ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

頑張らないきゃいけない。

mimisemi2007-10-31

どうも。キチガイ極左です。なんつーか大体このルーティンね。ウィークデイが始まると若干慌しくなって、あんま無駄な時間を過ごさなくなる。で、水曜ぐらいになるとイキヌキ的なものが必要になったりあえて無駄な時間を過ごしてみるということをしたくなってくる。で、ウォール伝を書いたりするわけだけど、とりあえずテストの報告からイクね。例の社会学のテストだけどまた予想通り30問正解でした。50問中なんではっきりいってダメだけど、若干ショックだったのが、余った時間を使って微妙だった回答を見直して熟考した後、答えを書き直した部分がことごとく間違えておりというか、最初に書いた答えがほぼ全部あってて、これが6問ぐらいあったのね。ようは見直ししなかったら前回と同じぐらいの36問正解だったわけ。なんかこっちの人って見直ししないで終わったらすぐ教室出て行くよなって思ってたんだけど、TOEFLだかなんだかの必勝マニュアルみたいなのにも書いてあったけどっつーか英語のやつなんだけど、最初に書いた解答が合っている場合が多いので、回答の書き直しはしないみたいなのがあってさ、実際マジでそうなのかな?って凄く思ったね。実は前回も今回ほどではなかったけど、書き直さなかったら正解だったところが多くて、書き直さなかったら40問正解ぐらいだったんだけど、これってのはなんか科学的というか医学的というか精神医学的な説明が出来るものなんだろうか?とか思ったわけ。あとで調べてみるけど、ようは学校っていつも書くようだけど、基本的に全部さ、テストってので判断するわけだから、もう文句言ってないでテストでいい点取るしかないんだよね。で、本質的なことをやりたかったらこういうやっつけ的なもんは早く終わらせて上へ行けっていう。ところで凄く危惧しているのはまぁ大目に見れば簡単ではない社会学のクラスについていきつつテストでもそこまで酷い点は取っていないという意味では、前に書いたように英語というディスアドバンテージがある今ですら悪くないんだから、英語さえなんとかなればなんとかなりそうってのはあるんだけど、ネガティブに見れば、基本的に英語という言語の差はなかなか埋まらないから、普通以上ぐらいの脳というか大学でのサバイバル術を身につけていないとやっていけないって凄く思うわけで、そんな意味だと二年制大学程度のテストなんて予習復習なしでやっつけで受けて50問中35正解ぐらいの成績を出さないとダメだろって思うわけ。特に俺の場合は出来ない部分を無理やり規範的な概念で克服しようというアレが無いから、自然体でやっていって卒業できないようじゃダメってことなわけ。ようはガリ勉的なテスト勉強とか必死な暗記とか予習復習で学力を補うような馬鹿だとすれば、俺がね、だとしたらはっきりいってこんなディスアドバンテージだらけなアメリカの大学で勉強するべきではないわけ。ようはこういう自分の性格プラスアメリカの大学という要素を踏まえると、そこまで自分の時間やら努力というのを注がなくてもそこそここなせて、もっと重要なものに時間とかお金とか自分の労力を費やせるというやり方じゃないとダメなわけで、そういう意味だと社会学のテストで30問正解というのは深刻な問題なんだよね。ようは俺って普通じゃんっていう。勉強なんてちょっとやればテストにパスできるというぐらいの自分の脳が無いと、とてもじゃないけど無理。俺はガリ勉タイプじゃないし努力家ではないから。ようは根っこからのニートみたいなやつだからさ、努力するなんてことが無理なのね。ストレスに弱いっていうのもあるけど。だからそういった部分を脳で補うしかないんだけど、それは普通よりかは補えるぐらいの脳が必要なんだけど、普通の脳だと普通の留学生のように努力しないと卒業できないことになってしまって、それは実質無理なんだよね。俺にとっては。