ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

ハルヒネス。

mimisemi2008-04-06

あれ?なんかまたアマゾンの時みたいなアクセス数の増え方をしておるぞ?と思ったら、なんかハルヒのエントリーが好評だったみたいで、いやはやありがたいね。ブログって完全に神経系のように枝分かれしたもののような運動体の性質を持っていて、例えばハルヒのエントリーは自分のその神経系の末端の一部でしかないわけだけど、読者はその末端だけを読むことができるので、何も元の神経の持ち主である俺自体にアクセスする必要が無いんだよね。だからリア二千との出会いや一連のやりとりやボミりについて読まなくても、ハルヒのエントリーだけを読むことができるし、その末端だけを抽出するシステムみたいなのがネットで確立しているわけだよね。「注目のエントリー」みたいなのにアクセスすれば面白そうなのだけを読めるからね。


こういう現象って本当にネット的な性質だと思う。本質的で自分のデマンドが高い情報だけかき集めることが出来るので、無駄な時間を過ごす必要がなくなってるというか、例えば哲学にしても例えばニーチェの超人思想みたいなのもニーチェを読まなくてもある程度大枠なら理解できるようになってるよね。ネットでそれらしい情報を検索して読めば、分かりづらい原書を読まなくてもよくなっちゃう。そこがまぁ哲学の諸問題でもあるんだけどね。本質を理解するまでにややこしい文体とか無駄な誇張なんかも行間読みしなきゃいけなかったりして、パンピーが専門家並の読解力で挑まないと理解できないような本が特に哲学の類では多い。小室直樹が書いてたような「骨組みだけを理解すれば真実が見えてくる」じゃないけど、ある専門家や学識のある人達が読み解いた精製された哲学思想を読んでいれば、それをパンピーは理解できるわけだよね。いや、それは独自に解釈されたニーチェ論を読むということではなく、無駄なたとえ話とか比喩みたいなのを省いて骨組みだけをスッキリと説明した解説書なんかを読んじゃえば、無駄が多い原著を読む必要がなくなるということなわけで、特に近年はブログといっても抜き差しなら無いものが本当に増えてきた。世に溢れる悪書の類と比べれば、よっぽど質の高いものがあったりして、これってのはインディペンデントなシンキングが日本の保守的な出版界を凌駕しつつあるということだよね。ちなみに小室直樹は安直な読み方を推奨していたわけではなくて、本質を見抜く読解力が必要ということを言っていたわけで、そういう意味での無駄なところは省いちゃって骨組みだけを理解するということね。だからもちろんそれは読者がそういった読解力を身につけて原書に挑むのが一番いいんだが、俺が書きたかったのは、もはやそんな読解力なんてのも化石と化していて、しっかりと読み解かれた解説書なり要約された情報がネットにあったりするんで、ネットの枝分かれしているほぼ無限ともいえる情報は原書を遠ざけるってことなんだよね。それは極端な言い方をしてしまえば、とりあえず友達と会話するぐらいのレベルのことだったらネットで事足りてしまうので、あえて難しい本なんかを読む必要がなくなっちゃっているということね。原書を読まないということが浅はかな理解だと言うつもりはない。ただ便利に精製されたものだけで満足してしまうというのは危険なんじゃない?ってことなのよね。だからやっぱ便利な情報があっても、自分に読解力なりメディアリテラシーなりの精製する能力があったほうが、それに超したことは無いよってことなんだよね。


