ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

Madcow Blues。

mimisemi2007-09-20

ルームメイトが肉焼いててさ、いい匂いだなぁーとか思いつつ、こっちに来てからハンバーガーとか以外はダイレクトに牛肉を食べてなかったわけだけど、ゴミ箱に捨ててあった肉のパックを見たらさ、まぁ安いのは知ってたけど、5ドルとかなんだよね。ステーキ肉が。狂牛病が怖くて食べてなかったけど(まぁハンバーガーとかでは食べてるけど)こっちに来て感じてたのはあのメディアの狂牛病に関する報道なんだよね。まぁ基本的にメディアなんて信じられないけど、日本のあの神経質なアメリカ産の肉はヤバイっていうのと、アメリカでは全くといっていいほど問題になってないような気がする狂牛病の話ってのはさ、アメリカ人に言わせるとっつーか、まぁ前の学校の先生なんだけど、「狂牛病ってのがあったとしても、感染したという人のケースを見たことがない」って言ってたんだけどさ、確かに潜在的に危険があっても大半の人は狂牛病にかかってないんだよね。というか牛肉食って狂牛病なんてなってたらアメリカは破滅してるわけよ。だってスーパーサイズミーなんて映画があってもまだまだマックに客がいるぐらいだからね。というかさ、ステーキ肉が5ドルかぁーとか思うとさ、もうベジタリアンやめようかなーとか思ったわけね。で、色々とアメリカの肉について調べたら、あるページではアメリカで売られてる肉の大半がオーストラリア産だとかで、アメリカ産の肉というのは輸出用なんだそうな。いや、分からないけどね。情報源が個人のホームページなんで。でもアメリカがやりそうな手だよね。自分たちは痛手を食わないで、輸出用にヤバイ肉を生産するなんてね。まぁ嘘かどうかはともかく、妙に今まで全くフォーカスしてなかった肉というのに妙に興味がいってさ、今日は学校だったんだけど「よし、帰りに肉買って食べるぞ」って起床から思ってたからね。で、まぁ近所のスーパーで「God Bless America」って書いてある牛肉を買ってきたんだけど、一つはペッパーステーキ用だとかで、一口用にスライスされてる肉なんだけど、8スライスぐらい入ってるやつがなんと2ドル60セントなわけ。デカイサーロインステーキ3枚が4ドル80セントとかよ。とにかく日本人的な牛は高いっていう感覚だともうありえないぐらい安いわけ。だからね、まぁ今までも間接的にっつーかハンバーガーとかさ、そんなんで牛肉は食ってるわけだから、毒を食らわば皿までもってことで買ったわけ。今日は朝にシリアルだけ食べて何も食ってなかったんで本当に腹が減ってたんだけどさ、早速そのペッパーステーキ用の牛肉を恐る恐る焼いてさ、ご飯と一緒に食べたんだけど、もう死ぬほど旨かったね。こっちの肉って美味しくないっつーけど、こんなダイレクトに肉を食ったのは、まぁロードアイランドのホームステイの時以来だったんで、もう感動だったね。肉ってこんなに旨いのか!!って。で、俺が一番気になっていたのがね、「肉食え肉」とかってよく子供の頃に言われるじゃん。肉食って体力つけろって。それって本当なの?って思ってさ、あと学校が始まってからっつーもの空腹感を凄く感じるようになったのね。単純に通学っていう肉体的な消費が伴っているのもあるけど、それ言ったらさ、前なんてクイーンズの学校まで家から歩いて通ってたんだから別に変わらないっつーか、前のほうがよっぽど歩いてることになるじゃん。ただなんで今、こんなに腹が減るのかっつーとたぶん頭使ってるからだと思うんだよね。前みたいな悪く言えば緊張感のないクラスじゃなくて、特に社会学のクラスなんかはちゃんと集中して先生の話を聞いてノートをとらないとダメだからさ、たぶん頭使ってると思うわけ。まぁ集中力とかね。ところで驚いたのがその肉ご飯定食を食べた後にさ、妙に意識がはっきりしてきたっつーかまぁシリアルしか食ってないんじゃ何食べても意識が前よりかはハッキリするだろうとは思うんだけど、今までにないような感覚だったのね。腹が減ったときにオートミールとかご飯食べてもこの感じにはならない。で、俺らしくもなく、まぁ9時からね、ジャパニーズアメリカンのドキュメンタリーってのがあって、それを見て感想を書くってーのが社会学の宿題であったんだけど、「よし、腹も一杯になったことだし、シャワー浴びてから見るか!」なんてやる気になってるわけ。これって動物性のたんぱく質が脳に作用したってことなのかな?っつーか単純にご飯と肉ってカロリー高そうだからさ、脳に作用しそうだよね。