地獄からのメール。ラスト。

mimisemi2009-08-26

いや、もう終わりね。今日で。ってことで昨日の続きね。


困った人達学ってマジで体系化された学問として作れると思うんだよね。いや、そういう本は出ててさ、付き合い方とか書いてるけど、もっと学術的っつーかシステマティックにすることが出来ると思うんだよね。で、システム化するとさ、恐らく類型化できたりするわけ。まぁ出てる本とかでも類型化はされてると思うけど、ある種の文化とか民族を超えたユニバーサルな困った人達の傾向性ってののマトリックスみたいなのが見えてくると思うんだよね。「あーこういうタイプはああいうことが好きでこういうことを言うな」とかさ、いやね、こっちに来ても感じるんだよね。人間が多用というよりかは人間はとことん人間だなという実感のほうが多いよね。色んなタイプの民族とかさ、違ったバックグラウンドを持った人達でもなんつーかある程度のタイプ別に分けられるぐらいのある意味での絶望的な多様性の無さってのは感じるんだよね。スノッブなやつとかさ、インテリ気取りのやつとかさ、偽善的なやつとかさ、なんか大体タイプがあって、んでまぁアメリカ特有のものもあるんだけど、ある部分は日本人とも共通してるっつーかようはそれは人間の感情とか情動とかから考えとか思考が来ていると考えると、フレームワークを人間として考えた時にはむしろ普遍的なパターンってが現れることのほうがむしろ必然的なんだよね。


で、ギフテッドで言えばさ、変わった人達ですらもある程度のパターンがあるわけじゃん?いや、俺がそうだとかってことじゃなくてさ、エキセントリックな人達とか創造的な人達に共通するものとかってあったりするんだよね。もちろんその中でも個々は固有性があるんだけど、それでも大枠のフレームワークはあるんだよね。そう思うと全てが人間系というコロラリーに入ってる気がするじゃん?もう外側は無いっつー感じだよね。外側にいるような人達でもそういう人達を集めるとマイノリティーと呼ばれる人達の特徴とかが表れてくるわけ。で、一気に話を戻すとまぁ困った人達とか嫌な人達然りなんだよね。個体差はあれどある程度共通した何かがあるわけでさ、そういうのをパターン認識化して傾向と対策的にこういう人達と対処していければ少しは人生が楽になるんじゃないかな?って思うよね。


そういう意味で俺はちょー未熟なんだよね。また騙されてるんだもん。「良い人だ!」って見積もってた人が全然違ったって俺の目は節穴か?ってことじゃん?自分で自分のクビを絞めることにもなりかねない由々しきことだよね。これは。いつも書くようにうちの親父がそういう人で結構失敗してきてるからさ、だからこそ気をつけないといけないっつーかさ、俺にもそういう要素が多分にあるんだよね。だからなんつーのかな?今回のことっつーか前のことを思い返してみても「最悪な連中だったな」って思える反面、嫌な気分の半分ぐらいはそういうのを見抜けずにずーっと騙され続けてきた俺とかさ、安易に信じてしまうナイーヴな俺っつーのに対する自己嫌悪だよね。だから気分が悪くなるんだよね。そういう人達がいるのはまぁしょうがないとして、そういうのを見抜けずに勝手に理想的な友人に仕立て上げてた俺のバカさ加減っつーの?それに本当に腹が立つね。どんだけアホなんだ?って感じ。人間不信とか言ってる割にまだまだ甘いんだよね。人を見抜く力が弱い。一枚岩のバカとか嫌なやつは一瞬で分かるけど、猫かぶりのやつらはなかなか分からないよね。「むむ!」と思ったのが卵でさ、んで俺の直感を信じてあんま深く付き合わないことにしたわけだけどさ、でももしかしたら「むむ!」が間違ってる可能性だってあるじゃん?


深く付き合う前から勝手に想像してさ、「恐らくこうだ」って見積もって付き合いをやめるっつーのもまぁ勿体ない気がするよね。でもその一方で直感を信じろ!みたいな考え方があるじゃん?大体それはあってるからさ、苦労して時間と労力をかけてまで「やっぱこんなやつだった」なんてことを知る必要はないんだよっていうさ、まぁ直感ってショートカットだよね。論理的な帰結を論理無しに直感的に帰結に一気にいっちゃうみたいなさ、これは本当に感覚的なものだけど、こういうのをもっと養っていかないと体が持たないなって気はしたよね。今でもまぁ十分人間観察は鋭いし逆に不気味なぐらい細かいと思うけどさ、でもそれでもまだ足りないんだよね。猫をかぶってるやつの内面まで見れてないっつーかさ、そこがまだまだだなって思うね。ある意味でまぁX線の目を持つ男にならなきゃいけないんだよね。自己防衛のためにね。「良い人なんだ」って思う事はまぁあんま良くないな。やっぱ。期待値を下げる知的ニヒリストになれというわけではなくてさ、期待とか思い込みが幻想を作り出して、んでそれに捕われたりしちゃうじゃない?


