人生における強度についての覚え書き。

mimisemi2010-01-27

数学って概念でさ、まぁ思考のフレームワークだって分かったから思考の鋳型としての数学に興味を持ったってのはだいぶ前に書いたけど、まぁそのあれで最近っつーか今日思ったんだけどさ、リミットってあるじゃん?恐ろしいことにこれって高校数学であるのね。高校生をバカにするつもりはないけど、こんなに抽象的なものを高校で扱ってるんだね。まぁんであれなんだよね、数学ガールで詳しく説明されてるけどっつーか数学ガールがすんげー役に立ってるんだけどさ、0.99999....=1ってあるじゃん?理論的なことは数学ガールゲーデル不完全性定理を読んでくれ。あと俺が数学理論の細部を説明するのは危険過ぎるのでやめるね。最近ではようやくまぁある程度は政治学とか哲学とかまぁ自分が普段読んでるものならそこそこ解説することに抵抗は無くなってきてるけど数学はダメだね。初心者も初心者なんで俺が理解してるかも分からないんで理論的なことはやめるね。ただあれなのね、概念的なことは説明できるよね。まぁこんなことでしょうっていう。それはやるよ。


で、まぁそれなんだけどさ、収束って概念がすでに人生そのものじゃん?陰陽で言うところの0が陰で1が陽だと仮定した時に陽が陰に収束していくのが人生でせうっていう。陰としての0を死と考えて陽としての1を生として考えると生は死に向かって収束している運動体ってことになるよね。スピノザ的なオントロジーで言えば外延的な諸要素に構成されている関数的な存在じゃん?それはそれ自体で完結している実存ではあるけど関数的に外延的な諸要素によって常にその値が変わるっていうね。で、別にその関数的な要素ってのは生物学的なことでもなんでもそうなのね。細胞だって変化してて全身ってことで言えば確か1年ぐらいで実質的に全身の細胞って変わったりしてるんだよね。攻殻機動隊的な人間機械論っつーかまぁデカルトだけどさ、そういう風な生物学的な観点で見ると結局、自我を規定してるのって攻殻機動隊でも散々言われてるように記憶とかの集積であったり連続する意識によってだよね。それがゴーストなんだけど生物と無生物のあいだって何なの?みたいな話になるじゃん?結局は全部DNAの連続体っつーので説明がつくんだけど、んでも意識とかはそういうデータ的なものでは規定されないっていう。脳科学ブームがマズいと言われるのはここだよね。


斉藤環が言ってるように意識とか自我みたいなのってもっと複雑でさ、例えば手を動かすってことはただの脳の働きによるものだみたいな考え方あるじゃん?脳に電流が走った所産が手が動くということに帰結しているみたいな。でも実際は意志と行動って直結してなかったりするのが人間じゃん?まぁこの辺の詳しいことは斉藤環の著書でも読んでもらうとして、あ、んで関数のことだけどね、まぁ意志も関数だよね。外延的なことで人間っては変わっていくわけだし、逆を言えば外延的なことが無くても意志ってのは変わるよね。それこそ意志が意志によって意志されることで意志って変わるじゃん?それが連続するってことがすでに作用なんだよね。ようはfunctionの値を変える機能になるってことね。


まぁそれが人間っつー連続体でしょっていうのがまぁ俺が言いたいオントロジーでそれが死に収束していくというのが人生でその収束していく値の変化のプロセスそのものがまさしく今なんじゃないかってことだよね。で、ポストモダン風というかニーチェ風に言えばそのプロセスの中の強度を獲得せよ!ってことになるんだよね。収束していく結果とかではなくその時その時の強度だよね。逆に結果だけ見てたら今が見えなくなるっつーか人生の強度が無くなる場合もあるじゃん?終わりの事だけ考えてもしょうがないっつーかそれがようは自分の行動原理がテロスそのものと一致していなければいけないってこれはカントだったっけ?まぁカントの場合、別に強度とかは関係無いんだけど、まぁこれは使えるっつーか良い概念だよね。例えばお金持ちになるってことをテロスとした時にまぁ行動原理はお金を稼ぐ事ってことになるけど、んでもそれで日々の暮らしが辛いものになったらしょうがないよね?まぁこれは行動原理がテロスになっているということだけど、ここで必要なのが値の変化のプロセスだよね。常に実存というのは0に向かって収束しているわけで、その収束のプロセスのあり方そのもののあり方もテロスに措定されてないといけないんだよね。


