山7割文明3割。

mimisemi2010-02-25

ちょっとした覚え書きを。いやね、知識の無さってある意味で良いよね。知識が入ってくる前に自分で考えて何かを編み出しちゃうっていう。編み出すって言い方は大げさだけど、ようは過剰なインプットに身を任せるのではなくて、シンキングというプロセスの中にインプットというものが構成要素としてあるってことだよね。思えば哲学ではずーっとそれをやってきたから、んだから何でも理解できるようになったんだと思うね。とりあえず体系的に勉強するのもありだけど、断片的に勉強しつつ、その断片的なマテリアルと自分の考えの中でプロセスを行って出てくる問いとかね、こうなんじゃないか?っていう仮説とかね、それを元にまたインプットを続けると、インプットする時に「やっぱそうだった!」とか「そうだったのか!」っていうプラトニックスパークが起こるんだよね。ようは問いとか仮説を元にその問いとか仮説に基づいた何かってのをディグるっていうのかな。こう思うんだけどどうだろうか?っていう問いをベースにデータベースにアクセスする感じだよね。


これがようはシンキングありきの勉強っつーかまぁ掘り進め方だよね。だからチャート式みたいなのはモロに思考力を奪うっていうか、ああいうのに頼ってると頭がダメになるね。自分でチャートを生み出さないとダメだよね。それが結果的に体系的な知識に繋がるし、そうやって自己流のチャートで見いだされた体系的な知識ってのは、与えられたチャートによって与えられたものではなくで、自分から掘り下げていったものっていう意味でまぁなんつーか刻印されると思うんだよね。なかなか忘れないっつーのかな。まぁようは簡単に言うとこうだね、学校の勉強とかで次にこれやってきてください、あれやってきてくださいっつーのに従ってそれだけでやるのかさ、何かで学んだものってのをベースにんじゃあ次はこうなるんじゃないのかな?みたいな考えをベースに自分で次に行くっていう感じだよね。それが止まらない人達ってのがようはまぁ知識欲旺盛な人達ってことなんだと思うよね。これってまぁかなり生まれつきの素養が多いと思うんで、無い人には徹底的に無いけどね。


勝手に自分なりのチャートが自己生成的に生み出される人達ってのがいて、それがまぁ所謂独学の人達ってことだと思うよね。だからこういう人達にとっては学校なんて本当にくだらないものなわけだ。だって自分で何をやればいいか分かってるわけじゃん?だったらそれを掘り下げていけばいいわけで。まぁ凄い先生とかに出会えれば別だけどね。あとは教えてもらったほうが効率が良いものとかね。そういう意味でまぁ俺は科学とか数学みたいなのはある意味で空手とか武道とかスポーツと一緒だと思っててさ、こういう角度で打ちなさいとかさ、こういう体勢で構えなさいとかさ、その角度がどうだとかなんだとかって全部通信教育でやれることだけど、んでも武道とかスポーツって実践がいるじゃん?実際にやらないと上手くならないよね。まぁつまりはこれって演習って意味じゃん?肉体的な演習を必要とするものがスポーツとか武道っていう運動全般で、科学とか数学とかもモロにそうだよね。知識だけでは身に付かない何かってのがあるよね。ようは精神的な演習をしないと身にならないものってのがある。そういう意味で科学とか数学は学校という場で学ぶものとしてはまぁある意味で最適だよね。


小室直樹が学校では演習があるようなものを学ぶのがいいって言ってたのはそういうことだよね。経済学とかでは一週間ぐらいで分かることを1年ぐらいかけてやるから時間の無駄なんだけど、演習系は練習を必要とするから、まぁなんつーかジムだよね。学校をジムだと考えると実験とかが出来る設備が整ってる学校とかさ、嫌でも演習をやらなきゃいけないっていう数学とかさ、まぁそういうのが頭を鍛えるのに適した場所になるってことだよね。だから知識的なものに関しては無駄が多くなるわけだ。だって自分でやったほうが速いし効率が良いしさ、あとはまぁ俺の経験で言うと、この人は本当に頭が良いな!って思えた先生ってのが一人もいないんだよね。いよいよ出会えた!って思ったのが詐欺師のサイモンだったんだけど、まぁあれは勘違いもいいところだったわけで、まぁ猛反省するしかないんだけどさ、コミカレだからなんじゃない?っていつもこういう話になると思うけど、普通のレベルの大学だったらまぁどこも同じだよね。コミカレで教えてる先生が4大でも教えてたりするわけでさ、実質的な差はそんなにないよね。恐らく猛烈に尊敬できる先生なんて超一流大学の大学院とかに行かないと会えないわけだ。しかも研究やってるから滅多に直で教えることはないみたいなね。


