ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

デフラグ完了。

mimisemi2008-01-26

やったー!少なくとも俺にとっては難関だったライティングのテストをパスしたよー。というかスコアが8で驚きだった。8というとかなり悪くない。外人にしては。それにしてもこのACTテストってのはつくづく書き方に依存したテストで、実際の英語力を測るものではないんだなぁーというのを本当に今回実感したわけだ。というのも例のイタリアの頑固親父のクラスでは俺は反発するばかりで何も得られなかったというか、あまり得るものが無かったのに対して、例のエリートチューターの2週間コースでは、たったの2週間ながら全てを得たような気がしたわけだけど、基本的なメインポイントとしてはあれなんだよね、Cause and Effectというか、馬鹿馬鹿しいプロポーサルがあって、それを支持する理由というのを書くときに、なぜそれがエフェクティブなのか?ということを具体的に書くわけだけど、例えば問題文で「このプロポーサルがどういった形で生徒の学生生活のパフォーマンスに貢献するか?」ということを聞いている場合、基本的にフォーカスするところは「パフォーマンス」なんであって、個々の意見ではないんだよね。ようはこのプロポーサルの利点といった大まかなものではなくて、具体的な効果なのね。多くなりすぎた生徒たちを分散させるのに適した方法は?というのがあったとして、これってのも具体的にどうやって分散させるのか?ということだけで、基本的に利点ではないわけ。むしろ分散させることにフォーカスせずにプロポーサルの利点だけ書いていたりすると点が下がったりするわけね。それが仮に凄く言えている正論だとしてもダメ。だから書き手に求められているのは仏教的な自己滅却なのね。己を消して、提案にのみ集中する。んで自分の視点をその辺の人と同じような視点に置いて、プロポーサルをサポートすると。まぁ基本的にどの問題でも何らかの問題を解決するプロポーサルが2点提案されていてまぁ二者択一オンマイマインドなわけだけど、その2点ともいいアイデアだと思えないようなのが多いわけで、ここでの自己滅却が凄く大変なのね。こんな馬鹿馬鹿しいプロポーサルじゃなくて、もっと他のいいアイデアがあるだろうって考えるのはアウトなのね。その2点のどちらかをすぐに選んで、そのプロポーサルがなぜ良いか?というか、まぁ質問で提起されている例えば学生生活のパフォーマンスの向上だとか、パブリック・トランスポーテーションのパフォーマンスの向上だとか、そのゴールに直結するようなアイデアを書き連ねる必要があるわけね。日本の学校教育についてはちゃんと受けてきてないんで分からんけど、基本的に日本人というかアジア人全般がこういった形のエッセイを書く訓練をしてきてないんで、んだから大変なんだと思うんだよね。それは英語力云々の話ではなく、スキル云々の話。まぁ前にも書いたことだけど、今回パスしてみて改めて思ったわけ。ようはこれってのは俺のインテリジェンスに依存しているわけでもなんでもなく、基本的にACTテストにパスするためのTipsを理解して出力するという、まぁ問題解決のためのソフトウェアのインストールが必要なわけで、これがインストールされてしまうと、恐らくはパスできるっていう感じなんだよね。まぁもちろんそこで英語力は必要になるけど、それってのはかなり二次的なもんで、最優先で必要なのが、パスするためのスキルなんだよね。で、思うに恐らくテストというのの大半がこういった感じのもんで、基本的に一番問われていると表面的に思われる知識だとか英語力だとか理解力だとか文章力というのは意外と問われていないというか二次的であったり変な言い方をすると三次的であったりするわけ。特に英語のテストのTOEFLとか英検みたいな類のもんは本当にそうだと思うね。だから英語力がそこそこあってもテストの問題を解決するというスキルが無い人達はあまり点数を取れなかったりするわけ。