ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

ナウロマンティックなAV。

mimisemi2008-02-25

ずーっとハゲかけているところの生え際を触っていたら二時間ぐらい経っていた。ということで時間について書きたい。時間ってさ、人間が勝手に定義して存在するものとして認識しているものだけど、これって実体は無いよね。ただの共通認識。それはルールとかと同じで、ルールなんてものはその場だけで有効なものがあったりするわけで、他の場所やら他の国に行くと全然違うルールがあるなんてことが当然あるわけで、これってのがどういうことを表しているのかというと、これってのはただの合意なんだよね。まぁ結局だから法律なんてのもそうよ。ただの国が決めたルールなんであって、それが普遍的な善悪を判断したりするものか?というと全然そんなことはなくて、だから常に法の見直しというのが必要になってくるわけだ。まぁ面倒くさがってやらないやつらが多いけどね。


で、時間に戻すとだな、これを凄く感じたのがこっちに来た最初の歳に夏時間になったときだったんだけど、変わり目って12時になったらそれが11時になるんだよね。ようは一時間時間が遅くなるのね。でもこれって決まりだから人々は例えば普段なら7時に起きてた人が8時に起きて会社なり学校なりオナニーをしたりしているわけ。でもそれって7時なんだよね。夏時間だと。逆に夏時間から標準に戻るときは時間の変わり目の12時が1時になるんで次の日は一時間早く起きなきゃいけないってことで変わり目の日の朝は眠そうな人が多そう。あ、どっちだったっけ?夏時間が1時間増えるんだよね?まぁいいや。そんなのはどうでもいいや。ようはこれってさ、前から年明けとかに感じることなんだけど、みんなカウントダウンとか大げさにやるのが好きみたいだけど、あんなもんただ年のデジットが変わってるだけで、空間なり世の中なりが変わってるわけじゃないんだよね。続くのは当たり前の虚無的な日常なんだけど、人々は大げさに祝うわけだ。まぁ逆に言えば日常がつまらないからお祭りをするっていう虚無への対抗としての祭りは凄くいいと思うし、そういう意味での日本のお祭りは凄くいいと思うんだわ。イベントごともね。俺は全然楽しく無いけど。だから年なんてのも人々がそう思っているだけの決まりごとで、実体は無いものなの。今は2008年だから2008年としてやっていきましょうっていう確認の無い合意なのね。だから例えば全く社会から隔離されたような人達にとって年やら日にちなんてのは意味を成さないでしょう。まぁせいぜい気温の変化とかさ、時間の変化とかによってまぁ生活を変えていく必要があるってことでサバイブするために必要になってくるものかもしれないけど、別にそこまで重要なものでもない。無人島に住んでたら暗くなってきたら森には近づかないとか、大体のルールを自分で決めちゃえばそれまでで、なんのこたぁない。でも社会に生きる人々は時間やら日にちやらなにやら自分たちで合意してやってることに雁字搦めになっちゃって、それによってストレスを感じていたり束縛されてたりするんだよね。何時だからこうしなきゃいけないとか、ああしなきゃいけないとか、まぁ日々をルーティン化するのが好きな人はいいけどさ、でも好き好んでやってるわけじゃなくて、そうしないとダメだからっつってそういう感じでやってる人達が大半でしょ。あ、8時だからこうしなきゃなんてさ、明らかに外的なものから影響を受けて行動を決めてるんであって、それって内発的じゃないんだよね。そんなもん気が向いたときにやればいいのに何時だからこうしなきゃいけないだとかってのを妙に決めたがる人がいたり、好きでやってるならいいけど、なぜかそれによってストレスを感じてる人が多い。だったら最初から時間なんて気にしないで自分で好き勝手やればいいのに、それだと社会との折り合いがつかないってことで、自分はどうこうよりまず普通の時間の感覚にあわせるわけだよね。朝起きるみたいな。でも朝起きるなんて誰が決めたのよ?もちろん生理学っつーか医学的っつーかさ、そりゃ朝起きたほうが体にいいというのはあるよ。でも人によっては俺みたいに夜とか夜中のほうが調子がいいって人もいるわけだし、朝じゃなくて昼前ぐらいに起きたほうが体調がいいって人もいるかもしれないのに、なぜか世の中には凄まじい朝・昼・夜っていう合意があって、それに基づいて行動するんだよね。で、それに基づいて行動できる人が有能な人だと思われている。ただ俺に言わせりゃーそんなの欺瞞もいいところで、ルーティンに乗るなんてことは考えなくていいってことでしょ。朝だから起きる。あ、思い出した。サルトルでさ、朝起きる理由ってのを考えると飯を食べていかないと人間は生きていけないからっつってさ、んじゃあそのために何をするか?っつーと働かなきゃいけないっつってさ、んじゃあ働くってことは?っつーと決められた勤務時間に起きて出勤するってことで、朝、わざわざアラームをかけて起きるっていう行為ってのは自発的なことでもなんでもなくて、ただの必要性なんだよね。お飯を食うことの。生きるためにやらなきゃいけないことの必要性で睡眠時間が足りていようが足りていまいが起きなきゃいけない。で、そういうことがちゃんとできる人がちゃんとした人で、出来ない人はダメな人っていうレッテルを貼られるんだけど、そんな必要性だけで動いてる人って自分の人生について考えたりしてるのかな?って思っちゃう。それこそ自由というのが実質無くて久しいから、自由が無いということに気がついていなくて、ただ自分が働いてお金を稼いで、週末なんかに自分の趣味や人間関係なんかに時間を費やすことってのが自由だと思ってたりするわけでしょ。


