ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

ロジックを憎んで人を憎まず。

mimisemi2010-02-06

お金って一気に無くなるのね。ちょっとあるっつーんで買おうと思ってたやつ買ったら一瞬でなくなるのね。しかも全然贅沢品とか無しね。あくまで必要なものしか買ってないのに一瞬で無くなる。まぁ仕送りだけで生活してるからしょうがないんだけどね。


ところで今日は全然長く書かないけどね、本当にメモ程度のことなんだけどさ、数学ですげーイライラすること見つけちゃったんだよね。いやさ、散々ね、数学なら事実しか扱わないから頭の良くない教師の熱弁とかを聞いたりしなくてもいいしさっつーか哲学とか政治学とかでヘタクソなオピニオンとか語られてもたまらないじゃん?で、数学はファクトベースだからさ、仮にまぁ余計な何かが入ったとしてもまぁんでも根底があるからいいじゃん?だからあんま教師とかに左右されないからいいなーって思ってたら今日だよ!


いや、先生は良い先生なんだけどね、完全に俺が勝手にイライラしてたことなんだけどさ、なんかね、授業としてはまぁ一通りその日やるマテリアルをやった後にパソコンで問題を解いて結果をプリントアウトしたものを先生に出して終わりみたいな感じでさ、終わりはようは問題解いた人から帰れるって感じになってさ、自ずとなんつーのかな?競争心みたいなのが出てくるじゃん?「いやいやいや、意味ないから」ってまず落ち着かなきゃいけないんだけどさ、誰が早いのかを競うっつーかそれってテストとかもそうじゃん?「うわーあいつはえぇー!!もう終わったのー!」みたいな。で、一番早く終わったヤツは「最初だぜ!」みたいな。まぁナンセンスだけどね。


まぁ今はやってることは中学でやるぐらいの代数なんだけどさ、まぁ簡単じゃん?計算に困らないよね。そりゃー。で、そのパソコンでやる問題ってのがさ、二回まで回答できるのね。で、それが結果に全部出るわけ。ファーストトライで正解した数いくつセカンドトライいくつって。で、今日の代数で言えば結果は最初のトライが10正解で4がセカンドトライなんだけど、セカンドトライのほうは単純に見間違えっつーかさ、答えを四択から選ぶから間違えたりすんのね。答えが手元に自分の計算で出てるのに答えの3x-3y+4を選ばずに3x-3y-4のほうを選んじゃったみたいな。で、あれってわざと見間違えるように作ってるよね。


まぁそれやらなきゃ問題が成立しないっつーのも分かるんだけど、なんかさ、押し間違えとかでも間違いになるじゃん?見間違えとかさ、選択肢をややこしいもんにするな!ってツッコミを入れたくなるんだけどさ、まぁ今日はすんげー早く終わったわけ。計算は速いからね。そしたら先生に憎まれ口言われちゃってさ「お前全然ダメじゃないか。15問中10問がファーストトライで正解で残りの4つがセカンドトライだなんて」みたいな。で、俺はその「ダメ」って言い方に「カチーン!」と来てさ、いや、一個間違えたのは恥だけどね、こんなレベルの問題で。たださ、他は全部あってるじゃん?まぁセカンドトライが4個あったとは言え。


「ダメ」とはどういうことだ!ってことだよね。「お前ウェブは家にあるんだろ?家に帰って練習したほうがいいぞ」みたいに言われてさ、もうバカにしてんのか?って感じだよね。まぁ押し間違えしたりね、あとは手元でやってた計算の数字の書き方がヘタクソで0が9に見えたとかさ、そんなんでまぁ答え変わっちゃうじゃん?そういうので出力された答えってまぁ間違えだけどさ、家で練習してこいってまぁ先生としての助言なんだろうけど「ざけんな!」だよね。勘違いが起こるような選択問題を作るな!って思うわけ。マイナスがプラスになってたりそれが本当の回答と入れ替わってたりさ、見間違えちゃうじゃん?見間違えと数学を理解してないってことは違うからね。あ、んで別に問題は先生が作ったやつじゃないけど、ようは間違いが数学的な要素で起きているのではなくて、練習問題のインターフェースっていう外延的なもので起きているってことが言いたいわけ。


