普段モードに戻ります。

mimisemi2008-03-16

いやーアマゾンは本当に凄かった。まるで嵐のよう。でもやっぱ普段のほうが落ち着くね。ウォール伝はやっぱりウォール伝のままでよし。ってことでいつもの分かりづらいウォール伝に戻ります(実際はアマゾン事件の前に書いていたやつです)


あと以前にも増して段落に関してセンシティヴな配慮を払って生きたいと思う所存であります。


どうでもいいけど最近幸せなんだよねっていうか、こないだ金無いのにまた紀伊国屋で本を買ってきてさ、んでこれがまぁダイレクトに幸福感に結びついてるんだなって分かったっていうか、読む本があるっていうのってウキウキするでしょ?帰ったら録画してた映画があるとかやりたいゲームがあるとかさ、こういうのと同じよ。ただ読書ってゲームとか他の娯楽全般と違って、なんか偉いものみたいなイメージがあるじゃない?ゲームを一日中やってるっつーのは誰からも尊敬されないけど、本を読んでるってなると「へぇー勉強家なんだねぇー」とかさ、そういうのってあるじゃない?だから自分的にもゲームを一日やってたっていうのと、まぁ滅多に無いけど一日本を読んでたっていうのとではさ、感じ方が違んだよね。本の場合、今日は本当によく集中できたなぁーなんて自分で関心したりしてさ、こういうなんというか社会との接点みたいなので自分の行動を測るってあるじゃない?ゲームやってたら本当にダメだなって自己嫌悪に陥っちゃったりするけど、それってのは一般的にゲームばっかりやってるってのがウェルカムじゃ無いからでしょ?だから社会の規範だのなんだのっていう価値観と照らし合わせて自分の行動なり価値みたいなのを測ってるわけ。だから俺の場合、本を読んでいたということが社会へのエクスキューズになるのね。学生なんてのが最たるもんでっつーかアメリカの場合、社会人とかも多いし、特に俺の言ってるようなコミカレだと大半が働いてたりバイトしてるやつらばっかで大変そうなんだけど、まぁなんというか日本のダメな有閑的な学生ってので考えると彼らは有閑階級なんだよね。


仮にバイトしてようがさ、基本的に社会に出るまでの準備期間みたいなモラトリアム的なものとして学生であるということが判断されるので、いくら怠惰であろうが学業に専念していなかろうが学生ってだけでとりあえずオッケーなのよね。そんな風にしてるから社会に出たときにその落差が凄まじくて一気に人生に対して失望するって若い連中が多いのはまぁ
当然としても、俺としてはこのモラトリアム期間のまま人生を突っ走りたいみたいなのがあるんだよね。ようは自分の好きな学科、っつーかこの学科ってのがポイントなんだけど好きな音楽を作っているんじゃ「それがお仕事なんですか?」っていうようなことを必ず聞かれるでしょ?で、自分ではアーティストのつもりなんだけど、食えてないんでスーパーのレジのバイトで生計を立てていますとかっていうリアリティがあるわけじゃない?ただこれが学科となるとさ、好きなことなんだけど、少なくともそれがアカデミックなものであればあるほど社会的なサンクションが働くんだよね。だからそれを趣味だとかって思われないっつーか逆に尊敬されたりさ、尊敬されなくても少なくとも何がなんだか分からない音楽を作っているよりかはマシに思われるでしょ?そこなんだよね。俺のポイントは。


