涅槃と空について。

mimisemi2010-02-02

久々にネットに繋がらずっつーか二日だけど隔絶感が凄いな。俺が引き蘢れるのはネットがあるからでネットが無かったら寂しくてアメリカだろうが外に出るっつーか友達とか作るようになるかもしれないね。まぁでも友達って作ろうと思って作れるもんじゃないよね。


まぁそれはともかくだな、今日書きたいのはまぁまた思いつきのメモなんだけど独我論ってあるじゃん?独我論ともしかしたら自分が見ている全ては夢なのかもしれない・・・っていうのとはまぁ区別されるべきなんだろうけど引き蘢りデカルトはそう考えたわけじゃん?で、笑っちゃうのがさ、「え?」ってなるのがさ、んじゃあ外があるということをどう証明するんだ?ってことで出た行動が「外に出る事」だったんだよね。外に出て外があるんで「外があるー」って思って外があるって認識したっていう。引き蘢りも程々にしろよっていうか引き蘢り哲学だよね。デカルトって。まぁそれはともかくさ、今見てる全てが夢かもしれないって絶対ありえないのがさ、今って情報圏の情報量凄いじゃん?ニュースとか見れば世界情勢分かるじゃん?まぁあくまでメディアが伝える世界情勢だけども。


で、まぁ簡単に言っちゃえばそんなのも含めてどう夢だなんて言えるのか?ってことだよね。世界経済の動向とか天変地異とか殺人事件とかそんなのも全部俺の夢だって言うのか?って話じゃん?ありえないよね。自分が把握しているビジョンよりも把握してない部分のほうが多い夢なんてあるわけないじゃん?いや、昔のデカルトみたいな引き蘢りが考えるのは分かるよ。すげー情報量少ないじゃん?テレビとかネットとか無い時代に引き蘢ってたってまぁ凄いことだよね。で、身体機械論説の繋がりなんだと思うけど、うさぎとか拾ってきてんで生きたまま解剖とかしてたんだよね。ここを千切ったらどういう反応するのか?みたいなサディストがやりそうなことをまぁ恐らくは科学的な観点から「ほうほう。なるほど」みたいな感じでやってたんだよね。


まぁそれはともかくさ、俺が見ている全てのことが実は夢かもしれないということが成立する唯一の条件ってのがあってさ、唯一かどうかは分からんけどまぁこれだったら言えるなっつーのがまぁまず無い話なんだけどもし俺が神だったらってことだよね。そんなわけないけど俺が神ならそれはありえる。俺が作り出した世界を把握していない俺ってまぁちょっとしたハルヒみたいなパラダイムじゃん?まぁハルヒが創造神かどうかはともかくとして、神的力とか能力を持ったやつが実は自分がそうなんだってことを把握してないでその世界で生きてるってまぁハルヒみたいなもんじゃん?まぁでも俺は神じゃないからね。


でもさ、ってことはあれだよね、この世の全てがっつーか宇宙とかも含めて神が見ている夢だって解釈することも可能だよね。まぁ仏教風に言えば縁起による集合体だよね。全てが縁起によって起こっているものでなおかつそれが相関的な関係性によって存在しているっていうさ、で、別にここであえて神って概念を出してくる必要も無いんだけど、まぁあえて神というものがいるという前提で物事を言えば恐らく神ってのはそんな存在だろうなっつーのがまぁこれだよね。ようはこの世が神の夢ってことね。まぁこれは去年書いたことだけどさ、ただそれが思念的なさ、実体のない夢なのか、物理的な夢か?ってことなんだけど、ようは物理的な夢って場合はこの夢自体が作用っつーかまぁ脳細胞で言うところの細胞ってことね。まぁ神の意識を構成する原子みたいなもんってことだわな。だから原子という実体はあるんだよね。その連鎖が神の意識とかまぁ夢みたいなのを規定してると。なので1原子みたいなもんがその全てを把握するのは不可能であるってことがまぁ俺ってことじゃん?原子である俺が全体を見渡せるわけないっていう。