で、俺はハルヒのエントリーでちょっと良い感じの文章を書いたかもしれないけど、それは自分の認識のフィルターを通して精製されたハルヒのエッセンスなのであって、普遍足りえないし、自分の知識不足もあってか、本当にただの個人的な解釈でしかない。俺が小室直樹並のウェーバー解説や丸山真男解説をハルヒで出来ていればそれは結構なことだけど、まずそんなクオリティではないし、自分としてはこのエントリーがハルヒをもう一回じっくりと見てみようかな?ぐらいのモチベーションになれば十分だと思っているというか、まぁそれもこうやって多くのブックマークをいただいた結果思った恣意的なことではあるんだけど、ウォール伝も含めて、ネットというのはそういった個人が精製した何かの解釈の垂れ流しでしか無いわけで、最終的に咀嚼して理解するのは読み手次第だし、ましてやどこの誰かが書いたようなものが普遍足りえるわけないんだよね。俺が書いたハルヒのエントリーに関しては「こんなことを言ってるやつもいた」っていうただの「情報の断片」でしか無いし、なんというかまぁ「解釈」とか「良い説明」と言われてしまうと畏れ多いんですよ。いや、凄くそれはありがたいことなんだけど、自分の不甲斐なさは自分が一番承知しているから、まぁあえて言う必要は無いんだけど、別にこれは小室クオリティではありませんよってことなのよね。小室クオリティだったらそれは自分も「良い説明」として発信できると思うけど、少なくともウォール伝は常にワークインプログレスの中途半端な思念の塊だから、あんま真面目になりすぎないでほしいのよね。ウォール伝ってたまに真面目そうなエントリーってあるじゃない?でもあんなのもイカ臭い青二才が書いたことでしかないんで、イカ臭い青年の主張として受け止めてほしいのよね。


なんで俺が今回こんなことを書いているのかというと、ネットの情報というのがさっき書いたような神経系のような性質を持っているので、一つの末端の情報を切り取っただけでは、それはアクチュアルなエクリチュール足りえないということなんだけど、ウォール伝の昔からの読者なら、「相変わらずやってんなぁー」程度の感想でしか無いかもしれないけど、耳蝉というコンプレックスの塊のような男について知らない人が、ただ乱暴に切り取られたエントリーを読んで「良い説明だな」って思ってしまうことが、ちょっと危険かな?と思ったわけ。


だから自分としては仮にちゃんとしたことを書く機会があったら、ちゃんとした知識を持ってして書かないとそれはエクリチュール足りえないなと思っているわけ。それは将来的に書くかもしれない論文だったりするかもしれないんだけど、少なくとも今の自分のような知識量では、何かを書くということが出来ないわけ。かといっても自己満足的にこうやって色々書くことが好きだから書いてはいるんだけど、それは自己満足的な出力でしかないわけで、アクチュアルな情報足り得ないわけ。繰り返しになるけど、俺が今回こういうことを書いているのは、メディアリテラシーとか読解力とか精製力みたいなのが重要なんだよなんて偉そうに啓蒙的に言う意図なんではなくて、前のアマゾンとか今回のハルヒみたいな、ウォール伝にしては爆発的なヒット数を稼いでいるものが出てくると、そのネットのアーキテクチャの性質そのものが、読者が文章を読むという行動そのものに無意識的に入り込んじゃっていて、そこに意識が介在する余地が無いんだよなっていうのを凄く感じたわけ。だからウォール伝自体はくだらない書きものなんだけど、断片的に良いものがあると、ウォール伝とは関係無しに、ネットの便利なシステムによって、それだけが抽出されて広がるわけね。で、それが良いことなのか悪いことなのかは本当に分からない。ただ近頃のウォール伝みたいな、まぐれなアクセス数があると、パブリックな意識というのを考えざるを得なくなって、下手なことを書けないな・・・という気持ちが出てくるんだよね。これって凄いアンビバレントなんだけど。自己満足的な考え方と、それをただ自分の満足感のために外に出すということの弊害がぶつかり合って矛盾しちゃってる。別に自分の文章がそこまで影響力のあるものだとは思わないんだけど、今回みたいな末端への簡単なアクセスが可能なんだなっていうことが顕著に現れると、俺が書いてしまった以上、それはもうコントロールのしようがなくなるし、それだけがウォール伝とは独立した、割といろんな人に見られるエントリーになる可能性が高いということなんだよね。


