ドッグヴィルと民主主義。

mimisemi2008-08-19

いや、ドッグヴィルについて書こうとして昨日は書けなかったんで、ドッグヴィルに関わる何かを書こうと思ってまぁ民主主義に関するコトなんだけどあれなんだよね、ルソーが述べていた民主主義というのはくじ引きで決めるような、アトランダムに代表者を選ぶことが、社会学における中立的なデータの抽出かの如く真の意味での「民主」が成立するらしいんだが、くじ引きと言えば柄谷行人を思い出すけど、柄谷行人の馬鹿馬鹿しいくじ引きという概念はルソーからの転用だったのかな?とか勝手に思ったり思わなかったり。いや、でも言われてみればそうだね。限られた中から議員を選ぶことなんてすでに民主主義じゃないよね。近々導入される裁判のアレあるじゃない?みんなが裁判所に行ってなんかやらないといけないやつ。あれこそがまぁ市民社会というか民主主義の最たるもんなんだよね。政治的に鈍感な人であろうが無知な人であろうがなんだろうが、その人の意思というのもまた民意を司る構成要素の一つとして数えられるわけで、まぁ最近の俺の論調というと大げさだけど、まぁそれじゃー民主主義なんて無理だろうってことで、まぁあえてポピュリズムに動員されきっている民主主義なんて大嫌いだ!って言っているわけだけど、ルソーはこんなことはとっくにご存知だったらしい。ルソーが至上とした政治的目的は人権であって、アトランダムに議員が選ばれるような民主主義ではなかったんだよね。だからルソーは民主主義が必ずしも良いものだとは言っていなかったわけ。ルソーっつーと性善説に立っている社会契約論の人というイメージしかなかったんだけど、実はラディカル・デモクラシストだったのかもしれない・・・・!とかって気がついて勝手に興奮しつつオナニーをしている今日この頃なわけだけど、その辺はモンテスキューはもっとラディカルで、政治的に愚鈍で無知なやつらに投票権なんて持たせる必要は無いとまで言っているわけ。そんな下等なやつらに政治的コミットメントを図れる余地なんて作る必要がないということね。いや、最近の俺の論調じゃないか。アホ左翼的マルクス主義からネグリマルチチュードを経て、今はラディカル・デモクラシーをアマチュア的に唱える俺だけども、改めて古典を読み解く必要性というのを実感させられたわけだよね。


ルソーは社会を民主的に成り立たせるような先導を出来るエリートが政治を行うべきだと説いていて、まぁこれはつまりは賢人政治というか、貴族政治というかまぁエリート政治だよね。んじゃあなんで自由を説くルソーがこんなことを言っているのか?というと、そこに意外な落とし穴があって、さっきも書いたようにルソーが至上としていたことは民主主義ではなく人権なんだよね。人々が自由に暮らすことが出来るようなアーキテクチャを設計できるエリート政治の必要性を説くというのは、つまりは人々の人権や自由を最大限に発揮できるような社会を作れるエリートによる市民社会の設計なわけで、ここに民主主義を至上のものとして勘違いしてしまう思考のパラダイムと人権や自由を至上のものとして考える思考のパラダイムとの差異があるよね。いや、だからあれだ、俺やこないだ話した元相方のようなラディカルなアナーキストが賢人政治を求めるというのは、至上の目的に人間の自由というものがあるからだよね。だから民主主義の名の元に愚鈍なやつらに政治を任せて社会がグダグダになるよりかは、民主主義なんていう馬鹿げたやり方はもうやめて、エリートに政治を任せて、市民は自分たちの可能性を十分に発揮できる社会での市民生活を享受するというパラダイムになるのは必然だよね。そこはさっきも書いたように俺や元相方が至上のものとするのが民主主義ではなく、人々の自由や人権なわけだからだよね。そう思うと人々の自由と民主主義というのは同時に成り立たないものということが分かってくるね。下等な連中には投票権を与えるべきではないというモンテスキューの言葉に心酔してしまうなぁ・・・。本当に。