ただまぁ創造主みたいな神の存在は否定されるよね。だってチャイティンとかじゃないけどさ、ランダム性ってのがあるじゃん?偶発性ってのがあって物事ってのは蓋然性によって起こっているものなわけで、その蓋然性そのものも見越して作り出すなんて不可能だっていうさ、所謂、全能ってことがまぁ不可能ってのはそういうことだよね。でもそれがただの現象であるなら神の存在は否定されないよねっつーかまぁ俺が言いたいのはね、それが神の見ている夢かもしくは神の意識を規定している物理的な諸要素の原子であるならその振る舞いがランダムなものであれなんであれただの物理現象として存在って言えるじゃん?ただその結果が意識であるっていうね。で、それはあるとも言えないしないとも言えないみたいな世界だよね。まぁただ言いたいこととしては我々が経験する現象そのものが如来だっつーことだよね。ナーガールジュナの中論における仏陀の定義だけどね。


まぁそれが如来だとか神の意識そのものかはともかくとして、それ自体の現象を俺みたいな原子が見た時にそれを輪廻とも言えるし永劫回帰とも言えるわけだよね。ナーガールジュナのニルヴァーナ論で言えばその輪廻が起こっているという縁起の現象そのものを俯瞰するということがニルヴァーナで、それは原子から見た全体像の俯瞰図と言う意味で輪廻もニルヴァーナも差がないんだよね。その現象を認識するということがニルヴァーナなわけで。前に書いたあれだよね、やせ我慢なりさ、何かを滅してニルヴァーナに入るということが有/無の二項対立に入ってしまうのでそれは実際は涅槃でもなんでもないって書いたじゃん?有無みたいな世界観じゃないんだよっていうことね。


で、この有無ではない無さとかってのはもう文字では表せないんだよねっつーかあれだよね、眼中に無い人のことについても存在自体はあるじゃん?相手にしてないけどその相手というのは存在している。ただ相手にしないってことはようはその存在を認めた上での否定だよね。存在を認めた上での無かもしくは無にすることでその存在を意識上で消し去るみたいな方法論じゃん?でも本当に眼中に無い人のことについては最初から無いっつーか無いって言えない無さじゃん?知らないっつー無さだよね。そんなやつがいるとは思わなかった!とかこんなものがあるなんて!っていうさ、ドラッグを知らなかった人間がドラッグに味をしめちゃって、んでドラッグに溺れるって知ることでその存在がその主体にとって有るものとなってさ、そこからそれに溺れるっつー煩悩みたいなのが生まれるわけじゃん?もしくはドラッグを取り巻くトラブルとかね、それが縁起になっている全ての事柄ね。それが無いということはようはそいつはドラッグを知ってて溺れた事があるけどやらないってことを選んだんで無いって言えるっていう有あっての無じゃん?ようは有を滅した無だよね。


ただまぁドラッグ中毒の人のリハビリ後とかを見ても分かるようにさ、有だったものを無にするのって大変じゃん?だからなんらかの代用品を立てるんだよね。身体のレベルではメサドンみたいな代用品を利用して精神のレベルでは熱中できることとかなんとかっていうことで置き換えをするんだよね。で、それで有を無にすると。でもこれって我慢じゃん?滅しているよね。本当の克服ってそんなの知らないっつー境地なんだよね/「あ、そういえば昔、溺れていたことがあったけどやめてからはその存在すらも忘れてしまっていた」みたいな無だよね。まぁそんなことはドラッグ中毒者に無いにしてもさ、でも俺が言いたい本当の無のあり方って分かるでしょ?「不断、不常、不滅、不生」ね。


ようは何も知らないってぐらい何も無いってことね。何も無いところからは何も起こらないっていう無ね。ただニルヴァーナの場合、人間の精神における境地なわけで、で、それが人間の精神というものに根ざしている以上、人間の意志というのが必ず介在するじゃん?で、この意志を無くすことがニルヴァーナなのだみたいなことを言うと入滅が一番の方法ってことになりそうだけど、俺が思うにまぁあれだよね、有無という二項対立を越えたところにある無らしい有だよね。ただそれは本質的に無いんで存在が言語によって規定できないわけ。無いって言った時点でそれは何かがあるっつーことを示唆しているわけでさ、それは無さが有るじゃん?でもそういうもんじゃないよっていう。


