ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

強烈な左翼。言うことはいつも支離滅裂 。

mimisemi2007-10-24

今日さ、学校でね、まぁラボの時間ってのがあって、まぁこれって別にカエルの解剖とかするわけじゃなくて、PCで問題集をやったりするんだけど、補修リーディングの生徒達って大体やる気ないやつが多かったり、落ちこぼれっぽいやつが多くてね、まぁ別に悪口じゃないのよ。大抵、学校の補修みたいなのを受けてるやつってダメなやつか、その学科に関して特別苦手なやつだったりするじゃん?それはともかく何が言いたいのかっていうと、大体の生徒が先生の目を盗んでネットやってたりメール書いてたりマイスペースやってたりするんだけど、例のアニメオタクのペルー人に「ホームページ持ってるの?」とか聞かれたんで、んじゃあウォール伝を見せるかなとか思ったんだけど、学校のPCだから日本語入力ができないわけ。んだから「mimisemi」って検索すれば出てくるだろうって思ったらさ、色々と出てくるのね。まぁそれはともかく特筆すべきはね、俺の大嫌いな2ちゃんねるの【奇人】頭がおかしい人のブログ【変人】っていうスレッドさ、ウォール伝が載っててね、しかもコメントが「強烈な左翼。言うことはいつも支離滅裂」とか書いてあってさ、もうすげー嬉しくなっちゃってさ!マジで。んでとりあえずこのペルー人に「日本の有名なBBSで俺のことをクレイジーだって言ってるやつがいる」なんて自慢したんだけどさ、こんなドマイナーなブログでもやっぱ見てる人っつーか、知ってる人がいなくもないんだなって改めて思ったわけだけど、昨日の鎖を断ち切る話と全く矛盾するんだけど、こうやって誰かが批判であれ肯定であれ俺のことを書いてるのを見るとなんで嬉しくなるんだろうね?これって名声欲の一種なのかな?達観してればさ、ローカル新聞に自分の事が載ったって別に嬉しくもなんともないじゃん。どうでもいいことだって分かってるわけだから。でも俺がさ、一瞬でも「おー!誰かが俺のことをキチガイだって言ってる!」って思って嬉しくなってるのを考えるとなんかあれだよね、なんなんだろうねって凄く思うよね。これまたこのスレッドに並んでる他のキチガイブログの数々も相当威力の高いものばかりで、本当に光栄なことなんだけど、まぁこれは良かったこととしても、この自分の感情というのがなんなんだろう?って凄く思ったわけね。あと最近気がついたんだけど、はてなスターってのはなんかあれなのね、良いじゃん!っていう投票みたいなやつなのね。ありがたいことに昨日のブログにつけてくれたid:miyazyさんとかね、まぁmiyazyさんは前にコメントを書いてくれたりして知っている人なんだけど、数人、知らない人が過去のやつにも星つけてくれててさ、まぁ別にその人達のページに行って「ありがとうございました」なんて言うのもあれだよなって思って何もしてないんだけど、こういうの見るとすげー嬉しいんだよね。で、その嬉しさの正体を知りたくてさ、なんで嬉しいのかなっていう。誰かが見てるなんて思うと書けなくなるから誰も見てないと思って書いてるとかよく言うけど、んでもコメントがついたり星がついたりアクセスがあったりすると嬉しいわけじゃん?まぁ別に健全な人間のリアクションだとは思うからいいんだけど、でもやっぱさ、俺の曲っつーか音もそうだけど、誰かに聞かせようと思って作っているわけじゃないのに、何かしらの形で他人に聞いてもらいたいとかさ、そういうアンビバレントな動機があるんだよね。本当に自分で勝手に作っているだけなら自己完結するっつーか、作ったらそれで終わりでまた次って感じになると思うんだけど、そうじゃなくて、昨日書いたmp3をアップして満足するっていうアレじゃないけど、何かしらのさ、mp3サイトとか自分のページとかに聞き手のことなんて考えていない音楽を乗っけるってさ、すげー矛盾してるよね。聞き手のことなんて考えてないのに誰かに聞いてもらいたいっていう。