学生VISA剥奪!

mimisemi2009-04-09

ダベリの溜めをとっとと出してしまおうっつーかさ、学生VISAの話なんだけど、ストレートに言えば剥奪されたよ。オフィスに行ってこれを聞いたときは放心状態になってしまって、オフィスの人が何を言ってるのかさっぱり分からなくなっちゃって、んでマジで呆れてたね。オフィスの人。ようはあれだ、剥奪されたんでもう一回、VISAの申請をしなきゃいけないらしくてさ、もう書くだけでイライラするんだけど、また残高証明を用意したり、んですげーのが日本に帰らなきゃいけないってことね。日本のアメリカ大使館だかなんだかに行ってさ、ようはまた申請手続きを位置からやり直さないといけないわけ。実家の経済状態が全く分からないし親ともまだ話してないんで分からないんだけど、どの道、まぁ俺は今はもう不法滞在になってるわけね。何しろもうF1ヴィザが剥奪されたわけだから。まぁ不法滞在っつーのはおかしいか。まぁVISAが切れてるのにまだアメリカにいる人っていう感じになっちゃったのか。まぁ観念的なものだけどね。でもおかしいのがさ、半年前に剥奪される条件が揃っててさ、んでなんで今のセメスター受けれてるの?って話なんだよね。今更剥奪されるっつーのも意味分からんし、ちゃんと確認して落としたのにも関わらず後で問題がありました・・・とか言われてもねぇ・・・。まぁどの道、一年半後ぐらいにはビザの更新をしなきゃいけないんで、まぁちょっと更新が早まったと思えばいいんだけど、それにしてもなんつーかいきなりのことで驚きだよ。マジで。こっちの言い分は全然聞いてくれないし。


で、色々なことに詳しい例のキャリアウーマンの人の話だと、普通は大体2回ぐらいは大目に見てくれるらしいんだよね。まぁなんつーかオフィスの人の裁量っつーかさ、オフィスの人の気分次第で変わるんだけど、気に入らないやつだと剥奪プラス強制送還プラス6ヶ月アメリカ入国禁止とかってのもやるらしくて、ようは判断が精神科医みたいに曖昧なんだよね。俺はたまたま悪いっつーか厳しいオフィスの人にあたっちゃったってわけっつーか見つかっちゃったっつーかさ、クソみたいなクラスを落としたってだけなのにねぇー。まぁ個人的な理由と法律は関係ないから、こういうもの言いは通用しないんだけどね。それにしてもマジで鬱だわ。家が裕福だったら「よっしゃー!夏に帰れる!」ってことになるけど、ギリギリでやってるから、こういう無駄な出費とかさ、親の労力的なことの負担とか最悪なんだよね。俺がディープになるだけならまだしも、親にその負荷がかかるっつーのがマジで許せないんだよね。


こんなご時世に誰が銀行に300万もの金があるっつーんだよ?全く。で、コミカレのクラスってのが大半がなんつーかここまで大げさなことをして取るほどのもんじゃないんで、余計ばかばかしいんだよね。まぁプロセスだからしょうがないんだけどなんつーかさ、まぁあれだね、俺のミスとしてはアドバイザーに聞かずに勝手に自分でクラスを落としたのがマズかったってことだねっつってもまぁ確認取ったんだけどなぁ。「確認取りましたよ?」っつったら「留学生担当じゃない人間の言う事なんて聞かないでください」なんて言われちゃってさ、こういうところがアメリカだよな。すんげー適当。あとは留学生だったらシステマティックに落とせないようにしておくべきだよね。これを落とすと12単位以下になるのでダメっていうさ、システム的にそういうのを予防しておくべきだと思わない?まぁ文句ばっかり言っててもしょうがないんだけど、一応俺としてのちゃんとした手続きを踏んで落としたわけで、全く納得がいかないんだよね。「大丈夫です」って学校の人間に言われたら信じちゃうよね?