それってのは基本的に一見、フレキシブルに見えるようなオーラルスピーチでのテストなんかでもそうだと思うんだよね。まぁ英語学校でラフなのしか受けたこと無いんであくまで想定になるんだけど、基本的なポイントを捉えるということが重要で、例えば流暢さとか声の大きさとか、なんか一番気の小さいヤツが気にしちゃいそうな点というのは意外と重要ではなかったりするわけで、だからスピーチといっても要点を押さえたような、例えばさっき書いたようなCause and Effectなどがしっかりしていたり、イントロダクションとボディとコンクリュージョンといったような、エッセイで必要とされるようなコンストラクティブなものを完全に押さえた台本を作ってしまえば、あとはそれを暗記して本番で暗唱すればいいだけの話なんだよね。基本的に政治家のスピーチなんかもほとんどはこんなところで、台本なんてのはこういったシステマティックなことを把握しきっているプロが書いているわけでしょ?ってことは政治家というか特に大統領とか総理大臣みたいなもんってのは基本的に空っぽでカリスマ性だとか魅力だとかっていう表面的なものが必要なんだよね。それさえあれば中身は他のスペシャリストがやってくれるんで問題ないっていう。そういう意味で恐らくアメリカでも日本でも人気があった大統領や首相ってのは、恐らくカリスマ性や魅力があったんだと思うんだよね。そういう意味で例えば安倍だか安部みたいな窓際族サラリーマンみたいなオーラも中身も無いような人間に総理大臣という役職が勤まるわけないし、そりゃー福田みたいな上履きみたいな顔をしている、一切魅力の無いような人間にも勤まるわけが無い。内容はともかく例えば総理大臣ってのは田中角栄みたいなのがやるべきなんだと思う。内容がクズでも一見するとなんとなく総理っぽいのが総理をやっていればまだマシな気がするんだけど、そういう人がいないっつーか一番向いて無さそうな人間が総理やっちゃうってのはどうかと思うね。まぁ明らかにあれだね、民主主義というか、国民がリーダーを決めるだとか、そんなのがいかに機能していないかというののいい例だよね。だから本当に俺ってリアルなポリティクスに興味ないんだよねー。だってもう機能がおかしいもん。テクノロジーに興味があるっつってもその人は恐らく壊れたパソコンについては同じテクノロジーでもどうでもいいと思うと思うんだよね。それと同じ。


まぁ話を戻すと、まぁこうやってパスしたから自信ありそうなことを書いているけど、落ちていたらまた大学のシステムの批判なんかをしていたんだろうなぁーって思うと、人間ってのは現れたものを基準にしてかなり恣意的に物事を考えるんだなぁーって改めて思っちゃうわけで、そんな未熟な人間という存在が操縦している政府なんてものがちゃんと機能するわけが無いのは、基本的に俺みたいなふつーの人の子がやっているからなんだよね。行為主体の選択と価値だけが行為の価値を生み出すってサルトルじゃないけど表れた現象に対して反応するというリアクションによってのみ人の意思というのが表れるとすると、基本的に恣意性なんてのは回避できるわけがない。だから恐らく人間に必要なのはなんというか個々の価値基準なんじゃないかと思うわけ。もちろんその時々に表れたものに対して一喜一憂するのが人間というのがあるにしても、根本的なプリンシパルというのを価値判断基準を定義するものとして持っていればある程度恣意性は回避できると思うんだよね。俺はこのプリンシパル全般をイデオロギーだと思っているんだけど、まぁ半分ギャグだけどね。分かる人には受けるし。「食物を捨てるのは自分のイデオロギーに反しているので」とかいうと笑ってくれる人がいる。まぁ楽屋落ち的なインテリジョークなのかもしれないけど、別に俺はインテリ気取ってるわけじゃないんだけどね。