。まぁ女も一緒だけどね。だから基本的に顔を見られるのが凄く嫌なわけ。あと胸ね。それと英語力の自信の無さもあるでしょ。だからプレゼンって最悪なんだよね。たださ、仮にこういった一連のことがただの思い込みで、実際はそんなに悪くないって分かったらね、自身の無さも解消できるかなって思えるんだけど、これがまた難しいわけだな。まぁこれはテストも一緒よ。


どうせダメなんだってまるでシンジのように思ってるから基本的にテストが不安なわけ。だからね、今回のこの悪くない結果に驚いているわけだけど、イマイチまだ確信が持てないわけね。こんな俺がこんな良い点取れるわけ無いって思って意志が強いんで、イマイチ受け止められないし、あんま期待したくない。期待してて点数の見方が違ってたりしたら嫌だからね。だからんだったら100点中5点って思ってたほうがいいわけ。でもあれね、基本的に何事にも期待しない、なぜなら時が全てを壊すから・・・みたいなさ、悲観的な考え方もちょっと改めないとなって思ったね。今回のテストの点の受け止め方にしても、楽観的なやつだったら5という点数を見たときに、まず何かの間違いに違いないとか、少なくとも100点満点中とは思わないよね。でも俺の場合、基本的にダメだろうなっていう考えが先行してるんで5という点数を見たときに100点満点中の5か、少なくとも50点満点中の5とかって思っちゃってさ、あーやっぱ通用しないか俺の英語はって思って、ごきんじょ冒険隊をやってたりするわけ。あの頃にもどりてーなーとか思いつつ。


こういう細かいところのものの見方って凄く重要で、俺の慢性的な鬱というのも基本的にこういった何事に関しても悲観的に見るという考え方から来ているような気がするんだよね。逆に楽観的なやつだったら、「やっぱ俺凄いな。天才だ」とか思えたりさ、「俺ってかっこいいな」って鏡見ながら思ったりさ、するわけじゃん。そういうのが事実に基づいているかはともかくとして、はっきりいって自信が自信を呼び寄せてさらなる自信を作っているよね。ここで馬鹿になると慢心にまでいってしまうんだろうけど、俺の場合、慢心になるぐらいの極端な自信が必要かもしれない。あまりに無さ過ぎるからね。ホントさ、友達から「もっと楽観的になれよ」とかさ「自分を見下しすぎ」とかさ、友達に限らずいろんな人から言われるよね。俺。最近も「自分の事をそんな風に言ってはいけません!」なんてあるクラスメートからさ、まぁメールなんだけど言われてね、キャリアウーマンの女の人なんだけど、俺ってそういう風に思える土壌が無いから、なんつーか常に自分の殻を破れないんだよね。で、どんどんと消極的になっていくわけ。


自分の事をそんな風に言ってはいけないという考え方のベースがあれば、基本的に自分を卑下したりしないで常に励ましたりプラスにしていったりするでしょ。まぁ単純にポジティブってことなんだけどさ、やっぱその辺で俺は極端にネガティブ過ぎるんだろうね。何事に関しても。例えば曲も「暗い」ってよく言われる。まぁそれもそうだよね。暗い人が作っているんだから暗くなるのは当然。暗い性格ではないんだけど、考え方が暗いんだよね。俺。だからダメなんだな。あとシリアスすぎるってのもあるね。クラブ行って酒飲んでオマンコしてストレス発散とかさ、そういう発想が無いんだよね。基本的にそのストレス発散にしても、なぜそれで発散されるのか?ということを考えすぎちゃうわけ。そんなの考えずとりあえず何かに身をゆだねたほうがいい場合もあるじゃん。でも俺って常に分析しすぎているわけ。だから結局、家にいるのが一番良いというか「マシ」な選択だという風になっちゃって引きこもりになるわけね。


