「で、なんで数学に目覚めたの?」っていうことに対する内省。その2

mimisemi2009-09-17

最近寝れないんだよね。学校が始まるといつもそうね。学校なんてどうでもいいやとか思ってるくせにやっぱり妙に真面目なところは「ちゃんと行かなきゃいけない」ってことでさ、そういうところは真面目だからっつーかまぁ当たり前なんだけど、行くよね。そうなるとさ、時間はともかく起きる時間が決まるじゃん?「何時に起きなきゃいけない」っつープレッシャーがかかるともうダメね。これだけで怖くて寝れなくなる。特にその日に何があるわけでもないんだけど、起きなきゃいけないということ自体がもう恐怖なんだよね。つまりはこの恐怖っつーのはさ、起きなきゃいけないってことはまぁある程度早めに寝ないといけないっつーかさ、睡眠時間をある程度確保しないといけないじゃん?だから寝付きが悪くなるのね。寝なきゃって思うんで寝れなくなる。あとなぜかね、学校行ったりしてる時のほうが疲れているはずなのに眠くならないのね。ずーーっと休みの時にグダグダしてる時のほうがよっぽど眠くなる。ってことはある程度緊張してるってことなのかな?やっぱり。


それはともかくだな、数学の話を続けたいと思うんだけど、色々と考えてみるとね、所謂、大学で数学を専攻することっていうのは数学という学科そのものみたいな整合性というか機能美があるなと思ったのね。まずはまぁ俺が考えていたコースだけどね、それはまぁ政治学をやりつつ思想史とか政治哲学とか哲学もやるって感じだったけど、これって無駄が多い可能性が多いのはさ、所謂、教師のアビリティーによって授業の有用性みたいなのが大きく左右されるじゃん?クズみたいな教師に当たったりしてさ、んで変なイデオロギーとかさ、党派性バリバリのクラスとかやられてもしょうがないじゃん?あとすでに知っていることが結構多いから知っていることをやってもしょうがないっつーのはあるし、なによりまぁ先生いらずなんだよね。これらに関しては。


で、数学ってさ、前にも書いたけど、仮に教師が馬鹿でもフォーミュラなり数学的方法論とか体系ってもう決まってるからさ、得られるものが教師の善し悪しに左右されないよね。もちろん政治学でもフォーミュラみたいなのはあるんだろうけど、フォーミュラを駆使するような社会科学的なものには全く興味が無いからさ、そうなると結局、思想なんつーあやふやなものを勉強するってことだったら直に本を読むのが一番いいじゃん?でも数学の場合、特に基礎的なやつだとやり方は一つしかないんでそこに党派性とかイデオロギーの違いは出ないじゃん?実存主義にベッタリの先生の授業は実存主義的な話ばかりが続くだろうしさ、所謂、その先生の本を読んでいるような気分になるのに対して、数学は普遍的に教科書的だよね。どの教師でも結局、教えることは一緒っていうさ、一緒って書くとつまらないけど、なんつーか決まってることだからそれしかないじゃん?そういう意味で安全なんだよね。哲学とかでバカな先生に当たったりしたらもう悪夢だからね。マジで。


あとやっぱ学校と言えばテストとか暗記じゃん?「デカルトが考えたことは以下のどれでしょう?」ってまぁ暗記するのもいいけどさ、「神は死んだって言っていたのは誰?」みたいなくだらないカルトQみたいなのがテストってこともあるじゃない?あとはまぁすでにやらされたけど、アメリカ憲法の何番がどうで、クロウ法がどうだのこうだのっていうさ、1=1を徹底的にやらされるじゃん?だから意味を見いだせないと完全に無意味っつーか退屈っつーかさ、それこそ人生のニヒリズムみたいなもんだよね。それやってどうするの?とかさ、それ暗記してどうなるわけ?っていうね、ただ数学の場合、フォーミュラの暗記をして計算をして答えを出すということが目的であり意味になるわけでさ、そこに美学とか喜びを感じられたらもう完全にそれってこっちのもんじゃん?学校にありがちな単調な暗記も全部が意味のあるものになるっつーか、数学においては意味が無い暗記って無いんだよね。そこが凄いなと思ったよね。


