ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

恋愛のメカニズム。

mimisemi2008-04-07

前に書いたピアノ線のやつってオーディションって映画だったんだけど、こんな良い映画を観てなかった自分に後悔だね。しかもこれ1999年の作品なんだよね。なんでこれを知らなかったの?


何が良いってどちらかというとストーリーではなく俳優に尽きる!石橋凌國村隼の芝居が全てを支えてるといっても過言ではない。これは凄すぎる。渋いおっさん達の最高な演技。もちろん派手な演技じゃなくて地味なんだけど、いや、見れば分かる。あともちろんコニタン似の椎名英姫ね。こんなに俳優で支えられている映画を見たのは久しぶりだ。もちろんストーリーもいいし撮り方もいいんだけど、何より俳優だな。これは。極端な話、ハリウッド映画みたいに枠組みが派手だったりすると俳優なんて誰だっていいような感じがするじゃない?でもこれの場合、もうこの3人がいないとダメなのよ。この3人じゃないとダメ。凄い。この映画。名作。日本恐怖映画のピークかもね。で、これはホラー映画じゃないね。倒錯したラブストーリーだね。俺もあんな風な殺され方をしてみたいなぁ・・・とか思った。


ところでイケメン・可愛い子理論というのがある。もちろん俺なりの。あまりにも可愛すぎる子というのが大体わがままなのは昔からチヤホヤされて育ってきたのと、自分から男を求めてなくても勝手に寄ってくるみたいなのがあって、苦労知らずなわけだ。思うに例のリア100万もそんな人間の一人だろう。だから俺みたいな冴えない男が手を出すのなんてあまりにもリスキーすぎるわけだ。ちょっとまぁ真面目に説明すると、見た目でチヤホヤされて育ってきた人間というのは、まず俺みたいな普通の人間が抱くであろう外見へのコンプレックスなどは微塵も感じないまま育ってきたわけで「あたしは当然可愛いのよ」というのがもう幼少の頃から頭にプリントされているので、自信過剰になりがちになる傾向があると思うんだよね。リア二千はその自信と見た目がつりあっているけど、見た目の完璧さが失うものは意外と多いと思う。奥ゆかしさや謙虚さみたいな内面的なものね。アイドルに性格が悪いのが多いのはまさしくこんなところで、ああいうのはチヤホヤされる商売だから、寄ってくる男どもなんてゴミにしか見えていないだろう。ようはチヤホヤされることで、性格が悪くなってしまう可能性があるってことなんだよね。それはイケメンしかり。


あと天才の類も似ているかもしれない。自分の能力が他と比べると明らかに突出しているので、回りの人間がゴミにみえる。もしくは建前上、そうじゃないという風にしていても心のどこかで絶対そう思っていて、自分は他とは違うと思っているところがある。まぁ下手すれば普通か普通以下のやつでも自惚れててそんな風に思ってるやつとかいるけどね。まず忘れなさい。お前なんて普通もいいところなんだからさ。まぁティピカルな言い方になるけど、金持ちとかもそうでしょ?なんとなく。それって彼らの金持ちっていうステータスが人格に影響してきちゃっているんだよね。財を成した人間たちはいい。たちが悪いのはその子供たちね。金持ちの子供って嫌なやつのイメージ無い?実際俺の昔の同級生とかでもそういうやついたからね。あとめちゃめちゃ成績が良いやつとかも絶対心の中で「俺はお前らとは違うんだ」って思っていたりするわけで、だからっつーとまたティピカルな言い方になるけど、エリートっていうとなんとなく嫌なやつのイメージがあるじゃない?