ただ俺のウォール伝を書くという行動を選択させている現象というのはテストの結果というものなのであって、その結果の表れによって書かれるもの(エクリチュール)が表れた現象(フェノミナン)によって変わってくるのは、基本的に人間の意志が現象に反応しているだけという恣意的及び流動的な行動によるものなので、そこにプリンシパルもへったくれもないという言い方が出来てしまう(万人が抱えうる一般的諸問題!)わけだよね。こういうのどう?(エクリチュール)っていうのと、かっこの中の文字のケツにビックリマークを入れるっていうのもインテリジョークの一つだと思うんだよね。こういうネタ的なことをマジでやっちゃうのがインテリなので、インテリというのも基本的に学問馬鹿なのかな?って思っちゃうよね。なんでもっと自分の言葉で語ろうとしないんだろう?だから学問と呼ばれるものの全体にパッションが感じられないんだよね。それは学問化したアカデミックな音楽も一緒ね。なんかね、ブログのリンク元見てたら、なんかの質問の掲示板かなんかで、「今時現代音楽をやっているやつは頭がおかしい」みたいなのが書いてあってさ、その批判の矛先になっていたのが学問化した現代音楽全般、まぁ電子音楽とかミュージックコンクレートとかなんだけど、なんか挑発的なんだけど言えてるんだよね。それは芸術全般そうかもしれない。基本的にスポンティニアスサーが無くなっちゃうと表現物というのはただの観念の塊になっちゃうわけね。机上の空論を具体化してみました、というそれこそ現象的なものになっちゃう。そうじゃなくて表現物というのはもちろんプリンシパルだとかフォーミュラだとかメソッドというを踏まえたうえで成立するものであるにしても、基本的に表現物の大半を占めているものは作家の表現に対する情熱っていうとちょっと陳腐な言い方になるけど、まぁようは表現したいという感情の表れであるべきって言い方をすると、英語で書くとshouldになるんで、I thinkとかI guessとかってのを付け足さないと減点になるとかいうのもさ、基本的なエッセイライティングらしいんだよね。で、まぁ話を戻すとまぁそうであるのがいいんじゃないかな?って思うわけ。まぁ少なくとも俺はそんなインテリが考えた観念的なものを読む気も鑑賞する気もさらさらないわけ。だって単純につまらないからね。だったら未熟でも表現の強度みたいなものを感じられる表現物なり書き物のほうが俺にとっては興味のあるものなわけね。で、付け加えるとそれは思想とかもある種の芸術で思考というものの表現なわけで、やっぱそこに表現の強度が感じられたほうが、恐らく読者の知的好奇心を煽るものになると思うわけ。これって基本的に芸術と一緒でしょ。だから恐らく思想というのと理論というのは似ているようで違うんだよね。思想というのは恐らく理論に比べてもっと個人的なもので、理論というのはそれこそ数学の公式みたいなもんなわけで、基本的にまぁ一般性というのを持っているものということね。よく論客が思想について理論的に批判していることがあるけど、これはお門違いだと思うわけ。ってーのは表現にしても、例えばある強度を持った音楽があるとして、それに音楽理論のエキスパートが「展開がなっていない」だとか「音程がハズれている」だとかっていう風に批判するのはアホンホンひぇれれーでしょ。そうであっても人々を魅了しているのがこの音楽なんだから、その音楽的な魅力と反比例するかのごとく、こういった理論家の批判というのが陳腐なものになっていくわけね。理論家がある理論書を理論的に批判するのなら分かる。ただ理論家が思想を批判するというのははっきりいって個人的思想領域への侵略だと思うね。それはその人の考えなんだから間違っている間違っていないではなくて、その人がその時点で出力した思想なので、批判の余地が無いはずなんだよね。だってそれはもう表現物なんだから。そこでデリダじゃないけどエクリチュールってのは世に出回った時点でもうそれを読む人の数ほどの解釈が生まれるわけで、そこに作家の主観だの表現だのっていうものが入る余地が無くなるわけじゃない?まぁもちろんその理論家の批判というのも一つの解釈なんだけど、ただ批判というのはある程度パブリックなものだと思うんで、そこをあまりに批判者の主観で語りすぎるのもどうかな?