「俺より頭が良いやつに会ったことがない」っていうと傲慢に聞こえるから言い方を変えてるけど、まぁでもそういうことになるよね。言いたいこととか感じてることってのはもう心に顕在化しているわけで、あとは言い方次第じゃん?そこで言い方っていう言語を選択して、相手に嫌味に思われない適切な言い方みたいなのを探してそれで出力するんだけど、でも顕在化しているものは一緒だから、結果的に意味的には同じなんだよね。ただ言い方が違うってだけで。ただそう感じてしまっているという事実があるからにはそれが傲慢と言われようが実際に感じてしまっていることだからしょうがないんだよね。それは凄まじく可愛い子が「あたしより可愛い子なんて滅多にいないわ」っていつも思ってるのと一緒だよね。ただまぁ本人はそれを直接言わないだけで、まぁ思ってるでしょ。


「俺より頭が良いやつに会ったことはない」ってのは当然、実生活のレベルでの話なわけでさ、そりゃー歴史とか見たり本とか読めばそりゃーいくらでもいるよね。本屋に行けば間接的にそういう人達にエクリチュールを通して出会えるわけだ。だから結果的に自分のコミュニケーションというもののバイアスがエクリチュールとの対話というものに傾くんだよね。思えばこれもコミュニケーションの一つだなと思って。そういう意味でまぁありえないぐらい頭が良い人達って生活圏以外ではいくらでもいるから、だからまぁ傲慢になりえないってことね。生活圏でまだ会ってないってだけで、いっぱいいるのは事実だから傲慢になれない。そういう意味で傲慢になれるやつはバカなんだよね。


「俺が頭が良い」って感じてるやつの大半が実際はバカっつーか比較的IQが低い人達が多いみたいな調査結果もあるぐらいでさ、まぁそれは分かるよね。だってすげー視野が狭いじゃん?本当に頭が良かったらもっと頭が良い人達の頭の良さというのを感じられるわけで、いかに自分が劣っているのか?って分かっちゃうじゃん?そこで卑屈になる必要は無いけど、まぁ相対的に見れば「頭が良い」なんて言えないわけね。だって凄い人達っていっぱいいるでしょ?まぁ多くはないにしてもまぁ本とか読んでれば凄い人達っていっぱい出てくるじゃん?


大変だけど自分をそういうレベルに置くのが重要だって前にも書いたよね。競うってことではないけど、世界観をそういうレベルにするってことだよね。そうなると傲慢になり得ないし、どんだけ勉強してもまだ足りないってことになるわけで、尽きることが無いわけだ。で、結果的に実生活でのくだらない競争とかがいかにくだらないものか?ってのもよく分かるよね。そういうレベルじゃないからそういうのに無駄に惑わされなくなるじゃん?それは傲慢とかじゃなくてレベルのモードが違うってことだよね。ようは大人が幼稚園児との徒競走にマジにならないってことだよね。付き合い程度ではやるかもしれんけど真剣にコミットすることはまずないわけで。俺が本当に徒競走で勝ちたいのはオリンピック優勝者ですみたいなさ、そういうレベルのモードってことだよね。こうなると例えばローカル試合とかで良い成績を修めても全然満足できないでしょ?


それは自分がオリンピックで優勝できるぐらいの凄いやつなんだ!って勘違いすることじゃなくてさ、目標はあいつを追い抜くことだ!って目標を措定することだよね。それが結果的にそういうレベルに自分を引き上げることになるわけで、まぁ前に書いたマインドセットの一つだよね。ここでは自分がどうか?ってあんま関係無いよね。ポテンシャルとかを考える前にまずはその目標に向かって驀進し続けるってことになるわけでさ、それを何年もやって、んでも凄まじい壁があるとかさ、どうしても身体的に無理だとかさ、そういうのって分かるじゃん?だから諦めるのは最低でも何年間がずーっと凄まじい強度でやった後だよね。その後で才能とか素養とかセンスを気にすればいいわけで。俺の場合いつもそうじゃん?やる前から地頭とか素養とか考えちゃうんだよね。これがいかに無駄で非効率的なことなのか?ってのは自分で経験してるから本当によく分かるんだよね。そんな風に思ってる暇があるならまずやれ!って話なわけで。


