ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

パニック発作を構造的に克服するっていうと大げさになるけども。

mimisemi2010-02-21

先週からずーっとネットが使えなかったので更新できなかったのでってことでまぁ先週ぐらいに書いてたやつを貼るわ。


スピーチのクラスなんだけどさ、ノンネイティヴ用のやつがあるっつーのにネイティブ用の取るって結構度胸いるじゃん?まぁそれは前に書いたけどさ、何気に今日、最初のスピーチがあったんだよねっつーのがSpecial Occasionっつーさ、葬式とか授賞式とか卒業式とか設定は自分で決めてやるんだけどさ、パニック発作がある人なら分かるかもしれないけど人前に出て喋るなんて地獄だよね。ましてやネイティヴ用のスピーチのクラスで英語でやるなんてもうありえねぇーじゃん?


でもさ、こないだ苫米地さんの洗脳原論読んで余計に思ったんだけど、パニック発作ってある種の状況的なアンカー要素があるよねっつーかかなりそれが占めてるよね。まぁ精神的に不安定だとかストレスが凄い場合は完全に心労が原因とも言えるんだけど、心労が原因にしても何かにとってパニック発作がトリガーされるとその状況までもが飲み込まれるんだよね。それが電車であったり教室であったりさ、パニック発作が起きた場所ってのが怖くなっちゃう。実際にはたいした因果関係が無かったとしても、その人にとってはそこにいてなったってことでそれが原因に見えたり要素に見えたり、あとは単純に怖いんだよね。怖くなるわけね。その状況が。これって完全にアンカーだよね。


極端な話さ、ベトナム戦争帰りの兵士がジャングルを怖がるのと一緒ねっつーか実際にジャングルを怖がるかは分からないけどまぁ怖がっても不思議は無いよね。悪夢が起きた状況ってのがジャングルだったわけでさ、仮に退役後とかにさ、同じ場所じゃないしてもジャングルっぽいところに行けば悪夢が思い出されるって完全に状況的なアンカーだよね。ジャングルと悪夢は実際関係無くて、関係あるのは戦争なわけで、戦争が起こってないジャングルは別に怖がる必要は無いのにも関わらず怖いものになっちゃうじゃん?パニック発作も一緒だよね。


で、俺の場合、特にこっちに来て割と生活に慣れてきてからは比較的っつーかかなり俺の人生の中でも相当ストレスフリーな状況下にあるわけじゃん?だからまぁ気分障害はあるにしても酷い鬱がエンドレスに続くとかって無いわけじゃん?まぁ状況的なものによってトリガーされることはあるけど慢性的な倦怠感とかはないじゃん?それはようはこっちの生活があってるってことだよね。で、そう考えるとさっつーかパニック発作とかも相対的に考えられるようになるんだよね。


もちろん過去には英語が下手クソで喋るのが怖いみたいな恐怖はあったけど、さすがにもう4年もいるわけで、英語もだいぶマシになってるじゃん?実際はそんなに怖がることはないんだっていうのを自分に言い聞かせつつ考えてみるといかに俺のパニック発作が主観的な思い込みから来ているか?ってのがよく分かるんだよね。人前で話すのが怖いとか授業って状況でネイティヴに英語を聞かれるのが嫌とかさ、まぁ実際、英語が酷かった時期もあるけど、んでもまぁ思い込みも大きいわけ。そうなるとなんつーのかさ、ようは認知のゆがみだよね。認知のゆがみから来る思い込みとか無駄な主観的な恐怖ってのが凄くよく分かるようになるわけ。いかに俺が自分で勝手に自分を追い込んでパニックになってるか?ってのがよく分かる。


で、最近はまぁ去年とかに色々と自己啓発本とか読んだのもあってまぁ自分に自信をつける方法とかさ、なりたい!って自分を常にイメージしながら生活するとかさ、まぁ腐るほど本出てるけど大体まぁ言ってることが共通してるのあるじゃん?そうするとさ、例えば今のスピーチのクラスなんてすげー小さい事なんだよね。将来の目標とかを考えるともっとデカいところでスピーチとかしなきゃいけなくなる場合もあるわけで、こんな小さいクラスの授業で緊張しててどうすんだ?っていうね、自分のスケールが前よりデカくなっている分、目の前のトリビアルなことが本当にトリビアルに見えるようになるんだよね。