ってことでなんとなく肉の偉大さを感じたわけだけど、前にも凄まじく質素な食生活をしていたっつーか常にそうだけど、妙にチョコレートが食べたくなってさ、で、一旦チョコレートを考えると頭から離れないぐらい体がチョコレートを欲しているわけ。で、なんだこりゃ!って思って、確かその日は休みだったと思うんだけど、珍しくわざわざスーパーまで行ってさ、チョコレート買ってきたわけ。まぁチョコレートだけじゃないけどね。で、飢えた人みたいにバリバリチョコ食べたらさ、すげー何かが満たされるような感覚を感じたんだよね。これも今回の肉みたいに体が足りない栄養分ってのを脳にイメージで送ってるんじゃないかな?って勝手に思ったわけね。糖分があまりにも足りないからチョコ食べろって脳がチョコっていう既存の頭の中にあるイメージの一つを引っ張り出してきたんじゃないかなと。まぁご飯食べればまぁそりゃ糖分なんだけど、それは置いておいてさ、今回は頭がルームメイトの焼いてた肉の匂いと値段をきっかけに「肉を食え!」って信号を出してきたんだと思うんだよね。それからというもの、前のチョコレートの時みたいに肉のことしか頭になくなってきてさ、こりゃ食べなきゃダメだなと。あ、で、話を戻すと、この意識がはっきりする感は久しく無い感覚だったんだよね。というのもまぁここ一年以上ずーっと肉は食べないで、前にも書いたと思うんだけど、生野菜・うどん・果物・ご飯・納豆・・・みたいなルーティンでさ、これこそ粗食の極みだ!なんて満足してたわけだけど、ちょっと体を動かすだけで疲れるのって明らかにエネルギー不足だよなーとも薄々感じてたわけ。ようはカロリーとか脂がほとんど無いようなもんばっか食ってるからさ、体を動かしてないから疲れやすいってのもあるとは思うけど、食べてる食料も関係しているんじゃないかなと。で、今回のこの意識はっきり感よ。牛肉で。んーこれは興味深いね。肉食べれば体力がつくというのは本当のなのかもなぁー・・・とか思ったり。あと狂牛病って調べてみると、ようはその狂牛病にかかった牛の脳とか脊髄とか目とか神経だとかっていうのを食べなかったら感染しないらしいね。ようは仮に狂牛病にかかっている牛のモモ肉だとか肩肉だとかを食べても感染しないってわけよ。それにしてもなんで日本の狂牛病の報道はあんなに凄いんだろう?俺もモロ影響受けてたけどね。ただこっちにいるとさ、普通にいろんな人が牛肉食べてるわけ。で、別に死んだりしてないわけよ。店でも平気で売られてるしね。んーなんだろうなぁーって感じだけどさ、前は恐らくアメリカの特に政府とかがさ、ミートインダストリーと強く繋がっているから、本当のことを知らされると非常に困るっていうんでメディア規制でもひいてるのかと思ってたわけ。だからそのアメリカ政府云々に関係ない日本は本当のことを報道すると。そう思ってたんだけど、なんかどうも違うっぽいんだよね。何も狂牛病ってアメリカ産の肉だけの話じゃないからさ、一時期は騒がれてたときはヨーロッパでも牛肉離れが激しかったらしいし、実際、イギリスとかフランスで狂牛病にかかったという人がいてさ、ホント、みんな食べなくなってたらしいんだよね。ただある程度時間が経つとっつーか、ほとぼりが冷めるとやっぱ牛肉食いたいっつって食べ始めて今ではそこまでヒステリックじゃないらしいんだよね。ヨーロッパは。で、別に狂牛病にかかった人っていないっつーか、それが隠蔽されているのかどうかは別としても、ちょっと神経質になりすぎなんじゃないか?って思ってたわけね。というか日本にいると嫌でも狂牛病関連のニュースを見るけど、こっちにいるとまぁテレビを見ないってのもあるんだけど、全然そういうヒステリックなの見ないじゃん。そうなると面白いもんで、狂牛病の恐ろしさなんてのがだんだん薄れてくるのね。で、平気で食べている人達がいっぱいいるし、自分もホント、たまに食べるハンバーガーとかで食べてるとさ、リアリティがなくなってくるわけ。恐ろしさの。で、こうやって冷静になってみると、あの恐怖感ってのがいかにメディアによって植えつけられたものだったかというのを感じるわけね。凄く。実際は分からないよ。そういう可能性があるんだけど、メディアが規制してて、「大丈夫なんで食べてください」って言ってるだけなのかもしれない。ただまぁあのアメリカからの輸入肉にさ、狂牛病の感染の恐れのある肉のパーツが一緒に送られてきたとかってのがあったけど、これってなんだか日本の潔癖症みたいな感じで、床に落とした食品を送ってこないでください!って文句言ってるようなもんなんだよね。第三国とかだったら別に床に落としたって食べると思うんだよね。インドなんかだと雑巾でテーブル拭くんでしょ。オヤジが言ってたけど。でも別に普通に生きてるわけよ。特に現地の人は耐性が出来ているわけ。