はぁー困ったことになったな。マジで。VISA剥奪とはね。驚きだよ。マジで。まぁビザ更新が早まったとかって思ってればいいし、まぁどの道、同じ手続きは1年半後に取らなきゃいけないわけで、まぁ結局は同じ事になるんだけど、それにしても不安になるよね?今の状態でアメリカに出たらさ、VISA発行できなかったら入国できないんだよ?俺の地下室はどうなるの?っていうさ、俺の荷物とかアメリカにおきっぱなしのまま入国不可能とかになっちゃったら最悪だよねってそりゃー考え過ぎだろうけど、ようはそれが「更新」じゃなくて「再発行」になるからなんつーか印象悪いんだよね。保険証みたいなもんでさ、再発行ってあんまイメージ良く無いっつーかなんつーか、まぁプロセス踏めば取れるんだったら問題ないんだけどね。まぁまた今度、オフィスに行った時にでも聞いてみるか。学生VISAの再発行を確実に保証してくれる何かっつーのを学校側からもらわないとヤバいよな。これ。でもまぁーあれだね、あんま色々と考えてもしょうがないからね。マジで。不安を感じてもそれって全く意味ないし、まぁとりあえずプロセスを踏んでいくしかないよね。まぁんで帰れるとしたらまぁ5月の末ぐらいには帰ると思うんでその時はヨロシク。


っつーかなんで俺ってさ、頭もエッジにいる感じで生活もこんな感じなのかね?全部がエッジだよね。もう一歩間違ったら全部ダメになるっつようなロシアンルーレットっつーかウィリアムテル的な状況が多過ぎるんだよね。でさ、大使館の人が俺の名前ググってさ、俺のブログ見つけて「こいつは売国奴だ!ビザはやらぬ!」とかって思ったら最悪だよね。色々なことを今、妄想してるけど、最悪の状況っていうのを考えると本当にヘヴィーな気分になるね。


ってことで今日は溜めからです。


あ、んでお転婆娘に話を戻すとさ、なんで集産主義と個人主義の話が「あたしとビルのトピック」なのかっていうとまぁあれじゃん、ムーア先生の政治学のクラスの後にまぁ恋愛ゲーム風に言うとフラグが立っているわけじゃない?前に書いたと思うんだけどまぁお転婆娘のエッセイの話ね。で、まぁそのさ、「私たちだけしか知らないよね」みたいなさ、例のインテリ気取りが「なにぃ!こ・・・こいつらデキてるのか!」なんて恐れをなすぐらいなイベント成立条件が整っているわけじゃない?それこそオタクが夢見るような恋愛ゲームの主人公しか起こらないようなウハウハ状態ってのが地味にコンスタントに俺に起こっているわけだよね。まぁ俺のモテ期の感覚が正しかったとすればの話だけどね。それを無視するってさ、将来、ハゲるかもしれない俺がさ、「あーあの時付き合っときゃーよかったー」っつって後悔するかもしれないわけだよね?まぁさっきはこれもまぁ知っててあえてスルーしてるっつーかまぁ本質的に興味ないっつーのもあるんだけどね。いや、本能のレベルでは完全に興味あるよ。だって可愛いもん。それはリア二千も同じね。でもまぁ違うだろうなーっつーのが見えるんだよね。まぁそういうところで言うと俺って乙女チックなんだよね。なんとなく何かが起こりそうなんだけど何も起こらないっつー状況が2時間ぐらい続く恋愛と言えるかどうか分からない微妙なロマンス映画っつーかさ、それを保ってるのが一番美しいみたいな考えがあるんだよね。だからこういう今みたいなときが何気に最高なんだよね。


で、ちょっと親しくなったりしたらお互いの嫌なところが見えたり期待してたのと違う面が見えたりしてファンタジーが消えるんだよね。だからこそね、俺は基本的に恋愛ってのはただの幻想だと思っているから、だからこそそれを幻想のまま保っているっていうのがね、一番いいんじゃないか?って思うんだよね。これをプラトニックラブというかはともかくとして、まぁ俺が一番好きな恋愛の体系であることには間違いないね。これがベストなんだよね。リア二千の時とかも「ハーイ!ビル!」とかいってリア二千に挨拶されて、んでクラスのリア二千に興味があるやつの反感を買ったりしている時期ってのが華っつーかピークなんだよね。まぁその後は俺も相手に答えられるだけの何かがあるわけじゃないし、俺もまぁ先が見えちゃうっつーかまぁ可愛いけどこの子とは違うなぁーっつーのを感じてるから、だからこそそれを壊したく無いんだよね。俺もなんとなくでも可愛いなぁーとかって思ってる状態で、相手もビルってミステリアスで知的でちょっと素敵だわなんて思ってる時が最高な時でさ、それはまぁあれなんだよね、映画の予告編とか見て「面白そうだな!」って期待しているその頭の中で期待されている映画ってのが一番その人にとって面白い映画なんだよね。何かに書いてあったことだけどさ。