ウォール伝もそうだよね。まぁこれは今に始まったことじゃないんだけどさ、基本的にウォール伝を書いてアップするっていう作業自体がこのMP3アップップ自己満足に似てると思うんだよね。読み手のことなんて気にしてなくて、言いたいことがまとまっていなくても基本的に書き直しはしないだとかさ、まぁあんま考えて書かないっつーね、考えながらリアルタイムに書くっつーか、まぁあれなのよ。俺、頭おかしいから、トイレでうんこしてるときとか誰かと議論してたりするんだよね。ルームメイトがいないと声に出したりして。で、話題も反論も全部俺がやるわけ。そうするとまたなんか新しい考え方とかさ、考えの矛盾点とかが見つかるんだけどこれってホント、ずーっと頭の中でやってることなんだよね。だから思いつめて死にたくなるようなことが多いんだけど、まぁビョーキでしょ。完全に。それを一人称の語りにしているのがウォール伝なわけだけど、基本的にこれはうんこしてるときの誰かとの議論とか、寝起きで誰かが話しかけてきてそれに答えるとか、そういう脳内プロセスの一種なんだけど、それをアップして誰かに見てもらうってさ、すげー矛盾してるよね。まぁ一億歩譲って、書くことで頭がすっきりするとして、それを別にアップする必要は無いじゃない?オナニー動画をネットにアップする必要が無いのと一緒で。でも俺はそれをやってるわけだし、星がついたり誰かが見てたりすると嬉しくなったりするんだよね。でもまぁ根本的にみんなやってることはオナニーだからさ、ブログもオナニーでしょ。生きるってこと自体が物凄く自分勝手なことだからね。完全に主体性を捨てて何かに全てを捧げている人とかさ、んだからすげーなって思うし、昨日の即身仏じゃないけど、即身仏になるためのプロセスとか物凄いわけじゃん。世の中の人全てが即身仏になれるぐらいの人間性があれば全てが上手く行くと思うんだけど、まぁそれは無理ってことで、だからブログみたいなのが発達するわけ。社会学者のレンスキーだかランスキーだかがさ、テクノロジーってのは人間の要求と欲求を満たすために使われるって言ってるんだけど、ネットなんて最たるもんだよね。もう欲求の塊じゃない?自己主張だの他人の悪口だの独りよがりな意見だのアマチュアの映画批評だの日記だのってさ、やりたいからやってるっていうのをネットっていうパブリックとは言い切れないけど、まぁ一応、パブリックたるような場所に垂れ流しているわけだよね。最近見たクローズアップ現代で、ネットいじめってのがあったんだけど、まぁあれも本当にさ、俺が会社とか政府の話でよく使う、システムそのものがそんな風に働きかけるような機能を持っているってことなわけで、ネットっていう物自体が人間のネガティブな部分を露骨に出させるような要素を持っているわけで、まぁネットいじめみたいなのはシステムから出てくる必然という気がするよね。それプラス日本社会っつーか日本人のメンタリティと学校のシステムとか、また色々な要素が絡んでくるんだけど、まぁあれはポストいじめだよね。アメリカの小学校だとあんまなさそうだけど、それはメンタリティの違いでしょう。まぁああいうのって日本人の負の部分だよね。ホント。露骨に露見してると思う。まぁね、ってことでさ、とりあえずなんで俺があんな嫌いな2ちゃんねるのスレッドに俺のことが書かれてると嬉しくなるっつーか特にキチガイ的なタームで書かれると凄く光栄だって思うのはなんなんだろうな?って凄く思ったのね。星をつけてくれている人と2ちゃんねるで俺のことを書いた人とを一緒にするつもりはないけど、俺がそういったものに対して光栄だって思うのってさ、なんかやっぱ自分を肯定してくれる外部的な要素の影響ってことでさ、例えばそれは学校のテストの点とかさ、グレードとかとも同じかもね。ようはあのCooleyのLooking-Glass Self理論と同じっつーか、なんか最近まぁクラスの影響がブログにも出てきて悪いわね。社会学面白いよ。