ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

The General Will。

mimisemi2008-03-20

7万アクセスにピッタリすぎたのがあったのよぉー!シティホールっていうまぁ真無八反でも割と有名な駅っていうか、帰りの電車は必ずここなんだけど、シティホールの前で政治家だかなんだかがスピーチしててさ、んですげーの!人が。警察もいたるところにいてさ、何より人々のテンションが半端じゃない。「Keep The Promise」って書いてある帽子をかぶっててさ、今、ググって見たんだけど誰がスピーチしてたのか分からなかったんだけど、今日はね、もう壊れて久しくなったので、新しいウォークマンを買おうと思ってさ、んだからまぁシティーホール駅で降りたわけだけど、まぁ驚きよね。っつーかアメリカって民度高いよって思っちゃう。あれだけ人々が政治に関心を寄せていてあれだけの人が集まってテレビ局もわんさか来ていて・・・で、人々はスピーチに感動しながら「イェェーーイ!!!」とか言ってるしさ、テンションが半端じゃないのよ。シティーホール駅を降りて早々、自分がテープを持ってなかったのを後悔したね。これを7万アクセス記念にすればよかったのになぁーなんて。まぁ予想できなかったから後悔してもしょうがないんだけどね。それにしてもさ、子連れの奥さんとかもこの帽子かぶってさ、子供も帽子かぶってスピーチを聞いてるわけよ。凄いよね。本当に。よくニュース番組で見る政治に熱い人達がプラカードなんかをさげつつなんか言ってるとかさ、まぁプロテストってわけじゃないんだけど、アメリカのニュース映像でよくある光景じゃない?で、日本人はアメリカ人ってよくもまぁここまで政治に熱くなれるよなって関心するんだけど、ホント、今日はその光景を生で見てさ、本当に凄いなって思った。俺もいつかエレクトしなきゃいけないわけだから本当に頑張ろうっと。で、政治家のスピーチも凄い。政治のスピーチというよりかはもうライブか?って思うような感じでさ、ホント、小規模なあゆのライブみたいな感じだったもん。アジテーションというとネガティブだけど、凄い熱いトーンで人々に語りかけててさ、で、聞いてる人々もそれに答えるかのごとく叫ぶわけ。凄い光景よ。日本みたいな生ぬるい国で育った俺としては生まれてはじめて生でカンジタ政治の熱さだったよね。俺までテンション上がってきちゃって、今日は一日、すんげーテンション高かった。別に何についてのスピーチをしてるとか、どういう政治家なのかなんてのは全然分からなかったんだけど、あれだけスピーチに人々が集まって熱くなっているというのを見てなんか凄く心を動かされたんだよね。本当に感動しちゃってさ、体が熱くなってきちゃってもう本当に凄かった。ホント、音源が無いのが本当に悔しいね。これで音源があればその熱気が読者にも伝わるっていうのに、本当に残念・・・。明日もやらないかなぁ?ちょっと早めに行ってチェックしてみようかな。っつーかそのkeep the promiseの人が誰か分かればスケジュールとかチェックできるのにね。