アイドルっつーのがまぁまさしくそういう虚像を作り上げるプロじゃん?メディアとかプロダクションとかとまぁグルでイメージを作り上げるわけだ。だからドラッグ漬けでセックスしてたとかってのがバレたりするとみんな驚くんだけど、そんなもんさ、アイドルとか芸能人のイメージと実際は違うほうがむしろ当たり前でさ、芸能人なんてテレビと現実のギャップが無い人なんて滅多にいないわけじゃん?アイドルなんて特にそうだよね。それを何を大げさに騒いでるんだっつーのはさ、まぁ前に余命何ヶ月だかの花嫁のエントリーでラカンがどうのとか言いつつ書いたよね。映画のマトリックスで言えば、マトリックスは人間の集合的欲望とか意志の表れで、みんながその虚像に捕われているってことだよね。まぁ悪夢だよね。でもまぁ心地が良いという人が多いわけだね。マトリックスの世界では髪型とか衣装がメンタルプロジェクションとしてデジタル世界に現れるっつーのまぁプラトンイデア論みたいなもんだしさ、マトリックスってようはそういうことじゃん?その虚像の中でバッテリーになってるロボットだよね。このプラトン的な虚像に捕われる洞窟にいる囚人達というアレゴリカルなパラダイムはなにもマトリックスとかさ、世界対人間とかっていう大きなパラダイムだけで起こるんじゃなくて、個々の細かい事柄にもこういった人間の傾向性を表すような幻想性みたいなのが出てきていつのまにか主観がそれに支配されているということが起こりうるわけ。


アイドルのパラダイムもまぁ同じじゃん?で、俺とキャリさんとかさ、相手を見抜けない騙されやすい親父で言えばさ、「素晴らしい社長だ!」とかって感じてるのがすでにさ、自分という主観の中に入ってきている光によって映っている物事をそのまま盲目的に信じてしまっているということなんだよね。完全に判断が主観化されるということはさ、つまりはまぁプラトンの洞窟が常に頭の中で起こっているってことなんだよね。ウェイクアップしてても気をつけてないとそういう細かい虚像に捕われる可能性がある。マトリックス的な、世界対人間というパラダイムではプラトンアレゴリーを理解していても、細かい事柄の中でもそれが起こっているというのを理解していなければ、つまりは主観という洞窟に主観化された奴隷という名のマインドによって動かされる自分になるじゃない?となるとあんま変わらんのよね。洞窟を出たつもりでも脳内の別の洞窟とか細かい事柄に介在する虚像とかに騙されちゃうんじゃさ、まだまだだよね。全然甘いってことだよね。それを今回は凄く感じたってことね。洞窟を出たつもりでいる自分というのにようは腹が立っているということもあるわけ。自分の主観に騙されていたという自分の情けなさというか甘さね。そこを猛烈に反省するわけね。二度とこんなことが起こらないように常に精神は鋭く保っておかないと本当にダメだなと思ったね。もう生きるってことは戦場にいることと一緒だよね。万人による万人のための闘争というのは実は自然状態じゃなくても常に起きているということだよね。


それは自然状態をリヴァイアサンによって克服した社会が結局はその万人による万人のための闘争を権力者に仲介させることで調停させているわけで、ようは主権ってのはこういうことだしさ、アガンベンで言えばこれが剥き出しの生でありホモ・サケルだってことじゃん?真に政治的なのは剥き出しの生だっつーアガンベンのテーゼを勝手に解釈するとさ、全てが政治なんだよね。つまりは一般的に言われている政治的なものは実際はそこまで政治的ではなく、剥き出しの生を生きている狼同士の間で起こる争いなり仲介なり話し合いなりなんなりってのが真に政治的なんであってさ、いやね、全てを個人闘争に還元するつもりはないけど、でもつまりはさっきの俺のプラトンの話に繋げると個々人が洞窟を出るということもさることながら、主観に指す光によって作られる虚像によって騙されたり、その奴隷になるということをやめるということも真に政治的なことなんであって、それは名ばかりの主権者と呼ばれる国民達が行使する主権者としての投票とか意見表明とか運動とかよりもよっぽど究極的に政治的なことなんだよね。高度なことではあるけど、これが仮に様々な手順を踏む事で全ての人が洞窟を出ることが可能なんであればそこでネグリ・ハート的なマルチチュードも可能になるけど、まぁそこは無理だよね。基本的には社会という名ばかりの自然状態をリヴァイアサンに調停された実質的なジャングルではさ、リヴァイアサンは内在されてるわけだしさ、つまりはそこで主権が行うのは国民達の自然権の保存じゃない?でもその自然権保全もあくまで法的な意味での自然権なんだよね。


