アバドン王を一気にクリア。

mimisemi2009-08-12

アバンドンされてたライドウのアバドン王をやったんだけどっつーかやり始めたらハマっちゃって、んで結局、一周目にしてアスラ王を倒しつつ勘違いしてメギドラオンピクシーを作っちゃったりしてさ、マテリアルとかも必要ないのばっかやっちゃったりっつーかあれなんだよね、case filesはずーっとアバンドンしてたのね。で、最終章ぐらいでさ、やってみるかっつってやってみたらさ、プラスティックとかさ、依頼じゃないと手に入らないんじゃん!とか思いつつさ、いやね、ずーっとストーリー一本道っつーか依頼やってなかったからね、最終章で初期の依頼とかやっても意味無いんだけどね、達成率を上げるために色々やってたらさ、ラストダンジョンでね、二週目に入る前に依頼をやっておこうと思ってやり始めたからさ、ストーリーではラスボス寸前って感じなのよ。それでほとんどやってなかった依頼をそこから70パーセントぐらいにまでしたんでさ、これだけで一日かかっちゃったよ。んで総プレイ時間50時間ぐらいで一周目クリアって感じでさ、ノクターンでもそうだったけどさ、ノクターンではルシファーっつーかあのあれあるじゃん?地獄の底みたいなところ。あそこにさ、無視してたからね、下まで行けなくなっちゃったのね。でもマサカドゥケス持ってるみたいんさ、宝の持ち腐れだよね。で、二週目でルシファー撃破みたいなさ、あ、んでライドウに話を戻すとね、一周目じゃマサカドとかさ、ルシファー無理じゃん?だから全然意味無いのね。ヴィシュヌとかアスラ王とかメタトロンとかいるのにさ、隠れボスにまで行けないみたいな。


まぁいいんだけどね。登録したから。二週目からメギドラオン・メディアラハン付きのピクシーを連れ歩けるからいいやとか思ったらさ、序盤だとmagとスキルのバランスが全然ダメなのね。当たり前だけどさ、メギドラオンとか使ったらほとんどmag使い果たしちゃうわけ。で、なんかあれなんだよね、ノクターンとかだとさ、まぁ比較してもしょうがないんだけどさ、結構序盤からお金をなんとか用意してヴィシュヌとシヴァを連れて歩けるじゃん?でもアバドン王だとさ、いや、前回もそうだったかもしれないけどお金があんま入らないじゃん?で、ヴィシュヌとか6万とかだから無理なんだよね。だからなんつーか2週目だからっつって楽出来ないっつーかさ、もっとサクサク行くかと思ったら全然違うのね。まぁテンペストとかピクシーが持ってるからさ、フォースブーストとね、だからまぁ序盤のボスとかは大体これで行けるんだけど、ミスるとあれじゃん?普通に戦わなきゃいけなくなるんだよね。


完全にどうでもいいモノローグだね。それにしても。どうでもいいゲームの話だもんね。あ、そんなんでさ、ペルソナ4の時みたいにロクにメシも食わずに没頭してたんだけどさ、あまりに熱中しすぎるとあれだよね、世界がそっちに行っちゃってリアル世界との繋がりが薄くなるよね。まぁそんなんでネトゲー廃人とかさ、まぁゲーム廃人ってみんなそうだよね。2次元のイデアの世界に生きてるっつーかマジでギメルのアルカディアとマジで変わらん。