俺が言いたいのはステレオタイプというよりかは、何か人より抜きん出たものを持った人というのは、特に幼少期から青年期にかけての人格形成の段階に過剰な自信やそういったことによる他人を見下すような態度というのが刻み込まれてしまう可能性が高いということね。よく天才子役の類がダメになるのは、一つとしてこの原因が考えられると思う。で、天才ってのが天から授かった才能という意味の、まぁ英語で言うギフテッドなのだとしたら、リア二千の見た目は明らかにギフテッドだろう。見た目が才能ってのも変な話だけど、あそこまでのクオリティだとギフテッドとしかいいようがない。ただ問題はそれが本人の努力なりなんなりで得られたものではないから、それに慢心するあまり、他が欠けてしまうということが十分ありえるということで、だから俺は昔から可愛すぎる子というのは凄くリスキーな存在だと思ってきていたわけだが、こうやって身近にいると、そんなことはどうでもよくなってしまうのは自分がアホだからだね。つくづく自分の本性というのに愛想がつきてくる。ここまで弱くて惨めな人間だったか?俺は?ってね。オーディションの拷問のシーンで「痛みに苦しんでいるときが一番自分のことが分かる」みたいなことを言うのがあるじゃない?まさしくそれね。普段は前頭葉で制御していることも、制御しきれなくなるとそれってのが人間の本性なわけだ。デカルトが人間は反応する機械だみたいに定義してたんだけど、ある意味であってるね。そういえばデカルトってただのキチガイで、その反応を見るためにウサギとかを生きたまま手足をちぎったりして反応を観察していたらしいんだよね。まぁそれはともかく、「反応」というのは天才だろうがIQが200超えていようが人間である以上「反応」してしまうよね。そこで俺はリア二千に物凄い動物的な反応を感じているわけだよ。もう完全にオスがメスに求愛している感じだもん。俺って普段からセックスとか馬鹿にしまくっている割に自分もまたふつーに動物なんだなというのを凄く感じるよね。理性の前に反応が来ている感じ。だから頭の中では可愛い子というのはリスキーだって分かっていてもその前に反応している自分がいる。だからやはりこれが自分なんだなと。


これについて思ったのは本当に頭のいい人間とそうじゃない人間の差なんて、「人間らしさという尺度を動物的ではないことと定義する」ことによって測れるわけだよね。サイコロジーの先生の持論ではインテリジェンスなんていうのはありないと言っていたんだけど、それについてはまた今度書くとして、人間が動物との境界線を偉そうに引ける理由というのはその知性にあるわけでしょ?でもその知性というのも実際は相当人工的なもので、ほとんどが二次的な、社会的な影響や教育や環境といったものから育まれていくもので、どんな頭のいい人もジャングルで育ったらそりゃ野生児だよね。で、その同じ頭のいい人が人間社会でそれなりに育つとそれは天才だの頭のいい人と定義されるわけだけど、それもまた本当に人間基準であって、本質的には野生児とそんなに変わらない。というのも基本的に本能の赴くままに生きるのが動物で、人間もまた基本的には本能の赴くまま生きているわけだからね。そこに色々理由付けをして、我々は動物じゃないという風に理性や知性を語るのが人間なんだけど、元の行動の動機を考えると、アリストテレスじゃないけど、それはほぼ快楽のためであったり生存のためであったりして、そこに人間と動物の境界線なんて存在しないわけだ。だからどんな頭のいい人も飢えれば他の人間のことなど考えずに自分だけ食料を貪り食うだろうし、最悪共食いをするかもしれない。それってのも人間が生という鎖に繋がれている限り逃れられない本能なわけで、いくらそれを理性や知性で覆い隠そうとしても、それはエクスキューズでしかないわけだ。