そう思うとアルチュセールの研究対象になった学者達というのは本当にアクチュアルな政治論を唱えていた人達ばかりなんだよね。今後はアルチュセールを軸に様々な政治理論の古典をディグる必要性が出てきたと同時に敵が増えた。平等や民主主義などを平然とぬかす馬鹿左翼どもね。政治に必要なのはむしろマキャベリのようなプラクティカルな政治理論なんだよね。イデオロジカルな思想からの脱却というのは本当に大変だけど、本当に政治を考えるなら、その先にプラクティカルな方法論があるのはむしろ必然的だよね。こうやって思考を研ぎ澄ますことで読まなくてもよい本と読むべき本というものの区別が明確につくので、物凄く広い思想みたいなものをやろうとする人間には、まずその導入部分で思想史などの勉強とつまみ食いが必要なんだよね。で、自分が何を読むべきか?というのを明確に分けて、で、その読むべきものを熟読する。これこそが思想をやるコツなんだなと思った次第でありますが、ここまで来るのに時間がかかりすぎた気がするな。まぁまとめると、社会を良くするために必要なものは、民意を前提とした選挙に基づく議会制度ではなく、民衆のベネフィットを本質的に考えられるエリートを選別できる民衆の選択によるエリート達の貴族政ということだね。自民党に票を入れてしまうような馬鹿の一票もそれは市民の一票なので、そんな連中に民意をレペゼンされちゃー困るんだよ。俺らは。


で、こういうプラクティカルな政治にまつわる映画というのがドッグヴィルなのさ!特権階級による下々の人間達への慈愛がいかに傲慢であるか?というようなパラドキシカルな主題を持ちつつ、下々の人間達の民意の穢れと悪意なき悪意というのを本当によく表しているのさ。ドッグヴィルは俺の勝手な定義である、本来的な意味とはちょっと違うかもしれないラディカル・デモクラシーを体現したかのような映画で、まぁ以下はネタバレなんで、これから見たい!とかって思ってる人は読まないでね。


まぁ話を要約するとだな、慈悲深いマフィアのボスの娘がドッグヴィルという街に逃げ込む。で、逃げ込むっつーのはマフィアの娘という生活が嫌になってのことなんだけど、このニコール・キッドマン扮するマフィアの娘は田舎への観念的で理想郷的な憧れというのを持っている人間なんだよね。田舎は恐らく時間がスローで人々は素朴で優しくて本来の人間が持つべきような要素を全て満たしているようなものが、素朴な田舎にはあるというのを思っていたりするわけ。で、田舎の人間達はニコールを匿ってくれるわけだけど、話の中盤ぐらいになってくると、俺らはお前をかくまってやってるんだぞっていうような構造的力関係を利用してそれまでは優しく接していたニコールに対して奴隷を扱うような態度をとるようになってくるわけ。ニコールは前時代的な何も知らない田舎の連中たちに様々なことを教えてあげたり仕事を手伝ってあげたりして、最初は田舎っつーかこの村の人間達にありがたがられるんだけど、中盤から後半は奴隷みたいな扱いを受けるわけね。


で、マフィアのボスとそのファミリーはニコールを血眼になって探しているんだけど、結局まぁニコールは見つかっちゃうっつーか、詳細は面倒だから省くとして、この村の人間達に売られちゃうのね。売られるっつーか、この村の人間達がマフィアに見つかるのが怖いっつーんで、ニコールを差し出しちゃうわけ。で、ニコールは渋々マフィアのボスの車に戻るんだけど、ここで面白いのがね、見ている側はさ、ずーっとニコールも必死でマフィアから逃げてたわけだから、鑑賞者はニコールが殺されるんじゃないか?って思うわけ。でもここでスカシカシパンマンがあってさ、いきなり親であるマフィアのボスとニコールとでふつーの会話が始まるわけ。「お前は俺のことを傲慢だと言って嫌っていたが、本当に傲慢なのはお前なんだよ」みたいな「あれ?」と思うような対話が始まる。で、この対話を要約すれば、ニコールの素朴な人達に対する慈愛というのはあくまで上から目線のもので、上から目線で下々のもの達にレベルを合わせて施したり接したりするというその態度が究極的に傲慢なんだと親父に責められるわけね。ニコールはマザーテレサのような態度で下々の者に同じ目線で接しながら話すということが重要なんだということを主張するんだけど、結果は明白で、まぁ色々その下々のものたちに酷い扱いを受けてきて、最終的には売られたわけで、そのニコールの慈愛的態度というのが無駄だったというのを表しているわけね。で、考え方が変わったニコールが決断することとは何かというと、「パパと同じような権力を自分にも持たせて」なんて言うんだけど、パパはそれを承諾するわけね。で、ニコールは「じゃあその権力はいつから有効なの?」なんてパパに聞くんだけど、パパは「今からでも」なんて言うわけ。で、何をするかっていうと、ニコールはこの愚民が住む犬の村の村人を全員処刑して村全体を焼けっていうのね。