と思うわけね。その語り口が強ければ強いほどなんというかその出力された表現物への侵害になるんじゃないか?と思うわけ。いや、批判が悪いって言ってるわけじゃなくて、表現物を理論だとか公式という観点から批判するのはちょっとどうかな?と思うわけね。思うにだからしょっちゅう理論的なことばっか言ってる凝り固まったインテリに足りないのって独創性だと思うんだよね。その理論的名インテリから発せられる言葉とか書き物の大半がその書き手に蓄積された知識や理論といったものの詰め合わせで、そこにオリジナリティみたいなのが介在しないのね。だからこういうインテリが語る言葉というのは本当に教科書的に感じられるものばかりで、一見もっともなように見えて全く魅力が無いというか、人々をがっかりさせちゃうんだよね。まぁ一定のファンは付くとは思うけど。


例えばノイズ音楽に対して、まっとうな音楽家が「めちゃくちゃだ」という理由だけで批判することがあるでしょ?まぁありそうだよね。あと「あんなものエフェクターを繋げて雑音を出しているだけだ」とかね。これってまぁなんというか理論的というか方法論的な批判でしょ?「エフェクターを繋げて雑音を出すことぐらい誰にでもできる」という批判。ただこれって批判者は明らかにノイズ音楽というのを理解していないわけ。というよりかは個人的な好き嫌いっていう判断を持ち前の理論に繋げて批判しているだけで、もっとものように見えて全然もっともじゃない。なんで世界中にノイズファンがいるのか?とかを考えないし、ノイズ音楽を楽しんでいる側の価値観というのを一切排除して物事を考えているわけ。んでさっき書いたこういった批判がある程度パブリックなものだという風な意味ってのは、これがある程度もっともに聞こえるようなことだからなんだよね。「フムフム。確かにそうだな」というように見える理由。そういった批判というのはノイズ音楽をいうものを知らない人達にまでノイズ音楽というものの偏見を与えるというか、一見は百聞にしかずなのに、その一見を許さない批判というのかな、まぁこの場合逆か。一聞は百見にしかずか。ん?ただこれを言うと基本的に批判ということが成り立たなくなっちゃうね。俺がJ-POPを批判したら、まぁいないと思うけど、J-POPを知らない人にまで偏見を与えるということになっちゃう。こりゃおかしいな。まぁいいや。ようはもっとものように見える批判でもクリティカルに捉えようねってことね。説得力の背後に隠されたその説得力でもカバーしきれない言葉にならないことというのがね、まぁこれってのがある意味でリバーシブルな行間読みだと思うし、それこそ脱構築的なんじゃないの?もっともと思えることって人は受け入れやすいし、俺ですらノイズってただのエフェクターの組み合わせでアンプリファイすれば誰にでもできるって思っちゃうんだけど、仮にそうだとしても、「だからどうなの?」といったような音の魅力というのをノイズってのは持ってるわけで、そこを合理的に解析して説明する必要は無いんじゃないかな?って思うわけね。全てを言葉で説明しようとするのって特にアート的なものに対しては時に野暮ったいことになるでしょ?そうじゃない宙ぶらりんの状態なんだけど、そこにある良さとか味わいというのをあえて認識しなくても、言葉にする前に知覚がそれを捉えているんで、この状態でいいっていうね。恐らく全てのことに対してそれだけではない剰余の部分というところにまで認識を拡大させる必要があるというのかな。100あったら101から110を捉えてみるっていうね。100と言われるとまぁ普通は100という中だけで物事を捉えたり考えちゃうけど、そこは人間の想像性ってことで110にまで意識を拡大させることが出来ると思うんだよね。これってのはまぁある意味で既存のもの、まぁこれの場合、100という数値を疑うというクリティカルなものの捉え方というような言い方も出来ると思うし、剰余を探して認識するっていう意識の拡大でもあると思うわけ。