まぁイリュージョンという名の恋愛映画の予告編が一番いいんだよね。「ロマンティックだわぁー」っつーその期待が続いて、んでセメスターが終わったりして、さっき書いた結局、恋人同士にはならない男女みたいな感じでプラトニックな関係が終わるってのが一番美しいんだよね。結局まぁ相当合わない限りさ、「期待はずれだった」とかさ「次を探そう」とかさ、そんな風になるとつまらないんだよね。それこそリアルという名の悪魔がイリュージョンを打ち消してしまうというのが一番残酷。だから恋愛はプラトニックというか、何かが起こりそうで起こらないっつー関係が一番いいんだよね。イデアのレベルの恋愛が至上である理由はこういうところにあるわけ。まぁ俺は色んな子とこういう関係を楽しみたいっつーかさ、まぁこれって実際まぁ相手がそんなに俺に興味が無くても勝手に俺が脳内恋愛してれば基本的に成立することだからさ、まぁあっちも興味があったらそれはかっこいいプラトニックラブっつーかさ、レベルの高い観念的なレベルの恋愛って感じだけど、あっちが対して興味を持ってくて全部が俺の勘違いだったらまぁ俺の勝手な気持ち悪い妄想ってことになるけど、両者共々実際的な何かが伴わないってことでまぁ結局どっちも同じだからね。真実なんて誰にも分からないけど、まぁなんとなく勝手に心がときめいてますみたいなね、下手すれば最悪なレベルの恋愛なわけだけど、まぁでもそれでいいんだよ。それが一番なんだから。だからプラトニックラブっつーかさ、観念的な恋愛って崇高でもあり一歩間違えるとオタクの妄想でもあるんだよね。そのスレスレな感じがまたヤバくていいじゃない。でもまぁ妄想だとは思わないけどね。かなり確信が無いとここまでのことはさすがに書かないからね。それこそさ、ただの妄想だったとしたらこれってウェブに残るわけだからすんげー恥ずかしい独白になっちゃうわけじゃん?それは自分のとりたいメジャーをアナウンスしていたわりに結局4大に入れなかったみたいな恥ずかしさがあるわけでさ、さすがにそこまで馬鹿なことは俺も書かないよね。メジャーを暴露したのも行く自信っつーかやれる確信が出来たからアナウンスしたわけだしね、それはまぁプラトニックラブの件も同じね。両方とも勘違いだったら恥ずかしくて死にそうなことになるけどね。「ぐわぁぁぁぁ!!あれがはてなに残ってるぅー!!!」っつーね。


でも俺はさ、The science of getting richを読んで確信したことだけど、やっぱね、イデアのレベルで何かを思い描くって凄く大事なことなんだよね。で、その描写が具体的で現実的であればあるほどそれは実現するわけでさ、だからそれを物凄く強く念じ続けるんだよね。そうすれば俺の夢は叶うだろうし頭も禿げずに色々な女性とプラトニックラブを楽しむことができるだろうし良い事だらけなんだよね。まぁ育毛に専念するとか読書に専念するとか具体的なレベルで日々やっていかなきゃいけないことってのはまぁ山ほどあるわけだけども、まぁそれがあっての夢の具現化だからね。そういった意味で俺はまぁそのThe science of getting richのセオリーを信じているわけね。本にもあるようにこれを批判するなり違う意見を言っているような本とか教えに耳を傾けちゃいけないんだよね。そうなったときに効果は消えるわけだから、ある意味で無邪気に信じ続けるしかセオリーの実現は無いわけだよね。前はさ、そこそこ食っていけてアメリカでやっていければ十分だって思ってたけど、それはもうやめたのね。とこどんデカイ夢を持って、んでそれを描き続けて具体的に進み続けるっつー事に決めたのよ。そこそこ食っていけてアメリカでやっていければっつーのはさ、C取れればいいやってぐらいの気持ちでテストを受けるようなもんなんだよね。これは知り合いの留学生が言っていたことだけど、Aを取るつもりぐらいじゃないとBは取れないっつーね、いや、実際そうなんだよね。