っていうのが本当に典型的に今、俺が陥っていることだよね。散々愛だの恋愛だのを馬鹿にしているくせに、今は完全にフォーリンラブしてしまっている。恋なんてのは一時的な病気みたいなもんで、まやかしにしか過ぎないし、ましてやリア二千に関しては可愛すぎるからリスクが高いから絶対怪我をするなんてのも分かりきっているのに諦めきれない。この諦め切れなさは何か?っていうと、恐らく本能なんだろうね。俺のオスとしての本能がメスを求めているわけだ。といってもまぁ前にも書いたようにゲシュタルト実存主義がフックになったわけだけど、でもまぁそれも言い訳だよね。あれでまぁゴシップ雑誌とか読んでたら興味なくしたけど、俺が実存の話をした後になんかのきっかけでテレビの話になったんだけど、彼女はテレビが馬鹿馬鹿しいっつって見ないらしいんだよね。ケーブルすらもないらしい。そしたら俺も「そうそう!!自分もテレビは見ないよ!」なんて感動しつつさ、授業なんかそっちのけで喋り続けちゃいそうな勢いだったんだけど、これもオスとしての反応なんだろうか?テレビを見ずに読書やバレエの練習に時間を費やす不細工と、同じ時間の費やし方をする美人がいたら、恐らく大抵のオスは後者を取るよね。んじゃそういった時間の過ごし方をする不細工と、浪費やテレビ鑑賞なんかに時間を費やす美人がいたら、俺のオスとしての本能はどちらを選ぶのか?見た目という意味だったら明らかに後者だけど、中身という意味だったら前者だ。この外見と中身の違いを見分ける力というのは恐らく人間の知性のなせる技だと思うんだけど、それもまぁ基本的に俺がオスでメスを求めているという究極的な動機からは逃れられないんで、これもまた動物的なわけだよね。レベルの高いところで共感しあえても、その共感はスピリチュアルなものではなく、最終的にはフィジカルなものになるわけだから、それは極めて動物的なわけだ。いや、俺が彼女と付き合うとかそんな妄想をしているわけではなく、まぁ個人的にはとっくにしてるけど少なくともここで書きたいことというのは、選び方がどうであれ選んでる時点でそれってすでに動物的だよねってことね。その次元がどうであれ、最終的にオスとメスがくっ付くことだったら、吉本芸人合コンと哲学ディスカッションの差なんてありゃーしない。その差は極めて人間的な感覚から考えられる差で、それはさっき書いたような人間らしさの尺度を動物的ではないことと定義するってことがベースにあるわけで、もちろん芸人合コンは極めて本能的で動物的で、哲学ディスカッションは知性的で人間的かもしれないけど、動機は一緒ということから考えれば、その差はもはや人間にしか考えられない差で、普遍的なものでもなんでもないってことなんだよね。差に普遍性なんて求めることがおかしいのかもしれないけど、でもつくづく人間って知性がある動物だって言うけど、基本的にホント、動物だよねってことなのよね。知性ってことでごまかしが効いてる動物とでも言うのかな?だから俺はこういう動物性を自分から無くしたいんだけど、本当に今回みたいなことがあると無理だなぁーそれって思うんだよね。まぁ仏教的に言えば解脱したいんだけど、まぁ無理なんだな。