例えば宿題が多くても適当に時間を割いてちゃちゃっとこなせるぐらいじゃないといけない。徹夜して頑張って提出とかそんなレベルだったら俺はこっちでやるべきじゃないんだよね。もちろんそういったちゃちゃっとこなせぐらいになるための記憶術とか方法論とかを身につけることが重要なんだけど、それ以前にやっぱもともとの脳ってのがあるわけ。その辺が自分でも分からないから、ちょっとどうなんだろう?っていう気はしてきてるんだよね。もちろんテストの点数が全てじゃないんだけど、こんなもん簡単にこなせるようじゃないとダメってことだ。そこで逃げ道としての必死な暗記とか勉強という選択肢は無いんだから、あとは自分次第なんだよね。テスト勉強なんて死んでも出来ないから俺。だからね、とりあえずその今解析が必要なのは、それが英語という部分に依存しているからどの学科もイマイチなのか、俺の脳自体が普通ぐらいなんて平均的な留学生のように苦労することになるのかっていうところなんだよね。前に書いたように今、取ってるクラスの半分ぐらいがまぁ補修の英語なわけだけど、これらってのは当然、英語力というのがあれば必要ないわけだし、そういった意味で言語っていう壁があるんで、これはなかなか脳だけの問題とは言えなくなってくるわけ。言語すらも簡単に習得できるなんてレベルは天才レベルだから、俺はそんなんじゃないんで、そういう考え方はしないけどっつーか、だからそういった意味で社会学のクラスもようは英語力というところに難点があるのかな?とはやっぱ思うわけ。授業だって100パーセント先生が言っていることを理解しているわけじゃないし、教科書だって日本語に比べたらそりゃ読みづらい。ってことでその結果が30問正解ならたいしたもんだと言いたくなるわけ。ディスアドバンテージがあるのにも関わらず、テスト勉強も無しにガチンコであんぐらいの点数が取れれば今後、英語力がついてくればなんとかなりそうだなと。ようは大半の大学での問題ってのが英語力に依存しているっていう考え方ね。そうじゃなくて俺のもともとの頭に問題があるとすればよ、それは散々書いたようにこっちで勉強なんてするべきじゃないわけ。俺みたいな性格だと並以上の脳を持っていないと大学なんかでやっていけない。ようは足りない分を努力で補えないから。まぁそんな感じでちょっと色々考えることがあるんだよね。今も割と安定してっつーか学校に行くのが苦じゃないのは、楽じゃないけどそこまで凄まじい努力を注がなくても学校の授業にはついていけるからってのがあるんだよね。逆にいつも努力努力では俺の精神が持たない。だから大学を楽しいと思えるのはある程度楽だからってことなわけだ。ようは俺のペースとやり方でもやっていけるってことなわけ。俺の理想モデルとしてはね、今ぐらいの学校への努力とか労力の注ぎ方と今ぐらいの仕送りの量で今後もやっていければまず安泰だなって思うんだけど、俺の脳に問題があればそうはいかないなってことになるわけ。ようは人並みの努力が必要になってしまうと絶対やってけるわけが無いからね。ただそれが大丈夫ってことだと後はお金の問題なんだよね。まぁこれはまた全然違う話だけど。俺が言う努力というのはね、規範的な努力ではなく、ようは自然体の努力がベストってことなわけ。他人には俺が努力しているように見えるけど、俺はさっぱり努力しているなんていう感覚は無いという自然感覚の努力ね。ようはビジネス好きのやつが休みも取らずにずーっと自分のビジネスをやっていても活き活きしているというあの努力よ。俺が無理というかあんま良く思わない努力は涙ぐましい努力なのね。無理に寝る間を惜しんでとか、カフェインとりまくってとかっていうような四畳半べんぞうさん系努力ね。俺は思うにこういうのは報われないことが多いと思う。ただ自分がやりたいくてしょうがないとか、自分の意思にそれを任せていたら寝ることなんて忘れていたとかっていう、そういう意味での寝る間を惜しんでとか、なるべく脳を活性化させたいからカフェインを摂るだとか、そういうのだったらいいわけ。涙ぐましい系だと「でもやらなきゃ!」