「好きなことをやりつつ、嫌なことは一切やらないで生きていく」となるとさ、もう音楽は無理なんだから他のってことで、まだ内緒だけどその「学科」ってのがあるわけよ。それでどう食っていくかってのはともかく、とりあえず音楽よりかは幾分マシなんでとりあえずやってみようっていうね、そんな感じなのね。これって明らかにさっき書いたゲームと読書の違いなのよ。俺としては両者にそこまで違いはないんだけど、社会的には大きな違いがある。読書っていうとそれだけでなんとなくいい感じがして、ゲームっていうとそれだけでダメな感じになる。ってことでゲームをやりながら一生を過ごすってのが無理だから読書にしようってのが今の俺なんだよね。本当にダメでしょ?だから留学しても遊んでるのと変わり無いわけね。留学してキャリアを作るだの語学力をつけるだのってさ、なんとなく「偉い」感じがするでしょ?良い会社に入りたいから頑張るみたいなさ、そういうのって社会的に良く見られるじゃん?でも俺の場合、どうにか逃げ切るための策を大学に求めてるみたいな、そんな感じだから全然尊敬できたもんじゃないんだよね。だから俺がこっちで勉強してるなんてことははっきりいってニートと全然変わらないわけ。こっちにきてずいぶんとポジティブになったりはしたけど、それにしてもまぁ俺のコアの部分はさっぱり変わってないのね。だからなんとか好きなことで食っていくプラス日本には絶対帰らないっていう、完全に逃げなのね。それを俺はまぁ亡命って呼んでるわけだが、こういった不純に見える動機で学校に行っていても、それは社会的に認証されるものなのよ。全く欠席せずに宿題もちゃんとやってきてまぁテストの点は微妙だけどかなり真面目そうな生徒っていうね、これって生徒としてはまぁテスト以外はオッケーでしょ?でも俺の動機としてはそんなたいしたもんじゃないわけ。でも基本的にその逃げだの嫌なことをやりたくないとか好きなことだけやっていくっていうことが凄まじい原動力になってるから、だから例えば英語の本も大変だけど読むし、緊張しても無理やりクラスで発言してみるとかっていう一連の能動的なコミットメントが生まれるわけね。


だからホント、真面目に生きるなんてやめちゃったほうがいいね。真面目に見えるだけで十分。それで言ったら俺は優等生でしょ。成績はあんま良くない優等生っていうか。でも中身は最悪に怠惰で苦労を絶対したくないみたいな卑しいものでいっぱいなわけ。そのバランスってのがすげー保たれてるなって感じるんだよね。最近。だから学校が楽しくてしょうがない。テストとかシステム的なことは相変わらずムカつくけど、ゲーム感覚で学校に行ってるから、むしろ学校が楽しみなぐらいでさ、あと可愛い子がいるでしょ?特に哲学のクラスなんてホント、もう発言するのが当たり前みたいになってるしさ、それこそ哲学のクラスを受ける前にイメージしてたような良く喋る優等生みたいな勝手に作ったセルフイメージを具現化しちゃってるわけね。受ける前はどんだけ難しいんだとかさ、なにやらされるんだ?とかさ、不安だらけだったけど、今ではもうクラスを掌握しちゃってる感じだもんね。いや、コミカレだからだろってツッコミはなしにしてもね、なんかホント、ステップバイステップでどんどん目の前の壁を壊していってる感じなんだよね。頭に思い描いていた最高にポジティブな自分というのが目に見える形で具体的なものになっていってる。そうなるとそれってのがどんどん自信に繋がってきてさ、もしかしたら頭に思い描いている夢なんてのも叶うんじゃないか?なんて思えてくるわけ。特に哲学のクラスを受けた後は本当に一つの夢が完全に今叶ってるなって感じるんだよね。前にも書いたけど、Waking Lifeっていう映画みたいなさ、ああいうプロフェッサーと哲学の話をしているみたいな、まぁ映画だと一方にプロフェッサーが喋るだけだけど、「あーアメリカに生まれて哲学科の生徒みたいな感じで学園生活を送りたかったなぁー・・・」なんていう絶望の淵にいたころに夢物語で思い描いていた夢というのが今、本当にそのままというかそれ以上の形で現実になってるんだよね。だからホント、すげーよなって思うんだけど、そこでヒミズの化け物じゃないけど、「いい気になるなよ。いきなり経済的にダメになって帰らなきゃいけなくなるかもしれないぞ」って囁く誰かがいるんだよね。ゴメンね、結局暗くて。そりゃ当然ウォール伝だからさ、「だからみんなもポジティブなセルフイメージを持って夢を叶えていこうよ!」なんて口が裂けても言えないわけでさ、基本的に人生のリアリズムというのはこういうところにあって、まるで有頂天のような状況にいるときでも常に何かの不可抗力的なものが自分に押し寄せてきて状況の全てを壊してしまうというような、カルネ的なことが起こりうるんだよってことなんだよね。