で、その結果さ、例えばね、スピーチとかでも当たり前のようにやれる!って思ってるから前日とかも全然緊張しないで寝れるっつーかさ、寝る前にチャチャッと原稿書いてんで何回か読んだりイメージトレーニングして終わりみたいなさ、で、今日、実際にやってみてもさ、例えばね、今までの俺だったら「誰々の次は誰々で」みたいに順番が決まってると特に追い込まれるっつーかパニック発作を引き起こす要因の一つとしてあるじゃない?で、俺の番がどんどん迫ってくるわけじゃん?一人一人スピーチを終えてさ、他の生徒がね、で、まぁ当然ほとんどみんなネイティブだから上手いことやるじゃん?そんな中で俺か!っていうさ、今までの俺だったら狂い死にしてるだろうなって状況下でさ、まぁもちろん保険として薬は飲んできたけど、安定剤一錠でさ、これはこういう凄まじい状況にしてみたら相当少ない量なのね。で、順番が回ってくる間も緊張はするんだけど、なんつーか普通の緊張なのね。誰もが感じるであろう緊張ね。パニック発作って発作っていうぐらいでさ、狂い死にするのか?ってぐらい凄まじいものなんだけどそれが無いのね。普通の緊張っつーかなんつーか。だから耐えられるわけ。


何より俺の中で当然にスピーチをやれている俺ってのが描けてるからやる事自体は怖くないんだよね。で、俺の番が来たらさ、ふつーに黒板に「Bill」って名前書いてさ、んでまぁ俺は葬式設定にしてね、んで俺の架空の爺さんの葬儀っていう設定でさ、んでこの爺さんが数学者で「ワシはタバコが無いと数学はできんのだ!」っていうのが口癖でした、みたいな細かい設定を作ったりしてさ、ただ長年のタバコが原因で肺がんになり死んでしまいましたが、死ぬ前はドクターのペインクリニックにより苦しまずに逝けたようですみたいなさ、まぁそういう話をするわけ。まぁこういうセッティングはネットで調べてさ、あ、日本語でね。


で、葬式でのスピーチみたいなフレームワークを使って、んで設定は俺が勝手に作ってさ、んで爺さんは色々と哲学から数学まで色々と教えてくれて、爺さんの情熱的で哲学的な魂は僕の心に宿っていますみたいな締めで終わらせたんだけど大成功ね。思ってた通りの大成功っつーか当たり前のように自分がこなしてるのに相当驚いたね。「あれ?」って感じね。英語もなんだか上手いしすげー声に張りがあってさ、んで発音がいいのね。今朝は決して調子が良くなかったっつーか6時間ぐらいしか寝れなくてっつーか時間がズレてたからね、連休続きで、んでまぁ眠かったんだけそすげー上手いスピーチが出来たわけ。で、クラスのみんなも驚いてる感じだったのね。「あいつあんなに喋れるんだ!」みたいな。寡黙なイメージがあるんだろうな。


これこそまさしく自己啓発本とかに書いてあるメソッドだよね。準備をしてイメトレをして「絶対自分はやれる!」って思い込んで・・・みたいなさ、苫米地風に言えばまぁ大いなる勘違いでもいいんだよね。俺は凄まじいスピーカーだみたいな誇大妄想を持って自信バリバリにスピーチをやっていいわけ。で、結果的に上手く行けばそれって勘違いじゃなくてマインドセットで設定されていた自分が具現化したって話になるじゃん?ようはイデアの世界で思い描いていた自分がスピーチという場で具現化するってことだよね。それが当たり前のプロセスのように顕在化してスピーチ大成功して終わるわけじゃん?で、自信つくじゃん?怖がる事は無いし、全然俺はいけるっつー自信がつくよね。


まぁこれって引き蘢りだった俺から言うとドラマになってもいいぐらいの変化なんだけどさ、まぁ普通の留学生でも結構大変なことだと思うけど、俺の場合、重症のメンヘラーの引き蘢りだったわけでさ、そんなやつがアメリカの大学のネイティヴ用のスピーチのクラスでスピーチ大成功させてるってありえないじゃん?でもありえてるんだよね。ようは積み重ねと方法論だよね。こういうのを繰り返していくと自己像が変わるんだよね。引き蘢りのメンヘラーだった自分からアメリカでブイブイ言わせているノリノリの自分っていう自己像に変化していくわけ。ようはマインドセットが変化していくってことだよね。


人間は希望と努力と環境によっては全然変わる事が出来るっていう良い例だよね。学校のスピーチクラス程度で大げさな!って思われるかもしれないけど、さっきも書いたように、俺の場合、最初の設定が酷いわけじゃん?そこからここまでになってるっつー変化がドラマティックなわけ。でも変化したんだっていうのは事実でしょ?ってことは人はいくらでも変われるってことだよね。で、思うに俺って頭はそこそこ良いとは思うけどエリートじゃないしさ、最初から哲学の本とかスラスラ読んでたわけじゃないし、ある意味でまぁ普通の人なんだよね。本当に。まぁOEという意味でのギフテッド的な要素はあるにしても、所謂、桁外れのIQを持った天才とかではないわけで。