でさ、アトラスって昔からっつーかペルソナあたりから社会派になったじゃん?日本の現実社会をえぐるっつーかさ、現実と現実社会への絶望とのバトルと自分自身とのバトルみたいなのが一貫したテーマになってるじゃない?で、アバドン王は凄まじかったね。モチーフはペルソナ4と一緒でさ、絶望してる人々とダメになる農村地帯みたいなさ、農村っつーか田舎ね。茜が都市に出ててんで兄貴が村のために連れ戻すとかさ、シンボライズされてはいるけどまぁ凄いメッセージ性だよね。あとは日本の神々の怒りね。これは近代化批判もあるけどやっぱ現状批判が強いよね。エコも入ってる。神々へのリスペクトが無くなったとかさ、自然へのリスペクト然りね、で、それらを日本の神々が代弁して怒ってるみたいなさ、アスラ王とかシンボリックじゃん?ダメになったから如来やめてアスラ王になって戦争始めるとかさ、血盟団じゃないけど仏教徒が直接行動するかただ祈るかみたいんさ、そんな葛藤をアスラ王が抱えてるとか凄いよね。描き方が凄いっつーかまぁメガテンって昔からだけどね。世の中の事を神話とか神々とかっていうモチーフを使えてメタファー的にやるのがうまいんだよね。ただの神々の怒りとかじゃなくて、それがまぁ代弁者っつーかさ、あとね、あれだね、自由意志に関する問いとかは凄いよね。


哲学的問題をシンボライズしてんでストーリー化してるっつーかさ、最終的にまぁ主人公達が「道は俺たちが作るんだ!」みたいな感じになって絶望とか破壊神とかに抗うじゃない?だからなんつーかな?この革命家精神っつーのがメガテンには昔からあってさ、ようはマトリックスのネオ的なロールをいつも主人公が取るようになってるんだよね。で、神をも超越して人間の自由意志とかさ、自分たちが変えていく!みたいなニーチェ的なwill to powerを発揮するっつーかさ、まさしくそういう意味で本当にニーチェ的なんだよね。現状を知ればニヒリズムに陥るしかないのだか、そこは受動的ニヒリストになるのではなく能動的ニヒリストになれ!みたいなさ、で、そのwill to powerが神をも倒すっつーのが凄いよね。いつも凄いなって思っちゃう。


あと安易なスピリチュアリズムへの批判みたいなのもあった気がするな。「運」みたいな迷信的な概念に振り回される愚かな人々みたいなのが本当によく描けてるよね。あとはまぁ心の闇とかに支配されるとかさ、まぁあの黒い虫はそうだよね。基本的に人間がそういうのをおびき寄せてるんだっつーさ、ドラクエ的にさ、どっかに悪者がいてそれを救世主が助けるみたいなのじゃなくて、救世主が人間の価値を問うんだよね。っつーか神が問うてきて、んで人間の一般意志を体現した主人公が自由意志を主張するみたいなね、creatorは神々ではなくて我々なのだ!みたいなのがあるよね。でも神々へのリスペクトを忘れないっつーか作って行くのは人間達で、んで神々はそれを見守ってるっつーかさ、ただ人間がおかしなことをしだしたら地獄の底からでもいつでも悪魔でも怒れる神々でもがやってくるぞ!みたいなね、いつも警告的なんだよね。絶対悪じゃなく必要悪としての悪魔とか邪神達って感じなんだよね。


あとは人間の弱さね。最後の方でwill to powerを忘れた人々が心の闇に犯されていくみたいなさ、それがまぁあの黒い虫だけどね、村人とかもそうじゃん?んで村長殺しちゃうみたいなね。色々なデマンドがあって、んで一個一個に答えられなかったりして、んでアンリミットな村人の不平不満と欲望が募ってくるみたいなさ、それのガバニングに村長は疲れ果ててるみたいなね、サイモン・クリッチリーの無限のデマンドってまさしくこれだよね。うろ覚えだけどさ、個々の欲望なりデマンドを個々の主観性で割るんで個々の要求が膨大になっちゃって、んで絶対にそれらは充足されることがないみたいなね、だからまぁ無限のデマンドなんだけど、アバドン王の村ではその構図がよく描かれてたね。これも凄いなと思った。ガバニングの難しさとトラディションみたいなね、それが良いものであれ悪いものであれ伝統ならそれを守るべきなのかさ、伝統よりも考えられる範囲で最善のことをやっていくのがいいのかさ、その辺の微妙なバランスだよね。