で、それをリテラルに引用するほどの記憶力は無いけど孔子の言葉でさ、午前中だかに知りたい事を知れたら夜死んでもいいみたいなのあるじゃん?これなんだよね。まぁお金は一夜では作れないけどさ、まぁ銀行強盗とかなら別だけど、いつでも死ねるっつー人生だよね。収束のゼロにいつ達するかは分からないけどんでもそれは絶対0に達するというのが分かっているのであればいつでも0に達してもいいような生活をしてないとダメだよね。それがつまりは日々の強度であり収束のプロセスにおける強度じゃん?それが結局は全体性を規定するわけだし人生そのものを規定するわけだよね。だから収束する値のある一点だけを目標にするってのは馬鹿げてるってことね。何年後に何億か稼いでるっつーのもまぁいいけどそのために日々辛い思いばっかするっつーのもアレじゃん?まぁそれが目標でそれが人生の強度になってればいいけど目標に達する前に死ぬ場合もあるわけでさ、だから「今」ってのが重要なんだよね。


瞬間瞬間のホーリネスっつーのはカバラで言われてる事だけどこれってまぁ俺に言わせれば人生の強度ということに直結してると思うのね。で、ポジティヴな言い方すれば収束するプロセスの強度が確保されていればそれに対応するかの如く可能性だとかね、潜在性とか能力みたいなのは無限に発散するんだよね。つまりは実存は常に1→0だけど内面では常に1→無限なんだよね。それをいかに終わらない無限の自分が出来る限りの届く最高の値まで届かせるってのがまぁ人生の醍醐味だよね。で、その値は自分で規定する必要は無いと。苫米地さんが夢は叶いそうも無い夢を描けって言ってるのはまさしくこれだよね。つまりは無限に向かって発散していけ!ってことじゃん?それが下手にすぐ叶うぐらいの夢だとダメなんだよね。それこそ明らかに現状じゃどう考えても不可能なぐらいデカイ夢がいいわけ。


まぁペシミスティックに考えると1が0に収束していくなら実質的に1もゼロと変わらないじゃん!ってことですぐに諦めがつきそうだけど、ここでやっぱさ、さっき書いた1→無限っつー内面というか人間の内容の部分での値を無限に発散していくこととかさ、0への収束でもそのプロセスにおいて強度を確保するってことになるとこの内面においての発散及び実存での0への収束のプロセスにおける内容ってのが人生そのものになるわけで、人生ってのはそう考えると刹那刹那の刹那のスライスだけど全体性もまたこのスライスの連続性によって規定されてるわけじゃん?だったらそのスライスの強度を確保するということが強度の強い人生という名の全体を作ることになるよね?つまりはそれが日々確保されていればいつ0になっても怖くないっつーかまぁ満足できるなってことになるじゃん?そうなるとまぁ死が怖くなくなるんじゃないかな?分からんけど。


だからどうせ死ぬんだから同じっつーのはまぁ俺も気分次第でよく考えるけどよく考える人間だからこそそれはつまらない考え方だなって思うのね。それは1→0という事実しか見れてないって証拠じゃん?その収束のプロセスの俯瞰図を見られてないってことだよね?だからどうせ死ぬのと楽しんでから死ぬとか強度を確保してから死ぬのって同じ死でも全然違うよね。ただその違いはあくまで主観的に判断されるので、だからこそまぁベタな言い方になるけど悔いが残らないような生き方をするしかないんだよね。人生は一回きりしかないんでやりたいことやればいいっつーよくある言い方のエッセンスってのはここにあるよね。1がゼロに収束するというのは分かりきっていることなんだから、その収束のプロセスでやりたいことやって満足して0に至れってことなわけじゃん?まぁただゼロはゼロだからゼロの差はないけどね。客観的には。


数学的にもそうだよね。全てのゼロはゼロだし収束のプロセスも数値で見ればどれも同じ。でも実際は個々の固有性というのが収束のプロセスの値の変化の中に含まれている。それがこの今を生きる瞬間瞬間のことなわけだし、それを感じられるのも「自分」しかいないわけだ。だから自分の人生なんだから自分の中で悔いが無いように生きるってのがベストってことになるんだよね。自分の収束なんだから値は自分で決めろってことだよね。レールに乗って生きるとか乗せられて生きるみたいなのってまぁ電卓の計算と一緒だよね。まぁ安全に収束したいっつーか計算ミスとかが起こるのが嫌だから電卓でも良いって人もいるだろうけど、今はその電卓的なものが無くなっちゃったからまぁ自ずと個々が自立してプロセスを作っていくしかないって感じになってるよね。これが結局まぁ自律ってことだと思うんだわ。オートノミーね。それがアウトノミア的な政治的運動の形を取る必要は無いんだよね。俺が言っているのはあくまでマインドのレベルでの自治だから。これってまぁ昨日書いたエントリーの話題にも繋がるけどね。


