キムタマ。

mimisemi2007-11-29

ちょっとまとめたくなったことがあったので書くわ。例の言語リソース説ね。説ってほど大げさな話じゃないんだが、頑固親父が言うのは、昔風の「たとえ」って言い方をすると「たとい、GM音源で良い音楽を作れなければ、JV-2080を導入しようが同じことだ」ってことが言いたいわけ。ちなみに俺がYAMAHAのセンスの悪いシンセに嫌気がさして親にJV-2080っつーローランドの音源を買うお金の立替をしてもらう打診をしていたときに親から言われたことがこういうことだったんだけど、俺の言語リソース説だと「GM音源じゃ作りたい曲があってもリミテーションが多すぎて作れない。だから音の多様性を求めるためにJV-2080を導入したいんだ」ってことわけで、これはようは先生は俺の英語力が高まろうが、基本的なエッセイの書き方を知らなかったら同じことだというわけ。おんでぃあだーはんどな俺としては英語力が自分の日本語と変わらないぐらいになったら、その十分なリソースから生まれてくる思考や構成が生まれてくると思うわけ。そこが前に書いたことで、限られた語彙と表現方法と文法の中で書くものなんて、自分の本当に書きたいことの100分の1すらも書けない。無理やり書こうとすると「何言ってるか分からない」とか「ジャズ」だって言われる。ジャズってのはまぁ言語の濫用ってことらしいんだけどね。Wordyってことだね。だからややこしい言い方は避けて、なるべく自分が書けるようなレベルのものを書こうとすると、基本的に凄まじくプアで弱くて、それこそ相手をコンヴィンスすることなんて不可能なエッセイが出来上がる。それはGM音源で例えると、TR-909で鳴らしたいのに、GM音源のドラムセットしかない。んだからとりあえずドンツードンツーをGM音源で打ち込んで見るのだが、さっぱり音圧も無くて雰囲気も出ない。GM音源の中からは自分が本当に使いたい音を選べないので妥協して一番イメージと近い音を使うしかない。よって出来上がった曲はMIDI音源で鳴らしたテクノレベルのものになってしまう。が、JV-2080とテクノのエクスパンションセットを使えば、自分が使いたかった音のほぼ全てを使えて、自分が思い描いていた曲が忠実な形となって出来上がるってなわけで、これが何を意味するのかというと、ようは音源のリソースの数によって、出力されるもののクオリティが変わるということなのね。もちろん音楽ってそんなに簡単なものじゃないから、例えば普遍的な綺麗なメロディーとかハーモニーを作れる人ならMIDIで鳴らそうが素晴らしいものになると思うけど、そういうレイ・ハラカミ的な人は例外として除外するとして、俺が言いたいのは、例えばジェルミルズの曲のシーケンスをGM音源、もしくはPC内蔵のFM音源で鳴らしたところでかっこいいかい?ってところなわけで、そりゃ曲は一昔前の着信レベルですよ。ただジェフミルズ選りすぐりの機材で鳴らせば、それはジェフミルズの音楽になるっていう、ようはジェフミルズの音楽を鳴らすには機材というリソースが必要なわけです。だから俺としては今の俺の英語力、ようはFM音源程度のリソースしか無い状態でエッセイを書けと言われているので、その書き方や議論の進め方に問題があるにしても(シーケンス)それ以前にリソース不足が深刻ということで、その限られたFM音源の中からどうやって自分の音楽を作ればいいのか?ということに苦心する労力が膨大で、とてもじゃないけどエッセイの内容までに気を配る労力と時間なんて無いってことなわけです。(一時間で書けなんていわれたら無理)しかも先生は辞書は絶対使うなという。ようはてめーらの限られたリソースだけでエッセイを書けというわけ。辞書は例えるならエクスパンションパックなわけよ。何も材料が無い場合、「あー顧みるってなんていうんだっけー?」ってことに苦心して、顧みるという言葉に一番近いようなニュアンスの自分の限られたリソースの中から選んだ言葉で書くわけだけど、辞書があれば一発で検索できて、それをエッセイに組み込めるんで、ようはTR-909の一小節分のハイハットだけ手に入れたみたいな感じなわけ。で、時間をかけて全ての自分の言いたい言葉を辞書で調べていけば、それこそそれっぽいエッセイが出来上がるのは、自分の思考が辞書というエクスパンションパックによって再現されているので、出力物のクオリティがあがるというか、まぁあがったように見えるのかもしれないね。