別にクラブでオマンコするやつがポジティブというわけではないんだけど、そういうことが出来るやつが俺は羨ましいわけよ。パーティーとかもさ、ホームパーティーなんかでもね、とりあえずそこにいって喋るってことが良いことだったりするわけだけど、俺は常にそのパーティーの意味というのを考えちゃうわけ。極端な話、自分の損得で物事を考えているんだよね。果たして行くに値するようなパーティーなんだろうか?って思っちゃう。そう思うと大半のパーティーなんてただの時間の無駄なわけだけど、観念的にそういう結果になったとしても、結果的に本当にそうかは分からないよね。行ってみれば何か違うことがあるかもしれないし、ポジティブな人はそういう何かに対して前向きに考えられる思考能力の持ち主だと思うわけね。だからある意味でネガティブな人というのは観念的で、考えすぎているように見えて実は思考停止的な部分も多くあると思うのね。頭の中では考えられない可能性に対する志向性なり想像力が無いとも言えると思うのね。


だからたぶん俺みたいな性格のやつはニーチェとかショーペンハウエルみたいなのが好きなんだと思うんだけど、思考の方向性は凄く似てるからね。いや、ここで似てるっつって自分が名だたる思想家に並ぶほどの思考力の持ち主だと言いたいのではなくて、考え方の傾向が似たような感じということね。例えばリュックフェラーリと俺のフィールド系の音の作り方が似ているというのと一緒。俺がリュックフェラーリほどの手腕を持っているという意味ではないからね。だからある意味で思想家的でポジティブな人というのは本当に優れた思想の持ち主なんじゃないかと最近思えてきたわけ。マイナスに考えるのは簡単よ。この世は資本主義社会で人々の大半が従属階級で搾取されて終わる人生・・・とかさ、悲観論的に考えるのって簡単。ある意味悲観論という考え方のパラダイムというか、カテゴリを選んで、その中で考えてる感じだからね。それはマルクス主義とか国粋主義とか、何々主義と名の付くものと同じ。原理主義も同じね。考えているようで考えていない。それが何々主義。それはもっと広げてみると悲観論主義者もある意味同じよ。


悲観論という考え方のパライダムの中で考えているだけで、実は考えてない。ようはシンセのプリセットの中で音を作っているだけであって、基本的に枠がシンセなわけ。ただ優れた思想家はMAX/MSPみたいなオブジェクト指向なわけ。ある部分を悲観論から取り入れて、ある部分を楽観論(って言葉あるの?)から取り入れて、ある部分を自分でプログラミングしちゃうわけ。で、出来たシンセというのがその人でしか操れないような操作性をもった複雑に見えて実は簡単で良い音を出すものなわけ。悲観論主義者は悲観論主義者の書いた本ばかり読んで共感していればそれでいいってのは、ローランドのシンセを買って、そのローランドのシンセのマニュアルだけ見て音楽を作るようなことと同じなわけ。さっき俺が実は簡単でって書いたのは考え方というのはね、チョムスキーも言ってたように、書くときは隣の大工さんでも理解できるような文を書くべきってことなわけで、俺はそれは何も書くときに限らないことだと思ってるわけ。


考え方ももちろん複雑な構造の中で成り立っている、もしくは生成されるものなんだけど、結果としては凄くシンプルで、誰にでも理解できるようなものだったりするわけ。それは音楽でも同じかもしれないね。だから複雑なまま複雑な文章なり考え方で出力なり考えたりする人ってのはずーっと独りよがりな実験音楽を作っているような「強面のケージ主義者」なわけ。ただそういった複雑な構造の中で作られるものを、最終的なアウトプットとしてはシンプルに出力できる人というのが優れた思想家で、なおかつその出力されたものがポジティブなものであれば、なお優れているわけね。そこに陳腐な言い方になるけど、希望とか望みとか夢とか愛とか幸福とか、そういったものが含まれていれば凄いと思うわけね。


悲観的になるのって簡単なんだよね。たださっき書いた陳腐な件のワードをこめるのには相当な努力と思考の積み重ねが必要だと思うわけね。もちろんそれはカルト宗教のような簡単な結論としての幸福論とかじゃんくて、複雑な、元々は物凄く悲観的な発想から来たものがその人のフィルターを通してポジティブなものへと変わっていく、まぁもしくは合成して出力できる人というのは凄い人だと思うんだよね。ポジティブでいるってことは物凄いパワーが必要だし、思考力が必要だと思うわけ。もちろん馬鹿が常に無知で幸せというのではなくて、常に思考していて幸せという人は凄いって思うわけね。俺がオーディナリーである所以がここで、俺は思考しているかもしれないけど、常に出力が悲観的で、ようは合成しているように見えて合成できてない。