こうやってまた自分が何か書いてるときの例えとして社会学者とか社会学的な視点を持ち出すっていうのもいいじゃないっつーかリベラルアーツ教育の目的ってこういうことなんでしょっつーか話が逸れたからあれだけど、ようは自分は自分だとか言いながらも、自分のアイデンティティを確認しているというか、自分はなんなんだ?っていうのを他人のリアクションとか他人が自分をどう思っているか?っていうのがベースになって自分を考えているっていうね。良い例が俺で、今までの俺は基本的にあんま人から褒められないっつーか日本ってあんま褒める習慣が無いと思うんだけど、どっちかと言えば「使えない」とか「馬鹿だ」とか言われてきたっつーのもそれは家族じゃなくて他人からが多いんだけど、そういう影響でさ、シンジじゃないけど、自分はダメなんだとか思うわけじゃん?日本的な人格というのは日本的な環境から生まれてくるっていう、interactionist的な考え方そのままだけど、本当にそうだよね。凄まじく日本的な遺伝子を持った人がアメリカで育ったらアメリカ人っぽい性格になるのはその環境でしょ。仮に親が日本人でも学校とか友達といった要素から受ける影響というのは本当に大きい。だから例えば精神病っつーかメンヘラーとか言うらしいけど、あれは極めて日本的な現象だと思うのね。例えば鬱だといってアメリカの鬱と日本の欝は一緒に出来ない。基本的に社会のバックグラウンドが違うから原因が全然違ったりするわけで。そういった意味で俺の今までの塞ぎこみがちな性格というのは本当に日本社会の中で形成されてきたんだなって痛感するわけね。今日もさ、学校でなんかテストの点がよくてさ、まぁ補修程度のクラスのテストの結果で喜んでる俺もどうかと思うけど、横にいた女の子が「やったじゃなーい!」なんっつってさ、手を出すわけ。まぁあの言葉で説明しづらいんだけど、あの手を合わせてパーンってやるあれ。なんつーの。イエーイ!とか言ったときに仲間と手をパーンって合わせるあれ。あれがあってさ、まぁこの子の例だけでアメリカ社会はとかって一般化はできないんだけど、ああいうリアクションって日本じゃまずありえないよなって思ったわけ。日本の場合、逆に下手すると良い点数を取った人に対して憎まれ口を叩いたり、「でもなんでこんな簡単なところ間違えたの?」とか言うやつがいたりするわけじゃん?まぁすげー陰湿で根暗な連中ってことなんだけど、仮に自分がそういう根暗な人間ではなくても、陰湿な環境で育っちゃうと、その陰湿加減が自分にも伝染するってことなわけよ。んじゃあアメリカが仮に他人のテストの点がよかったらさ、例の黒人のあいつじゃないけど「お前の母ちゃんは鼻が高いだろうよ」とかさ、今日の女の子みたいに、他人のことなのにああやって他人を褒めるっていうか持ち上げるっていうのがあったとしたらさ、それも伝染するよね。で、俺も他人が何か良いことを成し遂げたら自然に褒めるような性格が出来上がってたかもしれないわけ。それはさ、アジア人ってボディーランゲージとか表情があんま無いからさ、すげーアメリカ人とのコントラストが凄いわけだけど、あれは別にアメリカ人の血だからボディーランゲージを多用するとか大げさな仕草をするとかじゃなくてカルチャーでしょ。イタリアではもっとオーバーにボディータッチがしょっちゅうあるらしいけどそれも文化。ってことは日本ってのは仏頂面で何を考えているか分からなくて他人の成功を妬んだり才能のある人の足を引っ張ったりするような文化が社会にあるってことだよね。だからそんなような性格じゃない人も学校とかで伝染しちゃう。で、結果的にそういった人がずーっと増え続けるっつーか一定量い続けるっていうのは明らかに社会の影響が大きいよね。俺はそんな日本が大嫌いなわけだけど、はっきりいってこういう部分だとアメリカっつーか欧米に学ぶことたくさんあると思うし、何を言いたかったのかっていうと、俺の性格がこっちに来てから明るくなって誰からも好かれるようになったというのは、まさしくアメリカっていう環境からの影響が大きいのと、俺のもともとの性格を出し続けられる、まぁようは自然体で居ても全然イケる環境ってことなわけで、今みたいなポジティブで健全な人格がね、まぁ眠ってただけだと思うけど出てきたわけ。