俺が知識が全てだなんて言ってるのも全ては言い訳でしかないっていうのは自分でもよく分かってる。前にも書いたように、そっちにコミットしていかないと、自分の社会の中での
居場所が全くなくなってしまうから、自分が本能的に求めることで、なおかつ社会的なサンクションが働くようなものは何?ってことで学問なわけで、完全にこれは逃げなんだよね。コミットしているかのように見えて逃げているわけ。逃げないということは本能を解放するということで、それはいろんな女の子と遊びまくって浪費しまくってドラッグやりまくることなわけだけど、それをやってしまうと社会的にアウトになるんで、社会から認証されるようなことをなるべく本能的にやるっていうアダプテーションをするわけだよね。それが自分の長所を生かした仕事をするだとか、好きなことを仕事にするってことの理由の一つだと思うんだけど、これも極めて本能に忠実な選択なんだよね。社会というものが出来ると逃げと人間であるということの実存が逆転してしまうんだよね。本来は人間というものがあってから社会があるわけだけど、社会がドミナントなものになると、社会ありきの人間ってことになって、良い人間とは社会でやっていける人間ということになるわけで、そこでみんな誤魔化すわけね。人間お得意の理性や知能で社会の中で人間らしく振舞おうとする。でもそれっていうのは繰り返しになるけど、人間らしさからの逃げなんだよね。本能が全開しすぎると社会が回らなくなるので、抑えて共存していきましょうという態度が人間性になっちゃう。でも実はその人間性に隠れているのは理性や知性といった名で見えづらくなった本能なんだよね。結局、みんな本能で動いている。でも「社会性」だの「人間性」だのみたいな美徳を基準にすることで納得しているだけなんだよね。この「納得」が俺は逃げだって言ってるわけね。だから極めて今の俺は人間的に納得しているわけだよ。リア二千と喋りたいということも極めて合理的なコミットメントであるかのように納得しているし、学校に行くということも極めて合理的であると納得している。知識を増やすということも素晴らしいことだと納得してやっているんだけど、全てのコアは本能にあって、そのコアをむき出しにしないものが合理性であったり人間性であったり社会性であったりするわけ。とんだ自惚れだよね。知性だの理性だのなんてさ、基本的に張子の虎でしかない、本能を前にしたら人間性なんて本当に無力だよね。だからそういう意味でちょっとデカルトの人間は反応する生き物であるっていうようなロボットとの差が無いような考え方が自分なりに理解できた感じがするんだよね。


恋愛のメカニズムなんて単純なもんだ。人間がコグニティブに異性に対して惹かれる。でもそれってのは大半がフィジカルな見た目によるものなのであって、もちろんここで人間の理性や知性というのはワークしていない。極めて動物的な感覚で異性を感じるわけだけど、ここで頭から脳内麻薬、まぁエンドルフィンの類みたいなのがでまくってドキドキする。
で、このドキドキという現象が恋愛を規定するわけで、その恋愛性なんてものは脳内麻薬によるものなわけで、人間が思っているほど恋愛というのはたいしたものではない。なのにも関わらず人間は恋に落ちると極端な主観性の世界にドップリと使ってしまい、例えばリア二千と初めて喋ったときのような、全ての原理が崩れたかのような錯覚に陥ってしまう。ようは神の手のようなものが見えて、偶然すらもまた必然のように感じられたりするんだけど、基本的に現象が存在に意識的に何かを働きかけるということはまず無いわけだから、こういう思考のミステイクというのは、明らかに脳内麻薬によるものなわけだ。ドラッグをやればロジカルな思考なんて一瞬で吹っ飛ぶ。恋愛も似たようなもんだ。ちなみにアドレナリンやらエンドルフィンの類が出るようなアクティビティに依存性があるのは、この恋愛のロジックと全く同じで、買い物をしているとき、車で飛ばしている時、女の子と一緒にいるとき、ギャンブルをしているときに脳内麻薬が放出されてハイな状態になるからなんだよね。だから一端それが出てしまうと、知性や理性なんてものが吹っ飛んでしまってもっと麻薬を出すように体が本能的に動いてしまう。だからギャンブルが止まらなかったり浪費が止まらなかったりするわけだ。


