死骸のコラージュ。

mimisemi2008-03-09

サウンドスケープについてもさ、イマイチ自分なりの答えが出ないっていうか、そもそも録音された音ってのはすでに採取された音ってことでサウンドスケープではなくて「サウンドスケープだったものの記録」になるんだよね。ようはなんつーかさ、サウンドスケープサウンドスケープ足りうる条件ってのは例えば偶然性だの終点の無さだとかってことだと思うんだけど、どういうことかっていうと、例えばそこでさ、誰も一分後に子供が声を発するなんてことは予言できないわけよね。まぁいいや、駅とかで。それもマイクとテープがあればさ、録音できるわけ。リアルタイムに音を紡ぎ出しているサウンドスケープを録音できているわけだけど、ここでまぁアンビバレントなことが起こるってーのはすでに録音された音ってのは採取された昆虫みたいなもんで、そこに自然性は無くなるのね。虫取り籠に入ってるって時点ですでに人口的な要素が介入しちゃってる。まぁもっとも重要なことってのはそんなことではなくて、録音されたサウンドスケープってのは当然、さっき書いたような偶然性や終わりの無さっていう要素が無くなるよね。10分録音したんだとすれば、その10分の音の記録ってことで、10分で終わっちゃうわけ。そこにある音というのもすでに偶然性が無いというのは録音されたものであるから、例えば4分20秒あたりで子供が泣き出すとかってのがすでに時間的な存在としてそこにあるわけで、それは偶然でもなんでもなく「偶然だったもの」なわけよね。ってことでさ、人間が誇らしげにサウンドスケープを録音したって言ったところですでにそれはサウンドスケープではなくサウンドスケープの死骸なんだよね。で、そのサウンドスケープを使って音楽を作るなんてのは昆虫を解体してコラージュをしているようなもんで、極めてマッドな行為だよね。でも人間って何かさ、自然とかコントロールできないものをすべて人為的にコントロールしたいとかっていう欲求があったりするでしょ?でもね、俺が自然の音だとかって思ったところで、俺のラップトップに存在する自然音なんてのは自然音の形をしたデジタル音なわけで、そこに特別な自然性は無いわけよね。ようは自然性を発見できるということが極めて認識的で、前にも書いたような、俺がこの音を録音したというその時の記憶によってのみそのサウンドスケープのアクチュアリティが俺の中で想起されるだけで、それってのは観念的なもんでその音そのものの自然性なんてのは当然無いわけよね。ベンヤミンアウラって概念があるでしょ?オリジナルの作品にしか宿らない何か特別なものっていうさ、まぁ芸術の一回性みたいなもんね。それみたいなのがすべての音っつーかサウンドスケープにあるんだけど、録音されたサウンドスケープというのはすでに死骸だから当然劣化が起こるし、アウラは当然録音機には継承されないわけ。だからなんつーか凄くさ、あれが完成しないのよ。例のサウンドスケープのやつ。作り手って当然作ってる段階でそれを何回も聞くから飽きてくるでしょ?っつーか、その何回も聞く行為によってさ、そのサウンドスケープの音ネタ感ってのが凄まじく露わになるわけ。もちろん俺は自然をコントロールしたいんじゃなくて、音に対する認識とか感覚とか記憶ってのをグチャグチャに異化したいだけなんだけど、なんかでもどうもね、その音自体が常にそこで流れてないとなぁーって思うわけよ。ようは例えばどっかの駅の音が欲しいと思ったら、常にその駅のリアルタイムなサウンドスケープがそこで鳴っているっていうね、だから毎回聞くごとに音が違うっていうさ、そういうどっかで鳴ってる音のリアルタイムな組み合わせってのをやりたいんだけど、それってビル・フォンタナ的な音響彫刻でさ、少なくとも録音作品では出来ないよね。だからそれを再現することしか俺には出来ないんだけど、まぁそれでもいいか、とりあえず。でもこうやって改めてフォンタナの名前を出してみるとほぼ同じようなコンセプトでやってたりするのよね。俺。これってパクりじゃん?とかって思ったよね。今。大体凡人がやることなんてのは過去の繰り返しとか既存のものの組み合わせのバリエーションに過ぎなかったりして、本質的な新しさとかオリジナリティなんてものは存在しないんだよね。悲しいことに。まぁそこで新しさとかオリジナリティだけにフォーカスしてるやつらっているけど、どうも見ていて痛いのはアレなのよ、そういうのを追求しすぎてただ奇抜になっているだけっていうね、そこに芸術的な輝きとか美しさってのが無いわけよ。だからまぁいいかなと思って。別に完全に新しい必要なんて無いかなとかさ、そういうのばっか考えてると何も作れなくなるからね。


でもどっかのレーベルが「それ、出したいから完成させてくれ!」とか言ってきたらさ、凄まじいモチベーションで完成させると思うんだけど、世に出すってことを放棄しちゃった今となっては完成させることの意味とかももう無くなっちゃってるんだよね。まぁいつでもいいじゃんっていう。「これで完成です」っていうピリオドをあえて打つ必要が無いっていうかね、だからまぁ気が向いたらまた作り直したりしようかなって感じなんだけど、今って昔ほどの時間があるわけじゃないから、なかなか音作りに気が行かないのよね。ホント、音楽作るのって時間かかるからさ、凄まじく暇じゃないとやらないのよね。だからいつまで経っても完成しないっていう。でもそう思うとさ、ネットにアップしようだとか、どっかに送ってみようとかっていう、世に出すっていう行為も音作りの動機付けのひとつになっているんだなって改めて思うよね。俺はそれがなくなっちゃったから、別にいいやってなっちゃうわけだけど、それもどうかなぁー?って感じだよね。でもさ、世に出すっつっても今なんてMP3アップすればさ、それを世に出すとは言わないかもしれないけど、どの道、俺みたいなドマイナーな音なんてリリースされても枚数限定のCDRとかなんだからさ、それって自分のサイトとかマイスペースにMP3アップするのとどう違うの?ってことだよね。でもなんか俺としては媒体にして出したいっていう変な欲求があるんでMP3でアップしたくないっていう。だからやっぱあれなのよ、基本的に金稼がないとダメね。自主制作しかないわけだから。そうなるといつのことになるのやらホント、分からないよね。一生完成しなかったりしてね。一生金稼げなくて。生活費だけで精一杯っつってさ、一生無理みたいなね。ありえなくも無いな。まぁいいや、そんな感じで。

Wild Soundscapes: Discovering the Voice of the Natural World

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