別に俺は誰かに無理やり働かされてるわけじゃなくて、自分で選択して働いているんだとかって言うのかもしれないけど、それってはっきりいってそれを選択している理由の9割ぐらいが、例のサルトルの件の朝起きなきゃいけない理由と同じなんだよね。ようは必要性。んじゃあ人間ってのは必要性を満たすためだけに生きてるのか?それだったらつまんないよね。それどころか仕事ってのは楽じゃない。すんげー疲れるし楽しいわけじゃないしストレスが溜まる。でもそれは生きていく上で必要だからやらなきゃいけない。働かざるもの食うべからずってパウロだかの言葉らしいんだけど、こんなもの権力者が民衆を誑かすための言葉に過ぎないわけ。勤勉でいるということは美徳なんですよってことを民衆に信じさせることで経済を回したり過去だとまぁ宗教を広めたりしていたわけでしょ。で、本人は働いてなくて、なんかの組織を回してるだけで普通の人じゃ稼げないような額を稼いでたりする。パウロがそうだったかは別としても、キリスト教全般ってのは本当にそういう資本主義的な宗教なんだよね。まぁこういう分析ってマックス・ウェーバーなんだろうけどさ、働くことが尊いことだなんて本当に嘘だよ。例えば毒入り餃子を作っている工場で勤勉に働くことが尊いことかっていうとそうじゃないよね。上が本当はやらなきゃいけないことまで下とかバイトにやらせるってことで会社を成り立たせてるようなところでバイトをすることって尊いことでもなんでもないでしょ?ただ利用されてるだけだよね。ただまぁ仕事があるだけありがたく思えってことなんだろうけど。そもそも資本主義なんで利子だのさ、差額だのさ、そういうダーティーなところで金を作っていくもんでしょ?そこに尊さもクソも無いのよ。でも人々が労働は尊いことだの、働いていればカルマみたいなのが溜まっていって何かしら良い因果関係が人生の中で生まれてくるとかさ、現実逃避的に考えるわけよね。まぁそうでもしないかぎりあまりにも非合理的過ぎて生きていけないんだろうけどね。んじゃあこんな意味のなさげな人生から脱出するにはどうしたらいいのか?っていうとまぁ死ぬってことだね。死んじゃえば全ての責任やら苦労やらストレスから解放されて、まぁ永久のバケーションを得られるわけでしょ?だってさ、どっちを選ぶよ?仕事に行くか海外のバケーションに行くかっていう二者択一を迫られたら誰もがバケーションを選ぶよね。もちろん仕事に行くのもバケーションに行くのもお金は発生しないっていう選択肢ね。ようはただ働きをするか無料旅行に行くかどっちにする?って言われて誰もがバケーションを選ぶってことよ。ただね、カルマだの尊いということが本当に信じられていたら、選択肢の選択はそうはならないでしょう。修行僧のように労働は尊いから私は労働を選ぶなんて人が出てきてもいいようなものなのに恐らく人々の大半がバケーションに行くよね。でも仕事も必要。なぜ?っていうとさっき書いた必要性。働かないと死ぬから嫌でも働かないと生きていけない。人間ってそんな永久的な監獄の中でずーっと生きていくだけなんだよね。で、人生の大半が自分のメシと家賃と生活費を稼ぐためだけに費やされる。生きるということが常にコストなんでそのコストを常に埋め合わせなきゃいけない。ってことでこれが人生ってことになるんだよね。パンピーの。これって楽しいのかなぁ?どうもね、ここで「いや、楽しいさ!だって生きていなきゃ喜びを味わえないだろう!」とかってポジティブに考えるのもいいけど、その喜びってのも喜びが無い状態が長いから対比として喜びとして見えるだけでそれ自体の価値なんてたかが知れてるんだよね。普段がクソみたいな生活なんで週末のパーティーが楽しいっつっても、んじゃあ毎日パーティーばっかしてると、パーティは
つまらなくなるでしょ?そこにコントラストが生まれなくなってパーティーしているのがデフォルトになるんで、それ自体の喜びを感じるセンスが麻痺しちゃう。ってことでパーティーなんかで得られる喜びなんてのは所詮、苦労あっての喜びで、それ自体にたいした価値は無いんだよね。生きていなきゃ喜びや愛や幸せを感じられなくなるっていうけど人間なんて大半の時間を退屈とか抑圧とかストレスとして感じているわけでさ、そういう時間に長くオキュパイドされちゃってる人達なんてのは、つかの間の昼休みですら幸せに感じると思うんだよね。