何が言いたいか?っつーと俺の高等遊民的な知的生活とかもさ、自分で環境づくりをして自分をそうデザインした結果そうなってるって感じなわけだよね。まぁ元々放っておけば知識欲が旺盛だから勝手に色々と本を読むってのはあるにしても、そういう時間が有り余っているという有利な状況を最大限に活かしてるっつーのは俺のライフデザインじゃん?そこから作り出されるマインドセットってのがあるわけでさ、それはさっき書いたスピーチとかでももう緊張しないとかっていうのとは別のね、つまりはまぁフィロソファーモードっつーのかな?読書がデフォルトっつー生活を自分でデザインするわけよ。まぁこれはだいぶ前に書いたけどさ、でも俺の場合、半々なんだよね。


元々の素養が半分で残りは自分のデザインだよね。あとは親が仕送りしてくれるとか、今の地下みたいなストレスが無い家で生活できているとか、ニューヨークって場所が自分にあってるとか、色々な要素はあるにしても、素養だけじゃこうはいかないんだよね。本当のずば抜けた天才って素養だけでやっちゃうみたいなのがあるけど、俺は全然違うね。かなり自分をそっちの方向に向けて生活を最適化した結果、出来上がっているマインドセットってのがある。それは脳の働き方って意味でもそうだからさ、で、脳って使えば使うほど良くなるっつーのは筋肉と一緒だから、なんつーか毎日筋トレできてるみたいな感じだよね。それがもう本格的にやり始めた筋トレが二年半ぐらい続いてるんでムキムキになってるっていう。


これってようは人間なら元々の体質があるにせよ、毎日筋トレしてプロテインとか飲んでそればっかやってる生活ってのを続ければみんなムキムキになるのと一緒だよね。まぁただ俺の場合、みんなも俺みたいに出来る!って言い切れないのはまぁまた批判されるかもしれんけど素養もあるからね、それだけじゃないからまぁ素養がライフデザインによって倍増されてるってことだよね。元のアトリビュートがそこまで高くないキャラでもずーっと育ててさ、例えば知性みたいな数値ばっか上げてればそりゃー特出したパラメーター値を持ったキャラが出来上がるじゃん?オンラインゲームならさ、普通の人ならそこまで上げるのは無理!ってのを俺は時間があるからやれてるみたいなそういうことだよね。


まぁなんつーか何が言いたいのか?っていうと俺凄いだろ!みたいな自慢じゃなくてさ、本当に俺は変わったなぁーっつーのとね、本当に成長したなってことだよね。然るべき環境にいるから自分を伸ばすことが出来てるわけだよね。そういう実感が凄くあるよね。で、スピーチのクラスでさ、各生徒ごとにさ、スピーチを聴いていた生徒がスピーチをやった生徒に対してコメントとかを書くのね。フラッシュカードみたいなのに。俺はそのシステムが分からなくて何も書いてなかったけど、クラスのやつらが結構それ書いててさ、んで俺のスピーチに対してもいっぱい評価くれてさ、んで評価が本当に高かったのねってまぁそりゃー悪い事書かないだろうってのは当たり前にせよさ、なんか嬉しいじゃん?凄く。俺の場合、しつこいようだけど背後に凄まじいドラマがあるから感動するんだよね。


「あんなメンヘラーがこんなになるなんて・・・」っていう客観的な感動がある。昔の俺では考えられなかったことが出来るようになっているというのに俺は感動するわけだね。自分の事なのにも関わらずね。でも凄まじい大きな勘違いをするっていうさ、俺のことを良い意味でドンキホーテだって言ってくれた人がいたけど、その大いなる勘違いをしているマインドセットがデフォルトになってると、むしろ当たり前なんだよね。このぐらいのスピーチをチャチャっと成功させちゃうのは当たり前なわけ。だって俺にはこんなことじゃないもっとデカイ目標があるわけでさ、こんなのをこなすのは当たり前なんだよね。・・・・って成功したから言えるんじゃん!って言われそうだけど、「当たり前なんだよね」というマインドセットっつーか大きな勘違いの中で実際、成功させて「ほら、言った通りでしょ?」ってことになるとそれが勘違いじゃなくなるんだよね。


それによってどんどん自己像を変えていくっていうプロセスだよね。で、俺はそういうのにまぁ成功してるって感じだし、今は数学でまぁレポートレベルだけど論文を書けるっつー状況もあってさ、んで俺は前から学校の成績じゃなくてペーパーとかのオピニオンで勝負するんだ!みたいなことは散々言ってきてたじゃん?で、今は「んじゃあやってみな」って状況になっててさ、んでこれも「ほらいったでしょ?」にすればいいんだよね。やったことないから「ダメかも」って気持ちが無いと言えば噓になるけど、でも結局はまぁパライダムとしてはスピーチと一緒だよね。やってもいないのに勝手に「無理かも」って思ってるのは俺なわけでさ、だったらドンキホーテモードのさ、勝手に自分が数学者にでもなってるような誇大妄想で書いた論文が通っちゃったりすればそれって誇大妄想じゃなくなるじゃん?さっきのスピーチで言えば俺は凄いスピーカーだ!って誇大妄想してんで実際成功させちゃって「ほら言ったでしょ?」ってことににするというのと同じ事だよね。