計算して答えが出てて見間違えで答え間違えたって数学的間違えじゃないじゃん?まぁ間違いと看做されるんだけどさ、すげー腹立つね。俺が気をつけるしかないにしても、なんかこれしきの問題で「家で頑張れ」とか言われるともう侮辱だよね。でも「ただの押し前違えです」とかさ、「一問は自分で書いた数字の見間違えです」とかさ、あぁそんな言い訳してもしょうがないじゃん?間違いは間違いだから。で、結果だけで見られるんだよね。1問間違えたっつーのがまぁ最低だと思うけど、他はそりゃー計算できてたからセカンドで4つ正解だったわけでさ、それをなんかあたかも全然授業についてこれてないバカなやつみたいな扱いを受けると本当にムカつくね。


俺って昔からそうで見た目でナメられるのね。ひ弱そうでなんか脅したら金くれそうな感じっつーの?ダメなやつオーラが出てるのかな?まぁある意味でダメなのは確かだからまぁそりゃーしょうがないとして、そういう見た目とか雰囲気とかをベースで「頑張りなさいねー」みたいに言われるとムカつくよね。ちょっと例えがおかしいかもしれないけどダウンタウンの松っちゃんがさ、客に「松っちゃん頑張れー」とか言われると「じゃかましいわぁぁぁ!コラぁぁぁー!!!」ってなるってすげー分かるんだよね。そいつより頑張ってて明らかに能力があるのにも関わらずなんでそんな同じ目線で励まされなきゃいけないのか?って。


そう思うと俺ってすんげープライド高いんだなと思ったね。いつのまにか凄く傲慢になってるのかもしれない。そう。ようは俺はこの怒っている俺に驚いたわけ。結局これって先生を見下してるんだよね。「コミカレ程度の教師になんでこんなこと言われなきゃいけないんだ!」って思ってるってことじゃん?そんなことは思いたくないしさ、この先生はまぁ厳しい感じだけどまぁ良い先生だからね、個人的な批判は全然無いんだけど、この怒りってようは下から何か言われたから「お前程度のものが何を言うか!」って俺は怒ってるってことになるなって思ったのね。


いやさ、このウォール伝でもいいんだけど例えばなんかの哲学とかを引き合いに出して語ってても根本的に何かの思想の解釈が間違っているとかさ、ここが誤りであるって専門家に指摘されたらそれはありがたいじゃん?そこで「何を!」って思わないわけよ。だからコメント欄も開いてるわけで。ただ代数程度のことで言われるとムカつくなっていう。代数すらも頑張らなきゃいけないっつー設定になってる俺っつーのが最高の侮辱だってことだよね。結果だけじゃ分からないじゃん?なんでミスしたのか?ってさ、単純に計算ミスとかね、考え違いだったら俺すげーよ。分かるまで納得するまでそれやるもん。俺の場合はまぁまたADD的なものに還元するのはアレだけどさ、細かいミスなのよ。ADD系の本にも書いてあるけどADDの連中ってそうなのよね。ケアレスミスが多過ぎてさ、実際はすげー理解してるのにテストでの点が悪いとかでね。


で、実際の知能と成績の乖離が激し過ぎてこれはおかしいぞ?ってことになるんだけどまたあれだ、知能自慢とかって思われたら嫌だからやめるわ。本当は頭いいのにバカにされるってね、まぁ控えめな人は「頭がいいのに」って思ってなかったり言わなかったりして「俺はダメなんだ」って思うんだろうけどね、そこでまぁ「いや、俺は大丈夫だ」って思わなきゃいけないっつーかさ、家に帰って自分の本棚見たら自分の知性って分かるじゃん?数学ガールでもさ、主人公がユーリにさ「お兄ちゃんの本棚難しいやつばっかだねー」みたいなこと言われたときにさ、「いや、これは自分で読んでる本だから」って言うじゃん?で、ユーリが「学校より自分で読んでる本のほうが難しいってなんか変〜」みたいなこと言うでしょ?そしたら主人公が「自分が読んでる本ってのは自分の理解の最前線だからね」って言うじゃん?これだよね。これがproofなんだから変な勘違いでバカにされたこととかを真に受ける必要は無いんだよね。俺は馬鹿じゃないんだから。