ただでも社会ってのを有機体として考えればさ、その構成要素って人間じゃん?で、人間もその大きな社会という有機体を構成する有機体の一つであるっていうさ、だとしたらその個々の有機体のマインドセットが変われば当然、全体としての有機体のあり方も変わるよね?イデオロギーによってコード化された規範に沿って動いている有機体と言うのは言わばコントロールされている培養されているような有機体みたいなもんで、まぁこのモデルで言うとマトリックスだよね。個々がみんな電池っていう。でも個々がその事実に気がついて自立する時ってことがつまりは自律を促すわけじゃん?自立には自律が必要なわけで。その自律によって自立された有機体が増えてくとそれが大きな有機体を構成することになるわけで、つまりはこれが陣地戦ということだよね。市民セクターでの自律だよね。アウトノミア運動ってのはこういう有機体モデルで考えると凄く分かりやすいんだよね。独立した有機体を作り出すっつーヘゲモニー闘争の一環なわけじゃん?で、その有機体の規模が大きくなればアメーバが他のアメーバを飲み込むようにさ、全体性ってのも変わるじゃんね?些かナイーヴでシンプル過ぎる考え方かもしれないけどどね、ただ最近思うのがね、それが物理的な例えばヘゲモニーだとかゲバルトとかっていう形で権力を掌握しなくても、権力にはならないけど個々の自治は可能なんだよね。


つまりは物理的には既存の社会とか国家に取り込まれながらもイデアのレベルでは国家イデオロギー装置なんかが作ったコードは相対化されていて脱コード化されてるっていうさ、だから結果的にあれだよね、国家っつー場所も社会もステイトも脱領域化されるってことだよね。思考のautonomyによってね。で、そういった思考のプロセスによって脱領域化された社会というのが普通の社会になった場合、それはもうすでにその社会というのは思考によって相対化されていてさ、そんだったら自分たちが主観化してもやっていけるような領域ってのを新しく作るようになるじゃん?っていうかまぁなってほしいよね。マスコミのことをマスゴミだっつってもう誰も信じなくなってるってメディアの脱領域化の良い例だと思うんだよね。それによってインターネットメディアとかが主流になって、コントロールされたようなメディアみたいなのは逆にもうネタみたいなレベルの存在になるっていう。


だからまぁ利用者はオルタナメディアとかネットメディアを利用するようになるじゃん?結果的にそれが需要と供給のバランスの変化を起こすことになってさ、んでネットメディアっつーのが出現するわけだけど、まぁ個別のプロセスは色々あれど俯瞰図で見るならそれは新しい有機体が生成的に自らが欲するメディアを作り出しているようにも見えるよね。まぁもしくは新しい有機体が新しいメディアに繋がっていくって感じか。その図がリゾームっぽいのは言うまでもないね。そこから資本主義に抗うようなスキゾな力が発見されるかはともかくとして、脱中心化されるってことは有機体の多様性を担保するわけで、ここがまぁ俺の言いたかった必ずしも物理的なゲバルトの独占とかではない新たな闘争の形ってことね。


まぁようはあれだよね、培養されないで自分で培養するってことが自律ってことだよね。で、その自己生成的に培養された有機体同士が繋がっていって新たな大きな有機体という名の社会なり共同体を生み出すっていう。まぁこれはアナーキズムとか共産系でよく言われることだけど、別に政治的な運動に帰結しなくても、とりあえず今日書いた「収束」と「強度」っつーことをキーワードに自分という連続体の現象を捉え直すっつー吟味は出来るしまぁそれは価値のあることだよね。俺が普段から書いてる「構造化されないこと」ってのはまさしくこれだよね。別に新たな有機体とかを生み出して権力闘争とかしなくても、とりあえずは1つの有機体として何かのシステムに培養されるとかじゃなくて自分で自分を培養していくだけでも十分だよねっていう。ただ俺はその行動が自ずと政治的な帰結をもたらすと思うんで、だから市民セクターでの陣地戦ってのは諦めきらないんだよね。縦の力の利用っていう意見はまぁ変わらんけど、かといって陣地戦は諦めないぞっていう。


で、最後に行動原理をテロスと繋げるということだけど、俺が言いたいのはね、自分が今やっていることそのものというのがテロスそのものの与件を満たしているということがベストってことなのね。下手をすれば刹那的な生き方っていうことにもなりかねないけど、それを防ぐっつーかそうじゃないよっつーのがまぁ長期的な意味でのテロスじゃん?大きな図だよね。ただ日々の中でもそれは常にリアルタイムで満たされ続けていくってことだよね。そういう人生を自分は送れているのか?ってことだよね。


まぁ今日はそんな感じで。