で、俺が思うにさ、伝統ってのはさ、特にね、守るべき伝統ってのは絶対的なっつーか普遍的な良さっつーかさ、村なら村の掟っつーのは村維持のために必要っつーか重要なものみたいなさ、で、それらを伝統化すればつまりはそれらをドグマ化できるじゃない?なんでそうなのか分からんけどそれが村の掟だからみたいな理由で誰でもそれに従うことを要求されるし疑問を抱いちゃいけないみたいなさ、まぁ中世のキリスト教と同じだよね。ロジックより宗教性とかドグマが勝ってる感じっつーのかな?特に理由も無いのに掟だからっつって生け贄を捧げるとかさ、残酷な儀式をするとかさ、合理性だけでは包括出来ない何かがそういった伝統にはあるのかもしれなくてね、単純にそういうのを「残酷だ」って理由だけで批判しちゃいけないんだけどさ、逆を言えばあれだよね、孔子の話であるじゃない?川の神様だかに生け贄を捧げるみたいな野蛮なことをやってた人達をさ、生首を川に流すみたいなことをしてた人達に饅頭だかなんだかさ、なんかの代用品を捧げればいいじゃんって言ったことで生まれた何かっつーのがあったよね。それが饅頭だかなんだかの起源になったみたいな話ね。


徳の高い孔子のあり方を伝えるようなエピソードだけど、その一方でさ、歴史的な事実は分からんけど何かで読んだのはさ、孔子は元々人間の塩漬けが大好きでさ、んでそれでメシを食ってたたしいんだけど、どっかから送られてきた塩辛だかが自分の可愛がってた弟子を使って作られたってことを知ってんで憤慨っつーか「なんてことだ!」って思って家中の塩辛っつーか塩漬けを家来に捨てさせたみたいな話もあってさ、孔子って今の観点から見ると徳があるように見えて実はポリティカルコレクトネス的なものってゼロなんだよね。でもそれはプラトンとかと一緒でさ、またシュトラウスになっちゃうけど、当時の感覚でそれらを捉えないといけないんだよね。


そもそも人間の塩漬けをそれまで平気で食べてたってことがおかしい」って今の感覚なら言えるけど、当時はそれが当たり前の食べ物の一つとしてあったら誰も孔子を責められないんだよね。いや、孔子を擁護するつもりはないんだけどね、今の観点で当時の話とか逸話とか思想とかを理解しようとしたらダメなんだよね。当時の時代背景とか風習とか人間のあり方とか社会のあり方を考えて、なるべく当時の感覚でそれらの教えを理解しないと思想でもなんでも劣化しちゃうっつーか時代が進めば進むほど本質との乖離が生まれるっつーかさ、シュトラウスの近代性への批判のコアはここにあるよね。っつーのはさ、時代が進めばそれは前提無しで進歩なのだって考え方がそもそもの間違いだってことね。今の感覚は当時よりかは進んでるからさ、だから孔子とかプラトンにしても今の感覚でいくらでも批判できたりさ「これおかしいじゃん?」って言えるけどそういう観点がそもそも間違いなんだってことね。


風習とか考え方とかはおかしいけどそれらが言わんとしていることはなんだ?ってことがコアなんであってさ、表面的にそれをただの逸話とか事柄として理解しようとしてもダメなんだよね。むしろそれじゃあ時代が進めば進むほど古代からの教えみたいなのは劣化していくことになっちゃうもんね。それは人間の塩漬けが良いのか悪いのか?ってことじゃなくてさ、孔子が思った事とか行動したことはどういうことなのか?ってのを理解しなきゃいけないんだよね。別にそれはだからまぁ孔子に限らずだけどね。饅頭の話もあるけどさ、孔子の弟子がさ、牛だかを生け贄に捧げてるっつー村みたいなのがあって、んでそれを見た弟子は「なんて無駄で惨い事を!」って言ったら孔子が牛が殺されていなくなるということよりもその儀式そのものが無くなるということのほうが惨いことだって言ったっつーけどそれが何を意味しているのか?っていうと儀式の合理性とか意味論とかではなく儀式の作用の重要さだよね。それが村においては機能していてさ、んでそれが例えば村人の心の安心に繋がってるとか儀式をすることで連帯が強まってるとかさ、それをようは毎年やることに意味があるみたいなさ、村人みんなが顔を合わせてみんなで村の無事を祈願するみたいなね、ウェーバーが言う脱魔術化っつーのはつまりは近代になってこういう儀式めいたことっつーかさ、迷信っぽいものが一気に無くなって、んで人間は個人個人が徹底的に合理的になったみたいなことを言ってるじゃない?