つまりは誰かに暴力を振るわれたらゲバルトを独占している国家権力が国民の自然権保全するために個人的なことにも介入してきますよっていうことだけどさ、そこで俺が今回永遠と書いた野放しにされている言葉の暴力とかね、デフォルトでは別に対した事ないと思われているからさして重要ではないと思われていることが実はそれらを大事だと捉える人達にとってはさ、その世界というのはまさしく自然状態そのものなわけ。リヴァイアサン無き自然状態ね。いくらでも人は人を傷つけることが出来るし人権を侵害出来る。で、そこで「生き辛い」とか「社会が怖い」とかって言おうものならジャングルをサバイヴする戦士達が魔法使いみたいな体力と防御力のやつらにたいして「甘えた事を言うな」って言うわけね。


でもさ、そのまま社会に出たらぶっ壊れる人だっているわけよ。で、そこまでをリヴァイアサンが介入しろとまではいわないけどさ、それを解決できるのが剥き出しの生における真の政治だよね。つまりはそれが洞窟を出るということであったり、プラトニックな善を追求するということであったり、decentな人間感覚を保つということであったりさ、そういったものがようは自治を生むわけよ。善によるオートノミーね。つまりはその善においてはキャリさんのような人間は明らかに悪なので捕まったりはしないけど「善良な」市民達からは疎まれるわけ。これがようは自治的な権力の行使だよね。リヴァイアサンが不在でも行使できるまさしく民主主義的な権力ってのが自治的な権力なのね。


ようは国家の介入無しに行使出来る権力ね。ようは善が支配する生政治は本質的に良いわけ。まぁコミュニタリアンみたいな考え方だけど、まぁ普遍主義っつーかポストモダン的なさ、「善なんて相対的な概念でそれが善だとなんで言える?」って言うさ、まぁポストモダン懐疑主義っつーかさ、普遍を嫌うね、反普遍主義みたいな意見は分かるんだけど、これもまた俺が「真理」と書いたことはつまりは「レイシズムは良くありません」とか「障害者を排除したり差別するのはよくありません」というのはもう間違いない「善」の感覚なんだよね。善というよりかはもう当然の感覚ね。当善っていってもいいかもしれない。人間やコミュニティなどに内在された当然の物としての善の価値観ね。それによって悪を排除するようなことが自助的に自浄的に行える社会というのがあれば真の意味でのユートピアは訪れるし、それこそアナーキズム的な理念に立った自治的な社会というのが育めると思うわけだけど、まぁその可能性には賭けないじゃん?「無理だよねー」で終わるよね?一人一人が洞窟を出れるほど人間ってのは賢くないわけ。だからこそ出来る人達がやっていく剥き出しの生の中で育んでいく誰でも行使できる善の権力というのがつまりは今回色々書いたようなね、「善く在ること」につきるわけ。嫌なことをしたり言うのはやめましょうって当たり前のことなんだけど、実際はこういうことこそが本質的に政治的であるということね。


で、もう一個追加するとさ、書こうと思って書いてなかったことだからまぁ政治繋がりでついでに書くけど括弧付きの「政治的なもの」ってシニフィアンシニフィエの戯れみたいなもんでさ、それ自体で政治的であるものなんて意外と少ないんだよね。秋葉原の事件も俺はあれは全然政治的じゃないって書いたじゃん?人間の共同主観性が政治的なシニフィアンを生み出すみたいなことを書いたよね?ようは共同主観性の中で政治的なものが浮かび上がってくるだけで、それ自体で見れば全く政治と関係なかったりするわけね。逆もまた然り。政治的だと思われていなかった事とか事件が多いに政治に関わっていることもあるわけ。だからこそ一人一人が善くあるってのはさ、ゾーエーにもビオスにも還元されない恒常的な地平を保つために必要な概念なのね。モラルの崩壊も学問の崩壊も全部こういった恒常的な地平が保たれずに崩れることで起こる地盤の崩壊なんだよね。それを保全することこそが真に政治的な行為であるし、だからこそ生きる事そのものが原則的に政治的な行為なんだよね。だからこそそこでの脱政治化は許されないわけ。それは市民社会保全する市民の役割として一人一人が担っていかなきゃいけない、投票みたいな見せかけだけのことではなく、真に「政治的なもの」にコントリビュートする主権者が行える主権に対するある種の抵抗でもあるし、自治を生み出すダイナミズムを生み出すような政治的行為なのね。


