ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

通りすがりさんへの返信。

mimisemi2010-01-26

20日のエントリーのコメント欄に通りすがりさんからコメントを頂いたので、それの返信を1エントリーにするです。

通りすがり 2010/01/26 00:54


社会にコミットしてないくせに政治云々言うな、ということについて、意見の内容、という面ではmimisemiさんのおっしゃる通り、ニートが言おうが、大学教授が言おうが同じことを言っているのであれば、同じことじゃないか、という点は正しいと思います。ただし、そういうことを言う人というのは、おそらくは、『働いてなかったら食っていけねーだろうが、食っていけねーなら死ぬんだから政治云々言えねーじゃねーか』という『心情』が含まれているのではないかと思います。そしてそのあとに『だから偉そうにいうな、俺がとってくる魚(あるいは何でもいいが)お前食ってるだろうが、何もしてないくせに』という『心情』があっての意見だと思います。


というか、このことは意見というよりも『事実』です。だからみんなそのように言うのだと思います。現在のニートだとか若者の就職率の悲惨さを見ると、このようなことを何も考えずに言う社会人(おっさんたち)は非難されて本当だと思います。が、基本的には、働いてない人というのはメシを食っていけないのであり、そうすれば死ぬのであり、そうすれば言論も意見もクソもないのだというのはやはり事実です。さらに、『事実』として、やはり人というのはニートよりも大学教授の言葉を聞くものです。これも『事実』です。あーだこーだ理屈をつけても、です。何が正しいとか関係なく、です。事実というのは非常に強い。だから『社会人、つまり大人』はみんなそういうようなものを含めて理不尽さを我慢しているし、大変苦労しているのです。だから余計にニート(何も富を生み出さない人たち)に対して腹がたつのでしょう。これが社会人の『経験』です。


mimisemiさんのように有名人を名前にあげるとすれば、アイン・ランドも小説『肩をすくめるアトラス』で、寄生虫(のような生き方をしている人)は宿主が死んだら生きていけない、というようなことを書いています。これも事実だろうなぁ、と思います。制度等がなければ。アイン・ランドによると、彼ら寄生虫は何を当てにするかというと、宿主の『道徳』、『愛情』、『常識(世間的な)』などだ、と言っています。これも事実だと思います。わーわー言っても、リンゴをとってこない奴はリンゴを食べられないはずだ、それが本当のあるべき姿だ、という思想だと思います。基本的には本当のところだと思います。社会にコミットしてないくせに政治云々言うな、ということがmimisemiのおっしゃる通りのことを意味していたとしたら、その点はmimisemiさんのいうとおりだと思います。しかし私は『心情』は分かるし、生(せい)があって初めて意見がある、という点から見れば、わーわー言っていても宿主に見捨てられたら終わり、という点から政治云々言うな、というより、そもそも政治云々言えないじゃないか、というのは事実だと思います。言論だとか意見では何とでも言える。これに反論を書くことも出来るでしょう。ですが、やはりメシが食えなかったら死ぬのであり、死んだら意見を言うことは出来ません。わーわー言ってもです。


書き込みありがとうございます!これぞコメント欄をオープンにしておくことの醍醐味といった感じの内容で本当に感謝しています。


で、通りすがりさんがおっしゃる「心情」なのですが、僕はそれは完全にそうであろうという想定の元で書いています。むしろその心情批判ですね。そうなるのは自然な心の傾きであるけども、ただ思い返してみればおかしい話じゃないか?というツッコミです。僕はニートより大学教授の話を聞くというその心情といいますか「事実」が気に食わないんですね。もちろんそれは通りすがりさんの意見ではなくて、これは事実なんだよということを通りすがりさんがおっしゃているのは分かっているので、通りすがりさんへの批判ではないのですが、これってようはラベリングによって物事を見ているということで本質を見ていないですよね?シャネルだから金を出せるのか?っていうことですよね。シャネルじゃなくても良いバッグはあるわけで、なぜシャネルじゃなきゃいけないのか?というのはノーブランドのニートとブランドの大学教授の違いみたいなものですよね。