でもその背景にはプロテスタンティズム的なイデオロギーが背後にあって実はそれは凄く宗教的であるみたいなね、まぁウェーバーが正しいかはともかくとして、人々が働くとか金を作るってことが無批判的に「良いことだ」とされることの背景にまぁプロテスタンティズム的なストラクチャがあるっつーのはまぁようは脱構築の先駆けだよね。それが実際に正しいかどうかはともかくとして、その金作りなりなんなりへのオブセッションっつーのがある意味において宗教的だっつーのはまぁ「働くもの食うべからず」のイデオロギーだよね。金の管理とか横流しとかをするだけでメシを食うどころか巨万の富を築いてる人もいるんだけど、でも一般レベルでは汗水垂らして働いて稼いだお金で美味しいご飯を食べるのが美徳とされてるじゃない?まぁ今はだいぶそういうのは無いと思うっつーか資本主義のあり方が露骨に出過ぎちゃっててみんなそんなの信じなくなってるとは思うけどさ、でもまぁまだあるよね。


汗水垂らすっつってもさ、もうその汗水すらもシステムに組み込まれてたらさ、汗水垂らしても実際は資本家っつーとあれだけどさ、システムの一部を労働力として担ってるだけでさ、実際の全体性を見ればただのマネーゲームのストラクチャの一部を担ってるだけっつーか組み込まれてるっつーかさ、でもそこになんつーのかな?毎日頑張るみたいなことに美徳を見いだすのってまぁある種の物語だよね。そんなリアリティを許容出来ないんでさ、毎日満員電車に揺られてんで夜遅くまで働いて・・・・っつーさ、でも労働後のビールが上手いとかさ、子供が良い教育を受けられるとかさ、もう完全に奴隷だよね。奴隷マインド。うちの親もそうなんだけどっつーのは良い意味でね、ようは俺がこっちにいることって結果的に俺が家の経済を立て直すみたいなさ、まぁ大げさかもしれないけど、でもまだ蓋然性があるのってこっちじゃん?まず日本じゃないじゃん?


で、それに対する投資っつーのかな?自分たちではなんとかならないものを他に託すということに全力をかけるというね、まぁ親父が良い例でさ、自分の特性とか性格と全然あってない野心だけを追い続けて破綻しちゃったみたいなさ、know thyselfをやるのに30年かかっちゃったみたいなさ、哀れだとは言わないけどでもまぁ企業戦士みたいな奴隷兵士みたいなイデオロギーを生み込まれてんで尽くしてきたのにリストラされたとかさ、退職後は何も残らなかったとかさ、俺の人生なんだったの?ってまさしくそれじゃん?奴隷は奴隷であることで生きられるっつーか奴隷は奴隷の物語を持たないとやってけないじゃない?リアリティがあまりにキツ過ぎるんでそこにありもしない美徳とか架空の価値とか物語を作らないと生きていけなくなるんだよね。体を維持するためだけに生きてるんだっつー現実を知るのが怖過ぎて、だからあんまそういうのを考えないっつーかさ、そうあることだけを考えて意味なんて考えないっつーのがまぁ典型的な奴隷マインドだよね。だから革命みたいなアイデアとか世直しみたいなアイデアってそういう精神からは生まれないよね。