こういうのを見てスカイプで話す親とか親経由で色々話を聞いている親戚も物凄く進歩しているというんだけど、果たしてこれが進歩なのかは本当に疑問だね。それは今までのしょーもない性格が、全部社会のせいにするつもりはないけど、環境から来るものが凄く多かったとしたら、素でいられるこっち、プラス優しい人とか親切な人とか感情を表に出す人とか素直に相手の良いところを褒める人とかがいっぱいいるこっちの影響から、本来の自分が取り戻せたというか発見できたとしたらね、それは進歩というよりかは環境の変化によって本来の自分が現れたっていうことなだけであって、基盤は普通に存在してたってことなわけよ。自分でも確かに進歩と言えるかもしれないけど、すげー考え方とかさ、ホント進歩したなって思うよ。ただそれってこんなたった一年ちょいで進歩するものなのか?っていうとそうじゃないわけっていうのがさっき書いた基盤はすでにあったってことなわけ。ただそういった基盤を押さえつけてたような自分とか抑圧するような社会というのがあって、ひねくれた人格を持ってないとやってけない社会っていうののおかげで散々な目にあってきたわけだけど、こっちに来てからというのは、その基盤を抑圧しないでナチュラルに出しているだけで、自然に色々なものが発達してくるっていうさ、まぁすげー自然な流れなわけよ。俺が特別凄いんじゃなくて、これはほぼ環境からの影響だなって、特に社会学のinteractionist系のパースペクティヴを見てると思うわけね。本来は日本社会でやっていけば人格が形成されて素晴らしい人間になるということじゃなきゃいけないわけで、アメリカに武者修行とかさ、海外経験で人間が進歩するとかって逆に言えばそれだけ日本がスッカラカンってことでしょ?そういう基盤を日本社会が持ってればいいのに無いから海外で色々なことに関して開眼していくしかないわけでしょ?思うに勉強だけじゃなくて人格っていうのにも物凄く影響してくるわけね。アメリカで勉強するってことはね。まぁ俺のメインパーパスの一つでもあるわけだけど、思ってた以上にその影響が大きいっていうことにさ、改めて気がついたわけよ。で、仮に俺が日本にいたころを思い出すと、恐らくその自分のアイデンティティを決めうるような他人の目線というのが限られたネットという場しか無かった場合、恐らくその星をつけてくれた人達とか、そういった俺を肯定してくれるような限られた材料でしか自分を確認できないわけでしょ。そういったね、自分を肯定できる、もしくは自分を出せる場所ってのがネットしか無かった場合、現実社会での抑圧されたものがネットに噴出すのは極めて自然なことだよね。もちろんそれはアイデンティティというところにも関わりがあって、どっちかと言えば日本社会では俺というよりかは耳蝉という人格のほうが自分にとってリアルだったりするかもしれないわけ。ただ今ね、2ちゃんねるの書き込みですら嬉しく思える俺の考え方の元になっているのは、そのネットとか限られた自分を肯定してくれる材料に依存していない自分がいるからなのよ。それはね、散々書いてるように、学校でスマートだとか、みんなから好かれてるだとか、まぁ好かれてるっていうかああいうのが普通なのかもしれないけど、地獄みたいな学校生活を送ってきた俺にとってはもうみんなから好かれてるとしか思えないぐらい学校が平和なわけだけど、そういった自分のアイデンティティに影響する鏡で自分を確認するっていうものの判断材料が多いのと、物凄くポジティブな要素が多いので、自ずと自分もポジティブになっていくっていうプロセスを経てね、今のポジティブで以前にも増して良い意味で逸脱していてファニーな自分がいるわけでさ、こっちで生活して思考している自分というのがもう好きでしょうがないわけ。