tmさんへの私信を1エントリーにしてみる。

mimisemi2009-02-07

tmさんから昨日のエントリーに関して良い書き込みをいただいたので、昨日書いたことへの補足ということも含めて、tmさんへの私信を1エントリーにするねっつーか返事書いてたら1エントリー分ぐらいになったんでってことなんだけど。

すみません。共通善とか社会科学系の知識なんてまったくないんですが、ちょっと疑問に思ったので書かせてください。なんか、第6パラグラフで、「個人主義とか権利だっていうのを言い過ぎるとバランスがおかしくなる……そこに数人の個人の自由が犠牲になっていても、クラス全体というのを考えた時に結局それは共通善あってのクラスだから、そいつの自由なんてどうでもいいって話になるんだよね」と記事にあるのですが、これでは共通善というのを「公共」もしくは「全体の利益」という意味に強調しすぎて、全体主義と変わらないことになってしまうのではないでしょうか。意味するところは同じなのでしょうが、「権利相互間の衝突を調整するためには、個人の権利も一定の犠牲を被らなければならない」と表現したほうが、個人の利益を犠牲にしても全体の利益を最優先にするという悪しき弊害を思い起こさなくていいというかしっくりくるというか……おそらく私の読解力と知識が欠如していることからくる疑問なのでしょうが、なんかこの記事は危険な面を含んでいるのではないかなあ、と思ったしだいなので書き込んでしまいました。長々とどうもすみません。つたない脳内回転でしたが、考えるきっかけをくださったこの記事に感謝します。どうもありがとうございました。更新、頑張ってください。


いや、全くその通りですね。僕は思慮深い書き方というのが出来ないもので、どうしても言い方がストレートになってしまうというか、あとはその時の気分だとか体調とかでも全然文体が変わってしまうので、一貫性が無いと言えば無いのですが、実際は根底の部分では言い方は同じなので、意味や内容がその場その場で恣意的に変わるということは、少なくとも日々の単位ではあまり無いと思ってます(年間で見ると分かりませんけど)


で、共通善の話なのですが、僕が今回書いた意味では確かにtmさんがおっしゃるような「公共性」という意味合いが強いんですが、例えば「共同性」ということを考える時に、「公」と「私」の区別や、政治単位では「道徳」と「政治」との区別を調停する必要があるわけです。で、その区別というか重要性というのは、市民の関心をいかに共通善や公共性に向けることが必要なのか?ということなんです。今回のクラスの話で言えば、公と私の区別のついていないやつが、特に馬鹿女のほうですけど、クラスで勝手に自分の話とかをし始めるわけですね。「この教科書はあまり好きなれなかった」っていうのを永遠と喋り続けるわけです。ただこれも一応ソーシャルサイコロジーに関係が無くもないことだと考えると、一応、この馬鹿女の発言する自由というのは保持されていなければなりません。しかしこの女の自由を尊重するがあまりに、大半のクラスの人達が被害を被るという話なのであれば、そういった条件下では特にこの女のような公共性もへったくれも無いやつの自由なんて踏みにじられてもかまわないということなわけです。そこで教師という権力者がパターナルに「君の話は分からなくもないんだけど、クラスのことを考えて、ちょっと発言を慎んでくれるかな?」と言えば、それは権力者の権力の行使になるわけですね。そこではこの女の自由は制限されますが、その代わりにクラスの公共性や共同性は保たれます。で、僕が教師だったら、クラスの公共性を保つ事に力を入れるだろうなと思ったわけです。生徒が発言をしたり意見を言うことは良いことなのですが、ここがアメリカの悪しき行き過ぎた個人主義で、特に馬鹿が「発言をすることは良い事なのだ」と昔から教えられていることをドグマティックに「良いことなのだ」と解釈して、それを公と私の区別もつけることなく、その個人主義を行使しすぎる事が、全体の公共性というのを壊してしまう原因になっているというわけです。


「そいつの自由なんてどうだっていい」という乱暴な言い方には僕の馬鹿な人間に対する個人的な憎悪があるんです。最近僕が「馬鹿には選挙権を持たすな」みたいなことを言うのも、例えば平気で小泉が大統領にふさわしいとかって考えるやつに対する個人的な憎悪です。ちょっとぐらい頭の良い人なのであれば、共通善なんて大げさな概念を出してこなくても、例えばクラスでもなんでもそれこそ空気を読んで発言する時としないときとか、発言の量とかを考えますよね。社会でもそうです。賢い人は「小泉を首相に!」なんて思わないわけです。ようは自分の私的な領域での利益とか関心というのを行使しすぎて、他を破壊してしまうような馬鹿っていうのは大勢いるわけで、こういった全体性を考えられない馬鹿をどうするか?ということなんですね。


