どうも。数学の補修クラスでヒーローの耳蝉です。相変わらず数学の補修のクラスのテストでは他のクラスメートが「ビルビル!!3番の答えは?」とか小声で
聞いてきたりさ、なんか今まで一度も感じたことが無いような優等生気分を擬似的に感じてますよ。ホントに。あとね、特筆すべきはあれだね、社会学の先生が
反省したのか、テストラッシュをやめて、ラッシュになりがちだったら延期したり、ちゃんと告知したりとかね、進歩が見られましたよ。あとずいぶんと人数が
減ったなって思ってたんだけど、途中でギブした人がちょっといたみたいね。まぁそんな多くは無いけどね。たださー初日とかさぁー学校のねぇー、あれだよね
ー、クラス入ったらもうドキドキだったわけよ。クラスにいる生徒の大半がアメリカ人でさ、しかも社会学のクラスってことで補修とかじゃなくてちゃんとした
クラスじゃない?で、環境にも慣れてなくて不安だらけだったけどあれだよね、人間の適応能力ってのは凄いよね。今なんて別のノートとらなくても全然大丈夫
だもん。あ、まぁ授業が理解できてるってことね。っつーか暗記ばっかとかさ、先生に若干たてついて呼び出し食らったとかさ、そんなことをスカイプで親に話
したら「贅沢な悩みだ」とか言われちゃってさ、ようは親曰く、最初はついていくだけでも大変だからなんとか単位を落とさないように頑張るとか言ってたの
に、今となっては授業のクオリティに関して文句を言うようになったりしてるってことは、ようはもう完全に慣れちゃっているということじゃん?ってことで、
それは言われないと気がつかないことだよね。確かに贅沢な悩みかもしれん。初日の不安感とかを考えると今の余裕はありえないな。俺の適応能力もアウトスタ
ンディングかもしれないけど、それ以上にやっぱ俺はこっちのムードが合ってるんだろうね。ホント、だから慣れたというよりは、ようやく本来の場所を見つけ
たというか、まぁ逆を言えば日本がキツ過ぎたってのはあるんだけど、でも例のちょい悪な日本人の友達とたまに偶然学校の前で会ったりして話すと、こいつは
別に亡命とか考えてないっていうか、むしろ学校卒業後は日本に帰ることを考えていたりして、やっぱり日本にバッググラウンドがある人ってのは別に無理やり
リスク背負ってまでこっちいようとか思わないんだなとは凄く思ったよね。ようは当然なんだけど、俺のこのアダプテーション感覚とか、こっちにいると生き生
きするみたいなのはまぁ俺の性格と同じく極めて特異ってことだね。絶対俺のパーソナリティと同じくスタンダード足りえないというか、例えばこれ見て「ニュ
ーヨークってそんなにいい場所なのかしら?」とか思うのは大間違いだろうなってことなわけね。ようは俺のこの感覚って俺の今までの経緯とか性格とかいろん
なもんを含めた主観的な世界観から形成されているわけで、決して客観性があるものってわけじゃないんだよね。だから例えば「日本と比べると・・・」とかよ
く書くけど、これってのも恐らくは全くオブジェクティビティが無いと言っても過言では無いと思う。個人的にこっちが好きなのと、日本というか日本社会があ
んま好きじゃないってのがあって、凄まじく主観的なバイアスが色々なもんにかかってるんでマックスウェーバーの言うような中立性みたいなのは一切無いわけ
ね。こないだ歴史認識は論者なりなんなりの主観的・恣意的な判断を抜きにして考えるべきだとか散々言っておきながらっていうか、これはまぁ正論だと思うけ
ど、俺が普段ここに書いてることってのは全くもって中立性は無いわけよ。恐るべし左翼的革命的バイアスがいたるところにかかっているのも熟知してるし、何
より自分で自虐的左翼ネタとかやってる時点ですでにまともな人間ではないよね。新規参入の読者の方々がいたら本当に理解してほしいんだけど、耳蝉は名実と
もにキチガイなので、あんま真面目に内容を捉えてほしくないんだよね。それは例え真面目なことを俺が書いていても、それはスタンダード足りえないし、たま
に言いことを言っていても、それはミニマル音楽のモアレみたいに偶然的なもんです。狙ってやってるわけじゃないし、たまたま流れからそうなったみたいなの
ばっかだし、ましてや書く前にアウトラインなんて書いてるわけがないんで、そんな意味でもまともな感覚を持ってほしくないんだよね。なんか俺が読者に向け
て何かを言うってのも変なんだけど、これってのは俺節をキープしたいからあえて書いてるみたいなところもあるんだよね。ようは前よりかは人が見ているって