いや、先生は俺をバカにしたわけじゃないんだけどさ、でもちょうど数学っつーこれからやっていこう!みたいなものに関してバカ扱いされるとヘコむよね。変な話、哲学とか政治学ならバカにされてもなんとも思わないだろうけど、数学って全然自信もなければ素質も分からないからさ、そういうのが無いからすぐ揺らぐんだろうね。だから俺がキレてるって自信の無さの現れなわけ。先生をどっかで見下してるっつーのもさっき書いたようにあるしね。そういうのを帰りの電車で分析してたりすると結構唖然とするよね。自分に唖然とするね。先生なんてどうでもいい。先生は短絡的に結果だけ見て判断しただけでまぁそれ以上でも以下でもないわけで。問題は俺だよね。こんだけ複雑な怒りとヘコみみたいなのを抱えてる俺ね。今日は寝起きが良くて最高の日だ!みたいなテンションだったのに先生のこと一言で全てが崩れ去ったからね。


で、それは一言で崩れ去ったということとかね、せっかく良い日だったのに・・・みたいなことじゃなくてね、俺がキレているという理由とかを考えた時に愕然とするってことなのね。ああいうところで顕在化するものって噓が無いじゃん?本当の俺が何かのリアクションによって出るよね。それは誤摩化しが効かないからね。まぁでもこれって数学に限らずまぁ歯がゆいっつーかさ、数学ってあれじゃん?答えは答えじゃなきゃいけないからさ、例えば国語とかのテストの答えで「・・・・になったのであった」って書くところを「なたのであった」って書いてもまぁ問題ないじゃん?っつーかまぁ誤字脱字だよね。俺が言いたいのは。問題は大意っつーかさ、ちゃんと答えられているか?なんであって誤字脱字なんで重要じゃないんだよね。でも数学って誤字脱字があればもうそれが致命的じゃん?マイナスがプラスだったとかさ、他が全部あってるのにこの記号間違えてるとかさ、最後の+1が抜けてるとかさ、こういうのでもう間違えになるもんねってまぁ当たり前なんだけど言いたいこと分かるでしょ?結果が白か黒かってことね。


で、間違ってるってことになるとさ、結果だけ見ると「出来てない」って判断されるじゃん?っていうか今日がまさしくそうだよね。出来てないところなんて無いのにまるでなにも出来てない補修が必要な生徒みたいな扱いになっちゃうわけ。まぁそもそもあの結果だけでどうプロセスを理解するのか?ってのが逆に理解に苦しんだんだけどね。ファーストトライとセカンドトライっつってもそいつがどういうプロセスで間違えたのか?ってそいつしか分からないし、それって判断できないじゃん?限りなく100パーセントに近い99.9パーセント正解みたいなのでもさ、全く理解してないやつの0パーセント理解のやつでも全部0として看做されるって結構アバウトっつーかちょー適当だよね?


俺って数学やってて思うけどってほどやってないけどさ、一応「数学メジャー」として言わせてもらうと計算なんてどうでもいいと思うのね。計算の正確性なんてどうでもいい。問題は抽象度だと思うんだよね。アイデアの部分ね。計算ってだってただのプロセスじゃん?まぁもちろん計算が上手くなくてもやり方は知っておいたほうがいいのね。面倒でやる気がしないのでも計算式を立てられてあとは機械任せとかって芸当が出来なくなるからやり方知らないってのは論外なわけ。ただね、ヒューマンエラーでさ、7を6って書いちゃったとかで答えが違うっつってもさ、人間って判断できるじゃん?あ、ここなぜか6って書いちゃったわけねって。俺が教師だったらそれは正解にするよね。