まぁ俺はジェントルマンズBならぬCを信じているからそれはそれでいいんだけど、でもまぁ平均点取るって簡単なことじゃないからね。でもまぁ人生単位だったらさ、目標はAを思い描くに越した事はないんだよ。俺はちっぽけだから落第しない程度で十分なんて思ってたらダメなんだよね。そんなことはそれを考えた時点で負け犬になるわけだから。負け犬になる自分っつーのを思い描いて日々生活してればまぁそれが真実になっちゃうんだよ。だったらすげーデカイ夢を持っているに超した事はない。何かで読んだけど、こんなご時世に夢の素晴らしさを語る奴とかってムカつくみたいなことを書いているのがあったんだけど、こうなっちゃ社会も人間も終わりだからね。それはシュトラウスの政治哲学と一緒でさ、相対的ニヒリズムみたいなのに陥っちゃったらそれは哲学の終焉なんだよ。人生や社会や政治然り。だから常に崇高でタフな精神を保ち続けて理想を実現するための現実に向かっていかなきゃいけないわけ。まぁね、また気分次第でまた「死にたい」とかって書くようになったりもするんだけど、まぁある程度考えがまとまったときのマイルストーンってことでまぁ後の自分の役に立てばいいかなっつー感じだけどね。


ウォール伝すげー役に立ってるんだよね。日記としても覚え書きとしても自分のその時の考えとか考え方とか状況ってのが鮮明に事細かに書かれているから、なんつーかこれ以上無いぐらい詳細に満ちた日記的役割を果たしてるんだよね。ウォール伝。ブログ形式にして大正解だったな。読んでくれる人がいるのも嬉しいけど、何よりまぁ自分のためになってるのが一番嬉しいね。


あ、んでモテ期だけど、これはまぁ一概に俺がモテきっているとも言えなくてさ、ようはクラスでのグループダイナミクスというのが働いているんだよね。ようは初対面ではときめかなくても、ある程度、同じ時を同じ場所で過ごすとコミュニケーションがあろうがなかろうがクラス全体が親密になるっつーか、例えばよくこっちの学校であることだけど、別に話した事もないやつがさ、「よー」とかって廊下ですれ違うと挨拶してきたりするんだよね。クラスメートってだけでまぁある程度顔見知りになるっつーか、まぁ人間関係の壁が日本ほど高くないっつーのはあるんだけど、それはともかくとして、グループダイナミクスなんだけど、クラスという限られた場で異様なオーラを出している俺が割と知的な発言をする事で目立っているという事実から、その限られた条件下において俺が魅力的というか「なんだあいつ?」って見える条件ってのが満たされてるんだよね。街ですれ違っただけじゃキモいやつなんだけど、クラスというセカンダリーグループの中である程度目立った存在であるっつーのと、まぁクラスでは割と顔が良い方っていうあくまで比較的っていう敷居が低い中で半ば消去法的に魅力があるように見えているっつーグループダイナミクスによる錯覚も大きいんだよね。


それこそ街行くイケ面と勝負したら明らかに負けるんだけど、セカンダリーグループっつ親密圏っつーのかな?勝手な造語だけど親密になりやすいダイナミズムが働いている中で魅力があるように見えるっつーのがまぁ今の俺だと思うんだよね。単純に凄まじいイケ面ってことだったら、最初から目立っているだろうし、まぁ顔はそこそこだからまぁその変ながらもミステリアスでちょっと愛らしくもあるようなキャラっつーのが俺を引き立てているんだろうね。その奇抜な見た目も含めてね。だからある意味で中途半端な頭の中途半端なイケメンじゃなかなか勝てないっつーある意味での強者かもしれないんだよね。俺は。まぁあくまでクラスでね。かっこいいやつが多いクラスだったら当然三枚目になるわけよ。だから。それは逆もあるね。これしかいない中で割と可愛い子ってのを探すっつーさ、まぁある意味で失礼な見方をしているかもしれないんだよね。男子も。まぁリア二千とお転婆娘はそれを抜きにしてもまぁ可愛いと思うけどね。だからまぁあれだけ人気があるわけで。でも何気に俺が一番お気に入りなのって全く喋った事が無いクリティカルシンキングの不良娘二人組の片方とソーシャルサイコロジーの大人しいちょっと清楚な感じの人なんだよね。全く分からない分、まぁ勝手な妄想が膨らむって意味でもまぁ点数が高いわけね。その点、お転婆娘とかリア二千ってちょっと中身が分かった部分もあるっつーかお転婆娘に関しては普段から中身出し過ぎなんでプラトニック度が下がるっつーのもあるけどね、まぁ悪い事ではないんだけど。ってことでまぁモテていようがいまいが俺は勝手な妄想狂なんだよ。勝手に女の子に得点をつけて満足しているっつー喪男っつーかね、ポストモダン男なわけ。それ以上でも以下でもないんで、仮にモテていようがそれは女の子がちょっと勘違いしているだけなんだよね。本当はそんな素敵なやつじゃないのに、勝手にまぁちょっと気になったりしているわけ。