ことで、物事を分かりやすく書いたり、順序だてて書いたり、ようはちゃんと書いたりってことをしたくないわけだよね。あくまでロシアの耳ラボにあったウォ
ール伝をはてな上で続けてるってだけだし、それこそ読んでる人のことなんかを考えたらそれこそ保守的になっちゃいそうで怖いんだぁ。俺としても。読んでく
れてはる読者がいるってことで、ちょっと面白いことを意図的に書いてみようだとか、ちょっとまとまった思索なりを書いてみようとか、そんな動機付けが出来
ちゃったらもう俺は人間として終わりなわけだ。そんなもんウォール伝でもなんでもないし、そうなったらもう俺が何かを書くなんていう価値は一切なくなるわ
け。なにしろ頭で浮かんだ言葉をディクテーションするっていうのがウォール伝なわけで、そこに意図的な操作なりコンポジションが生まれちゃうともうそれは
終わりなんだよね。バロウズ的に言うと、もうその人の言葉では無くなっちゃうわけ。ようは俺は別に論文を書いてるわけじゃないし、ましてや連載エッセイを
書いてるわけじゃないんで、なんだかウォール伝がエッセイ的になるのも凄く嫌だし、「強烈なキチガイ左翼が支離滅裂なことを言っている」っていうヴァイヴ
が無くなっちゃったらダメだからね。まぁこうやって書いている流れの中で、まともなことを書くようになったってことならそれはそれでいいんだけど、外的
な、例えば誰かが読んでいるかもしれないっていう意識から読者にサービスをしてしまうとか、読者を想定した何かを書いてしまうってなったときに、もうそれ
はウォール伝じゃなくなるわけ。逆にそういった読者のことを考えたような文を書きたかったらここでやるべきじゃなくて、それこそブログを分けるだとか、そ
んなことをする必要があると思うけど、まぁ俺はそもそもそんな文を書くつもりはないし、あくまで脳のディクテーションをしているだけなので、その点はご了
承くださいね。ただperoさんのコメントにあったような、物理的な見づらさというのは普通にブログという形式でやっている時点ですでに矛盾が生じているとい
うか、つまり、ブログという前よりかは明らかに人目につく場所で書いているのにも関わらず、旧ウォール伝的な物理的な見づらさというのをキープするのはど
うかな?って改めて思ったんだよね。だったら旧ウォール伝の場所でやればいいじゃんってことなわけで、あくまで俺がはてなにウォール伝を移したのは知り合
いの画家から「知り合いに薦めたいんだけど、見づらくて薦めづらい」ってなサジェスチョンがあって、変えたわけで、変えた動機ってーのは見易さを考慮して
のことだったわけだ。そこで見づらいってのはちょっとおかしいよなって今更気がついたんだけど、それがなぜ今更かというと俺はさっぱり読者ってのを気にし
てないってことなわけね。あくまで脳内のディクテーションだから、あんま見易さとか関係ないわけ。ただ改めて今回はそういったことは最低限ブログをやる上
で考慮しなきゃいけないマナーだなと凄く思ったわけね。もちろんそれは中身を分かりやすくしようとか、もっと順序だてて書こうとか、そういったことをして
しまうともう根本的なウォール伝クオリティが揺らぐわけだけど、モノを乗っける為のメディアにまであえて見づらい構造を使う必要はないわけだよね。そんな
のケージのサイレンスで十分なわけだよね。そもそも俺が順序だてて書いたりなんかしたらもうこんなペースで書けないからね。こんなクソ長い読む気の失せる
文を飽きずにそこそこのペースで続けられるのは、はっきりいって俺が部屋で独り言を言っているのと同じぐらいな感じで書いてるってわけで、そこに書く際の
ロジカルシンキングだの文法に対する配慮だのってのが一切無いからってことなのね。まぁこんなもん清水国明並のヘビーユーザーなら羞恥プレイのことだけど
も、まぁ今回はまた俺の思考をまとめるって意味でもこうやって書いてるわけよ。ただ俺もこれは認めざるを得ないけど、たまぁーにまぐれっぽい名文が潜んで
いたりするのはね、別に狙ってやってるわけじゃなくて、本当にまぐれだからね。マジでミニマルのモアレだから。トピックにしても社会に一石を投じようと
か、誰かをオルグしようだとかっていうか、俺が言うほど俺は共産主義者でも社会主義者でもないんだが、そういうつもりで書いてるわけじゃなくて、独り言な
わけだからさ、そこに何の目的も無いわけね。あー言いたいこと思い出したゾ!松本ちづおだゾ!修行はとても辛いゾ!の巻。ちづお「おーオラ空中浮遊しすぎ