だってそいつは代数にしろ何にしろ計算はやってるし理解してるからこそ答えを導きだしてるわけじゃん?で、その結果、なぜか7を6って書いちゃったってことで全てがダメってそりゃおかしいよっつー。数学のエッセンスって正確性とかじゃないと思うんだよね。パラダイムじゃん?いやね、代数にしても計算式とか見てて明らかにやり方間違ってるとかさ、それは問題だけど全部あってて、ただ最後の数字の書き間違えってことだったら別にそんなのいいじゃん?ミスタイピングみたいなもんでさ、ミスタイプでエッセイの評価が0になるのか?ってそんなことないじゃん?出版されてる本だって誤字脱字があったりするものもあるだろうけど別にそれって由々しきことじゃないじゃん?由々しきレベルの誤字脱字になったら問題なのであって、それはレベルの問題だよね。7を6って書いちゃったっつーのはあをいって書いちゃったみたいな話なわけでさ、全然問題じゃないよね。


だってそれってゲーデル数とかのパラダイムをとかを見ても分かるじゃん?意味の世界と形式の世界の差なんであってさ、でね、俺が何を言いたいのか?っていうと人間の理解というのは形式に属するものではなくて意味に属するわけ。つまりは数学というものを理解したという意味が理解そのものなんであってね、その演算の結果、ちょっとしたエラーで形式の世界の出力が然るべき形とは違っていたという理由だけで意味の世界が全て崩壊するのか?っていうとそんなことないわけで。俺はまぁ計算ミスがいいって言ってるんじゃなくて、数学という学問を学ぶということにおいては気をつけるべきではあるけど、それが原因で落ち込むっつーかさ、生徒を奈落の外に落とすみたいなさ、「ダメ」っつーレッテル貼りをするのはどうかと思うんだよね。mathematical rigorとは違うからね。それって。mathematical rigorは態度なんであってモロに意味の世界に属するものじゃん?その意味によって形式的に結果を出すっていうことだよね。


数学が嫌われる理由ってのはモロにここもあるでしょ?分かってたのにさ、いや、今のクラスでもよくあることなんだけど生徒が9って書くところをなぜか15って書いちゃったりしてさ、んで「ん?ここは9だろ?」ってことになって「あ、すみません。9のつもりでした」ってこれってもう正解じゃん?だって見てそれを9と書くところを15っていう間違いというよりかは書き間違いをしてしまったんだなってことでさ、9ってことがそこから分かるならそれは9なんだよ。人間は機械じゃないわけでさ、形式的なものだけで物事を理解してないどころか大抵が意味の世界で物事を理解してるじゃん?で、恐らく俺が思うに中途半端な数学野郎って「全ては形式なのだ」とかって思うんだろうなってことなんだよね。こういう立場からだと哲学とか社会学とかも批判できるよね。でもこれってバカバカしいっつーかただのバカじゃん?


そいつの回答からこいつが何をしようとしてたのかがさっぱり分からないっつーのが間違いなんであってさ、方法論の応用の仕方が間違ってたり計算の仕方が間違ってたりさ、これが数学的ミスなんだよね。方法論と計算があってればもういいわけ。計算ミスぐらいならまぁ数学だけに三角とかで正解だったときのポイントの半分とかもっといい線いってたら9割とかさ、そこは恣意的に先生がアサインしたっていいわけ。でも機械って間違いは間違いって出すじゃない?で、その結果だけ見て間違ってるからダメーはいやりなおーしってのがバカバカしい世界だってことねっつーか俺ってやっぱ先生になったほうがいいのかな?俺みたいなことを熱弁してる先生がいたら俺はその先生の事を好きになるだろうし弟子になりたいって思うだろうね。政治にしろ社会学にしろ哲学にしろ。で、ここで俺なりの数学とかが形成されれば最強じゃん!