テストで良い点を取るということもダイレクトにそのまま数学的実力テストって意味でまぁ良い点数を取るってことが意味のあることっつーかさ、それはGPAとかも考えた時に、なんつーか取り組む動機がある意味でバイナリデータと組み合うみたいな世界だからさ、最初から意味が規定されてないんだよね。哲学とか政治の場合、意味が個々で違う中でシステムの中で意味ないことをやらされるっていうさ、元々それ自体に意味があるものは所謂、institutionalizeされると意味が無くなったりエッセンスが枯れたりするんだよね。学問の形骸化っつーのかな?学問の崇高さとか素晴らしさなんて学校には求められないみたいなね、むしろそういうのを求められないような形骸化されたフォームで存在する学問っつーのに虚しさを感じるわけじゃん?純粋にやりたかったら独学しかなくなるんだけど、数学の場合、テクネーというかさ、数学脳みたいな脳の筋トレみたいな部分もあるっつーかさ、数学的思考みたいなのをインストールするみたいなさ、institutionalizeされた場所で学ぶにはベストな学科っつーかね、で、勝手に美しさとか楽しさってのは自分で発見すればいいだけでさ、学校にそれを求めなくていい分、なんつーかある意味で純粋なソフトウェアって感じだよね。


このコンパチビリティは凄いなと。政治学のクラスとかでディベートとかを楽しむみたいなのも良いんだけどさ、変な話、そんなディベートできるの?っていうのはあるよね。それは俺がじゃなくて場所的にね。えらそうな言い方になるけどさ。レベルの低いトピックについて話し合いとかやらされてもしょうがないっつーかさ、それはレベルの定義にもよるけど、多分まぁ院ぐらいまで行かないとそれは期待できないんじゃないかな?と思ったわけで、所謂、テクネー的なものばかりを提供している大学で学ぶにはテクネー的なものが一番いいんじゃないか?って思ったわけね。knowledgeとかwisdomって学校で教えられないんだよねっつーか教えられる先生がいない。むしろそんなものを期待してるなら「何そんな期待してんの?」みたいなことにもなりかねないっつーかさ、だったらなんつーか徹底的に理論的なものを学んで思考的なものを強化したりツールとして利用できるようになったほうがいいんじゃないか?って思ったんだよね。思想なんて一人でやるのが一番いいわけでさ、やっぱ学校に過度な期待はできないよね。


政治学にしてもさ、その時期流行ってた理論とか考え方みたいなのがそういう時期にスタンダードとして教えられるわけでさ、例えば10年経ったら古くなるとかってさ、そういうのってなんか勿体ない気がするよね。すげー高い金払って学ぶのにさ、それが時代遅れになったりするのってどうなの?っつーか、だったらコストがかからない独学が一番いいじゃんってことになるけど、数学理論とか幾何学にしてもさ、これはこの先ずーっと変わらないし世界共通じゃん?そこがまたいいよね。まぁそういう意味であれかな、なんつーかまぁ仮に俺が数学を究めるとしたら、考古学的政治学とか哲学は副業になる感じだね。まぁ別にランクをつけなくてもいいんだけど、なんつーかまぁ考古学をメインでやろうって気にはなれないっつーか、数学って常に新しい感じがするからそれがまたなんつーかさ、発見とかのその場に立ち会えるかもしれないとかっていう蓋然性とかを考えても夢が膨らむよね。発見はいくらでもあるんだけど、ようは知識が無いと理解できないからなんで凄いのかが分からないじゃん?だからまぁその数学的知覚というか感覚というかまさしく数覚を養うという意味でもそれこそ数学ジムに通うみたいな感覚で学校に行ければそれだけで楽しいしバカ教師の心配とかしなくて済むなって気はするよね。リスクが低い割に得るものが多いのと、効率が良さそうっつーのはあるよね。


ソクラテス的魂への配慮って学校でやるもんじゃなくて自分でやるもんじゃん?そういう考古学的で精神的なものを大学に求めてたってかなりアホと言えばアホだよね。お門違いもいいところっつーかさ、あと政治学とかっつってすんげードライなリアルポリティクスのことばっかりやらされたりしても苦痛だし、むしろそういう政治科学的なことだったらそれこそ数学的知識があったほうが見えてくるものが多いような気がするしさ、まぁある意味で俺に足りないのってそれだよね。思想的な「べき論」ばかりでプラクティカルな理論とか意見を言えないっつーかさ、まぁ言えなくはないけど、言えることに関してはまぁ逆に哲学的政治学的知識とか無くても言えるようなものが多いわけでさ、リアルなことに口を出すとなるとやはりまぁジャーナリスティックになるっつーかさ、思想なんつー古ぼけたものが役に立つ場ってそこまで多くないよね。やっぱり。