それを普遍化するとまぁアナーキズムになるしさ、そういうことが人間には出来るからやっていこう!っていうのがまぁマルチチュード的恋愛とか愛としての政治学なのかもしれないけど、俺が言いたいのはもっと原初的なことで、人を傷つけるのはやめましょうってことだよね。最低限の他人への配慮は当然のことであるし、意図的に人を傷つけるなんてもってのほかだっていうような当たり前のことね。それが実は政治的な行為であるというのはまぁ散々書いた通りだけど、俺はこのぐらい基準を下げたことだったらマルチチュードよりかは可能だと思うんだよな。人を傷つけないでさ、傷つけるようなやつは排除されるっていうね、それがさっきかいた自助的で自浄的な社会ってことね。


国家がそういう風に機能するようになれば最高だけど、その話はおいておいてもまずはまぁ市民社会のレイヤーから始めないと話にならんだろうという話で、そういったものが本来の政治的なものよりもっと欠如しているのが日本社会ね。その反面、表面的な政治的なものも、俺がアガンベンとか持ってきて書いた真に政治的なものも機能しているというか、意識的にそれが保全されたり機能してるのがアメリカね。それはアメリカが移民社会でそういった公共性とか政治性みたいなのを担保しておかないと一気に殺し合いが起きるっていうある意味でのメキシカンスタンドオフな自然状態に近いぐらいのアナーキーな世界だからこそならずものですら守るような公共性とか政治性が担保されているわけね。それは他人への配慮といった愛としての政治学というよりかはまさしく自然状態でお互いを殺し合わないように最低限市民であるなら守っておかないといけないルールを自分の自然権保全のために行うというある意味で自己的なコミットメントの結果がこの政治性の表れというわけね。


それは意志の高さというよりはサバイヴに直結した必要性であるからこそ担保されているし保全されているものなんだよね。ナーナーでやってきたホモジェニックな日本社会にこういったサバイブ的な必要性が欠如しているのはまぁある意味で必然的な結果かもしれないね。だからこそ俺は日本はガンガン移民を受け入れて多元化していくのが結果的に社会の成長を促すものだと思っているんだけどね。異質なものが入ってくることで生まれてくる暗黙のルールとか公共性とか政治性ってあるわけよ。アメリカはそれがデフォルトなんでだから国家が帝国主義的であったとしても自治的だったり自助的な社会性みたいなのがあるんだよね。だいぶ無くなったとは言われるけど、崩壊して無になった日本から来た俺に言わせればまだまだ全然あるって思えるわけね。


そういったナーナー社会の所産が今回のキャリさんの脱政治化された愚かな行いの表れであるメールだったりするわけ。日本特有だとは言わないけど、恐らくこういった陰湿性みたいなのも俺はなんとなく脱社会化とか脱政治化と関係があるんじゃないかと思ってるんだよね。まぁ今日書いたロジックで言えばコネクションはビンビンだけどね。思ってるっつーかあるに決まってるだろうっていう帰結になるはずなんだけど。たまたまかもしれないけど、俺が嫌だと感じた人間ってみんな脱社会的で脱政治的なんだよね。政治を暇人の考える事だと言いながらゴシップ雑誌を読んでいたり、くだらない芸能ニュースとかに精通ばかりしていてさっぱり世の中の事を考えてなかったりっていうような、まぁ単細胞みたいな連中が比較的多かったってことね。だから彼らのような存在ってのは害悪なのよ。常に害毒をまき散らしている害虫みたいなもんでさ、そういうのになぜか良い人達が巻き込まれて被害を被っているんだから、良き市民達が害虫駆除を積極的に行わないでどうするんだ?って話でしょ。