で、僕はそういうのが事実であると知っているからこそ力説しているといいますか、そういう事実に気に食わないところが色々とあるので、それは今回に限らずいつもここで書いていることなんですね。それは事実だからしょうがないのか?ってことですよね。僕は全くそう思いません。1+1=2でそれはアプリオリですが、大学教授の言葉=正論というのは事実でもなんでもありません。ただ慣習によって思い込まされているだけの何の根拠も無いことです。そういった何の根拠も無い慣習による思い込みによって物事が判断されたりしているのを見ると僕は腹が立つわけですね。で、口が悪いんですがいつも口癖で「バカ」って言ってしまいます。何も頭で考えていない証拠ですからね。


通りすがりさんがおっしゃる「事実」というのはそういった慣習による「思い込み」のことだと思います。で、非常に強いのは事実ですね。ニーチェなんかはそういった既成概念に囚われるな!と言っていましたし、これこそがまぁウェイクアップということですよね。ただ僕はニーチェ気取りなのではなく、ただ単に自分の実存レベルで気に食わないことが世の中に多過ぎるので、そういったものに巻かれずにおかしいものには「おかしいよねそれ」って言い続けるわけですね。まぁそれをナイーヴだとか子供じみているとか大人になれない子供だとかって言うのは分かりますが、そんなくだらない慣習に適応することが社会人になるということなのであれば僕はそれに糞食らえ!という立場を取るんですね。そんなんじゃ社会でやっていけねぇーぞって言われても黙ってろ!って話です。


そういう社会人とか大人はただの負け犬ですね。僕に言わせれば。納得していないのに社会がそうなっているからだとかそれが事実だからとか普通だからっていう何の根拠も無い理由を軸に適応するわけですよね。つまりはいっちょまえな大人になるということは妥協するということですよね。そんなダサイ生き方を僕はしたいと思わないんですね。僕は奴隷ではないですし負け犬でもないのでだからまぁそういった慣習には常に反抗するわけです。納得できる慣習とか常識があればいいのですが、我慢しなきゃいけない理不尽さというのに僕は個人的に我慢はしません。それを批判し続けますし適応しません。


これっていうのは自称大人がよく言う決め台詞なんですよね。それが大人になるってことなんだよとか社会ってそういうもんなんだよっていう。でもその背後に何の根拠も無いんですよね。「我慢するしか無い」という理由しかないわけです。ところで通りすがりさんがおっしゃる「生」ですが、僕の最近書いたエントリーではそういった生が自分でリンゴを取ってこなくても成り立っているという意味で近代社会では労働が生に直結しているというわけではないということなんですよね。パラサイトしていても生は生ですし、金利で食っていようが財テクで食っていようが詐欺で食っていようがそいつが生きているならどんな生でも生です。


反対の死も同じですね。どんな大富豪も貧乏人も死というものに差別はありません。だから人間は平等なのだみたいな言い方がありますが、まぁ僕はそうは思いませんが、ただまぁ死は死というのと同じ事で、生もまた生ということだと思います。その内容はどうでもいいわけです。事故死だろうが寿命だろうが病死だろうが戦死だろうが死は死ですからね。それ以上でもそれ以下でもない。で、これはニーチェも批判していますが、死というものが介在すると何でも美化されるんですよね。ヤクザでも一人前の戒名をもらって故人の美談を語るみたいな。実際はロクでもないやつでも死によって事柄が美化されるんですよね。それはアプリオリに死人を罵倒するべきではないみたいな伝統があるからだと思うんですよね。基本的には死人にはリスペクトしなきゃいけないみたいな。これまた非常におかしい常識ですよね。