なのでまぁ興味を持たれるのは嬉しい事なんだけど、残念ながらそんな素敵なやつじゃねぇーんだぜっつーのが自分で分かってるからまぁ失望させたくないっつーのもあるね。まぁ失望させたら俺のプラトニックラブも終わるわけだしね。だから微妙な距離を保つのが一番なわけ。それは単純に俺の実力がないからなんだよね。最高にクールなのは実際はいくらでも手練手管を使って女の子を落とすテクニックも見た目もあるんだけど、あえてプラトニックラブに専念しているっつーやつね。これは完全にクールだわ。俺がクールじゃないのは実力がないのにプラトニックラブにある意味で逃避しているってことね。実力がないからこそと言えるかもしれない。なんかちょっとさっき書いてて「かっこいいな」って思っちゃったんだよね。何かが起こりそうで起こらない状態を楽しむってさ、なんかクールじゃない?でも少なくとも俺の場合はそうじゃないのね。なんつーかな、ジャンル分けできるんだよね。バックトゥザフューチャーのドクみたいなもんでさ、「私は科学者だぞ!恋愛なんてするものか!」とか言っている割に一目惚れした女の人と海底二万マイルの作者の話で盛り上がって「彼女のような人間はこの世には彼女以外にはいない」なんていいながら一晩ずーっと酒を飲んでいる感じで実際は飲まないで酒場で立ってるみたいなさ、こういうナイーヴさがあるんだよね。今時海底二万マイルの作者の話で盛り上がれる子なんていねぇーよ!ってことなわけでさ、時代遅れもいいところなんだよね。だからこそドクみたいなやつには昔の堅物の女性がピッタリだったっつーさ、まぁあれはよく出来た話だよね。バックトゥザフューチャーは3まで出て全部良いっつーシリーズ物にしては珍しい出来なんだよね。俺はオタク全般そうなんじゃないかと思ってるね。


見た目はキモいんだけど、何気にロマンチストでさ、だからこそナイーヴな恋愛が展開されるようなギャルゲーでしか恋愛ができなくてさ、でもタイムスリップできたら江戸の控えめな街娘と結婚しちゃうみたいなね、そういうのってあるかもしれないねっつーかまぁタイムスリップなんてありえねぇー話だからあるわきゃーないんだけどでもまぁ言いたい事は分かったでしょ?「えー!ショーペンハウエル好きなの!俺も大好きなんだ!」みたいな話で盛り上がれるみたいな子なんているわけないし、いたとしても文科系の不細工な女しかいないっつーさ、哲学って基本的に他がダメだからそれやるしかなかったみたいなさ、そういう面があるから、2ちゃん風に言うとリア充なやつは哲学なんてものにコミットしないんだよね。むしろそんなのやってる暇ないっつーさ。だからこそまぁ究極的な恋愛負け組の学問が哲学かもしれないよね。モテてたら哲学は出来ないと思う。ニーチェとかが良い例でさ、実際は女性に興味があるんだけど女性を目の前にするとアガっちゃったりしてさ、で、「あいつらは下等な生き物だ!」とかって勝手に色々書いている割にすんげーオナニー中毒っつーさ、最高の負け組なんだよね。哲学者っつーか偉人ってこういう傾向があるよね。


