ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

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mimisemi2008-04-10

失恋した俺を気遣ってメールをくれた日本の親友に送った返事をちょっと変えて、んでそのままウォール伝にしてみる。というのも一時的な気分で考え方のベクトルがどのぐらい変わるのか?というのに凄く興味があるので、そういった意味でも、まぁ覚書みたいな感じで。奇跡が起こったと思っているときは「人生は最高!!」で、それが幻想だったときは「真実とは無である」っていう感じになるでしょ?俺。だからそれの克明な記録。


報われなかったら恋なんてただの病気みたいなもんですよ。しかも相当痛みが辛い病気なんで、恋をしているときにはハッピーかもしれないけど、ヘロインが切れた後みたいなおぞましい症状が恋というドラッグの後に出てくるわけだから、んだったら最初からヘロインっつーか恋なんてしないほうがいいわけ。


ウォール伝に書いた愛というのは共存の意味で書いたんだけど、これの場合、こっちとしては女とは見てみていないしドキドキもしないんだけど、んでも一緒にいると本当に楽しいとか、共通の話題がいっぱいあって話題に事欠かないとか、そういう人が見つかるとベストだと思うのね。そこに恋愛みたいなエキサイティングなことは無いけど、でもこれってのが本当の愛だと思うわけ。で、これの場合、こっちはドキドキしてないから、普通に話せると思うんだよね。でも話しているうちにあまりに気が合うんで、ちょっと好きになってきちゃってる・・・っていう、その共存的な感覚から生まれる恋愛感情というのが、自分としては真の恋愛だと思っているわけで、それに比べて今回の俺みたいなのは完全に見た目に依存した恋愛なのよ。まぁ相手の中身も気になるけど、もうダメだからいいんだけどね。


こういった恣意的なただ傷つくだけの恋愛ってのは理性とか知性で超越できるものなんだと思うんだよ。エンドルフィンの大活性は楽しいけど、でもそれは一時的な快楽にしか過ぎない・・・っていうのが分かっていれば、そんなくだらないことにコミットしなくてもいいわけだよね。もちろん種をバラまくという本能的な意味で恋愛なるものが存在するとは思うんだけど、でも人間性って動物性とは離れたものだと俺は思ってるからそういう本能的なことが動機になって行動しちゃうと、それってどんどん人間性から離れちゃうってことだと思うし、それは知性の退廃だと思うんだよね。本質に近づくというのはストイックなことだと思うけど、でもそれこそが人間性だと思わない?人間というのは知性がある生き物なんだからやっぱり動物的なことは超越しなきゃいけないと思うんだよね。とかいいつつも自分の生活を見てみれば、それは本能だらけなんだけど、完全に本能を無くすのは無理にしても、でもパンピーでも到達できる解脱に近い精神領域というのは存在すると思うのね。だから本能に従うということが本質だとは思えないんだよね。でもそれはウォール伝にも書いたように、本能に逆らうということは、まぁ逃げでもあるわけね。本質に向かうという行為を自分で高尚なものだとかって正当化して最終的には全てを肯定したいわけじゃない?仏教の解脱ってそうなんだよね。だから本質へ向かうプロセスは、ある意味で逃げなんだけど、でも解脱が出来れば本能も何もかもを肯定できるようになるわけよ。それは解脱してからだったら何をしてもいいということではなくて、恐らく自分の勝手な考えだけど、本能というものが変わると思うんだよね。元々は変えられない本能といった要素が解脱によって変わっちゃう。だからもう欲とか煩悩とかが全く無いわけよ。だから浅はかな恋愛をすることもなくなるだろうし、本能そのものが心の平穏みたいな感じになると思うんだよね。これって凄いことだと思わない?本能といえば食欲とか性欲とかっていう醜いものだけど、解脱しちゃえば、本能が平常心ということになるんだよ。