これは幻想左翼的パラダイムからプラクティカルな政治理論へとパラダイムが変わったような人間、まぁつまりは俺みたいな人の変わり方と凄く似ていてっつーか象徴的といってもいいぐらい同じで、最初は民主主義を至上のものとするわけだよね。人々と話せば分かるっつーかさ、人々が社会を作っていくんだみたいな、マルチチュードみたいなコスモポリタニズムを持っている。ただ実際、社会に出てみると社会は愚人だらけでどうしようもない。俺で言うとそれがアメリカであったり、前のルームメイトだったりするんだけど、まぁ日本がダメなのは分かりきっていて、んでアメリカに行けば民度が高い人達がいっぱいいるのか?っつーとアヴェレージは日本より高いかもしれないけど、基本的に愚民が多いのは変わらないっつーことで、そんなやつらに政治は任せられないってことになるわけ。それはどういうことを意味するのかというとエリート政治の必要性なんだよね。民主主義というのがいかに名ばかりのくだらないものなのかというのを表しているわけ。ニコールがドッグヴィルで経験した酷い経験が俺の中では日本のバイト先であったりホームステイ先であったりルームメイトであったり学校であったりするわけで、その結果、「あいつらはダメだ」ってことになったわけ。俺は「殺して焼け」とまでは言わないけどね。だから社会を先導していける賢い人間達に権力を持たせて政治をやらせたほうがいいということになるわけ。民意糞食らえというね。民意の底上げなんて不可能なんだよ。それはドッグヴィルを見ればよく分かる。あのドッグヴィルの人間達に政治や倫理やヒューマニズムが分かるか?っていうと分からないんだよ。それと同じことが世の中にも言えるんだよね。今の世の中はそのドッグヴィルにいるような人間達がポピュリズムに動員されてわけの分からない政党を支持してしまっているというような状況なわけで、これが民主主義の結果なわけね。チョムスキーが民意を操作した結果の共和党による一党独裁政治というような批判をしても、それは国民の投票で成り立ってしまってる以上、それは民主主義が成立しちゃっているんだよね。民主主義なんて脆弱で利用されやすいシステムがあるから、ポピュリズムによって操作されるわけで、だったらそんなものは最初から無いほうがいいんだよ。だから「キミらはメディアによって洗脳されているんだよ!」なんていう物言いも成立しないんだよね。仮にそれがそうだったとしても、結果がそうなんであれば、それが捏造されたものであっても民意なんだよね。だからこういうシステムそのものを無くさないと、根本的な病理を根治することは出来ないということなわけ。その病理というのが民主主義なんだよ。


ちょっとドッグヴィルの説明が雑過ぎたかもね。まぁーあれだよ、見てくれよ。見てもらえば早い。ドッグヴィルも含む総意を民意として扱うのが果たして市民社会によって最良な選択であるのか?というのを考えられるいいきっかけになると思うんだよね。ドッグヴィルは俺にとって、なんつーか最近俺が考えているようなことを見事にアクチュアルな形で映像化してくれたっていうような映画なんだよね。いや、別に新作じゃないんだけどさ。ただ昔見てても理解できなかったと思う。今だから楽しめたわけね。ということで今日はこの辺で。