だから俺が普段書いていることは全て蛇足で、たまにアクセス数を稼げるようなエントリーが、エッセンシャルな情報だったりするんだよね。だから自分としてはそれだけを独立した、何か特別のなものとして書いているつもりはないんだけど、それが書かれたものである以上、その情報が勝手に独立しちゃうっていうことなのね。そういうのがシステマティックに色々なブログで起こっているんだよな・・・と思うと、それに対する利点とリスクに関して意識的にならざるを得ないよね。今回はそれを本当に感じたわけ。時間が無い現代人が必要な情報だけ抽出できるというシステムはいいんだけど、そういった行動による、トラディショナルな意味での読書離れが起こっちゃうんじゃない?ってことなんだよね。最初から精製された便利な情報だけをただの記憶としてインプットするのか、もしくは精製されていないラフなものを自分の思考力や読解力を駆使して精製して吸収していくのか、どっちがベストなのかとは言いがたいんだけど、俺みたいに時間がある人間にとっては後者のほうが重要なんだよね。それは現代っていうビジーでファジーな環境と、それに対応するかのようなネットというシステムが相互的に機能し合ってお互いの欠落を補完しているかのように見えるんだけど、そのプロセスにおいて劣化していたりこぼしているものが見えないところで実はかなりあったりするんじゃないかな?って思うのね。ビデオのダビングみたいなもんだね。実質は映像や音声といった情報は完全に二次的な記憶物にコピーされているんだけど、実は劣化している要素がいっぱいあって、それは外見的には明らかじゃないんだけど、熟考してみると、実は色々と重要なものがダビングのプロセスの中で零れ落ちちゃってるっていうね。今日、黒沢の羅生門を見たんだけど、あれなんて絶対ダビングで見るもんじゃ無い。多襄丸の顔に映る人工的に作られた木々の影もダビングではクリアじゃないかもしれない。まぁそれは極めて視覚的なことだけど、でもまぁ羅生門に限っては劣化した映像で見ようが真相は藪の中だから同じ事かもしれないんだけど、俺は映画鑑賞ってのは内容を理解するものではなく、その鑑賞のプロセスを楽しむもんだと思っているわけ。それは映像であったり役者の演技であったり音楽であったり演出であったりするわけだけど、そういった重要な要素が映像の劣化で零れ落ちてしまうことは十分ありえるし、だとしたら俺は大枚叩いてでもDVDで見たいと思うわけ。絶対コピーとか共有で出回っているようなもので映画を見ようとは思わない。それは自分がネットに出回っている精製された情報のように見えた、何かが劣化している情報に対して懐疑的だから、実物を通してじゃないとそれを理解したくないっていう頑固な態度と同じことなわけ。まぁもちろんこれは時間がある人間の特権なわけだけどね。


こういったシステマティックなことって、前に書いた環境から来る変化というものに人間がなかなか意識的になれないまま、それが当たり前なものとして定着しちゃうということのリスクだと思うんだよね。便利さというのは必ずしもクオリティを保証しないわけ。


ってことでハルヒ鑑賞にしても、個々がちゃんとオリジナルで強度を持った鑑賞体験を経験するべきで、俺の解釈なんてものは他者の解釈から出た二次的なものでしかないわけ。真実性というのは絶対個人的なものに依存しているはずだから、たぶんハルヒに関してもそのエッセンスの元となるものは個々の鑑賞者の精神に宿っているわけで、それを抽出するのは鑑賞者以外ありえないわけだよね。特に映画みたいなものは、個々の個人的な経験や考え方や知覚や気分といった総合的なものから印象というものが作られるわけで、問題は内容じゃないんだよね。その鑑賞の中で経験する強度が一番大事。そういう意味で自分にとってハルヒってのは本当に凄まじい強度を与えてくれた作品だったわけ。


なんか相変わらず長くなっちゃったけど、別に偉そうに啓蒙するつもりはないのよ。どうも俺の書き方って「べき論」みたいに見えちゃうことが多いんだよね。まるで読者を見下しているというか、「お前はそう考えているかもしれないんだけど、実は違うんだよ」というようなことを上から言っているように見えちゃったりする。いや、でもそうじゃないんだよね。いやあれね、ただね、ネット情報の神経細胞化って凄いなって感じちゃうわけね。もはやそのブログの知名度なんて関係なく、エクリチュールがネットに種付けされるわけだから、今までの情報伝達の法則からは考えられないような情報の流通が起こり続けているし、今回のメインポイントというのはその便利性による何かしらの劣化が情報に起こっていないか?っていうことね。それは俺でもまだ分からないんだけどさ。抽象的に考えている段階だから。だからまぁあれだ、ハルヒネスはオリジナルからしか得られないってことね。だからみんな素晴らしいと思ったらアーカイブとして自分の棚に記憶物を持っておこう。まぁDVDとかね。


ってことでまぁ今日はそんな感じで。まぁ嬉しいけどねぇー、こんだけアクセスがあるとさ。自分の自己満足的な部分が凄く満たされている感じがするよね。


オススメはまた無しで。繋がらないので。