それはね、昔は例えば横断歩道を渡るときでもいっそのこと緑のときにでも渡って死のうかとか日常的に思うんだけど、こっちの場合だと命が惜しいのね。J-WALKっつってさ、バンドじゃなくてまぁ赤信号でも無視して歩道を渡るっていうのがこっちでは当たり前なんだけど、俺はあんんまJ-WALKりたくないのはこの尊い自分の命が惜しいからなんだよね。なんでそんな命の価値というのに気がついたかっていうと、それはそういった周りからの影響によって自己が再形成されたことによることが多いわけ。俺みたいなのでもこっちに来ただけでここまで人間性が変わるんだからっつーか俺の場合、本来の自分でやれているわけだけど、日本でも本当は色々な可能性を秘めている人が多いのに、環境によってダメになっている人って本当に多いと思うよ。ホント、だから日本って才能を潰したり個性を潰したりさ、また社会学的なターム使っていい?それは社会学者のGoffmanのね、degradation ceremonyっていうタームがあるんだけど、まぁ簡単に言うと何かの組織だとか機関でやっていくために、自分の個性を潰すっていうことなんだけど、まぁどういうことかっていうと、囚人になったらプライベートな時間も持てないし、自分の洋服だとか所有物というのも持てないし、囚人であるために自己を消すわけね。それはまぁ囚人と一緒にするのはどうかと思うけど軍隊も同じね。それはまぁ普通よ。囚人とか兵隊でいるってことはそういうこと。ただね、俺が言いたいのは日本社会それ自体が物凄くこのdegradation ceremonyを要求する社会で、impersonalityを要求する社会なのよ。社会にアダプトするために個性なんて消さなきゃいけない。自分のポリシーも考え方も振舞いも基本的には社会にアダプトするために適している振る舞いかたをしなきゃいけない。まぁ社会にコミットするっていうことは、少なからずこういった要素はあるわけだけど、日本の場合それが過剰なわけ。それこそ軍隊並に過剰。ここが俺の長年感じてた違和感なんだなって凄く納得したんだけど、ようはこっちの場合、スーパーの店員であるということ以前に、その人がその人であるという前提がある。だからスーパーの店員らしく振舞わなきゃいけないみたいな、パーソナリティに対するdegrationが無いか少ないわけ。ただ日本の場合、もう完全にスーパーの店員じゃなきゃいけないから、完全に自分を消してスーパーの店員というソーシャルロールに徹底しなきゃいけない。それとの関連は分からないけどあのティピカルな店員の「こちらへどうぞ」とか「いらっしゃいませー」の発音の仕方とか、ようはマニュアル化ってのはさ、徹底的に人格性を殺してそのマニュアルを店員にインストールするわけでしょ。だからあんな全体主義的な不気味な雰囲気が出来上がるんだけど、こっちの場合、それが無いんで店員もルーズだったりなれなれしかったり妙にフレンドリーだったりするわけ。それは店員というオキュペーション以前にその人というのが前提としてあるからなのよ。その人がスーパーの店員という役割の中で働いているということなんだけど、日本の場合、佐々木とか田中とか山田っていうコードネームのスーパーの店員になりきるということが必須条件でしょ。これは極端な話、徹底的にそういったシステムに適応して働かなきゃいけないということではさっきの軍隊となんら変わりないと思うわけね。俺は今ほど自明ではなかったにせよ、こういったやり方が大嫌いだったから、客と接するときも自分として接していたりしたし、その結果、手際が悪いのにも関わらず、俺の事を気に入ってくれているお客さんが数人いたわけ。ただね、こういったことに自明じゃなくて、自分がスーパーの店員であることということと自分であることの矛盾というか葛藤にね、ちょっとでも考えれる人なら陥るわけ。そういったdegradationの結果生み出される過剰なソーシャルロールというのはね、人に物凄いストレスを与えるわけよ。