こういうのを積み重ねていって一個一個着実に成功させていけば結局はなりたい自分になれるっつーか結果的になってるってことになるよね。今もまぁなってる最中なわけで。で、今日はスピーチのクラスから次のクラスまで5時間半ぐらい間が空くっつーか12時にスピーチが終わって中国語が5時半からなんだけど、午後ががら空きじゃん?で、この時間ってすげー使えるんだよね。学校にいるから図書館に籠って読書ができるわけ。ようは俺は前によくやってたスタバで読書と一緒ね。家だと色々と気が散るっつーか気になることがあったらググったりしてパソコンを触りだすとそこからまた色々と繋がっていって読書が進まなかったりするけど外にいる場合、それしかないってことで集中力が半端じゃなくなるんだよね。だからまぁみんなドトールとかスタバとかで勉強したりするんだろうけど。


で、俺はもう完全に数学者になったつもりでさ、例の研究素材のチャイティンのThinking about Godel and Turingを読んだんだけどねっつーか最近のフェイバリットは前にも書いたけど、図書館の奥でさ、一番奥の角の本棚と本棚に挟まれたところにちょっとした空間があって、そこに椅子があるんだよね。で、そこを俺の居場所にしてるわけ。ようは勝手に俺の席だって決めてそこに籠るようにしてるんだけどここがいいんだな。図書館の奥なんであんま人がいないし、来る人も少ないし、人が来た所で死角みたいになってるんで全然気が散らないのね。まぁ見た目は変だけどね。なんでこんな奥の角で壁に向けて座って本読んでんの?って話になるけど。


で、結果的に四時間ぐらいぶっ続けてこれ読んでたかな。買ってから正直あんま読んでなかったっつーか研究素材のくせにさ、最近っつーか先週からね、一週間ぐらい連休が続くってことで時間ができるなってことでもういかないって決めてたブックオフで本を大量に買ってさ、んでそれを読んでたのね。15冊ぐらいだけどまぁ一瞬でほとんど読んじゃったけど、んでまぁ連休明けで学校が始まって、んで一発目が図書館籠りでチャイティンの本ってことだったんだけど4時間もそればっかってすげーはかどるね。おかげで8割ぐらい読めたんだけどさ、それはチャイティンの文章力もあるな。あの人って割とアカデミックなペーパーを書くときでも決して機械的な記述になりすぎずにさ、ユーモアがあったり、なんつーか論文のくせに面白い文章を書くんだよね。なんつーか妙にテンション高い感じがニーチェとちょっと似てる感じがするな。ニーチェもやけに引き込まれるじゃん?ああいう感じがあるのね。


主題が面白くてもすんげーつまらない文章ってあるじゃん?でもチャイティンのは独特の文章ですげー読ませるんだよね。あとはまぁ専門書のように見えて実はかなり一般向けの本でもあってさ、かなりインフォーマルなレクチャーの文字起こしをしたやつとかもかなりあってね、で、それがチャイティン節で楽しいんだよね。まぁ内容は高度だけどさ、ただ内容が高度だからって「数学に関しては初心者だから・・・」とかっつって敬遠しないでさ、「俺は数学者なのだ!」みたいな誇大妄想で「理解できるのだ!俺は!」とか勝手に思い込んで読んじゃえばいいんだよね。で、そういう風に思い込んで読んでいる結果、結果的に4時間半ぐらいぶっ続けで読む事が出来たっていう。だからまぁ実質的にあの300ページ以上ある結構な量の本の大半を1日で読んじゃったってことだね。まぁ読破はしてないけどね。


俺が内容を理解したか?っていうと相当怪しい。論文を書けるか?っていうとはっきり言って書けない。でもすげー色々と分かった事がいっぱいあるわけよ。で、まずは基本的に当たり前だけどチューリングの論文を読んで理解しないとダメだなってのがあってさ、ゲーデルに関しては理論的には理解してないけど、まぁ色々と本を読んだおかげで内容は理解できてるけど、チューリングに関しては全然なんだよね。チューリングマシンの話は出てきてるけどまだイマイチ分からん。いや、分かってるけど数学的に理解するのはかなり高度なんだよね。だから理解してないわけ。でもこうやって無謀にもこんな本に突っ込んでみたってことで新しい地平線が見えてるわけじゃん?