ただ日本人は徹底的に管理されたものばっかり食べてるんで、そういうワイルドな耐性が無くなったんだと思うんだけど、人々の意識ってのもさ、そういう安全なものばっか食べてるんで、必要以上に安全意識が強いと思うんだよね。アメリカって明らかに日本と比べるといろんな意味で杜撰な国だけど、こっちの感覚に慣れてくると逆に日本の神経質さというのを感じられるようにもなってくるわけ。まぁ恐らく大半のアメリカ人が感じていることだと思うんだけど。だから狂牛病の件も実際は神経とか骨髄付近を食べない限り別に大丈夫なのに、必要以上に神経質になっているっていう感じがしてきているんだよね。まぁ俺は今回堂々と食べちゃったわけだし、食べた1時間ちょい後ぐらいにまた食べたくなってサーロインのほうを焼いて食べたんだけど、あの食った後の満腹感というか、力が出てくる感じが凄いね。オートミールじゃ感じられない感覚だよ。たぶん俺のこれは極端なんだけどね。極端に一切、肉を食べなくて、ロハスながらも明らかに健康志向に偏りすぎた食生活をしていたんで、何年ぶりかにワイルドな肉というものを食べたらその旨さと他のものでは感じることが出来ない脳がはっきりする感じってのがね、凄く感じられたわけね。だからあれだね、ベジタリアンっつってもなるんだったらちゃんと栄養管理をしたベジタリアンにならないとダメだね。ようは肉で得られるような物質も代用のもので摂るとか、そういうことを徹底しないとベジタリアンってのはただの偏食になりかねないと思う。俺みたいな。ただ俺はそんな管理は出来ないし、料理するのが面倒だからやりたくないわけ。だったらほどほどに肉も食べたほうがよっぽど健康にいいって気がしてきてるのね。もちろん普段食べてるものが質素なもんばっかなんで、たまに肉ってのがあっても別にいいんじゃないかと思う。これが逆になると所謂、欧米化型の偏食ということになるんだよね。肉とかジャンクフードがメインで、たまにしか野菜とか他の健康なものを食べないっていう。あとベジタリアンって一時期色々調べてたけど、極端な人が多いよね。動物愛護主義の人達は言うまでも無く、肉の良い面を全く取り上げず悪い面ばっか取り上げて菜食主義を薦めてるってのがどうも納得いかなかった。ああいうのばっか読んでるとまるで肉ってのが体に悪いもののように思えてくるからね。ただ実際、ウェーバー風に中立な考え方をしてみると、肉ってのも色々な利点があるわけだし、実際、肉でしか取れないアラキドン酸っていう脳の4パーセントだかを占めている成分なんかもさ、これは牛肉の話だけどあるわけじゃん。ってことは利点を考えると簡単に排除できるもんじゃないよね。もちろん俺のスタンスは基本的に菜食主義というか、脂っこいものは食べないで、機能食重視という考え方だけど、サプリメント的にたまに脂っこいのとか肉も食べるっていう、そういう感じが一番いいんじゃないかしらって思ったわね。ましてやここ一年の健康すぎる食生活っぷりのおかげで、ガンジーみたいな体型になっちゃったし、ちょっとは太らないといけないかもしれない。ってことでとりあえず人体実験的に肉食を続けてみるよ。で、気がついたことがあったらまた書いてみるね。例えば疲れにくくなったとか、すぐ横になりたくならなくなったとか、集中力が持続するようになったとか、眠くなりにくくなったとか・・・。

って書いたのが三日前で、あれから毎日ステーキとご飯の定食を食べているわけだけど、心なしか階段を上っただけで息切れがして倒れそうになるとか、家に帰った途端、横になりたくなるとかってのが若干安らいだ気がする。それにしてもさ、学校なんだけど、相変わらず算数が凄いよ。こないだはテストがあったんだけど、繰上げとかさ、掛け算とか割り算とかそんなのだったんだけど、今日、結果を見て驚いたね。100点満点中78点で、70点がデッドラインだったんで、かなりギリギリだったわけ。で、またそのミスというのがね、英語で書かれた数字を書きなさいっていう、日本語で書くと、百十八とかをさ、118って書くだけの知性を疑うような問題があるんだけど、それ間違ってたのね。俺。nineって書いてあるのに7って書いたりさ、あと単純な引き算をありえない計算ミスで間違えてたり、掛け算の問題では答えと全く違うような回答を書いていたりして、自分の脳を疑ったね。マジで。それにしてももっと驚いたのが、クラスで赤点をとって居残りさせられてたやつらがクラスの半分ぐらいいたんだよね。日本じゃありえないね。学力低下とかゆとり教育だとかさ、さすがに色々な弊害があっても、大学生ぐらいの年齢の連中が小学校の算数のテストで赤点取ることはないでしょ。それこそめちゃイケのテストみたいなもんよ。