一応、ドラムキットはTR-909ですね、みたいな。ただそれは上辺だけの語彙ということなわけで、当然、ライティングのシーケンスがグダグダだったら、良い曲ではない。ようはアメリカ人好みなシーケンスではなかったら、それはアメリカ人は納得しない。ただ自分の限られたリソースの中だけで書く英語のエッセイよりかは、エクスパンションパックを借りたエッセイのほうが聞こえ(見栄え)はいいということになるわけ。で、もっとグラマーとか表現方法を身につけて、そのリソースの総数が日本語のそれと変わらなくなったとき、はじめて俺のエッセイの評価というのが決まると思うんだよね。ようは100パーセント自分が書きたいことを書いて完全なグラマーで、豊富な語彙と表現方法を駆使して書いたエッセイがまだ頑固親父を納得させるものではなかったら、それは俺の根本的な作曲方法がアメリカ人好みではないとか、作り方が良くないってことになるわけで、そこではじめて俺は納得すると思うんだよね。ただ今はFM音源かそれ以下ぐらいのリソースで曲を作っているので、そんなMIDIレベルの曲で俺のライティングを判断されちゃーたまったもんじゃねーってことなわけね。あーだいぶスッキリしたぞ。言ってること分かったでしょ?そりゃガイジンに置き換えてみれば同じよ。片言のガイジンの話を聞いていると「こいつ馬鹿なのか?」って思ったりするけど、英語を喋らせれば相当スマートだったっていう、これこそリソースの差に依存した現象なわけで、もちろんそこでガイジンとのコミュニケーションで、このガイジンの日本語がこのガイジンの英語のそれと全く同じぐらい完璧になったとしても、日本人との文化的な差が埋まるとは限らないということからも分かるように、日本人的な考え方というのをちゃんとしたエッセイの書き方で書いたところで、それは部分的にアメリカ人に伝わりづらいことがあるかもしれないってことなわけ。だからようは片言のガイジンの片言日本語でその人の全てを判断するべきではないわけね。それは頑固親父も同じ。頑固親父は俺の限られたリソースの中で書かれているということが自明ではない中で、俺に批判をしているので、筋が通らないわけだけど、まぁでも頑固親父曰く、コンポジションさえ出来ていれば音源がMIDIだろうが素晴らしいものになるだろうっていうんだけど、そこが俺との考え方の違いなんだよね。豊富なリソースそのものから生まれるものというのは相当あるわけだから。それこそディレイというエフェクト機能がついただけで、そりゃ大違いだし、それこそフィルターとか、サンプラーとか、そんなのがあるだけで音楽は全然違ってくるでしょ?それはフィルターハウスがフィルターなしでは作れないのと同じなわけ。ダブをディレイなしで作るようなものでしょ?で、根本的な話をすると、俺のライティングの才能というか、頭がスッカラカンな人間だとは思わないんで、機材さえ揃えばちゃんとした曲が作れるという自負はあるんだよね。もちろんアメリカンエッセイの書き方に沿ってやらなきゃいけないわけだけど、それ以前にまず機材を揃えるということが凄く重要なわけ。逆を言えば、機材(英語力)さえ揃っちゃえば、全てが今よりかは
相当楽になるってことなんだよね。それは人とのコミュニケーションも円滑になるだろうし、社会学のテストなんかも楽になるだろうし、それこそ英語っていうディスアドバンテージが無くなれば今よりは相当楽だってことなわけね。だから今の俺が抱えている問題というのは9割ぐらいがそのリソース不足からきているんじゃないか?と思うわけ。だから機材を揃えなきゃならんのです。アイデアはあっても出力方法が限られていたら、そんな限られた出力方法の中で出力したものの質なんて良くないのは当然でしょ?ファミコン版のスト2みたいなもんよ。SFC版の飢狼伝説とかさ。インターフェースは同じなんだけど、リソース不足でSFC版は酷い出来っていう。いわばNEOGEO版がオリジナル、つまり飢狼の場合、NEOGEO版が俺の言語リソース説で言うところの「日本語」という基盤で走らせている飢狼で、SFC版が「英語」という基盤で飢狼を走らせてるって感じなのね。まぁ実際の俺の状況ではSFC版というより、ディスクシステムで飢狼を無理やりやってるようなもんだけどね。だからそんなんで飢狼そのもののゲームの価値なんてのは判断できないわけ。あースッキリした。ってことでこんな感じです。

ということで溜めもそろそろ尽きてきました。

DJ Kicks

DJ Kicks