4時間半数学的瞑想をしてて、んで何かが見えて覚醒したみたいな感じだよね。実際、4時間半これを読んでて図書館を出てさ、んでまぁサンドイッチの残りを食べたりして、んで中国語の授業に出たんだけど、なんつーか完全に俺は変性意識状態になっててさ、なんつーか4時間半数学宇宙にいたような感じで体がフワフワするんだよね。スタバで哲学の本を5時間ぐらいぶっ続けで読んでた時も同じような感覚があったけど、んでもまぁ数学の場合、それが完全に数学宇宙なんでまた感覚が違うんだよね。ただまぁ脳が完全に抽象世界にどっぷりハマりこんでいるってことは事実なわけでさ、あの陶酔感は凄いね。本当に。ただそういう陶酔感を与えてくれる本とか素材って意外と多くないんだよね。でもチャイティンの本は完全に理解できないながらも凄まじく知的刺激を受けるね。脳がビンビンしてる感じがする。脳がシュワシュワするっつーか。


で、プロジェクトに関してはさ、例えば逆にチャイティンの本をある程度読んだことでさ、チャイティンの論文全体について何か書くっつーのは大変過ぎるから、論文の細分化されたカテゴリの一つだけをピックアップして小論文みたいなのを書くとかさ、あとはまぁもっとレベルを下げまくってカントールの無限の基本概念を説明してみるとかさ、メタ数学とは?みたいなのを説明してみたりとかさ、ようは今の自分なら書けそうかな?っていうのが分かってきたね。まぁ完全に言えるのは論文全体について書くのは無理ってことね。範囲が広過ぎるし今の俺にはあまりに無理過ぎる。だからもっと小さく攻めてみようか?ってところだよね。まぁこれは先生にも相談してみるけどね。


それにしてもあそこまでエクリチュールに飲み込まれそうになったっつーか飲み込まれたのはシュトラウス以来だな。まぁシュトラウス以外にも良い本はいっぱい読んでるけど、なんていうか読ませる文体っていうかさ、量があると読むのってゲンナリすることあるじゃん?難しい本でも100ページぐらいの本なら読めるけど500ページぐらいあるとゲンナリするじゃん?そういうのを感じさせないっつーのかな?チャイティンはあの文体とあとはやっぱ絶妙な数学と哲学の橋渡しっていうかさ、本人も言ってるように数学だからっつって全部記号で記述するってのはつまらないことだし、それは数学を殺しかねないっつーさ、記号の記述だけが数学じゃないんだぜ!っていうのがすげー伝わってくるね。


俺としても数学数学って今では騒いでるけど、いまだに所謂、ティピカルな理系の思考みたいなのって全然肌にあわないのね。全部数式で表現できるとかさ、すげーロジカルに考えるとかさ、全部が「したがって・・・故に・・・」みたいな感じで言えるみたいな感じっつーの?そういう意味だとまぁあえて分けるなら俺ってモロに文系なわけよ。モロに哲学の人なわけでさ、そういうのとは合わないんだけど、モロに哲学の人がのめり込める数学ってのがあるんだよ!ってところがまぁチャイティンがやってるような数学だったりメタ数学だったりするわけだよね。むしろ哲学的エッセンスが無いと成立しないような数学のジャンルね。まぁ逆を言えば絵に書いたような数学主義者にはチャイティンみたいなのは邪道に見えるのかもな。でも俺は数式だけ処理する数学なんてのに全く興味は無いわけでさ、あくまで抽象思考の記述体系としての数学だよね。まぁ記述言語か。数学というパラダイムにも哲学で言う実存とは?とか主観とは?みたいな抽象的な議論が出来る宇宙があるんだなってところだよね。


ライプニッツにせよデカルトにせよスピノザにせよ、多分、レベルが高い哲学者ってのは絶対数学をこんな感じで考えてたと思うんだよね。ようは哲学との差がない数学ね。抽象思考という意味で全然ボーダーが無いって意味での数学と哲学。カントもそうだけど、哲学者に数学者兼みたいな人が多いっつーのも頷けるよね。


あとマインドセットの話に戻すけど、誇大妄想っつってもさ、計算し尽くされた誇大妄想じゃないとダメだよね。ようは世界征服するとかさ、あまりに突飛な誇大妄想をしてもしょうがないよね。俺の場合、特に他人から誇大妄想だと言われそうなのだと昔から言ってるのだとイデオローグになるとかさ、あとは最近では数学者どころか大数学者になるとかさ、大哲学者になるとかさ、つまりは大学者になるってこととかさ、日本的なドリームキラーは一瞬で「お前じゃ無理だよ」みたいなさ、大志を挫くのって割とデフォルトじゃん?