若槻とかがありえない答え書いてるああいうレベル。俺は恐らく濱口ぐらいのレベルだと思う。腐り果ててもこれからアカデミックな場で勉強しようと思っている俺がこんなことでいいんだろうか?って気がしてきたけど、正当化の理由としては他の何かの能力に長けているので、こういった計算とかが極端に苦手・・・という感じかな。得意なものはいくらでも出来るけど、得意じゃないのはやる気も起こらないし、そういったものに関しては脳が働かなくなるって感じなのよね。まぁいいや。こんな感じで正当化でもしない限りやっていけないね。もうあまりに馬鹿すぎる。数学できないから馬鹿ってことでもないんだけど、あまりにもねーこれは極端だよね。まぁ昔からそうなんだけどね。だとしたら余計頑張らなきゃいけないのが、例えばダメなものはとことんダメなんだからライティングの能力とかリーディングとか、出来そうなのを伸ばしていかないとただの落ちこぼれになるってことなわけね。数学はめっきりダメだけど、何かを書かせたら凄いとかさ、いや、日常生活だったらいいのよ。別に。これでも自分は色々とダメな部分を補うだけの取り柄はあると思うから。ただ学校という場ではね、そんなものは通用しないでしょ。だから学校という場での強みを持たないと俺みたいな極端な人間は生き残れないわけね。逆を言えば学校ほど平均的に何でもこなす人にとって良い場所は無いよね。だから特に日本は頭の良い馬鹿が大量生産されてしまうんだろう。もっとも近年ではその唯一の取り柄だった平均的な頭の良さすらなくなっているわけだから、もう馬鹿の馬鹿ってことなわけだけど。俺が日本に未来を感じないのはあの退廃しきった政治もあるけど、人々のレベルもあるんだよね。相当低いと思う。いや、もちろん高い人もいるよ。ただ平均的にガンガン低くなってるって思うわけ。あとみんな死にそうな顔して歩いているのを見るとこっちまで死にたくなるんだよね。それに比べてニューヨークは不況で毎日が大変とはいえエネルギッシュでさ、自分が例えば家に篭ってずーっとオナニーとか本とか読んでてさ、たまに外に出ると街からパワーをもらうような感じがあるのね。街自体がエネルギッシュなわけ。それはやっぱりあれかね、生ぬるい中流で育ってきたような連中が大半を占めてないからかもしれないね。いろんなバックグラウンドがあるからね。独裁政権の国から逃げるように来て違法で働きながらも生計を立てているとかさ、で、またそういう人達の子供が頑張って社会に食い込んでいったりして、まぁこっちでもね、格差の固定ってのは問題なんだけど、でもまだまだ日本よりかは下から上に這い上がれるチャンスはあるような気がするなぁ。こっちは。だから俺もこっちで退廃した国からの難民として一からやっていこうって思うわけ。もっともね、前の英語学校の先生とかさ、「アメリカンドリームなんて幻想を抱くな。我々は食うだけで精一杯だ」なんて言うんだけど、本当に望みが無い国の人達から言わせてみれば、まだまだ「マシ」なわけよ。アメリカは。それは腐ってもやっぱ国自体が移民で形成されている国だから、その枠組み自体が移民を受け入れる姿勢にあるし、そういった難民がやっていけるというシステム的な下地があると思うわけ。もちろん近年は右傾化していてさ、最低にはなってきてるけど、でもまぁニューヨークはまだまだいいんじゃないかなってそんなこともないかな。市長が「貧乏人は出て行け」って言ってるからね。家賃高すぎだからなぁ・・・。でも色々なところで帳尻合わせると東京よりは安いんじゃないかな。東京っていうか日本って妙に高いものが多いでしょ。いつも書くけどDVDとかさ、CDもそうだし、交通費とか、あとなんだろう?あんま思いつかないけどロンドン並の物価を誇る面もあるじゃんね。日本って。だからそういう意味だとアメリカの生活費って日本よりかは安いんじゃないかなって思うね。アメリカッツっても広いけどさ、言いたいこと分かるでしょ。本なんかでも平均的に10ドル〜25ドルぐらいのが多いからね。日本って特に専門書なんかになるとアホみたいに高いでしょ。で、翻訳がカスみたいだったりさ。これだったら若干理解できないヴヴンがあっても原書で読むよっての多いよね。ところで最近、本は買わないとかいっておきながら、Guy Debordというフランスの映画監督やら詩人やら思想家だかのさ、本を買ったんだけど、アブストラクトで全然ダメだったね。最近、文体の違いが本当に分かるようになってきてるのよ。特にこういうフランス語からの翻訳なんてさ、英語からの日本語の翻訳本が大抵読みにくいのと同じで、テンポとかストラクチャが全然違うんだよね。