まぁでも俺の場合問題は金だから、まぁ金さえあればまぁもう夢は叶ったようなもんなんだけどね。でもまぁ人生ってそんな上手くは行かないわけよ。だからコトが色々な方向に転んでも大丈夫になるようなモデルを頭に思い描いていないと、状況変化のストレスだとかリアリズムってのに押しつぶされちゃうわけね。その一つに俺にとっては死というのがあってさ、最悪ということは起こりえないなって思うのは、とりあえずまぁ死んじゃえば全てが終わるからそれでいいかっていう、さっき書いたような逃げがあるんだよね。本当に俺は自分勝手だから自分の精神がまた病んでいくだとか、体が動かなくなるとか、そういうのにもう耐えられないんで楽になるために死を選んじゃうわけね。死への恐怖よりも自分が望まないような状況での生への恐怖のほうが断然に強いから、死ぬってことがさっぱり怖いものだと思わないんだよね。いや、もちろん自殺だけだよ。事故死とか病死は絶対嫌。だから俺はとりあえず今は最高だから車には気をつけてるし、健康にも最高に気を使っているわけで。ただそれは死への恐怖というよりかは、今を維持していくために必要なことだからやっているわけで、逆に言うと生への執着がなくなっちゃったらもう生きる必要がなくなるわけだから、そりゃ死んじゃったほうがいいわけ。死にかけているから止めをさしてやろうってのが情けなら、自殺というのは自分にかける情けの最たるもんだと思うんだよね。まぁもちろんデュルケルムの自殺論みたいなさ、もちろんまだ読んでないけど、自殺って一言で言っても色々なタイプがあるのよ。ただでもまぁ俺が思う自殺ってのの動機のひとつってのはやっぱ自己解放ってのがあると思うんだよね。今の状況が苦しすぎるから抜け出すために死ぬしかないっていう。これって前にも書いたけど物凄く理不尽で異常な行動に見えて極めて本人にとっては合理的な判断なんだよ。だから前にも書いたように、「死んじゃダメだ!」とかっていうなら、その人を救ってあげたりその人の人生を保証するようなことをしなきゃいけないわけで、それが出来ない限りそれはおせっかいなのよ。本当にそれは無責任な言葉よ。本人の状況を全く理解せず、あたかも生というのが尊いもののように諭したりする。で、最悪なことに世の中には生きたくても生きれない人がいっぱいいるとか平気でぬかすやつがいる。でもそれってのは大きな間違いで、生きたくても生きれない人ってのは残念だけど、生きる動機があるのに生きれない人達なんだよね。本当に勿体無いと思う。


ただ生きる動機はないんだけど生きれる人なんてのはさ、もうそもそも前者と同じ死という観点から考えてみても全く別物なわけ。だから混同するのがそもそもおかしいわけ。真剣に死のうと思ってる人はそれなりの理由があって死のうと思ってるわけで、それは他の誰とも比べられない究極的に主観的なコミットなの。コミット・スーサイドっつーけど英語ってのは本当に凄いね。まさしく自殺とは生に対するコミットメントなんです。だからあんま死ってのを無いもののように扱うのは本当にダメよ。死ということを真剣に考えないとまぁ当然馬鹿になるっつーか、まぁ無知なアホになっちゃうわけじゃんね?その一方でまた別の理由で死というのを考えないとまるで人生というのが無限の地獄のように感じられたりしちゃうでしょ?だからいざって時は死って選択肢があるんだから、まぁそこまで惨めに生に執着しなくてもいいじゃんっていう、そういう逃げ道としての死ってのを考えておかないとキツイと思うんだよね。ただでもそんな死なんて考えたくないって思う人はとりあえず幸せだからいいね。死が怖いって感じられるってことは、生きたいっていう意志があるわけだから、それで十分だね。