俺もバイトしてたときそうだったもん。ただの1時間のコンビニのおにぎりを食ってタバコを吸うだけの時間なのにバイト生活の中だとそれが楽しみになる。なんでかっていうとさっき書いたコントラストね。バイト自体が苦痛そのものなんで、普通に飯を食ってリラックスできるという当たり前のことがあたかも幸せに感じられるようになるんだよね。でもそれって別にただの認識的なもんで、昼休みなんてのは幸せでもなんでもない。もちろんドラマで描かれるような馬鹿OLが昼休みにバレーボールとかして楽しそうにしてるのはいいけど、だから馬鹿は幸せものなんだよね。考えないから幸せと感じたことが幸せだという風に素直に受け止めることが出来る。でもそうじゃない人に心の平穏なんて一生訪れないんだよね。愛を知らないまま死んで行くなんて!っていうけど、んじゃあその愛を信じている人達の離婚率って何なの?って話だし、結婚して本当に良かったなんて話は久しく聞かないよね。ましてや愛を語る人がバツ2だったりすると説得力無いよね。だから俺が思う幸せってのは師匠1じゃないけど常に心や精神に栄養を与えることが出来る人達ね。まぁそれこそソクラテスじゃないけど、幸せな人ってのは自分のために勉学に励める人だってことになるんだけど、でも今、これをやるとまさしく俺みたいな道楽者になるんで、社会的には良いとはされないし、ましてや社会的な需要は無い。生きるためには何をしなきゃいけないか?ということの必要性に対する選択肢が本当に限られていて、しかもそれの大半が既存のシステムから提供されたものしかなかったりして、それってのは会社に入ってコキ使われたり、無駄な雑用をやらされたりすることだったりして、苦痛を伴うものが本当に多い。こういうことを言うと贅沢を言うなって人がいるけど、それって贅沢だろうか?本来、人間なんてのは自分が生きるための必要性のためだけに身を売って生きる生き物ではないんじゃないのかな?って思うんだけどね。生きていくためには嫌なこともやらなきゃいけないというのは分かる。ただ嫌なことだけをやっていかないと生きていけないなんて、それってただの生き地獄じゃないかと思うわけ。朝の8時に家を出て夜中の1時に帰ってきてんでまた朝の8時に出勤することが生きるということなんであったらそりゃ死んじゃったほうがよっぽど楽だね。無責任な自称スピリチュアルカウンセラーが自殺をすると魂は永遠に成仏できないだとか言うけど、んじゃあこの世で苦渋を味わってその苦汁のおかげで病気にかかって苦しんで死んでいくということが人生を全うしたことになるのか?っていうとそうじゃないよね。それってまさしく生き地獄経由の死で最悪じゃんね。それで極楽浄土に行けるなんていうのはそれこそヘゲモニー臭い教えだよ。死なれちゃ社会が回らないんで会社に尽くしてから死んでくださいってことでしょ?でも死は死だったら苦しむ前に死を迎えたほうが楽に決まってるよね。そこを自縛霊になるだとかって脅すのはどうかと思うなぁー。だって生きるも死ぬもその人次第じゃない?結局、自殺は良くないということ自体が間接的に労働は尊いことだって言うことになっちゃうわけよ。だって労働に嫌気がさして死のうと思ってた人達をまた労働の場へ戻そうとするわけでしょ?で、搾取されようが酷い仕打ちを受けようがやり通したものが報われるだなんて、それこそキリスト教のアレと全然変わらない。祈れば報われるんで祈りましょうってのと変わらない。報われない人は報われないんだから、んだったら最初からそれが分かってるなら苦労する前に死んだほうがいいんだよ。ってことで普段から俺は死ぬ死ぬって言ってるけど、とっくに覚悟は出来てるんだよね。いや、口だけじゃなくてさ、だってもう例えば昔みたいな状況をまた繰り返すんだったら死んだほうがいいもん。でもこっちでなんとかやっていけるんだったら、まぁ少なからずハッピーだなって思うわけでさ、だからこっちにいたいのね。だから自殺反対!とかさ、生きていれば何かあるさ!とかさ、そういう無責任なことを死のうと思ってる人達に言わないでほしいんだよね。生きていても何も無いから彼らは死のうと思ったわけで、それを助けようと思ったんだったら、例えばその人が抱えている借金を全額返済してあげるとか仕事を回してあげるとか住居を提供してあげるとか、そのぐらいやらないとダメ。「自殺はダメだよ」なんて言うなんてみのもんた的な偽善だよ。そういうことを言うんだったら何かしらの合理的な生きていたほうが死ぬよりかはいいという理由をその死のうとしている人に説明して納得させなきゃダメだね。