モノによっては何かの受け売りかもしれないし、そのパラダイムの中で踊っているだけかもしれないわけ。これってすげー馬鹿だと思うんだよね。馬鹿とあまり変わらない。合成する能力が無いシンセって感じだね。合成できないシンセなんてただのガラクタでしょ。だから俺はガラクタなわけ。ただここでガラクタと終わらずに、なんとか思考をポジティブなものへと持っていくような努力と、そのアンテナを張るってのがね、良いシンセになる第一歩だと思うわけよ。ってことをテストの結果の見方から思ったわけね。小さいことほど大枠のことが現れてたりするんだよね。マジで。表現の表の字って表でしょ、表に現れるって書いて表現なわけよ。だから俺の考え方の傾向というのが現れる瞬間というのは、その考え方って抽象的なものが表に現れている瞬間なんであって、それってのは抽象的な思考というものが表に出ている凄い瞬間なわけ。表情とか仕草なんていくらでも変えられるけど、考え方が現れるという脳の段階での「表現」は確実に思考が表に現れている瞬間なわけね。Waking Lifeで出てきた「聖なる瞬間」とも似ているかもしれない。


そういった聖なる瞬間を捉える力というのが俺には欠けているんじゃないかって凄く思ったわけね。これって明らかに思考停止だし、捉えるという瞬発力が無いとも言えるわけで、体の瞬発力とか運動能力の無い俺が、脳の瞬発力や運動力すらも無かったらそれこそガラクタだからね。だからせめて脳だけはなんとか鍛えていきたいよね。これってある意味で認知療法の方法論とも似ているかもね。認知療法的な認知のスキルを生涯にわたって発揮していける人ってのは絶対一味違うよね。何も不安を感じたときに限らず、色々なときにそれを聖なる瞬間として捉えることが出来る認識の瞬発力よ。これが行き過ぎると狂うというのはね、さっき書いた悲観的なパラダイムで終わっている人と変わらないわけ。ワンランク上のおっさんじゃなくて認識者はね、そこで色々なことを知覚、認識していくんだけど、それを常に自分のフィルターを通して思考や楽観性へと変換できるわけ。いい例がバロウズで、バロウズがさ、晩年にドラッグストアカウボーイでヤク中の主人公に「全ては美しいんだ。この街ですら。ほらあの木とか人々が行きかう道とかバスとか・・・全てが美しくて素晴らしいんだ」っていうシーンがあるんだけど、これってのがね、ワンランク上のおっさんっつーか爺ちゃんなわけね。ここで全てが終わりだっつって自殺する人は思考停止のまま終わっているんだと思う。


そうじゃなくてバロウズになれるかどうかってのが、この小さいようで大きいワンランクの差なんじゃないかと思うわけね。またまぁ状況論とかは置いておいてね。話がややこしくなるから。まぁいいや、そんなところで、とりあえず抗鬱剤を多めに飲むと調子が良くなるな。やっぱり。頭もスッキリするわ。セロトニン100パーセントドリンクとかあったら飲みたいね。どんな味だろう。


追記。


ショーペンハウエルは幸福についての序文で「人生論ということをここでは徹頭徹尾、人生そのものの内部から見た内在的な意味に解している。つまりできるだけ楽しく幸福に人生を過ごす技術という意味である」と書いていて、本書の中で、本当の幸を知っている人は物質的なものや名誉・名声といったもので幸せが満たされるわけではないというのが分かっているので、そういったぐたらない欲に躍らされないみたいなことを書いてたり、外部的な財産よりも主観的な財産に維持増進したほうがよいと書いていたりするわけで、ショーペンハウエルはワンランク上のおっさんなわけよ。この人は悲観論的でドライな物事の観点から真理を見出せた数少ない思想家の一人だと思うわけね。

カム・スイング・ウィズ・ミー

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