まぁでもとりあえずまぁさ、今がダメじゃない限りはナイスな今に乗り続けていくのが一番良いよね。ダメじゃないときにダメになったときのことを考えすぎるのは本当に良くないからね。ってことでなんだかんだでやっぱ死から一番距離を置くための方法ってのはポジティブの波に乗り続けることなんだよね。これってのが俺のペシミスティックなオプティミズムなのね。ってことで脳をいじくるのが一番だってことになるよね。いかに自分を騙すかよ。抗鬱剤でも体を壊さない程度のドラッグでも、人生の虚無に打ち勝つぐらいの人生の強度ってのが必要になってくるからね。だからポジティブになるというのも分かってるんだけど夢を見てみるとかっていう、冷めた感じの夢というか楽観主義というかなんというか、ただの楽観主義はただの馬鹿でしょ?だけど前のポジティブとネガティブの話でも書いたように、色々考えた末にポジティブになれる人ってのは凄いし凄まじい試行錯誤が頭の中で繰り広げられてるはずなのよ。そういった内面的な鍛錬で培われた精神的な強度ってのはなかなか揺るがないと思うんだよね。ってことでとりあえずまぁ真面目に生きるなんてやめちゃったほうが本当にいいわけ。ホント、馬鹿馬鹿しいからね。そもそも人生なんてのが馬鹿げた話なんだから、そんな舞台で真面目に何かを演じるなんてことは本当に馬鹿馬鹿しいでしょ?


まぁいいや。なんかさ、それってのはまぁあれなんだよね、大雑把に言うと社会なんてのがさ、真面目にやったところで報われるもんじゃないわけじゃない?そんなのがもう世界的に明白になっちゃったんだよね。今って。だからそんなアホみたいな世界でもあえて生きるっていう選択をするためにはやっぱり楽しくなきゃダメでしょ?ってことなのよね。楽しくなくても真面目にやっていればなんとかやっていけるし世間からも信用されるとか、そういうベースがあればいいよ。でも無いでしょ。あると思ってたプリンシパルが実は無かったって話なんだから、もうシステムは崩壊してるわけ。気がつかない人達こそ不幸なのよ。だからまだ分かってる人達のほうが、分かってない連中よりかはマシなわけよ。だったらその分かってる特権を生かしたほうがいいわけね。まぁそれが俺にとっては勝手に逃げる人生なんだけどね。とりあえずあれだ、真面目に生きるってことが偉いみたいな、そんな馬鹿げた概念捨てちゃったほうがいいね。損するだけだから。でも俺って真面目なのよ。見た目はね。行動も言動も全て。でも中身は最高に不真面目なんです。これってのがさっきの見た目優等生的なことなんだけどね。この辺のニュアンスってアメリカは突き抜けてる感じがするんだよね。ホント。いい意味でも悪い意味でも相当不真面目。日本人から見るとね。それがティピカルな日本人ではない俺にとってはピッタリな環境なわけですよ。内面的ないざこざってのは気分的なもんで色々あるのはしょうがないにしても、外的なものから嫌な影響を受けないってのがいいよね。これだけでとりあえず十分。気分なんて俺がどうにかするしか無いんだから。


なんか最初に書こうと思ってたことがさっぱり書けなかったし、何を書こうとしてたかも忘れちゃった。まぁいいや。フリーダム。あと全然話が違うんだけど、英語でしゃべらナイトの正月特番かなんかにあの呪いの血をひく麻生太郎が出てたんだけど、こいつってのは前に俺が話してた似非英語を話すやつの典型みたいなやつで、日本語を話してて英語のところを下手糞な発音で英語発音にしようとするんだけど、まだその発音が良かったらいいんだけど、こいつ最悪だったな。見てて凄く恥ずかしかったし周りも引いてたよね。っつーかホント、まぁこういうやつだけを見て一般化しちゃいけないんだけど、日本の政治家のレベルの低さって半端無いよね。特に自民党みたいなのは七光りの無知なド三流政治家の掃き溜めみたいな感じなんで、ああいうのが政治やってるとさ、違った意味で政治にコミットしなくなる人が増えるんだよね。元々無知なんでポピュリズムに騙されて自民党を支持しちゃうような低脳はとりあえず置いておいても、あれなのよ、諦めね。もうダメだなぁーっていう。そう思うとアメリカの政治家ってダメなやつも多いけど、ちゃんとしてるのも多いんで、んだからあれよね、国民の政治的意識も高くなるのよね。まぁこれが民度ってことだと思うんだけど。

Lazy Dog

Lazy Dog

↑もはやこれ、面白ビデオですね。でもなんかやっぱノイズがかっこ良くなかった時代が一番良かった時代かもね。ノイズなんて元々かっこいいわけないんだから。