ところでルソーを思い出したんだけど、The General Willっていうのは元々人々が持っているかはともかくとして、ああいう市民の政治へのコミットメントによってその存在が顕在化してくるものでさ、まず参加無しにはThe General Willってのはありえないよね。これの疑問がんじゃあ政治に関心の無い人の意志ってのはどうやって反映されるの?ってことなんだけど、恐らく近代市民社会における市民の役割というの一つってのは政治への参加なんだよね。ってーのは相当能動的に政治にコミットしていかないと、それは市民社会の市民足り得ないわけだ。もちろん政治に参加するためには知識も必要だし、常に政治を監視しているというか、情報を集めていないといけない。で、どの政治家が一番いいか?とかってのを市民同士でディスカッションしたり、この法案についてはどう思うか?とかっていうような具体的なことを見定めてこっちがその選択権を握る一人になるというのが市民社会でしょっていうかまぁ民主主義の基本だよね。で、アメリカってのは民度が高いんで、全ての人ではないんだけど、こういうような政治参加率が凄く高いわけ。いや、この今日来てた人達が具体的に何かをやったわけじゃないよ。投票とかね。ただあれだけ関心を持って来ているということはもう参加と言えるわけよ。ってことはこういう人達が多いってことは、そのイデオロギーはともかくとして、The General Willというのがある程度は政治に反映されているわけだよね。それはThe General Willが反映されているという言い方よりかは、The General Willが参加のプロセスにおいて形成されているといったほうが正しいかもしれない。だってそれは顕在化しない限り実質、その実存は無いわけだから、ああいう具体的なコミットメントがある上でその存在が表れてくるわけよね。人々が政治に無関心で参加をしていなかったら、それは意志とは規定されないでしょ?だからその市民として持っているべき意志というのを顕在化させる形が政治にコミットするということで表れてくるということなわけで、まぁ日本ってのは市民社会から一番遠いところにいるような気がするね。人々も馬鹿なら政治家も馬鹿っていうかまぁ卵と鶏みたいな議論になるけど、人々が馬鹿だから政治家が馬鹿なのか、それとも逆なのかっていうのはとりあえずまぁ保留でいいよね。ただアメリカって歴史が過去の独立から地続きだから濃い政治の記憶とか足跡が市民に継承されているんだよね。だから今日みたいな熱いスピーチがあっても、それはアメリカの歴史的な伝統とも言えるわけだけど、それに比べて日本ってのは建国60年ぐらいの国だし、全部アメリカの猿真似で来ちゃったんで、本質的なもんがさっぱり無いんだよね。政治もグダグダ。だからそういう意味で全然近代化にいたっていないわけだから、そもそも民主主義というのがありえない国なんだよね。まだ成熟してないから。


売国奴と言われようがなんといわれようが今日は本当に自分もアメリカ市民になって政治に参加したいなって真剣に思ったね。ホント、ソ連じゃないけど、アメリカ人にとって政治ってのは雲の上のことではなく、本当に自分の事だから政治に関心を持つのが当たり前っていうか、自分のことだからそれは当然なのよね。俺がアメリカ市民になりたいと思うのはある意味当然の感覚で、全く自分の意志も何も反映されない白けきった日本社会っていう枠組みの中でやっていくのか、自分も身の回りのことである政治に具体的に参加できる枠組みでやっていくのかっていうと明らかに後者のほうが自分にとって良いに決まってるよね。もちろん俺の参加なんて全体から見ればたかが知れてるけど、それでも自分が市民社会の市民としての義務をまっとうできるアーキテクチャ内で生活できるということは例え自己満足的であってもそりゃー自分にとっては良いことだよね。だからホント、あれだよね、自分がどこどこに生まれたからそこでやっていくなんてのを最初から決めなくても、自分で社会を選んじゃえばいいんだよね。楽なことじゃないけど、でも好きでもなんでもないロクでもない社会をまるで当たり前のもののように押し付けられて生活するなんて、それこそハイデガーじゃないけど、もうそんな社会に放り出されてもう最悪でしょ。胎児はこの社会の現実を知ったらみんな生まれてきたいと思わない社会だよね。それに比べてアメリカは腐ってるところも多いけど、でもなんていうかルートがあるなって凄く思ったわけ。根というか地盤というか、根本的なものが歴史的なものとして継承されているからね。俺の政党であるAnarchist Libertarian Socialistを立ち上げるにはベストな場所だね。アメリカ。


ところでこの一連のことに関して物凄くスピノザ的なものを感じたってーのは本当は昨日ウォークマンを買おうと思ってたわけ。なんだけど俺ってアホだから電車乗り間違えてブルックリンの端っこまで行っちゃったわけ。電車がシティーホールを通過した後も降りて別の電車に乗り換えたんだけど、こっちの電車って凄いからさ、「逗子」とか「新宿」とかっていう行き先を表示するやつあるじゃない?あれを変えないまま走ってたりするから、慣れない駅だと上りと下りを間違えちゃったりするんだけど、まぁそれで勘違いしたってのもあるんだけどね。ブルックリン一直線なのにクイーンズって書いてあるんで上りだって勘違いして散々下ってきていたのにも関わらず、さらに下って端っこまで行っちゃったっていう。で、その端っこからシティーホールに着く頃にさ、もう何かの意志が働いているものとしか思えないような時間に着いたってーのはちょうどその買いに行こうと思ってた店の閉店時間ピッタリに着いたんだよね。まるで今日は行くなって言ってるみたいでさ、まぁその時にすでに俺はスピノザであったわけ。なんかトラブルが起こるからアマゾンで買ったほうがいいのかな?とか思いつつも色々と考え込んでいたんだけど、んでもそんなのはともかくまた通販で買ったら郵便局に取りに行くのが面倒だしUPSで来たらもっと最悪だからとか思ってさ、だから今日はちょっと早めに家を出てシティーホールに行ったわけよ。そしたらこのスピーチがあったわけよ!!いやーもう完全にこれは俺に革命を起こせって言ってるようなもんでしょ?