恋が止まらないのも同じ事で、人間が本能的に快楽を感じられるものに行動を進めるという原則があるから、いくらそれが無駄だと分かっていても、その本能にはかなわない。だから俺のゴーストが正しくても、自分の人間性に対してゴーストは無力なわけだ。しかも恋愛の場合、たちが悪いことに、自分の実存のアブセンスというものを相手に求めてしまったり、理想の恋人像というのを相手に無理やり投影して幻想を作ってしまうわけだよね。三角形に見えてた形も実際は角がなかったりして三角形じゃなかったのにも関わらず、そこで認識的な補完が行われてそれを三角形だと錯覚してしまう。これと同じことが恋愛で起こってしまうんだよね。相手は自分が思っているほど素敵ではないし、理想的ではないのに、その角を勝手に自分の認識が埋めてしまうわけ。だから人は恋愛中には相手に釘付けなわけだ。何しろ少なくとも自分の認知では相手は理想の恋人なんだからね。これってのは本当に危険で、それではなぜ失恋が辛いのか?というと、その自分が勝手に意識の中で作り上げてしまっていた相手への幻想や、恋愛のフォームなどが崩れてしまうからなんだよね。勝手に自分が作った想像的恋愛像に幻想を抱いてしまい、その結果、実際的な現象に裏切られてしまう。そりゃ辛いのは当然だよね。俺が勝手にリア二千が俺にちょっと気があるのかも?と勘違いしていたのも、明らかに例の三角形だし、彼氏がいるなんて思っても見なかったのも、完全に自分が相手を理想化していたからだ。そもそもあんな可愛い子が俺にアプローチしてくるわけがないし、何しろ他の男がだまっちゃいないだろうから、予約済みなのは明白なんだけど、でも脳内麻薬が出てしまうとそんなことは考えられなくなっちゃうんだよね。まさしく自分の幻想が現実的な現象に壊されたといういい例だよね。まぁ自分としては良くもなんともないけど。だからやっぱり今でもリア二千にメロメロだけど、恋愛なんてしないほうが絶対いいわけだ。俺は今、完全に恋愛中だけど、正直、とっととこの感覚に飽きてこないかな?と思っていたりするわけ。それぐらいこないだみたいな理想と現実のギャップに苦しむのが怖いんだよね。むしろパートナーに求めるべきはドキドキみたいなものではなくて、たぶん愛なんだと思う。ドキドキはしないんだけど、一緒にいると落ち着くだとかっていう共存ができる人ね。だから恋愛と結婚は違うわけだよね。俺はそういう意味でパートナーなんていらないなんて思わないわけね。ただ恋人ってのは本当にいらない。生活が狂うし、ただ辛いだけだからね。で、思うにこの2つの性質は似ているもののようで全く違うので、恋愛から共存への移行というのはとても難しいことだと思うんだよね。大半のカップルが数ヶ月で分かれるのも、それがただの恋愛だからなんだよね。だからPEAだかなんだかっていう脳内麻薬の量が減ってきたら相手に飽きてしまって分かれちゃう。だから恋愛ってのは極めて虚無的な現象であるわけだ。結婚が3年目で冷え切るというのも、恐らくその結婚の段階がただの恋愛の段階だっただけで、フェイズが共存に移行しないまま終わっちゃったってことなんだよね。それははっきりいって時間の無駄だし労力の無駄だし何より精神的な浪費が凄すぎる。あまりにコストが高い割に返りが非常に少ない、ハイリスク・ハイリターンなことなんだよね。だから俺はそういう短絡的な恋愛に身悶えするのが嫌なので、特に18歳移行は一切女性に幻想を持たないようにしてきたわけだけど、今回というのは相手のクオリティが高すぎたので、自分の理性もリア二千によって凌駕されてしまった感じだね。これは本当に困ったことだよ。だからとっとと普通の生活に戻りたいって思うわけね。これは本当に不安定で辛いね。恋とは病だとはよく言ったもんだよ。今はその恋愛のハードコアさと自分の理性がズタズタに引き裂かれているという状況にタジタジな感じです。誰か助けてくれ・・・。俺ってこんなにパッション屋良だったっけな?