で、俺はこないだも書いたように滅することがニルヴァーナだと勘違いしていたんだけどさ、まぁこれも前書いたようにただの我慢じゃん?でも例えばまぁ俺のレベルの低い煩悩で言うとさ、例えばレコードを買うってことがもう俺の中で無くなったってのは書いたじゃん?滅しているときは我慢であえてレコード屋には立ち寄らないとか路上で売ってても意図的に見ないとかさ、そういうことで有だったものを意図的に無にしているんだけど、これは超越でもなんでもなくただの我慢じゃん?それじゃー全然レベル低いよってのに今更気づいたってことだよねっつーのがまぁ完全に無くなってしまったレコードへのマテリアリスティックな物欲ってことだよね。もう有とか無じゃなくてその存在すら無いっていう。


レコードは好きだけどレコード屋に行くとか買うっつー行動が完全に無くなっているっていうさ、これこそが無だよね。興味が無いわけでもないし、欲しくないわけでもないんだけど、んでもまぁ買わないっつーかまぁレコード屋とかに行かないって話だよね。で、これはなんつーかもう経験するしかないっつーかさ、やろうと思って出来ることじゃないよね。気がついたらなくなっていたっていうことだよね。それはまぁ前にも書いたように凄まじい煩悩があってこその超越じゃん?どんだけ金使ったか分からないし情報に踊らされていたか分からないってぐらいの没入があってさ、んでそれを越えたところで無くなるんだよね。まぁ俺の場合、最初は金銭的にヤヴァイからっつーんでまぁ意図的に我慢して無にしててさ、んでそれが恒常化して無がデフォルトになったので「我慢していた」という反対の有が無くなったってことだよね。まぁ単純に趣味が変わったとかってこともあるんだろうけどさ、まぁでも一筋縄ではいかないよねっていう。


スカーフェイス的な成り上がりが成り上がった後に物欲を爆発させるのも分かるんだよな。それは幼少期なりなんなりにさ、解消されてなかった凄まじい煩悩じゃん?それプラス豪邸に住むということがソーシャルステータスになるみたいな虚偽意識的なことも含めて擦り込まれた様々な煩悩の集合体が物欲とか権威欲とかみたいな形で出てくるんだよね。で、ノンストップなんだけどさ、でもまぁふと気がつく事があって、物欲なりなんなりを解消しているときに解消しきれないどころか解消しても虚しさが残るだけみたいなさ、そういうのに気がついたりもするわけじゃん?これが俺の求めていたことなのか?みたいな。まぁスカーフェースではそういう描写は無いけど、でもまぁ虚しさってのは描かれてるよね。で、仮にトニーがさ、「なんて虚しいんだ!」っつって全部ビジネスとかやめてさ、一生質素にやってけるだけの金を残してどっかに消えちゃったとするじゃん?これってのが恐らくニルヴァーナに近いよね。


ようは溺れてからその有の虚しさに気がついて無に帰するみたいな話ね。それは有あっての無で我慢ではないんだってことね。トニーはやりたい放題やってたわけだから。その結果、虚しさが分かって自分が信じていた有には何も無いどころかむしり虚しさとか浪費とかマイナスのことばかりがあるっつーんでさ、何が一番いいのか?っていうのを考えた時に無に帰することだってことになるっていうさ、まぁそれは死というわけではなくてまぁ良寛的な質素な生活だよね。庵を結んで生きる空の生き方だよね。これこそが恐らくね、俺の言いたい有あっての有無を超した無という有ってことなんだと思うのね。で、恐らく仏陀も同じような感じでニルヴァーナに辿り着いたんだなっていう。


ナーガルジュナもそうだしゲンドゥンチュンペーとかにしてもすんげー煩悩だらけの生活を送っていたっつー履歴があったりするわけね。ゲンデュンチュンペーの場合一生なのかな?僧侶にあるまじき生活ね。凡人の感覚から言ってもやり過ぎなぐらいやり過ぎだったりするわけ。あとはChogyam Trungpaとかね。最初から無の人なんていないんだよね。あとは無を考える上で自分が無である必要も無い。つまりは自分がニルヴァーナにいる必要も無い。それどころか俗っぽい人間のほうがむしろ無なりニルヴァーナなり仏教について深く考えたりすることができるわけだよね。変な話、修行僧なんて思考停止に陥ってるかもしれないわけ。