で、帰りもなんか面白いなって思ったのが、哲学の先生と駅のホームの改札の前でいつものように別れ際に話してたっていうか俺の一方的な質問攻めなんだけど、まぁあのマンコ的な道徳観ってあるじゃない?何より真実であるということが道徳みたいな道徳観。でも道徳ってのはその人の主観的な「良い人間であること」という定義に基づいていたり、社会やら両親やらから押し付けられた道徳だったりするわけで、実質、道徳なんてのはいつまでたっても定義は出来ないし、カントによる真実とか自然であることという定義ももはやカントの主観的な定義でしかないなんてことをまぁ聞いたりしてたんだけど、まぁそしたら先生が良い例えをしていて、哲学ってのは基本的に芸術とか絵画と一緒で、絵画ってのももちろん時代や画家によっていろんなバリエーションがあるものなんだけど、究極的に言えば、それはドットの違いでしかないので、絵画である以上絵画からは出られないので、絵画の歴史というのは必然的に絵画というものが洗練されていく歴史とかリファインされる歴史だったっていう観点から哲学もまた同じで、いろんな哲学の違いはそのドットの違いなんであって、大半の有名な哲学者は似たような存在だとか道徳だとか国家だとかっていうのを考えてきたわけで、その全体像というか違いを掴むには全部読むしかないっていうことを言っててさ、本当に関心してた矢先にジャンキーっぽい男が「ちょーーっと・・・あのーあれぇぇぇー電車代恵んでくれねぇーかなぁ??」なんて俺らに聞いてくるわけ。ちょうど道徳の話とかしてるときにこういうことが起きるなんてなんていうか本当にジャンキーには悪いけど笑っちゃうよね。この状況がすでに哲学的な問いだもんね。この男に電車代を恵んでやることが道徳的なのかはたまた違うのか?っていうさ、俺も先生もちょっと間を空けて「いやぁーちょっと無理です」って言ったんだけど、この間に俺も先生も同じようなことを考えてたと思うんだよね。カントを軸に道徳について話しているときに、こんな状況になるんだからさ、「奇遇だなぁーとか思いつつ、どうしよう??」なんて思ってたに違いないよ。でも基本的に俺としては前にも書いたように、寄付をするということをは心頭滅却でもしない限り出来ない究極的な善的(禅的)行為なので、今の俺には到底扱える問題じゃないってことなのね。寄付すれば寄付してやったんだっていう欺瞞的な偽善的な気持ちが俺の中に出てきてさ、一方でそういう偽善的なことを気分でやりたくないので、とりあえず一貫して寄付はしないってのを思うときというのは、その偽善的とか矛盾的でありたくないということへの自分勝手な欲求があるんだよね。だから寄付しても寄付しなくても結局、全部自分勝手なのよ。だからそれこそあれ、元ホームレスの男が昔のホームレス仲間に金をやるぐらいの、なんていうかこれって親が子供に小遣いをあげてるような感覚で、そこに「してやった」っていう感覚はないでしょ?これってのが本当の寄付になるんだけど、俺ってそんな気持ち無いからね。気分であげる俺も嫌だけど、あげない俺もなんだか嫌みたいなジレンマを感じている「俺」中心な俺。そんなものに本当に嫌気が指すんだよね。


まぁいいや、ちょっと腹減った。あと明日のために一時的な記憶をしなきゃいけないっていうかまた馬鹿馬鹿しいテストがあるんで準備しないといけないのよ。これからはちょっとぐらいは準備しようかなっていう風になったので。っつってもまぁ一夜漬けもいいところだけどね。一夜漬けでもないな。1時間漬けぐらいだよね。あ、でもあれよ、哲学の授業でのエッセイのテストではAを取ったよ。本質的な理解を求められるようなテストだったらそりゃー理解してるわけだから良いグレードを取れるのは当たり前っていう良い例だね。

人間不平等起原論・社会契約論 (中公クラシックス)

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