存在論的には、もともと諦めとか期待っていう概念が無いように思えるね。もちろん実存主義みたいなのってニーチェみたいな哲学者が元になっているわけだけど、ペシミズムではないのね。そもそも人間が何かと意味をつけたがる何かというのに元々意味なんてないんだよっていうことで、真理とは無ということなのよ。真理が無だと規定した上で物事を考えるなら、人間の実存もまた無だよね。普段は色々なことに意味づけして生きるのが人間だし、それこそ人間って認識的な動物だから、まるで癖のように色々なものに意味をつけたがったり、もしくはそういった価値観を教育とか文化的なバックグラウンドで子供の頃から脳にプリントされてきているわけだけど、基本的には全てが誤りなのよね。元々全てに意味なんて無いわけ。あるとすればそれはただの現象なのであって、例えばお湯にインスタントコーヒーを入れると溶けるっていうような現象と、世の中で起きていることというのは本質的に同じなのよ。だからリア二千との恋愛も運命だとか神の手だとかそんなことではなくて、ただ自分が勘違いしてエンドルフィンを脳内にぶちまけて徹底的な主観性の世界にどっぷり漬かってしまったってことなだけで、客観的に見れば極めて動物的で惨めだよね。だから自分としては、そういうのを理性とか知恵で克服することが重要だと思っているわけで、だから恋愛というのを物凄く軽蔑するのね。だってあれほどバカバカしいものはないからね。人がなぜ恋愛を詩的とも言える感覚で素晴らしいことだって言うかというと、それはただのエンドルフィンの作用で、人が恋愛をすると心が素晴らしくなるからなんだよ。実際はただ脳内物質を汚らしくぶちまけているだけなんだけど、人間はそれを美しいものとして認識したり、まぁ語ったりするわけ。人間が無駄に色々なものに意味をつけたがるっていうののいい例だよね。まぁ俺にとってはいいものでもなんでもないけど(このパターン自分で結構気にいっている)。だけどこれって基本的にジャンキーがヘロインは最高だって言っているのと同じレベルなんだけど、社会的には恋愛は許容されて、ヘロインは許容されないのね。でもまともな人がする恋愛もまた、本質的にはジャンキーがヘロインでラリってるのと同じ現象なのよね。だからバカバカしいでしょ?それだったらたまにガンジャを吸ったほうがよっぽど建設的。


本能は基本的には俗悪なものだから、それを乗り越えるために人間は知性を持っているわけで、本能的に生きるということは、つまりは動物的に生きるっていうことで、それはもう人間じゃないんだよ。だから内面の鍛錬っていうのが凄く大事だと思うのね。


ってことで恋愛なんて糞食らえだし、恋って良いもんじゃないよ。バロウズが恋とは暴力だって言ってたでしょ?まさしくそうよ。あれは内面的な暴力です。それよりも本当に気が合う女の人を探したほうがいいと思うんだよね。恋なんていう馬鹿げたものを基準に女の子との付き合いというのを考えるのは愚かだと思うんだよね。


とかいいつつ、最近、俺がネットでググっているワードといえば「失恋・辛い」とか「失恋・立ち直り方」とか「片思い・辛い」とか、そんなのばっか。

ところで今日、いつも楽しみにしてる哲学のクラスが急遽キャンセルになっててさ、で、それ知らずに来たほかのクラスメートが何人かいたんだけど、その中に例の綺麗な人がいてさ、んで、まぁ話したね。嬉しいね。今まで全然話す機会が無かったから本当に嬉しかった。気がまぎれる。綺麗な人というのはリア二千だけじゃないんだよってのを痛感する。でも常に俺の中にある女性像というのは具体的じゃなくて、幻想的というか認識的というか、オブジェクトが元になってるサブジェクトでしか無いわけ。両方が普遍的に存在しているのではなくて、あくまでオブジェクトはサブジェクトの材料なの。だからいつまで経ってもダメなの。女性に関しては。だから諦めてるのね。でも昨日の夜は落ち込み過ぎて体が動かなくなって、んでまぁ本を読んでたんだけど、一端落ち込みすぎるとあれかね、セロトニンとかが補充されるのかね?今日は凄く調子が良かった。算数も出来たしね。それにしても算数のクラスも例のカールコックス似のブラザーが先生なんだけど、ホントさ、クラスに一体感が生まれてるのよね。補修だから補修独特の、なんというか日本映画の「学校」みたいな雰囲気がある。だうんおんじあーすな感じってーの?それを引率するビッグブラことカール先生。エリートには絶対味わえないヒューマニズムだよ。ホント、生活の密度が高くてなにより。先生も生徒をいじったりするようになってるからね。最近。だからクラスが楽しくてしょうがない。失恋してても他に良いことというか、密度のある何かがあると、本当にホメオスタシスが保たれるよね。特に最近はネイティブと話すことも億劫じゃなくなってきてるというか、ちょっとは自分の英語に自信がついているのかも分からないんだけど、ネイティブとの距離を昔ほどは感じないんだよね。学校始まったばっかりの頃は、なんか共産国から資本主義国に送られたスパイみたいな心境だったからね。俺だけガイジンみたいな。でも今は違うんだよね。俺のアダプテーション能力って凄いなって本当に思うね。知性というのは算数とかテストとかだけじゃ測れないからさ、だからいいのよ。アダプテーション能力もまたインテリジェンスの為せる技よ。ちなみに今の俺のGPAは1.8ね。社会学のC-がそのままGPAになってるんで凄まじく低い。まぁでもいいんだよ。別に。将来的に自分のやりたい学科が勉強できればいいんだから。