まぁいいや。分かるでしょ?言ってる事。テストっつー形式はまぁ別に数学に限らずそうなんだけどね。選択問題とかでさ、そいつがそのことを理解しててもなんか4択の選択肢がややこしくて間違えてしまったっつーのが間違いとして採点されるけど理解としては理解してるわけじゃん?だから本質的なことはエッセイで語らせるのが一番いいんだよね。何かを選ぶんじゃなくて自分で言うんだよね。数学も同じだと思うのよ。機械的に出された問題を解くマシーンみたいなイメージがあるけど数学も全然哲学とかと一緒で思考力の問題じゃん?いや、低いレベルだと暗記してただプロセスするってことに終始するだけなんだけどさ、俺はそんなのに興味ないし、そんなものに時間をかけるのはナンセンスだと思うんだよね。エッセンス無き数学なんてマジで意味ない。ただのプロセスなら機械にやらせろって話なわけで。


数学が正確性が大事だってある意味ではそうだけどある意味では違うよね。正確に計算するということは綺麗にハンダゴテをするということで、正確に思考するということは正確に基盤を作るということじゃん?ハンダゴデしなきゃいけないものが携帯のパーツとかだったらようはそこで必要なのはその携帯を設計するという正確性ね。ハンダの正確性はまた別の話でさ、それは手先が器用な人とかがやればいい話なわけで。まぁ数学の場合、設計とハンダが携帯ほどは離れてないにしてもあたかもイコールのように捉えられるイメージがあると思うけどだいぶ違う世界だよってことだよね。


ラカンのトイレの話で言うとさ、トイレのドアにある紳士のマークがあるからそれは男子トイレなんであって女子トイレとの違いはその標識という名のシニフィアンにしかないってことなんだけどさ、あ、まぁ便器とか内部の構造が違うっつーのはあるにせよまぁシニフィアンの比喩としてはまぁいいでしょ?で、数学でもシニフィアンは成立するわけ。何もデータ的に男子トイレと規定されていなくても見た目から男子トイレっぽいからってことで男子トイレだって分かったりするとかさ、これって数学で言えば前後関係から明らかにここは最後に+1がついてなきゃいけないのに無いというのは書き手のミスだなって分かればそれはその+1の不在によって+1が語られてるってことなのよ。


つまりはそれは存在していると言えるわけ。さっきの9と15の話でも先生が「ここは9だろ?」って言えるならそれはもう9なんだよ。そこにあるのは数字という記号の違いだけであって意味される数学とか数式とか数学的方法論とか代数ってのは成立しているのであれば15と書いてしまった生徒はただのヒューマンエラーで15と書いてしまっただけでそれが意味するところは9だったわけだ。英語の言い方で「I meant」って言い方あるでしょ?こういう意味だったんだけど・・・みたいなことだけど、これは意味されたものが意味するものを作り出した主体の意向とは違う方向で解釈されてしまったからそれを訂正するってことじゃん?


勘違いからそれがベースとなって物事が進むってまぁ計算ミスしてその値で計算して答えだしちゃうみたいなことだよね。そういう意味ではそりゃ―ミスは無いに越した事ないけどでも数学っつーか特に数学の授業の目的って理解することじゃん?つまりは生徒が理解してればいいわけでさ、9を15と書いてしまっても間違えて書いた15という記号が9を意味するものであればそれは正解なわけだよ。もちろん形式的には誤りだけど意味の世界に生きる人間にとってはそれは正解だし、正解だからこそ先生も9だって分かったわけでってことはそれって正解じゃん?


そういうのを一切無しにして結果だけで見るのがテストだよね。で、今日みたいな短絡的な判断をされると。これが学校っつーシステムで行われてるから成績が低いやつイコールダメなやつみたいなレッテル貼りがあるわけじゃん?まぁレッテル貼りがあるかどうかはともかくとして、テストの点と理解力の相関関係は完全じゃないよね。ある程度まで計れるけど誤差はあってしかもそれはヒューマンエラーと勘違いしてしまうような問題とかって要素も介在してくるわけでさ、で、ましてや暗記だけでやり過ごせるヤツの場合、短期的な暗記が出来るやつが天下を取るわけじゃん?で、一ヶ月後には忘れてるっていうね。こういうやつは学校の成績が良かったのにも関わらずスッカラカンなんだよねっつーのは全部暗記でやってきたようなやつだから思考力が無いのね。まぁ暗記だけでやり過ごせるレベルのものに限るけどね。