だからパブリックなごもっともに見える批判というのは、人々の意識の拡大を妨げる要因になることもあるっていうことなわけね。例えば最先端を行く批評家がある映画を批判したとして、それを鵜呑みにしてダメなんだって思うことってのがすでにこの批評家の100という数字を鵜呑みにしちゃっているということなわけで、そういったごもっともに見えそうな批判を見てもあえて110を自分で探すという意味でその映画を見てみるということが大事なのね。それってのは音楽とか思想とか絵画だとか彫刻だとか、特にそのなんつーか理論だのフォーミュラだのだけでは語れない剰余だらけのものというのには特に必要な観点だと思うわけ。あと批判する人達ってのはそういったものをそれっぽく批判することで自分の立ち居地を確保しているみたいなところもあるから要注意だね。インテリこそ怪しいって思ってたほうがいいと思う。たぶんそこで今後を生きる人達に必要なのって、そういうごもっともに見えて実は欺瞞的なことの数々を壊していって、新たな価値観なりシステムなりを形成するということだと思うんだよね。まぁ基本的に歴史ってそういうことを繰り返してきていたのかもしれないけど、なんか今ってのはそういう動きが希薄なように思えるし、みんなすげー保守的に見えちゃうわけ。今のシステムでいいや今の価値観でいいやっていう、よく哲学で繰り返されるなんだったっけ?あのマルクーゼが言ってたんだか、自由の欠如ということに人々が気がつかなくなっちゃっていて、自由の欠如ということに対する問題意識を持てなくなってしまっているということの問題性っつーのかな。それに慣れちゃってるんで問題意識すら発生しないっていうね。これがマズイわけ。


基本的になんというかまぁ俺が言いたいことをまとめると、ようはシステマティックでドグマティックな価値観だとかモノの見方をするんじゃなくて、個々が自分のプリンシパルを形成するっていうね、で、その価値観なりオピニオンなりの多様性を受け止めることができる枠組みを社会が持っているっていうね、まぁ簡単に言うと多様性なんだろうけど、これって重要よね。一般的な問題に見えて相当エッセンシャル。で、これって政権とか社会政策とかに比べて明らかに一人一人が個人単位でコミットしていける意識改革だし、凄まじく政治的なことだと思うわけよ。一人一人の投票が世の中を変えます!みたいな奇麗事じゃなくて、リアルに世の中を変えていけることというのが個々の意識改革ね。そこでまた話を繋げて連帯とかっていうつもりはないよ。あとマルチチュードみたいな概念もアマルティア・センだかシャンタル・ムフだかがそれこそそれっぽい批判をしていてなるほどなって思っちゃったんだけど、まぁこういう専門的な詳細はいいよ。俺も共産病やら連帯病からは抜け出したわけだし。あ、んで別にそれがマス化する必要は無いわけ。ここの違った意識がそれ自身として独立していればもうそれは革命なわけね。ただ必然的に恐らくそういった個々の意識の変化が緩やかに政治なり芸術なり文学なりメディアなりの変化を促すものになりうると思うわけね。それは前にも書いた例えば需要と供給の関係みたいなもんで、基本的に人々がくだらない音楽やテレビ番組に嫌気がさしたら需要が無くなってそういうのは誰も作らなくなるでしょ?今、くだらないものが存在している大きな理由の一つはやっぱり需要でしょ。作り手が馬鹿なんじゃなくて受け手がそういうのを求めているんで作り手はあえてその馬鹿な大衆に向けて馬鹿なものを作るわけ。そういったものが大きくなりすぎてしまうともうそれは文化の衰退でしょ?それは政治でもそう。くだらない政党にノーと言わない限りそれは需要があるもんだとみなされて基本的にくだらない政党が続いちゃうわけ。みんながノーと言えば必然的にその政党はお払い箱になって、なんらかの変化が訪れるでしょう?いや、ただね、そこで牧歌的で楽観的なことを言うつもりはないよ。政治家が悪いから世の中がダメなんだみたいなアホなことを言うつもりはない。俺が言いたいのは変化とかどういった社会の形態がいいのか?