まぁだってロボットになれって言われてるようなもんだから、血の通った真っ当な人間がそれに対してストレスを感じるのは当然でしょ。だから俺がいつも言うように、いかにもらしいスーパーの店員の役割を担えてそういった組織に完全にアダプトできるやつってのは大抵頭が悪いやつが多いってことなんだけどね。俺のバイトの経験でもああいうくだらない単純作業を上手くこなすやつほど人間的につまらなくてどうしようもないやつが多かったね。日本的な店員としての価値とは反比例するかのような人間的な価値のやつが多かった。それは学校でもそうかもね。過剰に学校に順応できるやつってのは馬鹿が多いってのは前の抜き差しならない姜さんの本で言及されていたサイードの知識人についての話のアマチュアってことでさ、まぁ俺なりの例えをしたでしょ。常にカルチャースクールに通うおっさんじゃないとダメだって。まぁそういうことなのね。ってことで今のところの俺の答えはあれだね、ブログに星がつくとかアクセスがあるってことで嬉しいのは、それが自分を表す鏡だからってことで、まぁさっき書いたテストの内容がどうであれ、良い点をもらうと頭が良くなった気がして嬉しくなるとか自己の存在を肯定されたような気分になって嬉しいってことなわけよ。まぁそれが逆に働くと過去の俺みたいになるわけ。俺はダメだ馬鹿だ生きている価値が無いっていう風な感じで。だから俺も今後は若干パラダイムを変えていくというか広くしていこうと思うね。日本人がクズだとか根暗だとか陰湿だとかっていう話じゃなくてシステムそのものの構造とか傾向を考えていく必要があるなって凄く思ったわけね。システムそのものが作り出す傾向というのが物凄く重要な思考のパラダイムだね。それは政府でも会社でも社会でも同じ。映画のザ・コーポレーションで師匠2の会社についての批判がね、もう的を得てるっていうか、まさしくこういうパラダイムなんだけど、基本的にまぁ個人がどうだあーだってことで物事は解決しないし見えてこないよね。2ちゃんねるにクズが多いというよりかは、クズが寄り付いてきて低次元なやりとりが生まれるその巨大ネット掲示板のストラクチャが何なのか?ってことだね。まぁいいや。そんな感じで明日はその社会学のテストがあるんでオナニーします。なんでテストのためにオナニーが必要なのかっていうと、テスト勉強をするためにはまずオナニーをしなきゃいけないわけで、それはとりあえず飯を食うとの同じようなことなわけだからです。精液が溜まっていては勉強は出来ないからね。それにしてもこの英語でのスタディと日本語での勉強っていうニュアンスの違いって本当に文化の差だなって思うよ。前にも書いたけど、日本の場合、勉めることを強いるのが勉強で、英語では研究とかテスト勉強とか暗記とか教養を深めるための読書だとか、そんな色々なもんがスタディなんであって、定義が広いんだよね。なんつーか日本語ではディシプリン的なニュアンスが大きくて、英語だともっと自由な感じがするでしょ。だからあれだね、言語って文化の反映なんだよね。まぁもしくは言語が文化を作るのかな。英語で喋るときの自分と日本語で喋るときの自分が違うのは必然ですね。ってことでメシ=オナニー=勉強の順で今日の物事を進めていきます。ちなみに過去のブログの星がつきまくっている日に関しては、「なんなんだこれ?」と思って、ラスプーチンの投げの時ぐらいの勢いで星を自分で連打した結果、なので気にしないでください。ではまたね。mp3は今日も無しで。強烈なキチガイ左翼こと耳蝉でした。

PS

G DubのBeast Cityって曲、鬼ヤヴァイです。ガンジャレコーズは永久に不滅ですね。

http://www.juno.co.uk/products/267146-01.htm

追加で、古いやつだけど俺のお気に入り。

http://www.juno.co.uk/ppps/products/173034-01.htm

MADVILLAINY

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