みたいな規範的精神でカフェインを摂ったりするわけでしょ。で、体調崩したり精神バランスがおかしくなったりする。受験ノイローゼみたいになる人達ってのの大半がこういった涙ぐましい系の努力を大和魂でやっちゃってるからだと思うんだよね。で、実際本当に優秀な人ってのは一日2時間ぐらいの勉強でいい大学に受かったりしちゃう。俺の知り合いでこういうタイプがいたな。まぁこの人は2時間勉強じゃないんだけど、数学の問題を解くだとか、凄まじく分厚い英語の本を読むとかっていうことに喜びを感じるような、まぁ変わったタイプの人なんだけど、まぁそこそこの大学受かったんだけど、まぁ基本的に頭の良い人なのね。まぁ必要性に迫られてやっている部分は無いこともないんだけど、基本的にそこまで勉強に苦痛を感じることが無い頭の良い人ね。そうじゃないやつが無理にレベルの高い大学を受けようと思ってディシプリン型努力をやっちゃうと頭がおかしくなっちゃう。俺は自分の性格からいっても確実に前者じゃなきゃいけないわけだけど、脳自体が後者レベルだったらそれは諦めなきゃいけないってことなんだよね。そんぐらいの脳のレベルで金のかかる留学なんていうことをするべきじゃない。その程度の脳だったら自分から辞退しなきゃいけないわけね。その辺のことがさ、まだアンクリアなんだよね。その辺がクリアになるってのがさ、ようは英語をマスターするってことなわけ。そこでやっとようはネイティブとそんなに差が無い状態で授業を受けられるわけじゃない?そのぐらいの状態になっても涙ぐましい努力が必要なのであれば、それは無理ってことなわけね。まぁそんな感じなんだけど。俺はナチュラルボーンデプレッションみたいな部分があるからカメライフじゃないけど、頑張るなんてことをやめちゃわないと生きていけないわけね。だから頑張らなくても単純に好きなことだけやってれば卒業できるような大学というか、まぁようは俺の脳に依存しているわけだけど、特別な努力を注ぐことなく卒業できるような感じじゃないといけないわけね。好きなことって遊びって意味じゃなくて学科が面白いんで自然に頭に入ってくるっていう感じね。それにしても今ぐらいの感じだと全然学校ってのが嫌じゃないんだよね。俺の中で学校っつーともう腹が痛くなってくるような地獄みたいなイメージがあって、その週末との落差が凄かったわけだけど、今は特別週末というのが普通に思えるのは学校がそこまで苦痛じゃないからなんだよね。午後からの授業を取ってるから朝起きる必要もないし、起床後オナニーできる時間もある。だから逆に学校があったほうが生活にメリハリがつくっていうか、それは前に書いた生活時間のある程度がオキュパイドされていることに快感を覚えるっていうことなわけ。これって理想的な努力無しの努力でしょ。学校が嫌いだったら努力して学校行かなきゃいけないし学科をやら無きゃいけない。ただ俺は今のところ学科に苦痛は感じないし、それは数学ですら算数レベルなんで、算数の時間なんて休み時間みたいなもんだからね。この感覚ね。努力なしで結果的に努力しているかのように見えるっていうこれ。で、結果的に出席率が凄く良かったり宿題も全部やってたりするんだけど、別に褒められるようなことは一切してないっていうね。これが保てないと無理だなっていうことなわけ。無理して出席率を稼がなきゃいけないだとか、無理して宿題やらなきゃいけないだとか、無理してテスト勉強しなきゃいけないだとかっていうのがあれば、もうそれは無理。どっちかというと俺ってこっちの大学にですらそういうディシプリン的な努力が必要なんだなって思ってたけど、まぁ二年制大学というのはあるにしても、そこまで酷い努力は必要じゃないんだよね。今のところ。普通にやってれば大丈夫っていう。ただまぁセメスター最後のファイナルテストは特に補修はパスしなきゃいけないから暢気なことは言ってられないんだけど、これがいつも書くように、努力というよりかはテストに答えるスキルが必要っていうやっつけ仕事なんだよね。