「分裂それ自体は世界の調和の一部分であり、その分裂とはすなわち、世界の社会的な道徳行為が現実とイメージに分かれることを意味する」なんてな感じなわけ。恐らくフランスの近代思想なんて大抵こんな調子なんだろうなーとか思うとさっぱり読む気が起こらない。英語っつーか特にアメリカはこういった観念的な言い方とかサオを口に含んだような物言いをしないのね。俺も下手ながらもさ、エッセイなんかでちょっとややこしいことを書いたりすると「これは哲学のクラスのためのエッセイじゃないんだから、もっと内容をクリアにして簡素にしろ」とか言われるわけ。俺はそんなに観念的では思わないんだけど、俺ぐらいの筆力でもそんなこと言われるんだからさ、もっと観念的な世界とか書き方なんてアメリカン・エッセイの世界じゃアウトだろうね。どの先生も口をそろえて「良い英語というのは簡素な英語だ」って言うわけ。それは内容が簡単という意味ではなくて、センテンスやストラクチャが簡素という意味なのね。まぁ俺が普段、チョムスキーの大工さんのあれを引き合いに出して言っていることなんだけど、日本ってまた批判するけど、衒学的な書き方にウェルカムな下地あるもんね。特にあの昔のてっちゃんなんか見てると典型的だよね。今は世間に迎合するようなお茶の間評論家に成り果てているようだけど、てっちゃんみたいなタイプの人間がポピュラリティを得る日本ってやっぱレベル低いよなーって思うね。別にてっちゃん自体は悪いと思わないし、物知りだからいいんだけど、あのニーズを見るとさ、世間のレベルが低いって思っちゃうわけ。あとてっちゃんって大の陰謀説嫌いなくせに、自分の論調にあった陰謀説には反論しないのね。まぁいいや。まぁ全面的にはアメリカンスタイルに賛成なんだけど、ちょっとはさ、文の美しさとか表現の美しさなんてのにフォーカスしても良いんじゃないの?ってことは思うね。特に近年のアメリカのエッセイでは長文というのを書かない風潮にあるらしく、特にややこしい長文は嫌われる傾向にあるらしいんだよね。だから全体的に途切れ途切れの短い文の寄せ集めみたいなエッセイになりがちなわけ。俺はそれが自分が日本人というのがあるのかもしれないけど、「これはそうです。なぜからこうだからです。次はこうです。理由は2つです。その2つの1つはこうです。2つめはこうです」といったような文が馬鹿っぽく見えるので凄く嫌いだし、書きたくないってのがあるわけ。例えば「ショッピングモールが我々のコミュニティに建つことにより雇用が確保され、雇用者と労働者との間に相互扶助的な関係性が生まれ、結果的にそれはコミュニティへの経済的・精神的な活性化に繋がる」とか書くとさ、「お金が循環します」で十分だとか言われるわけ。日本人的にはなんとなく前者のほうが頭が良さそうっていう衒学的な意味も含めつつ、よりナレイティヴなので良しって感じがするけど、アメリカ的には後者なわけ。で、足りなかったら後で「理由はこうです」みたいな感じで付け加えるっていうのが基本みたいね。こんな風に書くと「そんな観念的に哲学的になるな」とか言われるんだけど、別にそんなに哲学的でも観念的でもないよね。俺は全然まだまだだと思うんだけど、俺みたいなのですら「言い回しが難しい」とか言われたりするわけ。なんとなく今までの経験だと、日本人とか恐らくフランス人が好きそうな「これは戦後レジュームからの脱却でもあったわけだが、そういった風潮が冷戦下の中で硬直してしまい、その結果、極めてポストモダン的な長期的で先行きの見えないグローバルな戦争状態を作り出してしまった」とかさ、こういう書き方ってアメリカだとアウトなんだよね。恐らく。日本とか恐らくフランスだとそれでも通用するっていうか、頭良く見えるし尊敬されるのかもしれないけど、アメリカの場合、ではその戦後レジュームからの脱却というのは具体的に何を意味するのか?というのを説明しなければいけないし、そういった風潮というのは具体的にどういったことか、もしくはその戦後レジュームからの脱却後から、冷戦下に至るまでのプロセスや、ポストモダン的な戦争状態というのは具体的にどういうことか?というのをクリアに説明しなければいけないわけ。そうじゃないといくら文がかっこよさげでもアブストラクトで分かりづらい文という風になってしまうわけね。だからフランスのそういった文体とか言い回しに酔ってるような哲学がナレイティヴ好きなアメリカ人の知識人たちから批判されるのはなんとなく納得がいくし、日本のアカデミックのレベルは高いとは思わないけど、日本の本でも仮に英訳されたら「言いたいことが分からない」って言われる本がいっぱいあるだろうなーって思うわけね。日本のそういう小難しい本って「分からなかったら勉強しろ」とか似非知識人が知識をひけらかしているだけとかさ、文体とか論調に酔っているだけどかさ、著者を置いてけぼりにしてるようなものが多いじゃない?