クリティカルお笑いウォッチングのすすめ。

mimisemi2007-12-02

確かに鳥居みゆきは可愛いけど、それとお笑いは関係ないわけ。秋田出身らしいけど、うちの母も秋田だから分かるんだけど、秋田美人っていうぐらいで秋田は美人が多いわけだ。母の里帰りについていくと、その辺を歩いてる女子高生なんかのクオリティは都市部より高い。ただそれとお笑いは関係ない。ところでこれって俳優とか女優もそうだと思うんだけど、役者が評価されるべき土壌って演技力や表現力であって、見た目じゃないよね。見た目はあくまでオプショナルなものであるべきだと思うんだけど、世界的な役者のアイドル化は留まるところを知らないね。それだけ観衆の目が鈍っているってことだ。んじゃあお笑いまでアイドル化するとどうなるか?ってーと、視聴者が笑いの質よりも見た目で芸人を判断するようになって、あんま面白くなくてたいしたネタやらなくても人気が出ちゃう。アイドルと一緒。で、そういうのに人気が集中するとテレビ側もそういった池面芸人を起用する傾向が出てきて、結果的にお笑いの質の低下を招いちゃうわけだ。ようはそれは前に書いた音楽やらアートの高いデマンドは鑑賞者が作らなきゃいけないわけで、レベルの低い鑑賞者にアートなり音楽が迎合する形で物づくりを始めちゃうと結果的に質が低い大衆的なものが出来上がるのは自明だよね。近年のお笑いの質の低下もまさしくこの構造で説明が出来るわけ。あと最近目立つのがシチュエーション系の芸人ね。レオタードで何かを歌いながらハモったりしながらネタをやったり、ダンスをしながらボケてみたりっていう、お笑いのフックを見た目に託してる感じの芸人達ね。「早口言葉言ってみて!」「坊主が寺で坊主同士でヤリまくった!」」とかって一年目芸人レベルのボケだと思うんだけど、悲しいことに、変な振り付けと見た目(体操服とか人民服とかレオタードとか)のシチュエーションの中でこういったボケがあるとまるで「面白い」ように見えちゃうんだな。これが。よく浜ちゃんが他の芸人に「それ言い方がおもろいだけやんけ」ってツッコミするけど、高いお笑いを求めたいのなら視聴者は常に浜ちゃん的じゃないといけないわけだ。浜ちゃんが「読め!」だかの著書で、「相方を甘やかしたらそれでおもろなくなるから、常に僕は批判的じゃないといけないんです。だって客っておもろないのに笑ったりするでしょ?それじゃアカンと思うんです」みたいなことを書いてたけど、ホント、その通りだと思うわけで、観客がおもろしろくもないネタで笑ったりすると、それは芸人への甘やかしになるわけで、芸人は余計、その「空気」を作ることだけに集中するようになって(さっき書いた過剰なフック)肝心のネタの部分がスッカラカンになっちゃう。俺は人間的にはプログレッシブだけど、お笑いに関しては相当保守なんだな。ってのも基本的にやすきよ漫才的な雛形的漫才で笑いが取れないような芸人は基本的にダメだと思うからなんだよね。それは冒冒グラフでの「今田の格言」っていうコーナーで「笑いも一緒やな」っつって今田のお笑い論を楽屋で板尾と東野の前で披露するってのがあったけど、あそこに学ぶところは相当多い。というか俺は冒冒世代というかダウンタウン世代なんて、その辺の適当なお笑いブームの風潮でお笑いをなんとなく見てるやつらとレベルが違うんだな。基本的に俺は笑いに哲学を持っているし、それは松っちゃんに相当影響されたところもあるっつーか、所謂「高い笑い」が好きなわけだけど、それは松っちゃんも散々歎いているように、近年はテレビで本当に面白いことが出来なくなってしまったという状況であったり、談志が歎いているように、客が落語の文脈を理解せずに上辺だけで笑っていたり、笑うようなところじゃないところで笑ったりっていうような観客のレベルの低下というのもあったりして、高い笑いに需要がなくなってきているというお笑いの危機的状況が現在には存在していると思う。本当の笑いをやっても視聴率が取れないっつーんで、大衆に迎合した笑いでもなんでもないお笑い芸人を使ったただのバラエティ番組を作る。ってことでテレビ番組の質が下がってくるのも当然だし、何よりお笑いレベルの全体的な質の低下が起こってしまうのは当然の成り行きだよね。だから冒冒グラフの今田が言ってたように、一発ギャグや見た目なんかで笑いを取るのは、車の運転も出来ないやつが近道ばっか求めているのと一緒で、ちゃんと漫才とかコントっていう、ちゃんとした車の操縦方法を身につけているやつが、たまぁーに近道もいいかなってことで、一発ギャグをやったりするわけで、近道だけしているというのが最近のお笑いの風潮だと思うんだけど、なにより見てて本当に深みが無い。