まぁでも毎日体がだるくても学校行かなきゃいけないとか勝手に想像してた辛い生活とは程遠い、はっきりいって前の英語学校のときより全然充実した毎日が過ごせてるんでまぁ幸せそのものなわけですな。このままこれを続けたいなっていう。繰り返してばっかだけどディシプリン型の努力なしにね。やっぱ後学校の雰囲気もあるかな。立地は最高だし学校の雰囲気が明るいしまず校舎で自殺する生徒はいないなっていうリベラルな校風なわけ。まぁ日本と比べればもう自由そのものだけど、やっぱ国家がどうであれ個人の自由がまだまだあるアメリカってのは凄いよなって思うね。それは前に書いたなんだっけ?あの軍隊と社会の話。社会学の例を出してきて書いたやつがあるじゃん?まぁいいや。あとなんだったっけな書くべきことは。あとね、ライティングのクラスでさ、最近話す機会が無いって色々書いてるけど、ライティングのクラスってあんま雰囲気好きじゃなかったんだけど、やっぱあれだね、みんな慣れてくると悪い緊張感ってのがなくなってきて先生も厳しいながらもジョークを言うようになったり、生徒と生徒同士でもようは他者感がなくなっていくわけ。で、俺個人としても張り詰めた弓をじゃないんで、先生がなんか話をふってきた場合とか、とりあえず喋るようにしてるんだよね。ようは例の前の英語学校のインテリ先生の授業みたいに、ガンガン発言しまくるっていうあれね。で、最近、割とこの発言するっていう癖というか機会みたいなのがあってっつーか、まぁエキセントリックキャラみたいなポジションを確保するのはいつも早いっつーか努力なしにこれは得られるんだけど、発言キャラというのも確保できている感じが最近はしていて、先生も冗談半分で「ドクター今子、今日はどんな意見がありますか?」とかさ「キミは哲学者だからいつも書くことが抽象的になりがちなんだよ」とかさ、そういうようは先生との関係とかクラスでの立場というのが確立されてきた感があるのね。インテリ先生のときは明らかにこういうポジションを俺が持っているんで、みんなも俺がよく喋ることには慣れてくるし、エクストリームなことを言っても、ビル節だって思って容認されたり、社会問題系の話題になると他の生徒が俺に話をふってきたりとか、まぁそういうあれね。こうなってくるとこっちのもんでっつーか無駄に喋りすぎるのもあれなんで、この辺はでしゃばりにならない程度にする必要があるのね。先生が単語でもなんかの意味でもなんでもいいんだけど「これはどういう意味だ?」ってクラスに聞いてきて俺が知っててもさ、俺ばっか答えてるとなんつーか普段もよく喋るのに答えもいつも答えちゃうっつーと印象悪いから、その辺のジェネラルな質問に答えるのは避けるようにしてるんだよね。で、ドクター今子の出番っぽい話題になると積極的に喋るっていう。ようはこの発言ポジションというのもただ喋ればいいってわけじゃなくて、クラスとの兼ね合いも重要なんだけど、やっぱこれはこっちに来てからの通学で磨かれた処世術かもね。ってそんなことはあれとして、書きたかったことは、このライティングの先生がまぁ話の筋を話すと長くなるからアレなんだけど、ようは文化だとかアメリカに来たらその人の人格はソーシャルインターアクションによって変わるとかさ、俺の耳学問社会学の知識で展開したような話があって、で、先生がね「それはアメリカに何年か住んでいればその人は完全に変わるだろよ。例えばキミが何年後かに日本に帰ったらキミの友達はキミのことをどう思うと思うかね?もうキミは完全にアメリカ人なんだよ」って言われてさ、まぁこういう発言ポジションを得たからってのもあるんだけど、ようはこれって俺の英語が良いってことだよね。凄くアメリカンな英語を喋ってるってことだし、先生も完全にキミはアメリカ人っていう、ようはセイン・カミュの見た目はアメリカ人でも雰囲気は日本人っていうアレだよね?これって凄い光栄なことだなと思いつつ、俺が英語で喋るときってそんなにアメリカになっているかな?という疑問も生じたわけ。ようは普段書くようにまだまだ会話の中でアメリカンな間とか会話の運び方というのが出来なくて、例えば人から褒められたとか、まぁ日本的にはアンユージュアルなことが起きると、どう答えていいか分からなくて困ってしまうっていうアレがあるじゃない?