で疲れたゾー・・・」みさえ「ちづお!!おもちゃ片付けなさい!!!」あーまた忘れた。余計なこと書いちゃった。えーっとね・・・あーそうそう、そのブロ
グのことに関してなんだけど、ウォール伝に関しては紛れも無いスキゾなノイズでしょ?ただブログって媒体はノイズを記録しているモノっていう、ようは書き
手と読者を繋げている媒介なわけで、その媒介すらもノイズである必要はあまりないってーのは、中身がノイズのCDで、しかも媒体もクリスチャンマークレーの
ように例えばレコードならぬCDを裸で流通させちゃうとか、まぁこれって極めて80年代的ノイズなアプローチもあるとは思うけどっつーかマークレーは別として
ね、別に自分のノイズのCDをあえて安泰CDにする必要は無いし、別に中身がスキゾなノイズならそれだけで十分じゃんっていうね、ようは別にCD自体はちゃんと
したデザインで傷もついてなくて、聞きやすい状態でリスナーに届くべきでしょ?俺がやっているというかやっていたことというは、極めて安泰ブログ的なこと
というか、安泰ネット的なアプローチだったわけだね。昔はそれを自分が作った特殊な媒体で発信していたわけだけど、はてなっていう分かりやすい流通の媒体
に載っけているってことで、すでに安泰的なアプローチは機能しなくなっているんだよね。そこを無理やりやってしまうと、ただ単に見づらい分かりづらいブロ
グってことになっちゃって、そこに安泰的な価値も無ければ、ノイズ的な価値も無くなりうる可能性があるわけで、今は本当にperoさんの「もったいないですよ
ー」という言葉が心に突き刺さっているわけだ。俺ってあんま人と話さないからこういう助言というかアドバイスをもらうとちょーリテラルに敏感なんだよね。
滅多に言われないからちょー反応しちゃうっていう。孤独を愛する割に寂しがりやのスキゾな耳蝉は今日もアンビバレントな環境で浮世離れした生活をしつつ、
だんだんと社会と自分との接点を模索し始めているように僕は思えますけど、それって妥協ですか?それを妥協と言ってしまうとダメなタイプのニートの「働い
たら負けかなと思ってる」と同じような感じになっちゃうよね。あれは全くパンクとして成立してないからね。ただ単にかっこ悪いわけだ。まぁいいや、そんな
感じであんま読者に迎合しているとか思われたら嫌ってのもあってかっていうかすでに読者意識してんじゃんって感じだけど、俺の中の読者ってあくまで仮想読
者なんだよね。勝手に頭の中で想像している読者。誰というわけではなく、漠然とした存在として一応発信先っていうアブストラクトなものとしてあるだけで、
それはブログを書くっていうプロセスのモデルを成立させるためだけのものなんだよね。俺がこれを書いてブログに貼ってアップしてるってことは、一応、頭の
中で読者がいるってことも想定しておかないといけないっていうか、想定しないと成立しないでしょ?こうやって誰かに語りかけている口調も成立しなくなる。
ただそこで読者という存在が成立したところで、それはさっき書いた俺の勝手なモデルの中の仮想読者なんであって、具体性があるわけじゃないわけ。だから俺
の頭の中にこういう構図があることで、ブログなんていうモダーンな媒体にウォール伝を乗っけつつ、ただの脳内のディクテーションっていうコンセプトもキー
プできているわけね。我ながら素晴らしい説明だ。これは。上出来だな。うん。こうやって納得するのが好きなんですよ。僕ね。だからあんま人と話す必要が無
いっていうか、こうやって一人で何か考えたりしてるだけでもうそれがコミュニケーションになってるっていう、まぁ凄まじくパラノイア的スキゾなわけだけ
ど、本人が幸せなんだからそれでいいじゃんっていう。
まだ続きがあるんだけど溜めるわ。ところでダブルスペースどうよ?面倒だけど若干マシになったでしょ?あれだは、あと、折り返しが変なのって、なんかしらんだけど編集画面のフォントが変わらないのよね。っつーか恐らくブラウザのフォントサイズを小で編集すれば上手く行くんだろうけど、小にしても中のままなんよね。まぁいいや。我慢してくれ。そのうちまたソリューション探すから。あ、ブラウザ云々はやっぱ関係なかったわ。っつーか画像の横の文字の折り返しが飛び降り死体みたいにぐちゃっとなってるのが許せんね。プエルトリ子は今日も可愛かった。
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↑あんまオススメじゃないけど面白い。ガーリッシュ。