元々思索とかの才能が無いやつがさ、フォーマルな寺での生活を送ることで悟りが開けるか?ってよく考えてみればそんなことないじゃん?朝早く起きて寺を掃除したり精進料理を食べたりすることと思索とは全然関係が無い。むしろ寺でのやり方ってのはシステム化されたリダクショニズムだよね。そいつの実際の煩悩とか行動原理とか関係無く生活をあるフォーマットに定めることで仏門に入る事を許されるみたいな話じゃん?これって大学行けば何かが学べるって期待するのと同じぐらいバカバカしいよね。大学行ったって頭良くならないじゃん?何か凄い発見とかが大学に行ったとかいるってことでもたらされるわけじゃないじゃん?ようはそいつの脳の問題なんであってさ、まぁそりゃー大学とかにいれば何かとアカデミックなことで都合が良いってことはあるにしても、そいつのアカデミックな仕事との関連性は無いよね。まぁ無いとは言い切れないけどまぁそんなに深くはないだろうっていう。


だからいつでも哲学者っつーか本当の哲学者みたいなのは在野から出てくるわけじゃん?廣松渉が言っていたことだけど、在野から来るやつのほうが本物なんだよね。で、仏教で言えば俺の印象だと凄い人ってみんな在野から来てる感じがするのね。酒・女・ドラッグ・消費みたいなことを知りまくっている在野の人間ね。そういう人間が有無から有無すらない無という有に至るっていうさ、ニルヴァーナのプロセスで言えばむしろ正当っつーか必要なことだよね。仏門に入ったから得られるもんじゃないよねっていう。山を駆け抜けるとかさ、修行のフォーマットとして残されてるのもさ、ただのフォーマットなんだよね。


別に思索できれば酒とかドラッグやりながらでもいいわけだし、酒だってタバコだっていいわけ。主体の煩悩と煩悩について考えることってのは別問題だよね。真実というのは生活みたいなレイヤーではない上のレベルに存在するってヴィトケンシュタインだったと思うけど、ニルヴァーナ然りだよね。まぁニルヴァーナっつーか俺が言いたい無の有ね。それはメタレベルにあることだけど記述が非常に難しくてさ、まぁ主観的な体験とか体感だよね。これがつまりはさっき書いた縁起という現象を見るということだったりさ、輪廻とか永劫回帰を認識するってことがすなわちニルヴァーナなわけでさ、ストイシズムみたいな身体的な苦行とか修行と仏教的な理論を結びつけるのってアウトだよなって最近思ったよね。実際は全然かんけぇーねぇーじゃん!っていう。


俺で言えば俺は仏教書というほどではないにしても仏教の本とか読んでるわけだしさ、認識についてとか縁起についてとか考えてるわけじゃん?だったらもう立派な修行僧だよね。まぁ哲学者でもいいんだけそんなの言い方次第じゃん?社会的な言い方で言えば留学生ってことになるけどね。で、俺がマントラ唱えてるか?とかさ、山を駆け抜けてるか?とかさ、オナニー我慢してるか?とかさ、全然それって関係無いよね。むしろオナニーしながら何か考えてたりもするわけで。これがすなわちイデアってことだと思うね。物理的なレベルでの煩悩っつーよりかは性欲とか食欲とか睡眠欲ってのは生物学的なことなんてあるのはしょうがないわけじゃん?で、我慢することはないと。


むしろ我慢することに集中しまくってて認識についてとかもっと重要な根本的なことを考えられないって本末転倒じゃん?だからそんな中で人間らしい欲がある中でイデアのレベルでは身体とか物理レベルとは切り離された世界を形成するっていうさ、まぁ世界を作るっていうよりかはそこに空間を作り出してそこに意識を置くってことだよね。苫米地さんとかのタームで言えば変性意識だよね。で、別にそれは必ずしも瞑想とか変性意識生成といったような儀式めいたこととセットになってる必要は無くてさ、それは意識のマインドセットであったり思考法であったりそういう世界を置くっていう習慣であったりするわけでさ、習慣化すればそれって恒常的に存在するイデアの世界になり得ると思うのね。


で、そこで抽象思考とかを行ったりするってわけよ。瞑想然り自己暗示然りだけど抽象思考もそういうマインドのステイトでやるわけ。数学とか哲学とかもそうでしょ。恐らく。瞑想的なね、自己暗示がかかるようなとろけたような状態ってわけではないにしても、抽象空間みたいなのを脳に作るってつまりは抽象思考そのものってことだよね。自己暗示とか瞑想をする変性意識と思索をする意識は違うにしても、イデアに抽象世界を作り出すという意味では同じだよね。だから別にこれは在野にいても出来るってことなわけよ。別に寺にいなくてもトレーニング次第でできるわけ。まぁ抽象思考が出来るようになるかはともかくとして、まぁ方法論的に言えば全然可能だよね。