ニュートンとかもさ、他の仲間が酒場で合コンとかしている時に一人で部屋に籠ってずーっと研究してたらしいからね。そんなのが永遠に続いたんでずーっと童貞だったっていうね。まぁショーペンハウエルは分からないけど、まぁ崇高な童貞みたいな雰囲気があるよね。ショーペンハウエルレベルになるともうそれが童貞の泣き言じゃなくて崇高な童貞のお言葉になるんだよね。カントもそうでしょ?名前が女性器みたいなくせして童貞だったっつーね、でもなんだったっけな?春本っつーかエロ小説マニアだったんだよね。確か。俺って哲学やるにピッタリなんだよね。マジで。哲学者ぶるつもりはないんだけど、普通に生活してたら歴史の偉人みたいな生活してたっつーね、これってある意味最強だよね。自分で作らなくても天然の童貞偉人タイプなんだから、このまま人生続けてりゃー偉人になるかどうかはともかく、まぁ彼らみたいな高い認識のレベルにたどり着けるかも分からないんだよね。それは俺がニュートンやカントのような物凄い革命的な何かを残すって意味じゃなくて、童貞偉人タイプの生活を続ける才能があるってことね。これはもう立派な才能なんだよ!人には自慢できない才能ね。耳蝉は童貞らしいしセックスには興味がないとかいってるけどやつのマックや外部HDDはポルノでいっぱいだったとかね、これって基本的にやつらと一緒だよね。ニーチェがオナニー中毒だったっつーのを読んだときには感動したもんな。彼はショーペンハウエルに凄まじい感銘を受けたっつーしさ、スピノザは唯一の俺の仲間だみたいな言い方をしてるしさ、だから俺は勝手にニーチェを同士だと思ってるんだよね。哲学的な次元の師匠っつーレベルではなく、実生活の負け犬レベルでの同士っていうね、そういうことなわけよ。


もちろん地頭とか認識のレベルとかの桁外れの差はあるよ。でも生活レベルではほとんど同じなんだからさ、仲間だと思ってていいでしょ。あとね、ニーチェワーグナーのことをさ、最初は尊敬してたんだけど後になって凄まじい俗物だったっつーのを知って凄まじく失望したっつーエピソードにも共感が持てるんだよね。ニーチェはマジで俺みたいなナイーヴなやつだったんだなってマジで分かったもん。ツゥアラツゥストラみたいな超越した賢人ではなく、ただの負け犬だったわけよ。まぁ同じようなことをニーチェソクラテスに対して言ってるけどね。あいつはただの乞食だなんつってるわけでさ、まぁ俺は哲学的な話で言えばニーチェはそれこそもうトップレベルだと思うし、俺が批判したりどうこう言える次元のものじゃないって認識はあるよね。ニーチェの哲学に対しては畏怖みたいなのがあるね。ところでナイーヴさと言えばさ、エルフィンリートに心底感動するようなやつって相当ナイーヴなやつだと思うんだけどっつーか俺がそうなんだけど、あれってさ、俺の勝手な定義のイドに似ているんだよね。イドってまぁフロイトのタームでは衝動的で子供じみたところとかさ、本能的な行為体って言われるじゃない?でも俺はね、ここにポジティブな意味での子供じみたところっつーのを付け加えたいっつーかそもそもイドにそうった要素が備わっていると思うのはね、子供ってエルフィンリートじゃないけど、小動物とかを躊躇なく殺すような無邪気な残酷性ってのがあるじゃない?それが成長によって、特に道徳という名のスーパーイゴによってコントロールされることになり、それらの全てがイゴとして統合されるわけだけど、俺はイドにポジティブなものを感じているんだよねっつーのがね、今まで書いてきたようなドクで言えばドクみたいな恋愛におけるナイーヴさとかね、ニーチェ的なナイーヴさとかもね、ニーチェって本だけ見れば凄まじいイゴを持っている存在に見えるけど、実際はイドの部分が強くてさ、かなり子供じみた無邪気さっつーのが高い次元で展開されている感じがあるんだよね。それはね、それこそ少年のような心を持つってことは、つまりはね、スーパーイゴを持ちすぎないってことなんだよね。