リヴァイアサンが介入するような話じゃないし、そもそも教育が崩壊している日本みたいなのにリベラルエディケーション的な教育のあり方なんて期待できないじゃん?まぁ時間はかかってもやるべきだとは思うけど、まずはまぁ人々からだよね。人への配慮とか配慮しなくてもまぁ傷つけたりはしないってことなんて今からでも出来る事だからね。一人一人が。それが結果的に自然状態を調停するリヴァイアサンの相を顕すことが出来れば自治に近づくんだよね。一人一人が出来ないことじゃないかなり政治的なことって本当に身近にあるんだよね。悪が蔓延るのは善の欠如からなのよ。キャリさんがあんな感じなのは愛が足りなかったからなのか分からんけど、まぁそれはともかくとして、隣人愛とまでは言わないさ、もっと現実的な自己愛としてのアガペーを実行してほしいと思うよね。殴られたくなかったら殴るようなことはするなっていう自己保全の方法としてのアガペーね。それは慈愛ではなくただの自愛なんだけど、人間ぐらいの存在にはそのぐらいの敷居の政治的なことこそがふさわしいと思うわけね。それがデフォルトでもっと他のことが出来る人はガンガンやっていけばいい話で、まずは人間として最低限のことはやろうねってことだね。結局まぁいつもの正論となったね。狂ってるようなこととか分けの分からないことを書いてるように見えて正論しか言ってないっつーのがウォール伝の特徴だし良いところだと思うんだけど、まぁ今回のエントリーは我ながら本当に自明のことしか書いてないなと関心してしまったね。


ってことでやっと終わりです。サムライズするとまぁやられたら嫌だなと思う事を人にやるなって話だわな。黄金律ですね。マタイ福音書の「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」のまぁ換言バージョンだわな。


記憶力 (知的生きかた文庫)

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PS


ソクラテス的ジレンマとプラトンの衆愚観などが凄まじい強度で凝縮されている素晴らしい文章を見つけたんで貼っておくねっつーかまぁたまにこういうのあるんだよね。普通の学者っつーか研究者が書いたような文なんだけど、凄まじい威力っつーか妙な魔力がある文章ね。この人は多分哲学者タイプなんだろう。describeしているだけなんだけど、文章から強烈なプラトン的衆愚観とかソクラテス的哲人のジレンマへのシンパシーが感じられるね。なんつーか密度が凄いのね。凄まじい威力の要約だなと。で、文章が死ぬほど美しいわけ。すげーな。たまにこういうのあるのね。マジで。

The philosopher in existing society - exemplified here by a thoroughly Athenian-sounding democracy - is compared to an expert navigator trying in vain to make his voice heard on a ship where the crew (representing demagogues) have taken control, after drugging the rather deaf and short-sighnted captain (the "people" or demos).


These sailors flatly deny that navigation is an expertise, and they deride the expert when he insists that knowledge of winds and stars is required if one is to sail a ship correctly. They dismiss him as a mere "sky-watcher and chatterbox". This derisive description echoes a phraseology that Plato's Socrates elsewhere uses with implicit approval, thus appropriating and turing to his own advantage the charges that were to be brought against him at his trial. We are thereby invited to recognize in the expert navigator a thoroughly Socrates-like figure.


This expert's understanding of the stars, contrasted with the sailors' scornful ignorance of them, represents a gulf in communication between philosophers and the test of society that Plato in the Republic seeks to display at its starkest, as a first step toward its eventual bridging. There can be no possible doubt that the stars in the Ship of State simile symbolize the Forms. And just as the stars with their unfailing regularities are, unbeknown to the crew, vital to the navigation of the ship, so too in Plato's eyes it is only by reference to absolute and unvarying values, equated as usual with Forms, that an intrinsically unstable entity like the city can be well regulated.


The same point is further elucidated by the cave simile that opens Book 7. Its main epistemological lesson lies in the following contrast. On the one hand, there the bound prisoners in the cave, whose exclusive reliance on shadows cast by statues and other manufactured objects that are themselves artificial images of beings in the outside world represents the level of understanding found in ordinary citizens not only of a nonideal city like Athens, but also of the hypothesized Callipolis.


On the other hand, there is the philosopher who, following his release, has absorbed the reality of the outside world before returning to the cave, Although (a point I shall develop shortly) this returning philosopher is initially portrayed as a Socratic figure, uniquely achieving enlightenment in a nonideal city and rewarded for his pains by the uncomprehending hostility of his fellow citizens, he becomes in due course emblematic of the class of philosophers whose education the ideal city promotes, orchestrates, and values.


Philosophy, Forms, and the Art of Ruling by David Sedle extract from The Cambridge Companion to Plato's Republic (pp. 261-62)


David Sedleっつー人はケンブリッジ大学の教授らしいです。


http://en.wikipedia.org/wiki/David_Sedley


オフィシャルサイトの写真が超怪しい。ガーゴイルみたいな見た目で大衆嫌いの顔してるね。


http://homepage.ntlworld.com/sedley/


The Cambridge Companion to Plato's Republic (Cambridge Companions to Philosophy)

The Cambridge Companion to Plato's Republic (Cambridge Companions to Philosophy)