数学は厳密な学問だからミスが許されないって大間違いだね。ただの俗説だよね。本当に。計算が得意だから数学が得意っつーのもただの俗説。数学と計算はそこまで関係無い。計算ってのは数学をやるためのプロセスなんであって数学そのものではないってことね。つまりは数学を理解してるやつが計算ミスしてもそれはただの計算ミスなんであってそいつが理解してないということにはならないってことね。計算が苦手な数学者とかいてもいいんじゃないか?って思うんだけどね。谷山豊みたいなレベルになると逆にかっこいいんじゃないかと。そういう意味ですげー嫌いだね。所謂、ティピカルな数学!っとした数学ね。ちょっとの狂いでも許されない!みたいなのを真顔で語る感じの数学っつーの?数学の本質は自由にありってカントールの言葉だけど、ちょっとの狂いでも許されない!みたいな数学って数学というものが計算っつー監獄によって閉じ込められてる数学で全然自由じゃないよね。形式的な監獄じゃん?


人間は不自由なものをそりゃー嫌うだろうし、あえて不自由な監獄みたいなところにいようとも思わないからさ、だからあえて数学なんてやろうと思わないんだと思うんだよね。俺はそれは全然違うんだっつー数学の自由さが分かったんで好きになったわけで、やっぱああいう学校でやる数学っつーかああいう典型的なバカバカしい評価の仕方っつーのに本当に腹が立つね。俺が楽しんで解いて終わらせたものを「ダメだ!」って言われるなんて最悪じゃん?気分的に。仮にミステイクが俺の押し間違えじゃなくて根本的なミスだったとしてもセカンドトライを含めて15問中14問正解できてたら十分じゃん?っつーか結果的に答えに辿り着いたわけだから別にいいじゃない?何回間違えたか?なんてどうでもいい話なわけで。


いや、俺は間違えてないけどね。これは強がりとかじゃなくてっつーか強がるほどのレベルの数学じゃないから。マジで。中学レベルの代数なんで。マジで。でもまぁ理由はどうであれ14問正解ならいいでしょっていうことだよね。「他の人は大体みんなファーストトライで15〜14問正解してるよ」なんて他と比べられてもね。他なんてどうでもいいじゃん?俺が答えに達したという結果がそこに出てるわけでそれで何がいけないんだ?っていう。今日はそういう意味で数学によって最悪の気分になった日だったね。まぁケアレスミスは気をつけるにしてもこれはもうセットみたいなもんでしょうがないんだよね。気をつけてて治せるなら苦労してないわけで。


AttentionのDeficitが治せたらDisorderでもなんでもないじゃん?だからといってこれをエクスキューズにするつもりはないんだけど、ただケアレスミスごときでバカにされるのは我慢できんな。マジで。誰があんなレベルの代数をまた家に帰って復習するっつーんだよ?インスタントコーヒーの入れ方を練習しましょう!ってバカのサークルじゃん?まぁ障害者とかはおいておいて、普通の基準でいけばインスタントコーヒーを入れる練習なんてしなくても誰でも出来るし練習するほどのものでもないわけで。で、俺の場合、たまたまコーヒーの粉をこぼしちゃったってことで「ダメだね。キミは。もっと練習しなさい」って言われたようなもんだよね。練習も何も粉をちょっとこぼしちゃっただけじゃん!っていう。俺は熱湯を注いで濃さがちょうどいいコーヒーを入れることが出来たわけでそれでオッケーじゃん?っていう。入れ方が間違えているというのは水道水をそのまま入れてしまったとかさ、そもそもインスタントコーヒーの入れ方を間違えるってことのほうが難しいよね?中学レベルの代数然りだよ。あんなものを計算ミスとかではない根本的なやり方をミスするなんてことは不可能なわけで。不可能っつーのは言い過ぎか?ただあそこまでやり方がはっきりしてるものを計算ミスとかややこしい四択によって押し間違えたとか以外に間違える方法なんて無いだろうっていうさ、そういうレベルじゃん?それを家でやってこいとかって言うのってもう完全に侮辱だよなっていう。