なんて正直分からないけど、反発だとか変化を求める意思というのの運動体が必要だと思うわけ。で、それは別にマス化する必然性は無いと。運動体のいうのは個人でも十分ということね。そういったものが増えれば意識的に連帯していなくても、「こういう風に考える人が増えてきた」ってことで、それが結果的に変化となるわけ。まぁ別にこういう風に考えるっていう変化が画一的である必要は無いんだけど、ようはその反発の運動ね。それが必要。反発っていうと共産臭かったら、んじゃあまぁクリティカルでいるってことでいいや。簡単に言うと昔から俺が嫌ってた「先生が言ったから」っつーんで盲目的に従うんじゃなくて、てめーの意志で考えろってことね。コントロールされている大衆になるな!ことだね。なんかちょっと将校になりすぎちゃったかな?でも基本的にこのアティチュードでしょ。アートへの態度も音楽への態度も思想への態度もさっき書いたことと全然繋がるっていうか、まぁ簡単に要約するとてめーで考えろってことなんだよね。思うにてめーで考え出したらポップという感覚がなくなると思うんだよね。ポピュラーという概念は大衆的って意味があるでしょ?まぁそれだけじゃないんだけどね。盲従させることってのがポップカルチャーの大きな機能の一つだと思うわけ。それでもポップカルチャーが好きならいいのよ。それはもう好みだから。ただみんながそうしているからってことでそれを追うのはもう馬鹿ってことね。俺が独裁者になったら権力的に消したいタイプの人間。ただそこで思うのはこういう価値観の押し付けっていうのは他人の領域への侵害なんじゃないか?とも思うわけね。盲従していることに心地よさを感じている人に対して「起きろ!」っていうのは野暮ったい。あのあれだよ、メガテン2のアルカディアみたいなもんで、まぁマトリックス的でもあるのか。あの観念の世界に住んでいたほうが心地いいんだったら、別に現実世界から「目を醒ませ!」って言う必要も無いっていうか、ギメルカンカン!みたいなね。ただ現代って何も考えないでいるってことがそこまで心地いいように見えないから変化が必要だと思うんだけど、これってのもあくまで俺の主観的な判断なんだよね。賃金奴隷でいることが幸せだって人いっぱいいるだろうから。で、あと消費ね。理想的で幻想的な中流生活を求めるってのが一種のマトリックス的なパラダイムになっちゃってる。


まぁただそれを追い続けている間は幸せで、んでそれを追い続けて死んでいく人が多いわけで、そういう人達に余計なことを言うのは、それこそおせっかいかもしれないわけだよね。結局、そこでさっき書いた需要と供給のシステムの成立になっちゃうんだよね。くだらないテレビを見ていたほうが幸せなんで、変化なんていらないって人が大半だったら、「くだらないテレビなんて見ているな!」って横から口を挟む人がYaboったくなっちゃう。ただそれを放置しておくと世界はどんどん退廃するわけね。だからなんつーかすげーパラドキシカルでさ、あからさまにダメな政権とかメディアとか社会が存在しているのに変化が無いってのは、結局人々がそれに順応しちゃってて変化を求めていないからそれについてよく思っていなくても結果的にそれを受理しちゃっていることになっちゃって、それがそういったシステムを継続させる原動力になっちゃっているってことなわけなんだよね。だから結局そこで「まぁ人は人、俺は俺」っていう認識に至っちゃって、ペシミズムとニヒリズム横行しちゃう。恐らく人と人との繋がりが希薄になってきているのも、基本的に意識の共有という部分で相当ニヒリスティックになっちゃっている人が多いんだと思うんだよね。どうせ分かり合えないから最初から分かり合おうとしないほうがいいみたいな。でもそこで失われているのって人間関係だけじゃなくて社会的なダイナミズムなんだよね。個々のコミュニケーションが希薄になることで、それこを俺が理想とするような市民と政府の間にある中間団体みたいなのの形成なんてことが相当難しくなるし、何よりコミュニティがなくなっちゃうでしょ。