これと同じく労働然りです。労働していればなんでも美化されるのか?というのはまぁおかしい話ですよね。生きるためだったら別に労働をしなくてもさっき書いたような財テクで食べていったり詐欺で食べていったりすることも出来るわけで、必ずしもリンゴを取ってくるということが生に直結しているわけではないという意味で、生と労働は切り離して考えるべきだと思うんですね。逆を言えばまぁ労働者も死ぬわけですからね。労働しているのに食えなくて死ぬみたいなことがあるわけで、過労死とかワープアというのが象徴的ですよね。美しいはずの労働をしているはずなのに生活が非常に惨めなわけです。労働をしているのに食えない人達がいるなかで、実家が金持ちのやつは働かなくても生きていけるわけですね。でもこれって今に始まったことではなくて、貴族とかってまぁ昔からそうだったわけですし、親の金で楽してるやつっていつの時代もいると思います。で、そういうやつらが親の金で一生食えたら誰も文句は言えませんよね。死んだら何も言えなくなるというのはごもっともですが、彼らが食えていたらそれはまぎれも無い生なわけで、そこに労働者の生や資本家の生といったような、生の差別というのは無いはずなんです。宿主に捨てたら終わりなのは労働者も一緒ですね。クビにされたら無職になるわけですよね。そういう意味でニートも労働者も別に境遇は変わらないと思うんですね。


会社が手厚くその人の生活まで保証するような雇用をしていれば別ですが、いつでもクビを切るみたいなやり方が横行している中では労働者が宿主に守られているという構図はワークしないわけですね。親元のほうが安定しているというのは非常に皮肉なことですが、だからといって親元に寄生している人間達を批判するのはおかしいんですね。むしろ批判されるべきは人間を道具のように使っている雇用主なわけで、ニートワープアが争っている暇があるなら、酷い制度とかシステムを批判するべきなんですね。変な話、共闘したっていいわけです。社会でやっていき辛いという共通の問題を抱えているなら共闘できるはずですね。そこで「働いている」「働いていない」みたいな単純な二項対立によってお互いを批判し合わなくても、怒りの矛先を向けるべき相手というのは他にいるはずなんですよね。それが既成概念でありコモンセンスであり社会システムであったりするわけです。僕は前に社会システムを批判してもしょうがないと書きましたが、まぁこれは事実ですね。批判しても変わらないものは変わらないですから。ただまぁ疑うことは出来ますよね。批判的であるという態度でもいれるわけです。何も納得する必要は無いわけですね。


で、僕はそういう意味で市民ブロックといいますか、市民セクターでの力というのは信じている部分もあるんですね。みんながおかしいぞ?って気がつけばさすがに何かが変わるだろうっていう。一番悪いのは悪いシステムや既成概念などを無批判にそういうものなのだと受け止めてそれに適応してしまうことですね。それが結果的にそういった良くない既成概念などを温存することになってしまいますからね。そういうくだらないコモンセンスに従うということはすなわちそういったものの手先になるということですね。「そういうものなんだよ」という既成概念が「強い」理由はズバリそこにありますよね。それは人々がそれを担っているからですね。抗う人は他者に潰されるというわけです。これが民主主義のおそろしいところでもありますね。ソクラテスだかが言ってたのは民主主義というのは馬も投票次第で豚になる制度だみたいなことなんですが、人々が担えばそれで良いというのがまさしくその馬をも豚だと看做すということなわけです。


で、僕は人々が豚だという馬に対して「馬だ」って言ってるだけなんです。「豚って言うのおかしくない?生物学的に言えば馬じゃん?」っていうことですね。それでも豚だというのが事実ならそれはおかしな事実ですね。人々にサポートされているおかしな事実です。それを人々が信じ続けて担い続けているわけですね。僕はそういうのに対して「そりゃおかしいぜ」って言いたくなるわけです。豚だというねつ造された事実が強いのは確かですが、それがねつ造である以上僕は納得しないですし、豚だと妥協して適応することもないわけです。さっき書いたダサイ生き方というのがまさしくこれです。つまりは馬を豚だと言う人生ですね。