でもアメリカってその著者と読者の関係性が逆で、読者が理解できなかったらそれは良い文とは言えないということになるので、「隣の大工さんでも分かるような」書き方で書かれなければいけない必然性が出てくるわけね。まぁ前にも書いたけど、大工さんでも分かる書き方だったらさ、文で文を飾るような、読者を煙に巻くようなトリックが使えなくなって、著者の書きたいことだけが文に残るじゃない?で、実際、言っていることは誰かの受け売りだったとかさ、たいしたこと言ってなかったとかさ、そんな風に化けの皮が剥がれるのが多いと思うんだよね。ただその点、アメリカだと煙に巻くことを許されて無いので、最初から分かりやすい文で書く必要があるから、そういった書き方がベースになっているというのは、俺としてはいいんじゃないかなって思うんだよね。俺はフランスとか日本のあの「極めて耽美的で、まるで幾何学模様のような、かつてプラトンが見たであろう白昼夢に出てくるセラフィムのような口調で私に語りかけてきたのである」とかさ、日本と恐らくフランスはこの文体に酔うことが出来るんだと思うんだよね。ただアメリカ人は「で?」って言うわけ。「要点は何?」って感じで。俺はこういうおフランスで日本の衒学的な連中が書くような文に心底嫌悪を感じるタイプの人間なので、極めてアメリカンなんだろうね。文に対する考え方が。ただでもね、だからといって「お金が循環します」で済む問題でもないと思うんだよね。なるべく一つのセンテンスで片付けないで、なるべく短いセンテンスで要点をスッキリまとめあげることが出来るような書き方をすればいいと思うんだよね。まぁそれが出来れば誰も文句は言わないのか。ただ俺は「お金が循環します。なぜなら」っていう書き方はあまり好きじゃない。よく先生が言う「良い書き手は文字を無駄遣いしない」というんだけど、それには同意だけど、だからといって全てをシンプルにしすぎると表現できないものも出てくるんじゃないかな?とは思うわけね。もしくは一個一個細かく砕いて説明してたらキリがないっていう。だからさっきのポストモダンを肯定する立場なら、ポストモダン的な戦争状態というのが何なのかを自分で調べてみるとか、読み手の文を読み解く努力というのも必要なんじゃないかとは思うね。ちなみにさっき書いたレジュームがどうこうって別に特に意味は無いからね。それにしてもやっぱり俺の書き方が文体に酔う日本人的なのか、添削なんかでバァーッっと消されている文とか相当多いわけ。「こんなのいらない」とかさ、言われるとショックなんだよね。俺は俺なりに必要性があって書いたのにそんなもんいらないなんて言われるとさ、あと「ただややこしくしているだけだ」とか言われるとかなりムカつくね。ホント、でもこの簡素なエッセイの書き方の徹底した感じには恐れ入るね。だから俺が読んでいる本でもアメリカ人が書いた英語で書かれている本で読むのが大変というのはそこまでなくて、難しいのは大抵、ドイツ語とかフランス語とかイタリア語からの翻訳本ばかりで、これは文化的な文の書き方の差なのかもなぁーとは思ったね。ホント、アメリカ英語はシンプルで読みやすいわけ。もちろんそれはややこしい翻訳本に比べてだけどね。あ、あと忘れないでほしいのが、俺の読解力なんて英語の補修をとらなきゃいけないぐらいのもんだからね。信用しないで。それにしてもおかしな話だよね。そんなややこしい本も読んでいるはずなのにリーディングの補修を取らなきゃいけないなんて。まぁ全部テストの結果で計られてるからだとは思うんだけどね。前にも書いた関心があることには集中して読むことが出来るけど、そうでないものに関しては思考力が働かないっていう。テストでもサッチモのバイオグフィーに関する問題なら読めるけど、気象に関するものだとさっぱり読む気が起こらないっていう、そんなんで結果的にテストの点数が下がっちゃうわけね。あと小説とかね。カーリングをする少年とかいうような話がテストであって、話が全然面白くなくてさっぱり問題を解けなかったのをよく覚えてるな。面白くないって分かってるなら答えれるじゃんって思うかもしれないけど、そうでもないんだよ。これが。問題ってfoilとdistructiveだかっていう、4択だったら回答者を惑わす目的で書かれた選択肢と、明らかにおかしい矛盾しているっていう選択肢とってあってるかどうか分からないけど、何種類かタイプがあるのね。で、そういったものをアナライズすることが出来るようになると、テスト上手になるってわけ。これはたけしが昔、TVタックルなんかで批判してたけど、俺も全くファッキンジャップ・キタノに同意。