「何言ってんの?」みたいな感じっつーの?でも本人はその気になって何やら色々やってるみたいよっていうその他人からは勘違いしてるとしか思えないぐらいの大志を抱いてんでその「何か色々」ってのをやるんだよね。つまりはそういう誇大妄想がマインドセットとしてセットされると自ずと細かいところが見えてくるのねっつーのがね、ようは身近なところでやることってのが見えてくるわけ。イデオローグになるにはどうしたらいいのか?ってさ、臨場感たっぷりにリアルにそれを感じてるからモロに行動とかがそれにドライブされて結びついていくわけ。まぁ俺の場合、読書がメインだけど、イデオローグも大哲学者も大数学者も最終的にはインテグラルな大学者になるっつーのも数学に鞍替えしたように見えるけど全部同時進行中だからね。どれ一つとして今までやってきたことを諦めたりはしてないわけで。


これの一つの形が今日の図書館だよね。勘違いしてなきゃあんなのを研究素材にしようなんて思わないよ。高校数学やってるやつがあれで論文を書くとかふざけてるわけよ。「でもやるんだよ!」って書いたでしょ?それってのがようは誇大妄想なんだよね。だって俺は大数学者になるんだっていうかもうすでに大数学者なのだ!みたいなさ、この人を見よ!的なマインドをインストールして半ば狂ったように学問をやるんだよね。それは狂ったようにそれだけ学問に没頭するという意味ではなくて、誇大妄想で狂いながら学問をやるってことね。こうなってるともうさ、「実はダメかもな」なんて考えは過らなくなるんだよね。だってもう自分はそうなってるつもりでやってるわけでさ、だからダメも何も無いんだよね。そういう無駄な恐怖とか不安が無くなるって意味で誇大妄想は本当にいいと思う。そういう意味で分を弁えてみたいなのは本当につまらない考え方だね。弁えるってことがすでにリミテーションを作ってるわけでさ、まぁ別にボチボチやるぐらいでいい人ならそれでいいけど、俺は中途半端なのが嫌いだから、だからまぁ一気にそういう誇大妄想を抱いてやるようになるわけよ。まぁでも無駄なことは考えるよ。でも俺は考えやすい精神を持ってるから余計にこういうやり方がワークするってことね。まぁ無駄な考えを抑制できるっつーのかな?


二年前から去年の夏ぐらいまではずーっとイデオローグと哲学者っつーマインドセットだったよね。で、数学に目覚めてから大数学者に変わったかと思いきや実際は大数学者ってのが加わっただけなんだよね。だから今でもやろうと思ってまだ終わってないカントとかヘーゲルとかハイデガーとかフッサールには取り組み中だし、政治学でも相変わらずホッブズマキャベリシュトラウスは現在形なわけよ。全然マイブームだったとかそんなんじゃなくて、全然続いてるわけ。ただ今は数学ってのが参入してきて、んでまぁそれの割合が比率的に大きくなってるってだけで、別に今までやってきたのもは消えてないのね。


ところで到底理解できそうに無さそうな本を読むってことだけど、俺で言えばニューヨークに来たばっかりのさ、キューティーと同居してた時に英語がまださっぱりダメだったくせにデフォルトで読んでも難しいネグリとか買ってきて無理矢理読んでたじゃん?あれはまぁ本当に無謀だったなって思うけど、「でもやるんだよ!」って意志だよね。フッサールとかだって興味を持ち始めた頃にさ、全然現象学とか知らないときにウィキとかで読んだけどさっぱり分からなかったからね。でも色々と読んでいくうちに分かるようになるんだよね。廣松渉とかだってそうだよな。明らかに理解できそうにないけど、でも長期スパンで取り組むようになると理解できるようになるわけ。そういうコツコツの結果がまぁ今じゃん?多分哲学で理解できないのってあんま無いよね。まぁ精神現象学がちょっとやっかいな気がするけど、ハイデガーとかはもうだいぶ掴んだからあとは文献読むだけだしさ、マキャベリとかシュトラウスにしても難しいけど、んでも取り組みの甲斐あってだいぶ掴んでるよね。マキャベリはプリンスを読むだけでは簡単だけど解釈が大変なのよね。だからマキャベリ関係の本ってそれだけで結構なものになるけどさ、でも掴んでるからあとは読んでいくだけじゃん?