で、これはいつも書くことだけど俺って日本に帰るとこの抽象世界が希薄になるじゃん?それっていうのはもう分析済みだけど家族とかさ、家族との会話とかテレビとか犬の散歩とか規則的な食事とかさ、物理空間でのやり取りが増えるからさ、抽象世界にいる時間が少なくなるんだよね。相対的に。で、結果、俺が努力しなくてもある物理空間に脳が占拠されるようになるのね。抽象空間ってのはすげーデリケートでさ、今みたいな俺の生活を送ってないとキープするのが難しいのね。思索とか読書みたいなのがデフォルトで常にそれが恒常的にあるっていう状態が続くってことはある意味人工的なんだよね。


それは今、そういうマインドセットで生活できるからキープできることなわけで、物理空間でのやり取りが過剰になればそれが脳に干渉してきて抽象空間が占拠される場合もあるわけね。占拠っつーかまぁ干渉されるって感じだよね。岡潔も書いてたけどさ、講演とかが増えて忙しくなった後とかにまた数学の世界に戻るのは時間がかかるとかって書いてたじゃん?これってすげー岡潔のマインドを表してると思うんだよね。つまりは彼が数学をやってる時ってのは心ここにあらずみたいな感じで数学の世界に没入してたわけだよね。で、その世界ってのが俺が今書いてる抽象世界ってことね。岡潔で言えば講演とかの物理的な干渉が増えたんで抽象世界にいる時間が減ったんでまたそのマインドセットに戻して世界を作り直さなきゃいけないってことだよね。


物理世界ってのは当たり前にあるから受動的でもそれは自ずと入ってくるもんだから意識とかしなくてもいいんだけど、抽象世界に関しては自分で作り出さないといけないからだからまぁすげー能動的なんだよね。で、すんげーデリケートなわけ。働き過ぎたりしているととてもじゃないけど構成できない世界だよね。実働8時間サービス残業4時間みたいな世界じゃ形成は不可能だよね。何しろ物理世界での情報量が多過ぎるじゃん?それに意識を奪われる時間が多過ぎるから抽象世界なんてのが介在する余地が無くなるんだよね。まぁ売れない小説家とかはさ、まぁ実際いるかはともかくとして仕事しながら小説書くってまぁマインドセットの切り替えだよね。仕事が終わったら自分の世界を文章で表すみたいなさ、これってまぁ物理世界と抽象世界とをよく表している生活だよね。まぁイデア的なものが絡むものは大体そうだろうね。


逆を言えば抽象度が高くなければレベルの高いものは作れないってことだ。物理的な事実だけを組み合わせて出来たものなんて面白くもなんともないでしょ?作曲科出て音楽理論バリバリ使いこなしただけの音楽なんてつまらないじゃん?「芸大生が作ったオーケストラ曲」ってのがいかにもつまらなさそうなイメージを想起させるのはズバリこれだよね。理論だけっていう。むしろ音楽みたいなやつの場合さ、感性剥き出しみたいなやつが感性だけを頼りに適当に機材いじって出来たみたいなさ、準音楽みたいなやつがよかったりするわけじゃん?で、それに成功するとそいつは技術的なことなんかにも精通するようになってきてんでまぁより洗練された剥き出しじゃないラフじゃないものを作るようになるみたいなね、この場合、まぁ感性が最初に来てるよね。技術が先じゃない。


・・・・って感じなんだけどさ、学校が始まる1日前ぐらいになぜか風邪っぽくなってさ、散々休みがあったくせになんでこんな狙ったかのように風邪になるのか分からなかったんだけどさ、んでまぁ栄養取りまくってなんとかなってたように見えたんだけどぶり返してきやがった。特にセメスター始めとかって疲れるじゃん?新しい環境になるわけでまぁなんつーか疲れるよね。そういうのもあるしあとはあのありえない寒さだよな。寒さと風邪の直接的な関係性は無いらしいけど、なんつーか物理的に粘膜がやられる寒さだからね。鼻の奥が痛くなるっつーか。まぁいいや。ちょっと今日はもう寝るわ。疲れた。



こうやってアフィってみると改めてアレなんだけど自分で言うのもなんだけど全部オススメだわ。ホント。三冊とも死ぬほど良い本です。