ホント、凄いよなぁ。バイオグラフみたいなのが一日単位で変わってる。俺。落ち込んでる日は「真実は無」で、今みたいに調子が良いときは「人生って悪くない」になるわけ。こういうのがホント、最近書いているような、現象によって表れたものに反応するのが人間っていうのを凄く感じるね。脳内物質がちゃんと行き渡ってると、それによってマインドも変わるわけだからさ、人間って規定できないものだよ。常に変わってるというか、諸行無常諸法無我なんだよね。今回は大失恋でまた色々と学んだことがあったからホントに良かった。自分で言うのもなんだけど、こんな歳でかなり高い境地の認識について実体験できたり理解できたりしているわけだから、後は怖いものは無いよね。怖いものはお金だけだよ。生きていければ後は何もいらないよね。まぁだから結局、帰結するところは調子が良かろうと悪かろうと、究極的に言えば「無」なんだけどね。だから無からの出発が出来れば、それが恐らくその人にとっての本質的な意味での人生の出発になるんだと思うわけ。いやぁーリア二千に感謝だね。あんだけの絶望を与えてくれると脳への良い刺激になるよ。まぁ凄まじい荒療治っていうと変だけど、まぁ脳を酷使しているけどね。


とかいいつつ最近読んでいる2ちゃんねるのスレッドがこれ。

ttp://www.heiwaboke.net/2ch/unkar02.php/love6.2ch.net/pure/1201183157/


ところで最近、シャンタル・ムフが本当に大好きになっちゃって、俺のスターみたいになってるんだけど、ちゃんと理解するためにはデリダフロイトジャック・ラカンカール・シュミットなんかを理解してないといけなくて、凄まじくアドバンスなんだよね。だからやっぱ凄くこういうのを読むと学問の基礎の重要性を感じるわけね。

↑記号的意味を消し去られた主人公が、既成の記号だらけの物語の中を演じるっていう、ややこし過ぎる大傑作。映画的には退屈だけどね。パゾリーニがイマイチメジャーじゃなくて、ゴダールがメジャーなのはなぜかってのは、それはゴダールみたいな軽薄なインテリジェンスを媒体に作っている映画ってのは、パンピーやら似非知識人に「頭の良さそうな映画を見ている自分」というのに酔うことをプロバイドするわけで、それはゴダールの映画作りと同じようなナルシシズムを鑑賞者が擬似的に体験できることにあるので、ある意味で映画の役割をゴダール映画は担っているわけだけど、パゾリーニの場合、映画鑑賞にあたって本質的な知識や分析力が必要なんで、永遠と大衆に迎合されないのね。こうなると、んじゃあパゾリーニを見るのがインテリなのか?っていう浅はかな考えが出てきてゴダールの二の舞になると思いきや、パゾリーニの映画にあるものは、豊富な表現力とリリシズムなんで、鑑賞者にそれを受け取るだけのレセプターが無いと反応できないんだよね。いや、ここで別に俺が頭いいぞっていうつもりはないよ。そういうつもりで書いてるんじゃない。勘違いしないでくれ。ただホント、嫌いなんです。ゴダールはいいんだけど、ゴダールをオシャレだとかインテリっぽいものとして消費している、菊地成孔みたいな連中が本当に嫌い。俺ってのは本当に常にこう思うんだよね。俗悪なものが存在するのはしょうがない。世の中ってのは一つの価値観だけで統一なんて絶対できないからね。ただそれに群がる連中が本当に嫌いなんだよね。それは自民党の存在自体はいいんだけど、支持する連中が大嫌いみたいな感じね。それはゴダールも同じ。だからゴダール映画は映画史の位置づけとしては自民党なんですね。小泉首相のキャラとかは嫌いじゃないって意味で俺はゴダールが好きだけど、内容的にはクズ(特に後期ね)って意味で、ゴダールを支持はしない。そういったキッチュな観点からゴダールを見ると楽しいんだけど、マジで見てるやつらがいるから本当に嘆かわしい。だからあんなハゲは映画の神でもなんでもない。

でもやっぱ60年代のゴダールはいいね!大好き!!!!!可愛さ余って憎さ百倍って感じですかね。それにしてもアンナ・カリーナは最強だな。

↑追加。僕らのキングオブ変人、ジジェク師匠です。何かのメモを見ながら喋っているのかと思ったら違うみたいで、常に脇の辺りを気にしながら相変わらずスキゾに喋ってます。チョムスキー批判(?)みたいなのが面白い。思うにインテリの書いた本をパンピーが読むときは、それをドグマとして読んじゃいけないんだよね。前に書いたと思うけど、文字を読むということがアジテーションされているということになるのであれば、読書後は白痴になるってことだよね。読書をすればするだけ馬鹿になる。そうじゃなくて、ただのそれとして読むことが重要なんだよね。ということは別にあの三浦なんとかの下流社会だとか、ゲーム脳みたいな、本質的な意味でクオリティが低くて読むに値しない本はともかくとして、ジジェクみたいな微妙だけどオリジナリティがあるものってのは読み物として価値があるんだよね。そこに批判が介在する余地はない。ドグマとして読もうとするから批判したくなるわけで。ジジェクと三浦なんとかを比較に出すのはちょっとアレか。まぁ何が言いたかったかって、そのジジェクのわき見運転ね。もう本当に最高。2もあるからチェックしてね。