日本で言えば子供の頃からさ、学校に行くこととかさ、勉強することを小学生としてそれがいいことなんだみたいな価値観を植え付けられるじゃない?それがあまりにもオートマチックで誰もそれに疑問を抱けないっつーか親もそういうイデオロギーを植え付けられた子供が親になってるわけだからさ、まぁ子も子だよね。俺はそういう意味で生まれつき反逆児っつーかさ、俺が凄いっつーよりかはまぁ脳の違いだけどさ、それがまぁ結果的に良かったんだけど、そういう脳が生まれつきないとさ、現状を受け止めるっつーかただやっていくしか道が無くなるじゃん?それが当たり前っつー考え方だよね。それで一生終わるかさ、もしくは老人になってから誤りに気づくみたいなさ、うちの親父は無理しすぎてたけど、でもまぁ種類とかは違えどまぁ大枠は一緒だよね。いや、それはその辺のサラリーマンと一緒だってことが言いたいんじゃないのね。虚偽意識からの脱出に30年かかったっていう例なのよ。うちの親父の場合、しつこいようだけどまぁ違うけどね、でもその構造とかは一緒なのね。親父の場合、愚かさはゼロなのよ。ただ哀れさは虚偽意識に苛まれているサラリーマンとかと同レベルかまぁ葛藤が強くてそれが実らなかったという意味では悲劇度は高いかもしれん。まぁただ逆を言えばそれを知れたってだけいいのかもしれないけどね。


そういう話は個体差はあれど色々聞くじゃない?結局これってある意味で普遍的なんだよね。色んなところに偏在している現象っつーかさ、それは近代性が生んだ悲劇みたいなティピカルな言い方もできるかもしれないけど、そもそものなんつーか人生に意味を見いだせないものの宿命っていう感じはするよね。でも実際はそれを知れる人ってのはあんまり多くないんだけど、でもやっぱりさ、アメリカでもなんでも基本的にはやっぱ奴隷社会だよね。奴隷マインドを育む社会っつーかさ、社会がそれを要求していてんで奴隷になることでしか身を保てないという人達が大半じゃない?だから分かってても仕方なくやるしかないんだけど、思うにアメリカってその分かってる率は少なくとも日本よりかは高いと思うね。生活のためにやってるんだっていう感がやっぱ強いって気がする。そこに変な意味とかを見いださずにさ、自己実現っつーか自己充足は自分でやるみたいなさ、まぁそれが消費でも家族を持つことでもセックスでもいいんだけどさ、それはそれが個々に勝手にやるじゃない?まぁ今はそんな余裕ある人達少なくなったっつーかまぁ中流がいなくなったっつーのはアメリカの場合80年代ぐらいからだと言われているけどさ、でもなんつーか奴隷加減は激しくないような気がするんだよね。


日本の場合さ、ありえないじゃん?サービス残業とかさ、アメリカは奴隷でも5時に帰るよね。学校のオフィスでもそうだったけどさ、2時間待ってようやくオフィスに通されてプロセスを踏めると思ったら話してる途中に「もうオフィスは閉まるから」とか言われて帰されるみたいなさ、まぁ日本の公務員みたいなもんだよね。いや、今は分からんけどなんつーか5時に帰れるみたいなのってあるじゃん?でもそれって当たり前なんだよね。労働時間の規定はさ、拘束時間と考えるべきでさ、どっかの他人がね、誰かを一日8時間以上拘束してはいけないっつーことなのよね。出社退社時間とかじゃないわけよ。その辺のルーズさっつーかさ、他でもいけるからうちもやろうっつーか誰も文句言わないしそれが当たり前みたいなのってバイトやってて思ったよね。サラリーマンが5時に帰れないってこういうことだったのか!ってスーパーとかでバイトしてて思ったよね。あ、でもまぁ亡命寸前のところはちゃんとしてたけどね。でもセブンイレブンとか酷かったなっつーかまぁあれは店長だけどね。