結果を見ればそう見えるっつーのは分かるけどそれは判断が短絡的過ぎるし、数学ってそんな結果だけで見えてくるものじゃないでしょってことはまぁ今日のメインポイントだよね。どの道まぁあの教師の判断は短絡的過ぎるよな。数学なんて色々な組み合わせだったりするわけで間違いっつったってどういう間違いをしたのか?なんてそれこそ個別の違いがあるわけでさ、間違いってだけで判断できることなんて全然無いよね。それを数学の教師足るものが短絡的に判断して「もっと頑張れ」って言うのっておかしくないか?っていう。いや、でも俺は先生にはムカついてないよ。先生は俺のためを思って言ってくれてるんだから全然いいし、あの先生の事は好きだけどね、ただ俺はあの先生に個人的な怨恨があるわけじゃなくて、この一般的なロジックが許せないってことなのね。これはこの先生に限らずこういう判断する人っていっぱいいるでしょ?


まぁいっぱいって言い方は変か。数学教師ってそんなに多くないだろうからね。でも数学ってそんなもんじゃないでしょって言いたいこと分かるでしょ?チョムスキーがさ、言語学は最高に反抗的っつーか革命的っていうか自由なものだって言ってたけど数学も全く同じね。俺とかチョムスキーみたいな自由を善い事と看做して束縛を悪だって思うタイプのような人間にこそ開拓できる分野が数学とか言語学なんじゃないか?ってことだよねってチョムスキーとか俺みたいにってすげー言い方だな。まぁそれはウォール伝クオリティとしてまぁ良いとしても、ルールに従え!だの暗記!だの間違いは間違いだ!なんて言ってる数学教師なんて多分大体ロクでもないもんだと思うね。絶対そんなやつが数学のエッセンスを掴んでるわけない。ただ慣習みたいな感じで得意分野で成績が良かったからやってきた結果教師になったみたいな連中だよね。


ロジックを憎んで人を憎まずってのは俺の座右の銘だからね。既成概念が大嫌いということになると大抵の人は既成概念に縛られて生きてるんでこの構図で行くと大抵の人間の事を嫌いになっちゃうでしょ?そうじゃないんだよと。その人は悪くなくてその人を支配しているロジックなり既成概念がいけないんだよってことで憎むべきは既成概念とその人のロジックなんだよね。まぁそれでも人間的にロクでもないやつっているからそういうやつは問題外だけどね。今日の先生で言えばまさしくそうじゃん?人間的に恨む必要は全く無い。ただ言われた事はムカつくっつーかその恐らく言うことになった発端となったロジックが凄まじくムカつくってことだね。バカか?ってそれには言う。でも先生には言わない。なぜか?っつーとそれは理解できるからね。普通の人ならそう考えても仕方がないかなってところだからね。ここで人を恨んでるとマジで敵だらけになるからね。まぁ実際友達全然出来ないけどね。こっちで。


だからウォール伝ってすげー支えになってると思うね。友達ゼロでも大丈夫!みたいな感じでいるけど実際は寂しがり屋なところもあるからさ、そこでウォール伝を介して匿名の人でもやり取りがあったりするとやっぱそれってすげー嬉しいわけ。批判的な意見でもウォール伝の内容を巡っての批判ならそれはありがたいっつーか対話が出来るじゃん?プライベートでそういうのが一切無いから寂しいんだよね。だからこそウォール伝ってすげー長文なわけで。逆にリア充になると出力が減るってのはいつもそうじゃん?っつーのがリアルで自分が話してると書く事無いじゃん?っつーか話すってことで出力できてるじゃん?だから出力欲がリアルで満たされるんだよね。でもアメリカに来てからはまぁロバートみたいな面白いやつもいたけどんでもまぁホントいないよな。いなさ過ぎる。あーあと哲学のクラスのアンソニーってやつとは真剣に語り合えたなぁー。あいつもまた孤独を感じてるようなやつで。ただいつも書くけどどっかで定期的に会うっていうさ、まぁアンソニーとの場合、哲学の授業だけど、セカンダリーグループ的な媒介が無くなると人間関係って希薄になっちゃうもんね。まぁこれはしょうがないよね。Keep in touch!とか言ったところでそりゃもたないよな。イヴァンとかにしてもそうだよな。ほとんど親友だったけど今は全然連絡とかしてないもんな。