例えば社会契約論を前提に社会の事を考え尽くしても、なんつーかリアルな世界にはその思考実験なり結果なりが反映されない可能性のほうが高いし、そうなると結局、東浩紀的ななんつーのかな?思想的バックグラウンドを利用した評論に活躍の場が偏るよね。思想的な枠組みを脱構築して現代的な事象を語るとかさ、そういう評論活動が多くなりがちっつーかさ、あとは権力論とか社会契約論再考みたいなのなんてとっくにやらされ尽くされてる感じがあるからさ、あとからやってもあんま意味無いっつーのはあるよね。だからまぁあれなんだよね、特に日本のアカデミアって今も昔も過去の思想の輸入と紹介ばっかりなんだよね。で、それも一級品は少ないのね。超一級なのは英語圏でのパブリッシングばっかりでさ、結局、英語読めちゃうと日本の学者が書いた哲学の解説書とかって本当に意味なくなるんだよね。まぁ分かりやすさという意味ではいいのかもしれないけど、やっぱりなんつーかコンパクト過ぎるっつーかさ、日本語で今まで解説本が無かったものに関するものが読めて良かったーぐらいの価値になるんだよね。


いや、思想的な枠組みを利用して現代的なものに評論をするぐらいしか哲学的な知識を活かせないってまぁ英語圏でも恐らく同じだよね。こないだ書いたスポンヴィルとかノージックにしてもそうだしさ、いや、彼らが書いた「役に立つ哲学」は超一級品だとは思うけど、もうああいうのがあると他いらないじゃん?2流が書いた哲学的エッセイなんて誰が読むの?ってことになるし、あとはなんつーかこっちの出版物でも硬派なのって結局専門書ばっかでさ、まぁ当たり前だけどね、んでまぁ一般書とのバランスが良さそうな哲学書ってまぁコミカルなものが多いよね。何々and philosophyみたいなシリーズがあってさ、その何々にあたる部分がターミネーターになったりマトリックスになったりハリーポッターになったりシンプソンズになったりさ、ようはポップカルチャーを哲学的なバックグラウンドを持った人達が哲学的観点で語るみたいなね、まぁこういうのも面白いんだけど、こういうのを寄稿できるぐらいになれば御の字っていうか、ベストでこんぐらいだろうっつーのがまぁ哲学とかって見え見えだよね。それはウォール伝書いてても分かるよね。


俺の哲学はウォール伝が永遠と続くようなもんで、これ以上でもこれ以下でもないんで、これを本業にするというのはかなりキツいところがあるよね。まぁある意味でこれが本業だけどね。今もこの先もね。ただまぁ金にならないからさ、やっぱどっかで働くにあたって有用なものを学んだり有用な学科の学位を取ったほうがいいわけだよね。結局、俺が政治学とか哲学みたいなのを専攻しても結実するところはウォール伝なんだよね。ウォール伝がより学術的な正当性とか妥当性を持つぐらいになるだけでさ、まぁそんなもんじゃん?で、それって自分が勝手に自分で何かを読み続けてればそれってできるじゃん?時間はかかるけどね。


それに比べて短期で詰め込み教育しつつ無駄無しで楽しく学園生活を送るとなるとやっぱり数学が一番かなって思えてくるよね。本当に。計算しかできないアホが永遠と計算を続けるって最高につまらないけど、計算はできないけど抽象思考は得意みたいなやつってむしろ高度な数学とか物理学とかやったほうが意外といいかもしれないよね。前にも書いたけど、学問って高次元かするとそれが哲学化を意味するものになることが多いんだけど、まずは仮に俺が数学的なメソッドなりパラダイムで哲学を続けるにしても基礎が無いじゃん?ここがポイントだよね。その足りないところを学校で補えるっつーのがいいよね。目的がはっきりしてるっつーかなんつーか。まぁあくまで独学が軸だから学校は補修でしかないんだけど、政治学とか哲学とかの場合、補修というよりかはそれが義務になりそうで怖いんだよね。学生としての条件を満たすために出席してるみたいなことになるともう最悪なんだよね。本当に。