スーパーイゴの統治が大きくなりすぎると、本来の人間的なものの原石でもあるイドの存在がほとんどなくなっちゃうんだよね。でも俺は人間の自然性っていうのはイドの解放と凄く大きく関わってると思うわけでね、ただそこをイドを解放するっつったところで、んじゃあ人を殺したかったら殺すのかってことじゃなくて、そこにはやはり当然ながら大人が持つスーパーイゴの働きがあるわけだけど、クリエイティブな人っつーかニーチェみたいな凄い哲学者ってこのイドの解放っつーのをね、上手い事やってのけてる感じがするんだよね。スーパーイゴが強過ぎたらアンチクライストなんて書けないわけ。そこを無邪気にマジなことをポンと言っちゃうみたいなさ、それこそブログレベルのべらんめぇ口調で書いちゃうっつーのがね、イド的な無邪気さってのを感じるんだよね。俺はこのイド的要素って人間において凄く重要だと考えているわけね。スーパーイゴが強くなりすぎると人はみんな同じスーパーイゴという名の統治者にコントロールされたロボットみたいになっちゃうわけ。でもね、スーパーイゴを必要なところで持ちつつイドをエネルギーの活動体として発散させてるっつーか駆動させてるっつーのがね、凄い人になりやすいんじゃないか?って思うんだよね。特にニーチェみたいなのは典型っつーかなんつーかまぁ実在の人物じゃないけどティピカルなマッドサイエンティスト型のドクなんかもそうだよね。無邪気さってのが彼の創造性を規定しているんだよね。


とりみーの素は分からないけど、とりみーはこのイドを爆発させることでそれを暴走の芸術みたいにしている感じがあるよね。岡本太郎はフランスで哲学とか勉強してたらしいからこういったことに恐らく自明的だったんじゃないか?って思うね。だから芸術は爆発だ!とかって言ってみたりさ、彼自体は聡明な人なんだけど、イドを爆発させることの重要性みたいなのに意識的だった天才型の芸術家だと思うよね。中にはそれを天然でやっちゃうジミーちゃんみたいなのもいるっつーかジミーちゃんってスーパーイゴない感じでしょ?スーパーイゴがないから凄いってわけじゃないんだけど、スーパーイゴ的な部分が少なくて、イド的な部分がかなり出ている人でなおかつ独自の感性を持っているんであれだけのことが芸事でも芸術でも出来るんだと思うんだよね。その反面、岡本太郎はインテリがそういったサイコロジカルなエージェンシーの力学ってのに自明的でそれを上手く利用していたというか、意識的に引き出して認識的なレベルで爆発させることに成功していた人だと思うね。これは我ながらなかなかのセオリーだと思うんだよ。先週ぐらいに浮かんだことなんだけども。エルフィンリートで言えばルーシーがスーパーイゴ的で、にゅうがイド的なんだよね。でもイゴの部分ではルーシーもにゅうもこうたを愛する純粋な女の子ってところで一致しているわけ。この純粋さが俺を泣かすんだよね。エルフィンリートの純粋さっつーのにはマジで泣けるよ。アニメを見た時にも泣けたけど、コミックではマジで泣いたからね。あの残虐性とピュアな恋愛と能天気で平和な生活ってのが同じレベルに存在しているってのはそれこそフロイト的というかさ、サイコロジカルなんだよね。凄く。


話の最後で黒沢清ドッペルゲンガーみたいにルーシーもにゅうもこうたを愛する純粋な彼女自身として統合されるじゃない?この統合というポイントはゲームのペルソナ的だよね。幸せとはself-sufficiencyだってアリストテレスが言っていたけど、そのself-sufficiencyを構成する一つとしてやはり精神の統合があると思うね。ルーシーの葛藤ってのは特別でさ、ディクロニウスとしてのルーシーとしては人を殺すということが当たり前の本能として存在しているわけで、それはイド的な無邪気さで小動物を殺したり虫を焼き殺したりっていうレベルではなく、本能としてのイドがbehavioralなものとして殺人にコミットされるんだけど、それをスーパーイゴ的なルーシーは「殺すだと!人を殺す?」ってそのあまりに殺人を当たり前のこととしてやってのける自分自身に恐れを抱くんだよね。で、動物園ではしゃいでいるルーシーはにゅうに近いイド的な部分が過剰に出ているルーシーで、その中間ってのがこうたを前にしたときのこうたが好きな女の子としてのルーシーなんだよね。つまりはそれがルーシー自身というわけ。で、夏祭りの時にさ、ルーシーの頭の中に出てくる包帯をしたルーシーってのがディクロニウスとしてのルーシーというか本能なんだよね。