ってのを書いたのが昨日。昨日の文も昨日書いてたんで、昨日の分と今日の分を昨日書いたってことだけど、昨日はハルヒのアクセスが凄くて嬉しかったのと、ずーっとリア二千のことばかりを思っていて、ずーっとハイだったんでやる気が凄かったわけ。で、今日はというともうダークネス。昨日、貴重なアドレナリンやらセロトニンやら、元々普通の人より少ないのを大量に使ってしまったのか、もう今日は何もやる気が起こらない。で、久々にプレステ2やったんだけど、なんかどれもこれも面白くない。っつーか飽きる。ヤクザも飽きたし、ベロニカははっきりいって2001年の時点では以前のバイオと全く変わりが無いので全然面白く無いし怖くない。今日はメシ食いながらやってたんだけど、緊張感が無いんで殺されまくったね。「あー逃げなきゃ!」とか「倒さなきゃー!!」っていうあの手のゲームに必要な緊張感が無いんでゾンビに噛まれまくり。攻略も面倒でもうしばらくやらないと思う。面倒といえばライドウだよね。これもう最悪だな。インターフェースは最初は新鮮だったけど、慣れてくると普通になるでしょ?まぁそれまではいいんだ。こういうことはどんなゲームでも起こりうる。問題は中身だね。何このお使いの多さ?何々を持ってきてくれだの、何々を集めろだろ、何々を追いかけろだの、全くイベントに面白みが無い。英語で言うchoresってなんつーのかな?あのまぁ普段やらなきゃいけないことっていう、まぁ日本語で言うと雑用とかかな?料理とか片付けとか洗濯とかね。現代人はそういうのに疲れ果てているからレジャーとしてゲームをやるのにゲームの中でもお使いをしなきゃいけないなんて、ゲーム会社は何を考えてるんだろう?特に今はニートじゃないんで、こんなことに労力を使うほど気分と時間に余裕が無いんだよね。いや、学生にしては時間があるほうだとは思うけど、特に俺、算数がダメだから週末ぐらいにでも予習しとかなきゃダメなんだよね。あと英語の本も読まなきゃいけないし、まぁ宿題も無いことはない。でもRPGってそういうもんじゃないはずだよ。時間がなくてもやっちゃうのがRPGなわけだよ。その証拠にこないだやったFF7はハマり倒してたからね。まぁ狂ったようにではなかったけど一日やれてた。ライドウなんて1時間で飽きる。ヤクザは元々単純なゲームだから分かるんだけど、ライドウは一応メガテンの名の元で作られたゲームなんだからクオリティは保証しないとダメでしょう。酷いよ。あれ。ただのお使いだもの。もうダメなのかなぁー・・・やっぱ・・・。リア二千との恋のように、ゲームに何かを期待してももうダメなのかな・・・。ゲームの黄金期が90年代だったなんて信じたくないけど、でもなんかホント、最近のやつってやっぱダメなの多いのかな?って勝手に予想がついちゃったよね。ふつーにFF7とか6とかライブアライブとかさ、ドラクエ3とか、メガテン1とか2とか、クロノトリガーとかのほうが面白いもんね。やっぱゲームってグラフィックとかじゃなくて内容なんだよな。特にRPGはね。なんかゲームやる気失せたな。とりあえずFFXでも買ってこようかな。これってまるで映画みたいらしいけど、でもライドウよりかはましだろ。最近のゲームに面白みを感じなくなるというのは歳を取った証拠だとかいうけど、そんなの大嘘ですよ。俺の心は少年ゲーマーのままで、今でも過去の名作を愛し続けているわけだよ。でも目の前に現れるソフトは本当に短絡的なのばっかりで、だからガッカリしているわけ。オールドゲーマーだからこそ相対化が出来るんで、過去は良かった病にどうしてもなっちゃう。それってのは当然だよね。だって過去のゲームが良さ過ぎたんだから。糞みたいなゲームでもエミュレーターみたいに倍速とかに出来たら面倒なところは早送りにして時間をセーブするとかってことが出来るからいいんだけど、コンシューマー機って無理だからね。当然だけど。だから無駄に長いお使いとか無駄に多いエンカウントとかに悩まされながらゲームをやらなきゃいけない。お使いイベントとかエンカウントでゲーム時間を稼ぐなんて詐欺ですよ。はっきりいって。ってことで幸か不幸か、今のところは本を読んでたほうが楽しいです。これは俺が大人になったんじゃなくてゲームがつまらなくなっただけだよ。はっきりいって。だから俺はホント、新しいゲームに面白みを感じないのは歳を取った証拠だってのは死んでも信じないね。