でもこんなのさ、ネグリを読み始めてた4年前とかには考えられないことだったわけだよね。ましてや文献はほとんどが英語なわけじゃん?でも今は出来るようになってるわけよね。ってことは数学でも可能なんだよね。今は言うなれば4年前に無理してネグリ読んでた感じが今日のチャイティンだよね。でもまぁ英語は読めるようになってるし読みやすいからまぁ色々と理解できてて、4年前の無謀なネグリよりかはマシだとは思うけど、でも数学に取り組んでいけば恐らく特に純粋数学と呼ばれるような類のものは制覇できるなって勝手に思ってるんだよね。それは哲学でもう実証済みだからさ、ようは掴んじゃえばもうオッケーじゃん?哲学書の読み方とか付き合い方とか考え方とかって長いこと毎日やってると身に付くんだよね。まぁこれも哲学的マインドセットってことだよね。で、お次は数学的マインドセットってことなんだよね。まぁ去年の10月ぐらいからかな?結構本格的に数学に興味を持ち始めたのは。で、ゲーデルの本とか買ってきて読み始めたりしてたけど、思うにいきなりゲーデルっつーのもずいぶんアレだよね。まぁ哲学的観点からっていうアプローチにしても高校数学すらマスターしてないやつがゲーデルっつーのもアンバランスで笑えるけどさ、でもなんかあれだよね、さっきのスピーチの話じゃないけど、人間やれるようになるんだよね。やろうと思えば。


留学前は実際は政治学やりたいと思ってたけどでもアメリカで政治学なんて大変過ぎて俺の脳じゃ無理だろうって勝手に思ってんで作曲ってことにして留学したんだけどっつっても作曲科ってこれまた死ぬほど大変らしいけど、全部勝手な思い込みだよね。「俺じゃ無理」っていう根拠の無い決めつけだよね。現に俺がバリバリ政治学の本とか英語で読んでるわけでさ、これって出来てるじゃん?だから俺にとって無理なことではなかったんだよね。で、数学は今まですげー苦手だったからいきなり専攻にして大丈夫なの?って感じがするけど、これも好きになっちゃってるからあとはもうlet it goなんだよね。好きになっちゃえば最強だよね。ってことで全然心配してないわけだ。まぁやりたいことに対して俺の知識がついていってないのが歯がゆい感じだけどね。今は。


もっと前の話をすればさ、俺って朝生とか見出して政治とか社会に興味を持ち出してさ、まぁ朝生ってことで姜尚中が二十歳ぐらいの頃に好きになっててさ、んで本屋で反ナショナリズムって本を買ってきて読んだけどさっぱり分からなかったからね。もう文体が難し過ぎてさ、全然ダメだったね。丸山真男って誰だよ?みたいな。サイードって?みたいな。だから俺って全然エリートじゃないんだよね。浅田彰みたいなのって高校とかでもう丸山真男とか読んでたわけでしょ?宮台真司とかにしても中学三年ぐらいでグラムシ読んでたっつーから半端じゃないよな。廣松渉は小六でマルクスだもんな。ありえねぇー。そういう意味で俺は彼らとは全然違うってのは本当に言えるよね。でも最初から読めなくても、んでも取り組み方ってのをおぼえて長期でやっていけば結果的にああいう人達と並ぶ事も出来るようになるわけ。ようはやり方次第で後からいくらでも追いつけるってことだね。俺はそういう経験を本当にしてるわけね。


20歳そこいらではさっぱり理解できなかったものが今では全然問題なく理解できるようになってるわけで、そういう意味でまぁ繰り返しになっちゃうけど、数学も同じだろうなって思えるってことね。経験上。哲学と政治学はここ3年半ぐらいずーっと色々読んできててやっとまぁ「分かります」ってなんとか言えるぐらいになったんだけど、全部独学だったけど3年半はかかったわけだよね。ここまで来るのに。それでもまだ読まなきゃいけない本は山積みだけど、でも分からないってものは無いんだよね。ややこしすぎて理解できないって本はあえて言うならスタヴラカキス「ラカンと政治的なもの」かな。あとラクラウの本全般。読み辛過ぎるし分かりづら過ぎる。ある意味で古いタイプの小難しいポストモダン系の文章を書く人達だから余計難しいんだけどね。言ってることはそこまでたいした事言ってないと思うけど、なにより文章がややこしすぎて分からないところが多過ぎるねっていうまぁこういう例外は除いてだけどね。


っていう経験からまぁ数学も時間をかけてじっくりやれば今の俺の政治学とか哲学みたいに問題なくなんでも理解できるようになるんじゃないかな?ってところだよね。まぁ今の俺の政治学とか哲学ってのはようはマスターしたってことじゃなくて、こういうジャンルにおいては何を読んでも理解できるようになってるってことね。それは基礎知識とかが増えたってのもあるし、読み方とか思考法とかさ、まぁなんつーか取り組み方を完全に掴んだってことだよね。だからそういう意味で教師いらずなんだよね。もうあとは本を読み続けていくだけでいいっていう。でも数学はそうはいかないよね。まだ始めたばっかだし、今分からないことが多過ぎるのはむしろ当たり前なことなわけで、だからチャイティンの本を読んで分からないところが多くてもまぁそこまで悲観的になる必要はないってことだよね。