人々が意志を通い合わせるパブリックな場ってのが無くなっちゃう。で、それがもっと内面的なものになっていって、ミクシーとかブログみたいな繋がっているようで繋がっていないっていう、凄まじくドライな人間関係を抽象的に続けられるような、コミュニティであってコミュニティではない媒体ってのが流行るわけね。で、日本の場合、アメリカと違ってリアルな人間関係とか繋がりあいというのがネットに無いんで、もちろんそのコミュニティがコミュニティ的な力を発揮することはまず無いわけ。2ちゃんねるなんて絶対無理でしょ?サブカル評論家なんかは必死であれを肯定したり政治学的・社会学的に分析していたりするけど、あんなもんダメ人間の吹き溜まりでしょう。またそれをメディアが取り上げているというのが大問題だと思うんだけど、まぁそれはともかく、ネットってのも基本的にリアルな人間関係ありきのコミュニケーションの媒体じゃないと、それってのは本当に観念的で実体の無いものになっちゃうんだよね。日本の場合それが顕著なわけだけど、恐らくアメリカは日本に比べれば少なからずリアルな人間関係ありきでネットが存在しているような気がする。だからネットで実名を公開してブログを書いていたり、自分の写真を乗っけたり、動画サイトに自分が喋っている動画をアップしたりっていうものが割とメジャーだったりする。それに比べて日本のネットというのは徹底的に匿名社会なんだよね。俺は耳蝉って名乗っているけど、実名とか地元すらもバレバレだし、家庭環境とか経済環境すらもバレバレなわけだ。まぁこれは好きでやってることなんでいいんだけど、俺は匿名性に依存して何かをやるということが本当に嫌いなのね。だから徹底的に書かなくていいことまで書きたくなっちゃう。逆に俺としてはなんで多くの人達が極端に匿名性にこだわるのか、本当に分からないんだよね。そこにある根源ってのはやっぱネット社会と実社会との乖離だと思うんだよね。ネットはネット、実社会は実社会っていう、ネットでは自分のアバターとしての自分を演じることで自分のアイデンティティなり存在をネットに浮き上がらせて現実で出来ないことや言えないことを言いまくるっていうのが日本的なネットでしょ。そういったアバターを作るには当然、リアルな自分との関連性をなるべく排除したいんで、だから2ちゃんねる的な場所というのはこういった人間たちにとって最適な場所なわけだね。恐らくネットでのキャラと現実とのキャラの違いが凄まじい人って特に2ちゃんねるみたいなところに入り浸っている人達には相当多いと思うんだよね。ちなみに俺は俺としてウォール伝を書いているんで、現実との乖離はゼロというか、ウォール伝は俺の意識そのものみたいなもんだからね。で、恐らくアメリカのネット社会は恐らく現実社会とのコネクションが少なからずまぁ最低日本よりは多いと思うわけ。自分が自分としてネットで政治を語ったり表現活動をしたり執筆をしたりするっていうね。だから画像サイトっつーかエロ系じゃなくて、名前忘れたけど、ああいうのでも自分の写真を平気で出している人って相当多いでしょ?日本人的な感覚で言うと考えられないけど、それってのは基本的にネットに対する考え方が全然違うからなんだよね。そこは欧米人が社交的で陽気だからってことだけでは片付けられないものがあると思う。そういった意味で俺はアメリカ的なネットというのは凄く健全だと思うわけ。普通の人7割で、ネット人間3割ぐらいがアメリカだったら日本は真逆で不気味で不健全に思えるんだよね。まぁ分からないよ、別に調査したわけじゃないから。ただなんとなく割と昔よりかはアメリカのサイトなんかを回ることが多くなったんでこういう風に感じるってだけなんだけどね。

まぁいいや、そんな感じで久々に長くなって頭がスッキリしたわ。ランドリー行こうと思ってたけどもうダメね。時間的に。ウォール伝ってデフラグだなっていつも思うね。

L' Aperitivo Italiano

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