まぁそんなところだね。今日、先生にまぁ今日書いたようなことっつーか「数学の学歴って哲学とか政治学よりマシですよね?」っつーかさ、「仕事あります?」みたいなリアルな質問をしたんだけど、まぁ数学は応用が効くから例えば実存主義の研究をしてた人よりかは数学理論を研究してた人のほうが社会的に役に立つことが多いっつーまぁ当たり前の答えはもらえたよね。先生は歩きながら「この空間だって数学だからね」って言ってたけど、ようはまぁ設計とかさ、いや、設計をやるかはともかくとして、何かに付随する数学的なもんって多いじゃん?まぁ映画パイのレニーが言ってたようにMath everywhereじゃん?それは抽象的な次元でもそうだし、現実的な次元でもそうなんだよね。で、哲学とか政治学の場合、特に俺の場合は抽象的な思想的なものばかりをやりたいというのがあって、結局それじゃあ今と変わらないじゃんっつー自己矛盾があるわけでさ、それを解消してくれるのが数学だなって感じだよね。最初は哲学でさ、んで現実的なものとのコンパチビリティがあるのが政治学だと思って政治学をやろうと思ってたけど、所謂、俺が志向してるのって政治理論とか政治思想とか政治哲学だからさ、その知識を深めても雇用っつーか仕事とはあんま関係ないのが多いっつーか例えばそれで政治的な仕事ができるようになるか?っていうと多分できないじゃん?


まぁ俺は元々できないけど、なんつーか俺が言いたいのは政治理論はともかくとして、政治思想とか政治哲学はまぁ考古学的要素が強いっつーかまぁ研究者か教職ぐらいしかないよねってことなんだけど、この2つがダメだった場合、ある意味でもう完全に役に立たない人間っつーか今の俺が学業を終えた後も続くみたいなことにもなりかねないよね。だったら他の事は一切ダメだけど数学やらせたら凄いみたいになるほうが少なくとも「思想とか哲学に異常に詳しく」なるよりかはマシかな?って気がするのね。今の俺が「なにできますか?」って言われても何もできないじゃん?で、政治学とか哲学の研究を散々やってもこれは変わらないよなっつーのはまぁリアルに感じるよね。だから学位を活かして研究職に就くしかないんだろうけど、それがダメだった場合、それこそ哲学の博士号を終えてコンビニの店員やってるみたいな人がいるけど、そういう感じになると思うからね。マジで。そうなることを考えずにひたすらそれを磨く事ばかり考えていたけど、磨く事自体は自分でもできるし、ライフスパンで考えたら一生それってやろうと思えばできるじゃん?ようはそれをアカデミアに寄生しながらやるかやらないかの差なわけでさ、だったら他にも応用が効きまくりそうな数学を極めたほうがいいかなって気がしたんだよね。で、こないだ書いたように極め尽くして抽象的なメタ数学とかさ、数哲学みたいなのに取り組めたら最高なんだけど、それってある意味で知識があればできることだからさ、だからまぁ知識をとりあえず頭に取り込もうかな?って感じだよね。


ようは俺がやりたいのは統合なんだよね。俺の好きな分野っつーか哲学と政治学と数学のコンビネーションっつーのかな?まぁあと心理学とかも一応いれとくか。それがまぁ俺がやりたい学問なんだなってのが最近数学によって分かったよね。ようは一つでもなく3つとか4つっていう個数の問題でもなく、一つの統合された集合としての学問を自分で統合したかったんだなっていうのに気がついたわけ。で、今の俺には数学の知識が無さ過ぎるってことでまぁんだったら学校でやればいいじゃん?って話なのがまぁ今の心境っつーか状況ね。留学する前とかさ、アメリカの大学で政治学とか哲学とか勉強できたらいいけど俺の頭じゃ無理だし、何しろ英語がネックになるだろうなーとかって思ってたけど、まぁ今も英語はネックだけど、意外とそうでもないっつーかそれがただの思い込みだったっつーのは本当に思ったよね。