「こんなくだらないテストなんてやってられるかバカヤロー」って言いたくなるもん。常に。ようはそのテストの答え方のテクニックってのが、俺が挙げた以外にもかなりたくさんあって、特に日本のTOEFLの塾みたいなところは、こういうところに重点を置いているんだろうなって思うのね。だからTOEFLってそうやって気味の悪い分析をして問題を解いてくるアジア人対策のためにIBTを導入したわけだけど、俺はホントラッキーだったな。CUNY TOEFLが受けられて。俺が受けたのが最後のCUNY TOEFLだったからね。あれ以降廃止されたからさ、仮にIBTで点数取れって言われたら一生無理だったね。たぶん。だから俺の場合、たぶんテストは出来ないけど、普通の英語ぐらいだったら特に理解に問題は無いってレベルだと思うんだよね。ただテストで勘違いをしたりしやすいし、テンパりやすいんで、いつも悪い点数ばっか取ってシマウマ。さっきの数学のnineを7って書いたりして間違える俺だからテストなんて物凄く不向きなわけ。で、後で見てみると明らかにケアレスミスっつーのかな、ケアレスどころの話じゃないけどね。ただほぼ毎回起こるんで、俺にとっての悩みの種なのね。逆に本質的に知識を問われるようなテストだったら、その科目での知識に依存するわけだから恐らく大丈夫だとは思うけど、こっちを惑わそうとするような問題とかさ、そういうのに俺はコロッっといきやすいから嫌なんだよね。まぁいくら理由を並べたところでnineを7って間違える理由にはならないわけだけど。もう一個、逆に数字表記のものを文字で書きなさいっていうのでも、7って書いてあるのをnineって書いて間違ったりしたからね。たぶん俺の脳って何かがおかしいんだと思う。あまりに並のことでも出来ないことが多すぎる。バイトとかでもそうだったけど。だから何か他人に負けないぐらいの何かを持たないと死ぬしか無いんだよね。マジで。本当にダメ人間だから俺。本当に残念な人間ですよ。そういえば社会学でさ、ジョージ・ミルだったか、忘れたけど人間ってのはその状況によって将来が左右されるっていうような、まぁinteractionだかの概念があってね、例えばピアノの才能がある子供が生まれてきても、良いレッスンを受けさせるだけの家の経済的なバックグラウンドが無いとその才能は死ぬ・・・みたいなアレなんだけど、これはまさしく現代社会が対峙している問題の一つの格差の固定なわけだけど、仮に俺が物凄く貧乏な家に生まれていたらワーキングプア以下になっていたと思うんだよね。先のことは経済的には分からないけど、こんな放蕩息子に色々な機会を与えてくれている家族っていうバックグラウンドがあるから俺はこうやって生きていけるわけで、それが無かったらアナ・オソロシヤって感じだよね。このまま格差が広がっていったら学問なんてジョークになるよね。今ですら俺が色々関心があることでもさ、あのルームメイトの有名な名言の「暇がある人間が、そういうことを考えられる」みたいなのに代表されるような状況があるわけじゃん。いや、世の中がどうか分からないけど、人々の政治や社会への無関心というのは何も日本だけじゃ無いんだなというのはこっちにいても感じるわけね。じゃあ仮に色々と社会の問題について考える人ってのが中流かそれ以上の時間のある人達とか好事家に限られてしまったらさ、そのリアリティを失うよね。それがまぁインテリ先生の言葉を借りると「ジョーク」なわけだけど。アナーキズムの本なんかを読んでいても、いかにこういった思想が無知によって無視されてきたかっていうのがよく分かる。これはよく俺が書く共産イコールダメみたいなステレオタイプと同じことなんだけどさ、そもそもマルクスの思想自体は素晴らしいものなわけじゃん。でも一般的に大半の読んでない人々は社会主義の国々がダメになったのを見れば、その思想の矛盾が見えてくるみたいなことを言うわけでしょ。それってアナーキズムも同じよ。だから逆にね、時間のある好事家だけがマルクスアナーキズムなどの思想の本質を理解して人々に語りかけたところで、もう無理だよね。「んなこと言われても、俺たち時間ありません」って言われたらおしまいだもんね。で、結局、刹那的に面倒は嫌なんで資本主義、もしくは今の状況に寄りかかったままでいるっていう。あと一番キツイのが、思想の自由ということで俺がマルクスアナーキズムを信望するのはいいけど、それを他人に強要は出来ないっていう理由ね。それは確かに言えるよね。他の人が「いや、今のままで十分。食うだけでも大変だから、これ以上の面倒はゴメンだ」って言われたらそれで終わりだからね。英語で言うところの「ピリオド」ってことよ。