お笑い行間読みが必要ないような、表面的なのが本当に多い。あと一発芸が多すぎるのと、人々を感心させるだけみたいな、大道芸的な芸人が本当に増えたと思う。もちろんマギー系みたいな芸人はいてもいいんだけど、マギー一門を考えて欲しいのは、彼らはちゃんとお笑いを理解した上でお笑いというフォーマットの上でマジックという媒体を使ってやっているわけで、マジックでお笑いに挑戦しているわけじゃないってことだ。ただ近年の芸人というのは、マジックが得意だからだとかモノマネが得意だからだとか、一発芸をいっぱい持っているからだとか顔が面白いからだとか、「ビックリ人間コンテスト」的な人間達が需要のあるお笑いっていうシーンに飛び込んできている感じがして、こういうのとちゃんとしたお笑いというのはちゃんと分けて考えるべきだと思うし、視聴者もそういったクリティカルな目を持っていないと本当にお笑いがダメになっちゃうわけだ。もちろん鳥肌実みたいに最初は普通の芸人だったけど、アドリブが効かないとか、あがっちゃうとかっていう自分の短所を埋める為に編み出したのが演説芸とか、そういう苦労の果てに生み出した芸というのは立派な芸だと思うし、なによりお笑いという土壌で育まれてきた知識や経験といったところから来たものなので、例えばこれがお笑いであるというのは、何かの一発芸だけでお笑いに挑戦しようとしているような薄っぺらい芸人達と比べれば明らかでしょ。ただその辺を履き違えて、ひたすらシチュエーション系の芸ばっかりするような芸人が増えちゃったり、ウケがいいっつーんでそんなのばっかテレビに出してるメディアもクズだし、何よりそういったものを「お笑い」だと勘違いして見ちゃっている視聴者の責任というのは重いと思うわけよ。そこで鳥居みゆきに繋げると、鳥居みゆきを「可愛い」ということで評価しているのであれば、それは一ファンとして言わせてもらうとマジでやめてほしいと思う。確かに可愛いけど、評価の基準は「笑い」にあるべきで、「見た目」にあるべきじゃないし、その「見た目」で評価が決まると芸人がダメになっていったりお笑い界自体がダメになってくるってのはさっきにも書いたとおりで、本当に視聴者は常に批判的な目でお笑いを見ないと芸人は本当の意味で育たないわけ。ってことでとりあえず雰囲気が面白いとか見た目が面白いとかで笑うってことが、どんだけお笑いにとって不利益を被るかというのはマジでシリアスに考えないとダメだと思うよ。もちろんジョイマンのような、お笑い的面白さという核があるシチュエーション系はウェルカムなわけだし、視聴者も評価するべきなんだけど、例えばこのジョイマンを意識的に評価できるような粋人的な目が視聴者に無いと評価というのが本当にアンフェアなものになっちゃって(さっき書いたような見た目とか一発芸みたいなのに評価が依存すると、本質的なお笑いの才能を評価するという基準が無くなってしまう)、第二のフォークダンス第三のフォークダンスみたいな才能あるのに売れなかった芸人みたいなのがどんどん増えちゃうから、あんま芸人を甘やかすのはやめたほうがいいと思うわけね。はっきりいって最終的には彼らのためにもならないし、何しろ我々視聴者のためにならない。だって甘やかしてばかりいたらエンタ芸人みたいなのがもっと増えちゃって、結果的につまらない芸人やらテレビ番組を見させられるのはこっちなんだからってことで、ちゃんとしたフィードバックをしないと、お笑いの質はどんどん下がるわけだから、つまらない芸人をこれ以上増やさないためにも常に浜ちゃん的お笑いの見方でお笑いを見よう。お笑いがただの一時的なエンターテイメントでいいんですか?表面的に笑えるものだけでいいんですか?お笑いってのはアートですよ。最近のお笑いへの商業的なスポイルと、その需要の効果による質の低下は酷いと思うよ。マジで。なんか今日は真面目でゴメン。ただ俺はお笑いに対して常にシリアスなんです。質の低下が他人事じゃないんで放っておけないんだよね。まぁ今日はそんな感じで。

So Far

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↑シチュエーション芸、ミニマリズム、菅ちゃん的ポストやらせ演出、芸人遠藤のドープなスキルなどなど、お笑いの真髄を極めてるのがガキの使いです。こういった笑いがマニアックになってしまったらお笑いは終わりです。