ホント、無責任よ。プチブルみたいなやつが偽善者ぶって自殺はいけません!なんて言うのは自殺者の心理が分かっていないからそういうことが言えるわけでさ、自殺ってまるで逸脱行為のように社会では捉えられているけど、状況によっては極めてリーズナブルなコミットメントなんだよね。彼らの頭の中では完全に色々な可能性というのが閉ざされていて、だから死ぬしかないっていう結論に至ったりしているわけで、んだったらそういう人達を本当に説得しないといけないよね。自殺はいけないなんていう偽善臭い一般論じゃなくて。衝動的な自殺とかそういうのは別としてね、完全にダメになった人達の自殺ね。もしかしたら人によっては全然まだまだ色々やれるチャンスがあるのに一時的な凄まじい鬱状態のおかげで自殺願望が高まっちゃっててそういうことになっているっていうことだったら、それこそセラピーを施して薬物治療なんかもすれば効果はあるかもしれないけど、もうどうしようもない人達ってのも本当にいるからね。で、考えなきゃいけないのはなんでそんな人達が増えちゃうのか?ってことね。全てが社会が悪いなんていうつもりはないけど、社会的な背景が関係している自殺って多いでしょ。絶対。そういったものを作り出す病理ってのが社会にあったらまずそれを変えていかないと自殺者なんて増えるばかりだよね。なんでみんな自殺者を責めたりするんだろう?ところである人がニューヨークの去年ぐらいに自殺した日本人ジャズベーシストのことを「無責任だ」とかって批判してたのを思い出すと本当にこいつに殺意を覚えるね。ああいう無神経な連中が多いから世の中ダメなんだよ。一向に溝が埋まらない。なんでその人の身になって物事を考えることができないんだろう?サイコロジカルな認識のプロセスとして子供から青年期になり始めぐらいの時に抽象的なことを考えたり、人の立場になってものを考えるということが出来るようになるというけど、幼児的な精神のまま大人になってるやつらって相当多いよね。で、そういうやつらが他人に迷惑かけてばっかりいるんだけど、ただ他人のことを考えない神経のルードな図太さを持ってるんで会社みたいなところだと結構幅を利かせてたりするんだよね。特にコンビニとかの底辺系のバイトにこういうやつ多いよね。俺はこういうやつらとその必要性のためだけに付き合っていく必要があったらそれこそ死んだほうがいいと思うし、それこそ普通に死っていう可能性も選択に入れていたほうがリアリスティックだと思うんだよね。まるで関係ないものというか、無いものとして死を扱うけど、死なんてそこら中に溢れてるわけよ。で、またお門違いな言い方で、戦争が起こっている地域の子供たちなんて生きるために必死なのにお前は何を甘えたことを言ってるんだ!とかって言うけどさ、それって本当におかしい理論だよね。部落の人達と自分の生活を比べて俺の生活はマシだって思う卑しい比較となんら変わりもないのに、頭の悪い教育者面した連中は平気でそういうことを言うよね。まったく問題の次元が違うっていうのにさ。生きたくても病気で死んでしまう人達もいるけど、逆に生きれるんだけど死にたい人達だっていっぱいいるってのをもっと人々は認知するべきだね。死にたい理由を聞けばかなりリーズナブルなものがあったりすると思うよ。他人の死まで人が口を挟むことじゃないからね。口を挟むんだったら解決策なり救済をしてあげないとそりゃ無責任だよ。飢えてる人に「可哀相・・・でも負けちゃダメですよ!頑張ってください!」って無責任な励ましをする偽善者と同じだからね。同情するなら飯をくれですよ。