ただまぁ懸念するところはその先だよね。哲学にしても政治学にしても数学にしても長く取り組んできていて、んでその先で俺が何を出来るか?だよね。今はまぁどれも勉強中だから結果を出すっていう段階ではないにせよ、んでも俺が何を出来るか?ってのは未知数だしさ、それは分からないよね。最悪なのがまぁいつも書くように紹介とか解説しか出来ないみたいな、ただの物知りみたいになるってことなんだけど、これだけは避けたいよね。だからこの三つで何が出来るのか?ってことだよね。まぁ哲学と政治に関しては勝手にブログで色々展開してるから、まぁ色々な既存の概念とか利用して考えたり書いたりできてるってことでまぁいいのかな。あれで満足ってことではなくてまぁ自分から色々と自発的に浮かぶ事があるってことでまぁいいよね。で、数学ではそれが未知数なんでやってみないと分からないなっていう。勉強だけして自分からは何も出てこないってのが最悪なわけで、それだけは嫌なんだよね。でもこればかりはもう素養にかかってるわけでさ、ただまぁまた始めたばっかのやつが才能だの素養だのって言うのは早過ぎるわけで、まずは取り組むことだよね。


哲学の場合、実感として色々と考えながら読んだりしてると色々と浮かぶ事があって、んでそれが既存の思想家との思想とほぼ合致してたりしてさ、んでその合致している思想家とか哲学者の本を読むと「そうそうそうなんだよね!」っていう共感が凄いっていうさ、これってまぁ俺の考えありきで合致したものが入ってきてそれがより強まってるってのがあるじゃん?政治学もそうだけどね。数学でこれが起こればいいなって思ってるんだよね。むしろ数学でこれが起こればもうオッケーなわけで。だからまぁやっぱ基礎からみっちりやりたいなってのはあるよね。で、自分で勝手に考えて誰かとかぶっててもいいから自分で何か作り出したいよね。結果、それがもうあるってものでも自分で考えだしたってことに意義があるわけでさ、そのぐらいのレベルには最低ならないとダメだなってことだよね。


ってことなんだけどまぁ相変わらずの素晴らしい長さなわけで。んで図書館なんだけどさ、注意されてダメになった。ようはSafety reasonから死角みたいなところで読書してるのはダメらしい。せっかく俺の居場所を見つけた!と思ったらダメになったな。ここに比べると自習室とかちょー気が散るね。人がいるから。こういうところはとことんADDだよな。俺。あーでもあれだわ、なんとかしてお金用意してやっぱ診断受けたいな。絶対俺おかしいもんな。親にも相談したんだけど結局、今は財政困難ってことでさ、仮にすげー高い検査受けて「なんともありませんでした」ってことになったらすげー浪費なわけ。


あとパニック発作と言えばっつーかさ、せっかくスピーチが大丈夫だったと思ったら数学のクラスでさ、問題解いてるときにね、これまた高校レベルの数学で等式の問題なんだけどさ、答えがすっきりしないっつーか変な分数だったりするとすんげー気分が悪くなるのね。吐き気がしてきたっつーか「まさか!そんな!」みたいな気分になって、そこからはもう完全に精神が崩壊したね。これは意外な盲点だったな。もう慣れるしかない。あとはまぁ間違えたりするとまた先生に憎まれ口叩かれると思って間違えるのが怖いっつーのもあって結構最悪なサイクルだよね。数式見るとパニックになるって良い意味で無くなったと思ったらこんな形でまた顕在化するとはね。



森毅って数学エッセイストとしては本当に一流だなって思ったね。なんか独特のまったりした文体で妙に引き込まれるね。




20代後半ぐらいで分かりやすい革命的な解説書を書いたって意味でなんつーかポストモダン哲学で言うところの構造と力がこの本なわけだね。読んでて面白いなって思える本の特徴としてやっぱ著者の主観があると思うね。解説の合間とかに「自分はこう思う」とかさ、完全にdescriptiveな姿勢に立てば無駄と言われそうなものが入ってるっつーのがポイントなんだよね。だからなんつーか解説だけしてる本がつまらんのって電化製品のマニュアルみたいなもんだからだよね。



改めて再読したけどやっぱこれ凄いね。これが凄いのは難解な文章を書く廣松渉が一般向けにすげー分かりやすく書いてるってことだよね。しかも晩年に書かれたものなのでそれまでの廣松のマルクス研究の集大成的なものが込められてるっつーか、これが集大成ってわけじゃなくて、集大成からの抜粋みたいな感じのものが分かりやすく書かれてるって意味ですげー貴重なんだよね。他の本もこんぐらい分かりやすければいいのになー。この本を最初に読んだのは二十歳ぐらいの時だったけど、まぁそんときはさっぱり分からなかったけどね。通読したけど何も分からなかった。でも今は知識が増えたんですんげー分かりやすく感じるのと、特にこれが廣松渉の著書というところにポイントがあるよねっつーのがまぁ基本的にこの人のデフォルトの文体は難し過ぎるからね。