語尾にピリオドって口頭でつけると、それだけとか、それで終わりみたいなニュアンスができるのね。「私は朝ごはんを食べて死にましたピリオド。」みたいな感じ。日本語に訳すとあれかな「私は朝ごはんを食べて死にました終わり」みたいなもんか。だからね、今は「マルクス思想は共産主義各国の終焉により、その思想の価値を失いましたピリオド」じゃないんだよってことなわけね。ハワード・ジンだかが、「ブッシュはキング牧師が反対していたもの全てを代表している」って言ってたんだけど、そんな時代だよ?今は。何もそれはブッシュだけの話じゃないわけよ。あと日本人にありがちな、リアルな価値観っつーかまぁ例えば政治にしても時事問題にしても状況がこうなんだからこうなんだっていう、リアリスト的な分析をするのもいいけどidealなのも必要なわけ。日本って例えば今挙げたハワード・ジンみたいな、カリスマ性のある人(本人が望んでいるかは別として)がいないと思うんだよね。時事問題に鋭くメスを入れつつも、ヒーローはエマ・ゴールドマンだったりして、そのidealな部分もあるけど、理想へのビジョンが大きいという人ね。ようはリアルな部分とidealな部分の中間にいる人ということなんだけど、日本って本当にいないよね。特にidealなタイプがいないよね。核保有にしても本当にそのリアリスティックな分析が多すぎでたまに不気味に思うことがある。やつらの理論としては隣のならず者国家が核をこっちに向けているんだから、こっちも核を持たなきゃいけないっていう、まぁ目には目を的な考えなんだけど、こういう考えの問題は恣意的な判断がその考えの大半の割合を占めているということなんだよね。ようはそこでidealなところがあれば、核を持たないということが原則だったり、核を撲滅するということが根底にあったりするわけで、そういった観点から物事を考えられればいいのになって思うけど、リアリストの分析って「核を持たなかったら日本は無くなる」とかそんなんじゃん?そんな未来への展望の無い考えじゃ良い国はできないよ。一生。それって刹那的に資本主義に寄りかかっている人間達と同じで、ようはとりあえず今、利益が出るんでやっておこう、あとのことは知らないみたいなさ、そんな感じだよね。未来へのビジョンがあれば、今ここで資本主義によりかかって一時的に利益を出すということが、将来的にはどういうことになるのか?っていう考えを持てるわけじゃない。それが無いとダメよ。マジで。夢が無い人間と同じよ。今良ければとりあえず良いっていうね。そんなんじゃダメ。あ、でもハワード・ジンが言っているのは別に理想を目指すことじゃなくて、今の状況を良くしていくことっていうことなんだよね。だから俺がいつも思うのは政府は嫌いだけど、とりあえず今のシステムの中で政府がまともな政策をしたり働きをしてくれたら世の中はマシになると思うわけ。ただ実際は政府ってのは自分たちのためだけに血税を使ったりするわけじゃない。そういうことをしないで、ちゃんとすればね、例えば日本とかアメリカなんてさ、個々の収入はやっぱりなかなかのもんなわけだし、ちゃんとした原則の元で経済が回ればね、相当世の中マシになると思うよ。インテリ先生の授業でさ、「貧困を無くすにどうすればいいか?」なんて話題が出てさ、俺はこう答えたんだよね。「そんなもん簡単です。政府が然るべきことをすればいいだけの話です」って。いや、それだけじゃ全部は片付かないけど、とりあえずマシになることはいっぱいあるよね。あと不思議なのは「政府は悪」とかさ「政治家は基本的に腹黒い」みたいなのがある意味で常識みたいに流布しているこの世の中なのにも関わらず、誰も立ち上がろうとしないんだよね。誰もとは言わないけど、それこそさっき書いたような「忙しいから」ってことなわけだよね。政府が意図しているかそうじゃないかはともかく、人々が生活のためにあくせく働くということが、どれだけ権力者側にとって都合のよいことかというのは資本主義下の社会では顕著に現れてると思うんだよね。それにしても長くなった。シクダイ終わってないのに。あーどうすればいいんだろう・・・世の中を変えるのって大変だよね。人々が変えてかなきゃいけないんだけど、人々が忙しいんじゃそのままだもんね。で、人に自分の意見を強要できないときたもんだ。お手上げだよねこれじゃあ。だからとりあえず俺がやれることから始めていくしかないんだよね。そのやれることというか、やらなきゃいけないことが今は算数なわけだけどね。残念ですね。

PS

デザインを画面全体ウォール伝バージョンにしてみた。

Information Overload Unit

Information Overload Unit