飢えてる人達にしたらね。ニューヨークって物乞いっつーか地下鉄でも「私は失業者でお金もそこを尽きてしまい、今はホームレスになっています。今日何かを食べるだけのお金もありません。どうか僕を助けてください」とかいって電車を回ってる人達がいるけど、俺は一回も寄付できないんだよね。本当は寄付したいんだけど、例えば50セントとか渡して寄付したつもりになっている俺っていうのが寄付した後に絶対あると思うし、そういうちょっとでも偽善的な部分があると本当に嫌なんだよね。心から寄付しない限り寄付なんて出来ない。俺が逆の立場だったら50セントをもらっても正直、あんまり嬉しくないと思うんだよね。あげないよりかはいいとかって思うかもしれないけど、50セントだの1ドルだのなんて寄付は偽善的だよ。だって渡してるほうだってそれでパンが買えるとは思っていないでしょう?だったら5ドルとかあげないとダメ。もしくは顔見知りのホームレスに定期的に何かをあげるとか、そのぐらいしないとそれは寄付にはならないわけよ。電車の中で50セント寄付したってそれは地下鉄のオーディエンスの中で寄付っていうパフォーマンスをしている偽善者にしか過ぎないわけよ。あと一回寄付しちゃったら一生寄付しないといけないからね。その時の気分で寄付するなんてのも偽善そのもの。一回寄付したら今後、そういう人を見かけるたびに寄付しないとダメ。で、俺がそれを出来るかというと自信が無い。だから出来ない。そのぐらい寄付ってのは寄付する側にも責任があると思うんだよね。俺はそういう少しでも自分の心にある偽善的な心というのが本当に許せないから、今は寄付をする自信が全然無いんだよね。心から寄付をしたいという気持ちと自分の経済状況とこれを一生続けるっていう決断ってなかなか簡単に出来るものじゃないよね?これって別に今の俺が寄付をしないエクスキューズでもなんでもなくて、実際、そうなのよ。大変なのよ。寄付するってことは。それこそ街を出るにしてもポケットには常に寄付用のお金を入れておくとかさ、そんなのやれる自信ないもん。いらない小銭を渡すとかってのも絶対出来ないしさ。あっちとしてはそれでもありがたいというか渡さないよりかはいいと思うのかもしれないけど、それはなんとなくダメよね。その時の気分で渡すのってどうかと思うわけ。


まぁ例によって話が四方八方だが、いちいち一個一個のことに理由付けをしてやるよりかはまずやらなきゃいけないことは何も考えずにやるってことが大事なのかもしれないけど、それが出来たら俺は普通でいられるわけで、こんな葛藤してないわけよ。「考えすぎるからいけないんだよ」とかさ、よく言われたような気がしたけど無理よ。だって考えすぎる人なんだもん。俺って。だから考えすぎるなら考えすぎるなりの答えというか理由を探していかないといけないわけね。まぁ色々なことをやるということに対してね。

ところでナウロマンティックなAVがあるんだけど、ずーーーーーーっと貼るの忘れてたんで貼ります。まぁAVだから気をつけてね。直リンクはしないけどさ。ごっつのコント?って思うぐらい似ているというか同じ顔。

ttp://www.yourfilehost.com/media.php?cat=video&file=imada_av.flv

あと最近見つけたやつ。頑張って最後まで見るとシベ超です。

ttp://www.yourfilehost.com/media.php?cat=video&file=0054c.wmv

Articulations

Articulations

↑まぁまぁ。