朝の6時に帰るはずなのに朝の6時ぐらいからドリンクの補充をやらされるみたいなさ、一切残業代つかないのね。でもそれをやることが役目っつーかさ、それも役目なんだっつーか働くことが良いことだってつまりはそういうことじゃん?前にもっつーか当時書いてたと思うんだけどすんげーアホな大学院生がそういう感じだったもんね。古代ギリシャ文字の勉強をしてるとか分けの分からないことをやってるのにも関わらずそれに対する信念とか理由が何にも無くてさ、「なんで古代ギリシャ文字なんですか?」って聞いても「なんでだろう?」みたいな回答しか帰ってこないみたいなね、で、学校用の古代ギリシャ文字が書いてあるプリントをセブンイレブンの制服を着たまま帰りがけに店のプリンターで印刷したりなんかして、んで防犯カメラでその様子を見てたらさ、プリントする前にしきりに俺に「学校用の資料があるんで」とか言いつつさ、その様子を見てたらすんげー人目気にしてるのね。古代ギリシャ文字が刻まれているプリントを印刷しているこの俺を見てくれ!みたいな感じなの。ちょーアホだな!って思ったっつーか当時19ぐらいだったと思うけど当時から下々の者との乖離を感じてたんだよね。あまりにパンピーがバカ過ぎるっつーのは外部の人間と会うとよく分かるよね。店長にしても他のバイトにしてもバカさ加減が半端じゃない。


当時は酷い精神状態だったな。でもそんな俺を支えてたのってさ、「バイトしてる俺って素敵!」っていう虚偽意識だよね。6時までなのに7時半とかに終わって帰るとさ、家族が「あらお帰り。今終わったの?ご苦労様!」みたいなさ、「お疲れさま!」みたいな感じだったんだけど、この概念を支えているイデオロギーって「働く事は素晴らしい」ってイデオロギーじゃん?実際は全く意味の無い単純労働で時間と割に合わない時給をもらっててさ、んでしかも残業代つかないみたいなのでもさ、廃棄のコンビニ弁当とかパンとかを大量にもらってきてさ「収穫だ!」みたいに自慢げに朝食を食べてる家族に見せびらかすみたいなのって完全にアホだよね。「こんなに遅くまで働いてえらいでしょ?そんな僕を見て!」って考えだもんね。まさしく奴隷精神だよね。そんなのえらくも何ともなくてさ、ただ人使いの荒い店長に使われてるだけなのにね。あとこいつが酷かったのは俺がアホだと思ったのが給料を7割ぐらいしか払ってなかったことがあったんだよね。気がつかなかいとでも思ったのかさ、「おかしくないですか?」って聞いたらすんげー笑顔で「ごめんねー」とか言いながら振りこんでない分の金を封筒で渡しやがってさ、まぁ後日だけどね、で、次の月は割合違ったからね。次の月は8割ぐらいが振り込まれてた。んでまた「おかしくないか?」って言ったら残りの2割をまた封筒で渡してきたけど完全にこいつ確信犯だったな。その証拠にその店ってしょっちゅうバイトの募集貼ってたんだよね。まともなやつが辞めていくって証拠だよね。


危険なバイトを見極める方法に求人がしょっちゅう出てる店は要注意ってのがあるよね。でも仕事が無いんじゃ選んでられないじゃん?で、泣き寝入りするしかなくて、んで人を使う側は不況を理由にガンガン人を使ってクビ切ってさ、人件費だけで相当儲かるよね。社会の不況と根本的な労働法とか人権のルールは変わらないわけでさ「不況だから」っつって人を殺したりすることが許されないのと同じで「不況だから」っつってルール無用で解雇したりとかサービス残業やらせるとかさ、そんなの許されないことだよね。でも日本人って飼い馴らされてるから文句言わないじゃん?その辺はアメリカはやっぱ違うんだよね。底辺の人達でもその辺は弁えてるんで時間外は絶対働かないみたいなのがあるよね。まぁそういうストラクチャで社会が回ってるんで、日本みたいな回り方をしないっつーのはあるけどね。そういう意味で日本は負のスパイラルになってるよね。労働法無用、人権無用っつーのがデフォルトっつー設定が恣意的に行われてるっつーのがデフォルトっつーさ、設定の設定がさらにまたデフォルト設定になってるみたいな、メタ設定がすでに奴隷レベルの使い方になってるんだよね。それに文句を言うとKYになる恐ろしい社会が日本だから自殺率がトップレベルなんてまぁ必然だよね。一位がどっかだか忘れたけど一位は上手くいってない共産国だかでしかも確か気候とかがあんま良くないところなんだよね。