で、ズバリ理由はと言えば「そういう風に言われているから」ってことなわけですね。僕はこういう風なことを言う人間達を普段から「バカ」扱いしてますし軽蔑しています。で、自分にとってはこの軽蔑は妥当なものであると思っているし、フリーライダーの遠吠えだとも思っていません。つまり僕が労働者だろうがニートだろうが学生だろうが大学教授だろうが僕の意見は僕の意見なので僕のステータスは関係無いということですね。王様は裸だ!っていうのが子供でも大学教授でも事実は事実だということです。むしろ社会に迎合している大学教授みたいなのこそ王様は裸だって言えなかったりするわけで、裸の王様のレッスンってまさしくそれですよね。みんなが「あ、そうなんだ」って従っている既成概念がおかしくてもおかしいと言えない風潮が蔓延するということの滑稽さですね。で、その既成概念が権力者などに都合の良いものだったりすると最悪なんですね。それを利用されて人々は洗脳されたままになってしまうっていう。


まとめるとまぁ僕は「そういうものだから」とか「それが普通だから」といったような、吟味の無い考え方は何においても有害なものと考えます。そういったアイデアの無い概念だけが一人歩きしてしまうと僕はそこで概念の暴走が始まると思っています。つまりは人間の思考に立脚していないおかしな概念というのが人間に受け入れられてそれが既成概念として成立してしまうと、それは必ずしも人々が認知していたり納得しているわけではないある種のコードとして人間の行動原理に埋め込まれてしまうので、そこで人間の観念と行動の間に乖離が生まれると思っています。僕はストレス社会というのをこういった概念の暴走の産物だと考えているんですね。まぁもちろんそれだけではないんですが、そういった要素もあるということです。自分が自分で吟味して納得したことが行動原理になっていれば恐らくストレスというのは少ないはずなんですね。かといってもちろん個々が好き勝手にやりたい放題やってもいけないのですが、少なくとも「それが普通だから」といったような概念に関しては書き換え可能だと思っています。で、既成概念が悪いコードとして働いている場合、プログラミングと同じようなものでそれは書き換えるべきなんですね。それが人々を不幸に曝したりストレスに曝したりする一因になっているのであれば検討して書き換えるべきなんですね。


個々の行動原理を規定するコードには多様性があって然るべきです。それが多様性というものですね。日本の場合、そのコードが不気味なぐらい画一化されているので、それがストレスフルな社会を生み出す一因になっているというのはここでも前から書いていることです。通りすがりさんがおっしゃる人々の間に流布している「事実」や「心情」とやらもコード化された規律や暗黙のルールのようなものが大いに関連しているのは言うまでもありません。なのでそういったものをメタレベルで俯瞰して疑問を持つことは必要だと僕は考えます。


・・・・とまぁここまでが返事でした。まぁ今日はそんな感じで。なんかさ、俺が言ってた変な言い方になるけど良い書き込みのお手本みたいな方がコメントを書いてくれたんで本当に感謝だよね。こういうコメントがあるからコメント欄はオープンにしておきたいってことなのね。


PS


これ最近買った財布なんだけど、前に買ったループのやつも女物だったけどこれもモロに女物だけど良いと思ったらそれでいいっつーのはようは既成概念っつーコードを脱コード化するということだよね。まぁすんげーベタな言い方なんだけど、例えば青は男の色でピンクは女の色みたいなのあるじゃん?それってあれなんだよね、既成概念っつー名のコードなんだよね。なぜかアプリオリに規定されているんだけど、実際は何の根拠も無いっていう。別にピンクを男が身につけたっていいわけだ。まぁ俺の財布で言えばまぁギリギリユニセックスに使える感じのを選んでるにしてもさ、んでもまぁ基本的に普通は男が使わないやつだよね。この「普通」っつー感覚を疑えってことだよね。デザインが好きなんだったらいいじゃん!っていう。なんで男物とされている財布を使わなきゃいけないの?ってことだよね。別に女物でも気に入ったのがあればそれでいいじゃんっていう。