まぁ数学に話を戻すとだな、まぁこういうケアレスミスはもうずーっとついてくるよね。だからといって数学が向いてないってことじゃないんだってのは今数学をやってたり数学関係の本を読んでて凄く分かるわけ。あれは別のブランチのフィロソフィーなわけで。まぁ哲学がロゴスを媒体とした知への冒険なら数学は数を媒体とした知への冒険と言えるよね。結局はロゴスも数に変換可能で数もまた山本山の山本ヴァーサで言語に変換可能なわけでさ、フォーマットの違いよね。これって墨的にはすげー大発見だったってのが去年の発見じゃん?すげー素敵な発見じゃん?新たな分野を見いだせたわけで。だから学校とかさ、学校的なものと付き合って行く上で俺の脳の構造が邪魔をすることでグレードが低くなるみたいなことでそれを不向きと看做して諦めるなんてすげーバカバカしいことなわけ。


数学って結局は行き着く先は研究なわけでさ、だったらとっとと研究始められるぐらいになっちゃえばいいんだよね。で、テストの点がどうとかっていうくだらないレベルじゃなくて論文っつーレベルで勝負が出来るぐらいになってればいいわけだ。逆を言えばこういうレベルで俺が何か出来なかったらまぁ終わりだわな。それは哲学でも政治学でも一緒だよね。所謂知識の詰め込みしか出来なかったら終わりだよね。物知りな先生みたいな感じでやっていければいいけどそこまで器用じゃないし、なにより気分障害とか鬱があるからやっぱ定期的な勤務とか無理じゃん?そうなるとアカデミックで他の道を探して行くしかないじゃん?で、すげー限られてくるよね。道は。でも良い限られ方だよね。ある意味で研究者の極限みたいな形を俺は求めていてなおかつそれでしかやっていけないだろうってことでそれになるしかないってことじゃん?だからそれでいいんだよね。無理だったらまぁもうダメだぁーってことでリボルバーでも買ってくるかーっていう。死ぬときはリボルバーって決めてるからね。俺。自殺を待てば→待てばで自殺=リボルバーで自殺。This is it!!



元はOxfordのA Very Short Introductionっつーシリーズの一冊なんだけどね、フィールズ賞を受賞したケンブリッジの教授なんだけど、なんつーかあれなんだよね、フレイバーがホワイトヘッドなの。読み終えてないけどホワイトヘッドのAn Introduction to Mathematicsを現代的にもっと分かりやすくしたって感じかな?所謂、ドライな数学の解説書ではなくてすんげー哲学的なのねっていうかそれは哲学的に語っているということではなく、数学の本質を表現しているが故に必然的に哲学的になってるっていうような内容なのね。これぞまさしく数学!っつーか俺が好きになった数学だよね。哲学的アプローチとかあえて方法論的にやらなくても、本質を見据えればその哲学的エッセンスが見えてくるっていうような、スピノザで言うところのっつーかドゥルーズスピノザ論で言うところの属性概念だよね。形容詞ではなく動詞であるという属性ね。つまりは数学であるという事自体が哲学であるという動詞を導きだしているってことね。数学という属性がフィロソファイズさせる要素を含んでいるが故にそれが「哲学」という動詞になるってことね。そういう数学という属性が導きだす動詞としての哲学が見えやすくなる本っつーのかな?哲学もそうだけどやっぱ数学もある程度の人が教えないとダメなんだなっていうのがよく分かる本だね。このぐらいのレベルの人が書かないと数学のエッセンスって凡人には伝わらないし分からない。数学教育が成立しないのは哲学教育なんてのが成立しないのと同じロジックで成立しないのかもね。まぁもっと博士号の人とかを義務教育課程の教師に回すってアイデアもあってまぁ不可能ではないのかな。まぁ博士号=頭が良いってことじゃないけどサラリーマンにちん毛が生えたような教師が数学教えるよりかはマシだよね。