って意味でもね、やっぱまだまだ全然ネイティブと喋ってても英語の壁は感じるし、相手もあくまでガイジンとして接しているんだなって思うんだけど、この先生のこの発言を見ると、意外にっつーか特に調子の良いときの俺の英語っていうのはかなりアメリカンで人格もアメリカンなんだなっていうのはね、あ、まぁ別に言い方をすれば、俺が思っているほどアメリカンじゃないってわけではないんだなっていうね。これってこっち来てからずーっと書き続けているようはアメリカ英語を喋るときはアメリカ英語を喋る人格でそれなりの雰囲気を持ってっていうのもアクセントとかボディーランゲージとかスラングとか、はたまた高度なところだとユーモアも交えて喋るってのの総合的な形が言語だろうって言う考えがある程度、俺の英語にも顕在化してきているってことだよね。これって成功してるってことだよね?ってことでかなり嬉しかった。これは俺がアメリカに魂を売り渡したというわけではなく、こういったウォール伝的なあからさまな日本人の俺というのがありつつも、アメリカ人と喋るときはアメリカな自分というのが形成されてきていて、それが相手にも完全にお前はアメリカ人だと呼ばれるようなある程度の条件を満たしているんだなって思って嬉しかったわけ。それはある程度マシな発音もあるだろうし語彙やイディオムや何よりトーンと流暢さがポイントでしょう。これらは常に俺がコンプレックスに思っていることなんだけどっつーかコンプレックスだと思っているからこそ直したいっつーか、恥かかないように上手くなりたいっていう、俺お得意のルサンチマンを解消する的なネガティブな動機付けによるものなんだけど、まぁ動機はどうであれこれは凄い全身というか、それこそCooleyのルッキングミラーじゃないけど、こうやって誰かに言われる形じゃないと認識できないことというのは多いから、こうやってガンガンポジティブな形で今までのネガティブな俺を打ち壊すぐらいの他人からのレスポンスなり自分の認識があれば人格はおろか人生すらも変わってくるんじゃないかと思うね。まぁすでに人生は変わりつつあると思うけど、次のステップとしてはまぁ英語を完璧にするというのもあれだけど、なんとかこっちの社会にしがみついていかなきゃいけないから、セイン並にガイジンと感じさせないネイティブ的なオーラを得るってことだね。まぁ今回はそのワンステップは踏めているんだなっていう認識がこの先生によってもたらされたのが凄く大きかったわけで、まぁ今回これを書こうと思ったわけだけど、相変わらずの脱線ぶりで関係ないことが9割だったけどね。でもホントさ、クラスでも嫌なやつは一人もいないどころか、いいやつばっかりでみんな俺に挨拶してくるっていうか、割と好印象を持ってくれているというのがありがたくてしょうがないんだよね。こないだもリーディングの同級生の黒人のおばちゃんから「あんたはいいやつだね」とか言われたり先生から「ビルはファッションセンスがあるね」とか言われたりさ、まぁこれはいつも書いているアメリカッツーかまぁアメリカって言い切れないかもしれないけど、ようはこうやって他人を褒めるっていうね、日本みたいに蹴落とすとか妬むんじゃなく良い点を褒めるっていう点。これがルッキングミラーでその褒められた人の人格にも影響してくるわけだから、こういった文化のバックグラウンドがあると人格形成も健全だよなとは思ったんだけど、そのベネフィットを俺はガンガンもらってるなって思うわけ。アメリカに来てからもうこんなのばっかでポジティブにならざるを得ないっていうか、だから前にも書いたようにこの環境というか国家はともかく人々は素晴らしいって思うわけ。ディックヘッドみたいな教師もいるけどね、あ、前の英語学校ね、でも良い人が多いからあんま目立たない。悪いやつは。そういった良い人達との係わり合いで得られる影響というのがここまで大きなものだとは思わなかったわけよ。