そこでまぁオークショット風に言えば「市民性の慣行」というのを措定する諸条件というのが必要なんではないか?と考えるわけです。それはただ一つの全体主義的な共通善が存在するのではなく、「どのような行いが承諾されるのか?」ということを考慮する思考を養う必要があるというわけです。オークショットの引用をすれば「どのような行いをするかの選択に際して承諾されるべき諸条件を事細かに措定する道徳的な考慮」です。それが市民社会を規定する重要な要素の一つだと僕は考えています。まぁそこは共通善という概念というよりかは公的な関心ということですかね。なので自分の自由を行使しながら公共性も保つということは、まぁ高度なことになりますが不可能では無いわけですね。ようは自由や権利というのを所与のものとして考えるのではなく、社会があるので自由や権利があるのだという考え方が必要なわけです。国家で言えばその最初のレイヤーというのが国家によるゲバルトの独占なのは言うまでもありません。


クラスで言えば自分が生徒であるというのは学校があるから生徒なわけだし、先生がいるから生徒として発言するということが可能なのだという風に認識することですね。なのでクラスでの私語というのがなぜ良くないことなのか?という理由は明らかで、それは公的なものに私的なものを持ち込んで公的なものを壊してしまうからです。で、馬鹿は「クラスで発言する」ということにクラスでの公共性を見いだしながらも、その発言の中に私的なものを混ぜ込んだりして、結局、公と私の区別をごちゃまぜにしてしまっているというわけです。


で、共通善の話に戻りますけど、僕はクラスを維持するためには生徒の自由など踏みにじられても当然だと思うわけです。それはひとえに生徒にとっての一番必要なことというのは授業を聞くということだからです。呆れるぐらいシンプルな話ですね。もちろんそこに「いや、クラスってのは生徒が発言する場なんだ」みたいな意見もあると思いますが、僕はそういったクラスの根本を壊してしまうような意見は排除されて然るべきだと思っています。なのでクラスの場合で言うところの共通善は「全ての生徒がちゃんと授業を聴講できるということ」として定義されるわけです。もちろんそれはあの馬鹿女や衒学的なあいつのような自分勝手なやつらの少数意見の排除のもとに成り立っている概念ですが、そこを乱暴に言えば「あんなやつらの自由などどうでもいい」って言い方になるわけですね。


でもそれは必ずしも少数意見の排除を意味するわけではないんです。例えば僕の別のクラスでは難聴の子に手話の人が2人ついていますが、例えばここで僕が「手話の連中の動きが気になって授業に集中できないから、なんとかしてくれないか?」って言う事も可能なわけですね。それは一人の生徒としての意見として「気が散る」という意味で言えるわけですが、この意見の妥当性ってのは相当怪しいもんです。むしろ僕としては手話が2人もついているということに対して関心をするわけですが、必ずしも全員が全員そういった考えを持つわけではないんですよね。というのが先ほど書いたような「気が散る」なんてことが平気で言えるようなやつらもいるということです。


障害者というマイノリティを受け入れる必要性と、自分勝手で馬鹿なことを言うやつの自由を受け入れる必要性というのは、その重要性において大きく異なります。もちろんそこで決定的な線引きができるわけではないんですけどね。何が馬鹿というかとるに足らない意見で、何が少数意見ながらも取り入れる必要がある意見や事柄なのか?というのは常に恣意性がつきまとう問題ですが、少なくとも僕にその線引きをする権限があるのなら、例えば公共性を破壊しかねない馬鹿の意見などいくらでも封殺しやるって思うわけです。例えばそれは僕が先生だったら、クラスにとって有用な質問がなされているかなされていないか?というのをその場その場で判断して、例えばこの衒学的なやつとか馬鹿女みたいなやつの公私混同の発言に関しては「お前らはちょっと黙っていろ」ってクラスの全体性を保つためにいくらでも言ってやるってことなんです。そういった意味でまぁある意味で権威的で全体主義的ではあるのですが、僕は本当にとるに足らない人々や馬鹿の意見など包括する必要は無いと考えるんですね。悪質な馬鹿の自由を犠牲に善いクラスが維持できるなら、それは僕はいくらでもやると思いますね。それは僕は公共性を保つために必要な不可避的な排除だと思うわけです。