で、「さよなら。本当に大好きだったこうた」って言った後、ディクロニウスのルーシーを手を繋ぐじゃない?この時にディクロニウスの本能の行為体としてのイドとスーパーイゴ的なルーシーが統合されて、人間を殺す殺戮マシーンとしてのルーシーが出来上がるんだけど、これがまぁイドとスーパーイゴの統合によるイゴの確立なんだよね。ルーシーはディクロニウス的なイドと統合してしまったわけだけど、研究所を出た後にスナイパーに対戦車用ライフルみたいなのを頭に食らうじゃない?それによって無邪気な面を持つルーシーが失ってしまった、例えば動物園ではしゃぐような良い意味でのイドというのをショックによる人格変化により得るんだけど、それが新たに顕在化してきたっつーのは、つまりはそれもルーシーの一部分であったんだけど、スーパーイゴがそれを抑圧していたんだよね。だから出る事がなかったんだけど、イドの化身であるにゅうという人格を得たルーシーがこうたと偶然に浜辺で出会うことで物語が進むんだけど、ここから分かるのはイドをプリミティヴな原石と言う観点から見れば本来のルーシーというのはむしろイドにあるんだよね。でもそれを子供なのに大人口調で話してしまうようなスーパーイゴとしてのルーシーが抑圧していたわけだ。


俺はさっきも似たようなことを書いたように人間の本来性ってのはイドにあると思うんだよね。その無邪気なイドをスーパーイゴによって抑圧しすぎてもダメなのは、子供じみたイドではなく、本能的という意味でのイドとスーパーイゴが手を組んだ事で出来上がった殺人兵器としてのルーシーというのを見れば分かるように、ルーシー自体はハッピーじゃないんだよね。これを現実に置き換えるとさ、子供じみたイドをスーパーイゴにより抑圧して、ただメシを食うとか寝るとか排泄をするといった人間としての当然のことをする行為体としてのイドがスーパーイゴと組むことにより、メシのためだけに働くロボットとしての人間ってのが出来上がるんだよね。その悲劇さは殺人兵器としてのルーシーの不幸さ加減を見れば明らかだよね。だからこそね、無邪気なイドを上手くエネルギーにするってね、重要なことなのね。ぞれを子供じみているということで完全に抑圧しちゃいけないわけ。ディクロニウスの行為体としてのイドと手を組むのか、にゅうの行為体としてのイドと手を組むのか、どっちがいいかは明らかだよね。


で、違ったレイヤーの精神の統合という意味だと、それは前にも書いたように俺みたいに元々狂ってるやつのほうが精神を磨きやすいっつーか統合という内面的行為に有能だったりするんだよね。普通の人は普通にしてりゃーオッケーなんでそれでいいんだけど、俺みたいな奴の場合、何かを変えないとダメなんで、そこに精神的葛藤っつーか精神面での鍛錬っつーさ、それは統合も含めた日々の鍛錬ってのがあるんだよね。分裂病のアーティストが似たようなことを言っていたと思うんだけど、でもこれはマジで言えてると思うな。ある程度頭がおかしいほうが発揮できる能力なり発見できる内面なり普通とは違った観点ってのを持ちやすくなると思うんだよね。でもこれはまぁ天才と馬鹿とは紙一重みたいなもんで、下手するとただの狂人になって終わっちゃうんだけどね。そこがまぁ難しいところなんだけど、でも俺らやつに残された道ってのは狂人的部分を利用しつつ廃人にならないことしかないんだよね。だからこそ内面的鍛錬が必要不可欠となって、それが結果的に高いレベルの認識に到達するタオのようなプロセスにも似た道を歩むということが人生そのものになるんだよね。これがやっぱり哲学学者と哲学者の違いなんだと思うな。哲学学者はあくまで学者で哲学者ってのは魂が哲学なり魂を磨く事ってのを自然に求めるような人達なんだよね。そういう意味で哲学ってのを学問としてではなく、タオ的なものとして追求できる人間ってのはごく少数の才能あるものだけができることなんだよね。これは地頭どうこうの問題ではなく単純な感覚的な才能ね。ラッキーなことに俺はその才能に恵まれているみたいなんだよね。だからこれだけ俺なりに俺なりのレベルで考える事が日常生活そのものになっているのだろうし、何かを吸収するってことが思索をする上で必要不可欠のものとなっているんだよね。まぁ悪く言えばこれって学校でやる勉強とは一番相性が悪いんだけどね。でもそういう意味でまぁ俺の音作りとかと哲学とか学問全般って地続きなんだよね。何かを考え続けて出力するっていう行為としては両者ともに同じなんで、だから全然音楽と哲学とか学問の間に断絶が無いんだよね。あくまで自然っつーかなんつーか。


ってことでまだあとちょっと続きます。