で、数学についても多分一緒だよね。「俺なんかが取り組める分野なのだろうか?」って心配なんだけど、入り口を見てみたらすんげー楽しそうどころかもう興奮しちゃってしょうがないっていうさ、で、しかも英語力って全然問題にならないしさ、地頭が完全に発揮できる分野って意味でまぁ言語的なハンデを背負いながら哲学とか政治学のクラスを頑張るよりかは逆にフットワークが軽いんじゃないか?とも思ったよね。それは英語力がネックだから哲学とか政治学を専攻することを諦めるってことじゃなくて、数学を専攻するということに関する利点を考えた時にまぁ今の俺にとって利点だらけだなってのが数学だったってわけね。


今日は論理学をやったけど、まぁこれも集合論とかと一緒で一回の授業でもうエッセンス掴めちゃうのね。自家薬籠中のものにするのはあとはもう練習のみっていうさ、概念とか方法論を一瞬で理解できるんで、そういう意味ですんげー有利ではあるよね。だからまぁこのペースで自分でもやっていって、んであと一年ぐらいで大学と大学院でやることの大まかなラインぐらいは掴めればいいかな?って思ってるわけね。そういう下準備というか理論武装をして4大に転入って感じね。そういう意味で4大の転入まであと1年ぐらいあるからまぁたっぷりとディグることはできるんだよね。問題は1年ぐらいで掘り尽くしちゃって「専攻にする意味が無い」みたいなことになることなんだけど、まぁそれはやってからでいいや。もしかしたら興味なくなってるかもしれないし。そうなった場合、もう文字通り学校は完全に意味が無くなるよね。それが嫌だからまぁ意味論形成だよね。無意味とも思えるものっていうか人生そのものがそうなんだけど、だからこそ意味が無さそうなものに意味論形成という概念装置を適用させてそれを輝かせるってさ、まぁボディービルダーみたいなもんだよね。肉体美みたいなのってそれ自体には意味は無いけど、その本人にしてみたら意味あるじゃん?それが美しかったりするわけじゃん?数学はまぁブレインビルディングだね。そういう意味で。


脳がマッチョな場合、社会的なものにも役に立つ場合があるかもしれないって意味でまぁボディービルダーと一緒っつーかまぁ変な言い方になるけどね、哲学とか俺がやりたいと思う政治学とかにはそれが求められないんで、だからまぁ専攻にするのは俺のライフワークだからこそやめようかなって感じだよね。そういう意味で音楽とかと一緒だよね。諦めたという意味ではなくて人生そのもので取り組むものなんで、別に一つの時期に集中してそれだけやってる必要とかなくてさ、ライフスパンで考えてまぁ熟考するっつーかまぁ煮込んでトロトロにするって感じだよね。だからまぁ別に無理に専攻とかにしなくても独学でやっていけばいいって話なわけで、だからまぁそういう意味で音楽と同じなんだけど、これを言い出すと数学も結局はまぁ同じだから結局学校いらないんだよね。結局まぁ学歴だよね。


なんか前と同じだな。結局学歴のために学校に行くってことだね。まぁただ同じ学歴のためでも数学の場合、無駄が無いだろうっていう予想が立てられるってことだね。あとまぁ知らない分野に飛び込んで挑戦してみたいっつーのもあるっつーのは前に散々書いたよね。哲学とか政治学はまぁ真剣に読み始めて2年ぐらいになるけど、もうお馴染み過ぎるんだよね。自分の中で。当たり前のもの過ぎてなんつーか新鮮味が無いっつーかなんつーか。今の俺がサウンドエンジニアリングとかを勉強するために学校に行くようなもんだね。得られるものは絶対少ないってのは目に見えてる。


なんつーか俺なりの碩学であるということの意味が見えてきた気がするな。それは幅広く色々なことを知っているという物知りという意味ではなく、幅が広いことで掘れる深さみたいなのが碩学によって出てくるってことなんだよね。それがまぁようは統合って意味なんだよね。碩学の人が哲学をやる場合、他の分野の知識が哲学に役に立ったり、むしろ不可欠であったりして、そのまた逆というか他も然りなのね。哲学的バックグランドを持った人が抽象度の高い数学理論とかに取り組んだら哲学的な知識が数学に役に立つというよりかはむしろ不可欠であるなんて場合もあるわけで、まぁ2年ぐらい前に書いたエントリーのあれだね、MAX/MSP的なオブジェクト指向だね。多態性とか多相性っつーまぁpolymorphismだよね。そのpolymorphismのアサインを今後は数学を重点的にやっていこうっつー考えだね。なのでまぁ数学一筋になるってことではないわけね。


ってことでした。