ということなのですが、とにかく素晴らしいツッコミに感謝します。いや、実際、僕の最近の論調はかなり反民主主義的で全体主義的なので、tmさんのおっしゃる「危険なのでは?」というツッコミに関しては完全にその通りです。しかしながら僕が最近書いていることは良い社会設計のための反民主主義って感じなんです。去年から書き続けていることを簡単に要約すると、ようは国民というのが細かい経済の仕組みを理解できないように、政治もまた細かいところまでは国民には分からないし、勉強する暇も無いって話なんですね。僕で言えば僕は完全に独学なので学問的な正しさはともかくとして、まぁ政治に関しては割とまぁ知っていることが多いので色々書けるんですが、経済の動向についてとか経済学について書けなんて言われてもそれは不可能なんですよね。それは僕が単純に経済学に疎いからです。ところで市民が政治を担うということは、市民の一人一人が政治に関するエキスパートまではいかなくても、かなり政治に対して詳しくないとそれこそ衆愚政治になるのは当然なんですよね。ようはそれは市民が政治を担うというのは素人が国の経済の判断をするような無謀なことなんですよね。だからアマチュアには政治は務まらないだろうってことで、政治はエキスパートに任せないと話にならないだろうっていうのが去年からずーっと僕が考え続けていることです。なので民主主義というのは悪しきシステムなわけです。理念レベルでは素晴らしいものですが、現実的に言えば不可能な話です。なので世の中には民主主義を謳った反民主主義的な国家しか存在しないわけですね。民主主義というものは理念レベルでしか存在しないものです。


だからといってエリート統治といって今のアメリカや日本みたいな狂った社会の構造をそのまま維持するなんてキチガイ沙汰です。むしろ政治をエリートが担うことで世の中は良くなるはずなんです。それが僕の言うリベラル独裁です。本当のちゃんとした政治のエリートが政治家になれるという社会をまずは目指すべきなんですね。そのためには世襲政治や教育の不平等や富の不平等などは性急になんとかしないといけない問題です。何しろふさわしいエリートがダメな社会では育ちにくくなりますからね。アホの政治家の息子が財力とコネにモノを言わせて二世の政治家になるなんてサイクルは本当に馬鹿げています。なので下からの本当のエリートの力が必要なんですね。そのためにはエリート教育が必要ってわけです。簡単に言えば頭が良いやつってのは階級関係なくいますから、そういう本当に頭の良いやつらが政治を担えるようになればいいって話です。今の政治家ってのは実家が金持ちの馬鹿が多いからですね。頭脳ではなく財力とコネによって政治家になったやつなんてエリートなわけがありません。


もう死にそうに長くなっているのでこの辺でやめますが、とにかく書き込みありがとうございました!ましてや1エントリー分のネタを提供していただいたので本当に感謝しています。また何かあったらツッコミお願いします。


で、nanokawaさんからのコメントがあったんで、それに対しても私信してみるねっつーか私信をしたいコメントだったので。

nanokawa フランス帰りの子曰く、大講義でも質問バンバンで講義ストップなんてのが良くあるとか。 / 事前に内容全部書いたレジュメを配って、講義時間は全部質問と議論に充てるってのがよかった。眠くならなくて。


という話なんだけど、これは恐らくある程度のレベルの学校にのみ言えることなんだよね。今の俺が通っている2年制大学みたいな場所では授業をやらないと始まらないわけで、そこでちょっと知識のあるやつがその知識のひけらかしに時間を食っちゃうということになっちゃうと、他の生徒に多大な迷惑を与えるわけよね。内容は全部教科書を読んできて、んで授業は質問とディベートにしようって形式はある程度のレベルの学校じゃないと成立しないよね。まぁそういうのが成立しているような学校だったらいくらでもずーっとディベートとか質問ばっかしてりゃーいいと思うけど。「いや、クラスってのは生徒が発言する場なんだ」っていう意見が通るのは、そういった意見が通る諸条件が成立していないとダメってわけで、すんげー基礎的なクラスではそれは成立しないのね。ようは意見や発言の有効性っつーのは大きく社会的コンテキストに依存するというわけね。


・・・・ということが今回のエントリーでした。で、最後にね、最近の僕の保守主義への傾倒なんだけど、「真の理想主義者は現実主義者である」というロバート・ケネディの言葉にもあるような、理想主義的社会の実現に向けての現実主義的思考法ってのが最近の俺の考え方の傾向ってことで、別に保守イデオロギーに洗脳されてるわけじゃないってことね。あー世襲政治ぶっ壊してぇーなぁー。あとさ、別にね、階級社会でもいいんだけど、階級関係なく能力に応じて人々が上昇できるような社会だったらいいんだよね。そういう社会から出てくる本当のエリートというのが政治を担えるようになればそれが最高なんだな。「西成が生んだスーパーエリート!」とかね、あってもいいと思うんだよ。実際はそういうポテンシャルを持った人達って西成とか寿町とか三谷に限らず点在しているわけじゃない?そういう人達の能力を引き出せるような社会じゃないとダメなんだよね。そういう人達が這い上がれる社会ね。人々が上昇できない社会なんて悪夢だよ。本当に。

Reconstructed

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