いや、分からんけどようは空がずーっと暗いっつーんで季節性の鬱みたいなのが半ば恒常的に続いちゃうみたいな国だったと思ったな。その証拠に自殺率ってずーっと空が青いような国だと貧乏でも少ないんだよね。まぁそれは後進国とかの場合、金儲けを第一に考えてないし、社会よりも共同体の包括性とかが高い可能性があるからさ、季節だけでまぁ自殺率との因果関係なんてのは計れないんだけど、でもまぁ色んな意味で日本はワーストだよね。こんだけテクノロジーが発達しててなんでも買えるみたいなユートピアなのに自殺率が高いって完全にその要因が社会に内在されてるって話じゃん?季節とか気候とかそういうの関係ないっつーのがちょーヤヴァいよね。ハワイの自殺率が世界でトップだったら社会学者とかが「なんでだ!」ってみんな調査しに行くよね?だって明らかにおかしいじゃん?雰囲気と自殺率が合致しない。日本もまぁそんな感じだよね。外からの見てくれはいいんだけど中身は完全に色んな意味で終わってて崩壊してる。ガイジンウケがいいのはガイジンはそういうお国の諸事情をご存じないじゃない?だから「ジャパンに行きたい」とかって平気で言うけどさ、まぁ観光ならいいけど、まぁそれで行ったらパリみたいなもんかな。


花の都の癖に差別主義者が多くて移民の暴動があったり失業率が高かったり大統領が差別主義者だったりさ、そりゃーパリ症候群なんて症状が出るよねって話だよね。まぁ社会情勢とパリ症候群は関係ないけど、俺が言いたいのは見てくれとかイメージっつーか表層と内層は全然違うんだよってことだよね。見た目だけじゃなんにも分からないよね。ジャパンとかパリはイメージだけが旅行みたいなパッケージングの商品として売り出されてるよね。だから実際とのあり方にギャップが生まれるんだよね。そういう意味だとアメリカは外交ではダブルスタンダードでさ、社会もまぁある意味でそうだけど、でもこれまた国民性を象徴するかの如くそこまで二面性は無いんだよね。行ったら行っただけのそれだけのアメリカがあってそれ以上でもそれ以下でも無い感じ?悪く言えば薄っぺらい感じだよね。よく言えば二面性が無いってことになるけど俺にとってはさ、特に日本みたいな凄まじいグルーミーな鬱と自殺者大量生産国みたいな国で生まれ育った俺としてはこの薄っぺらさっつーかさ、手が出せないシステムにコントロールされていながらも最悪な日本と比べればまだ人間としての自由がある感じがするよね。その自由が社会が酷くなってもまだあるところがいいんだよねっつってもまぁキツい感じが無いとは言わないけどね。


前に書いたエントリーがあってさ、でもゲームにハマり過ぎてて更新忘れてたからさ、それ貼ろうと思ったんだけど貼る前にゲーム終わったよーみたいな話をしようと思ってたら例によって長くなったんで分けますね。二等分ね。ってことで続きはまた明日。


PS


参考程度に。詳しくは原著を読んでくださいね。


http://ja.wikipedia.org/wiki/奴隷道徳


ニーチェ君主道徳を勧めると同時に奴隷道徳の中の精神力を学ぶ価値もあると主張した」って書いてあるけど、これがようはマキャベリ君主論ね。まぁ俺の勝手な解釈だけど、平民の感覚とか生活を理解してる君主ね。逆を言えばブルジョワ感覚しかない君主に平民を統率することは出来ないのね。


Machiavelli and Us

Machiavelli and Us

それにしてもこの本のジャケ最高だな。アルチュセールの狂気の部分をよく表してる写真だね。