これが自信とかさ、アイデンティティの認識的なことに直結しているわけじゃない?ようはそういった他人をリスペクトし合う文化というか社会がね、結果的にああいう社会を生んでいるんだなって思うと、やっぱビバマルチカルチャーだよね。良い人格形成が両親とか教師というよりかは、社会にいる人々によってもたらされるってのはさ、凄く理想的な形だと思うんだよね。全部が全部そうじゃないんだけど、基本的にアメリカ人にいいやつが多いなって感じられるのは、こういった文化に根ざした人間関係の現われなんじゃないかな?って思ったわけ。だから逆を言えば精子みたいにねちっこいドロドロの人間関係が生まれやすい日本ってのは、基本的に日本的な他者との係わり合いという伝統的な部分もありつつ、近年は明らかにそのネガティブな面ばっかりが目立つようなあの人間関係のあり方というのにね、凄く関係しているんじゃないかなって思ったわけ。他人の足を引っ張ったり、何かと嫌味を言ったりするっていうことが多い社会だと、そういった連中からの影響で根暗になるっつーか陰険になるやつが多いっていう。日本の小学校・中学校って本当にこういうダークな世界だよね。それに比べてアメリカにはそういうのが無いとは言い切れないけど、どっちかと言えば明るい陽気な感じがするのは、まさしくさっき書いたようなアメリカ的な人間関係のやり方が、その個人個人の人格形成に大きな影響を及ぼしているっていうことなわけで、だから根暗な日本人・陽気な欧米人ってことなわけよ。まぁ根暗な感じで言うと中国とか韓国は日本と似ているかもね。明るいやつが少ない。特に韓国人は日本的な暗さを持ったやつが多いな。あれは明らかにあの閉塞した韓国社会の賜物だなって感じるんだけど。別に差別じゃないからね。なんなんだろうね、タイ人とかベトナム人って割と陽気でフランクなやつ多いんだよね。やっぱ社会の違いっつーか影響って凄いなぁー。これからもガンガン社会学をディグっていかなきゃなー。

ってことでアップし忘れてた例のライブを想定してたやつのmp3をアップしたんで。もちろん音量はヤバめなんで気をつけて。

http://mushroom.cage.to/mp3/irreversible.mp3

追記。

ところでアートオブノイズってさ、特にファーストっつーかずんたたのやつってさ、聞き狂ってたのが音楽聴き始めの16ぐらいの頃だったんだけど、あの頃は並行してレジデンツとかも聞いてたんだけど、「世の中にはもっと狂った音楽がいっぱいあるんだろうなぁー・・・こんなの氷山の一角に過ぎないんだろうなぁー昔のヤツだし」とか思ってたんだけど、未だにAONのZTT時代並に狂った音楽って聴いたことないし、レジデンツのファースト並にキンキーな音楽ってあんま無い。ようは俺が音楽聴き始めの頃に凄まじくインスパイアされてた音楽って、あの頃はこんなのがいっぱいあるんだろうって思ってたけど、それが最上級だったっていう、そんな感じだったのね。特に自分の中でAONってすげーでかい存在なんだよね。まぁーファーストオンリーで他はチャイナ時代のやつとかは割と普通なんだけど、やっぱZTTのやつはねぇーマジでヤバいよね。Moment in LoveとかBeat Boxを評価している人は大勢いるだろうし、これみたいな楽曲がAONを有名にしたっていうかまぁ割とメジャーな所以だと思うんだけど、Army NowとかWho's Afraidとかもうアヴァンギャルドでもかなわないアヴァンギャルドだよね。俺はWho's Afraid派だなとかさ、Army Nowが寝起きの頭の中でガンガンにかかってたとかっていうやつがいたら俺と同じ系統のやつだなって思えたりするよね。あと鳥居みゆきっていう芸人は珍しく「俺と同系列の人間だ」って思えた人だね。俺が持っている言葉に出来ないぐらいわけの分からない感覚を理解してくれそうな人だな。俺もあっちの感覚が分かるに違いない。何しろ同族っぽい感じだからな。

Daft

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