ここでよく出てくるyokoさんだけどさ、あ、画家のね、この人が確か他の画家の人に言われたことってのがこれだったらしいんだよねっつーのがまぁ才能とかセンスなんてまずは10年やってみてから言えって。やってみないと分からないこともあるってのはさ、本質的な能力の有無ってのはまずやってみないと分からないんだよね。そういう意味でさ、例えば俺は実際、一番やれば優れてることってスポーツだったりするかもしれないわけ。でも俺は興味ないしやろうとも思わないからさ、だからその潜在能力って分からないままじゃん?ただ素養の有無で言えば全てにおいてやってみるまで未知数ってことだよね。


ただまぁ恐らく言えるのはさ、興味があることには人間って恐らく普遍的に凄い能力が発揮できるわけで、いかにそれにコミットできるか?ってことだよね。興味があるなら素養とかセンスとか考えてる間が無いぐらいそれに没頭してるわけでさ、その没頭から得られるものって物凄いんだよね。普通の人がなんとなくやってみるっていうことに比にならないぐらい凄い。よく言われるように能力ってこういう面もあるよねっつーのがまぁ興味があることに没頭するっていうことね。そこでは全然素養とかが問題にならなくて、まずは興味があるっていうことに全てが動かされていて、んで結果的にそれを極めちゃうっていうさ、で、結果論から見てまぁ素養があったからだって言えるんだけど、まぁ実際は興味があったからだってことになるよね。素養がどのぐらいの幅を占めてるのかは分からないわけ。本人はただ没頭してるだけだからね。


って意味でまぁとりあえず何にでもチャレンジしてみるっていうことが必要なんだよね。俺で言えば今って数学ってすんげーチャレンジじゃん?だって何も地盤が無いところから始めてるわけで。しかも学校の専攻だからね。得意かどうか向いてるかどうかも分からないし、経験から見れば明らかに不向きに見えるけど、んでもそれは考え方とか捉え方の違いだったんだってことが分かったわけで、だからまぁ可能性に関しては未知数じゃん?まずは何年かやってみないと分からないっていう。すでに知ってることをやってもしょうがないから、あえて知らない興味があることに飛び込むっつーのが今の俺だよね。リスキーだけど未知なるものへと飛び込むドキドキ感って凄いじゃん?これがいつも言う人生の強度だよね。


数学の素養っていつも思うんだけどさっつーかよく勘違いされるのが子供の頃から得意だったとかさ、計算が速いとかってことなんだけど、これってあんま重要じゃないんだよね。ノイマンとかチューリングみたいな天才はともかくとして、結局は思考力だよね。理系だっつって全然違う理系っていう宇宙が広がっているかというとそんなことはなくて、抽象空間っていう宇宙というタームで言えば普段から行っている思考とかと差はないんだよね。ただ体系とか言語が違うだけで。唯識量子論の世界観が似てるみたいなのが良い例だよね。科学には独立した科学の宇宙があるのかというとそんなことはない。恐らく普遍性という意味での真実というのは揺るぎないもので、それを記述する方法が違うっていう差なだけで、だから理系とか文系っつー分け方はナンセンスなんだよね。


って意味で数学=計算って考えるのは本当に間違いだなってことに気がついたがまぁ最近だよね。考える事が好きならさ、それがどんだけ初歩的なさ、高校ぐらいでやる数学であっても分からないっつってすぐググるとかさ、教科書見るとかじゃなくて、自分で考えて答えを出すっていうそのプロセスができるかどうかだよね。これって数学の向き不向きで言えばむしろ不向きじゃん?だって高校程度の数学が分からないわけだから。エリート的な観点から見れば本当にただの劣等生じゃん?


でも考えて答えを出して「そうだったのか!」って思えてそれが血肉化すればそれって知識じゃん?そういうのは忘れないよね。忘れる数学ってのは暗記の数学で、自分で考えて答えを出した思考の数学ってのは自分の頭っていう思考形態を使って導きだした答えだから、ようはそれって自分で書くのとコピペぐらいの差があるんだよね。計算の速さとかの個人差はあれ、恐らく素養ってのは学問においては顕著だけど、恐らくこの自分で考えることが出来るか否か?ってところにかかってるよね。そういう意味で俺はすげー学問向きだと自負してるのねっつーのは政治学とか哲学とかを散々自分なりに色々考えてんで色々読んだりして分かった事が多くてさ、だったら数学も一緒じゃん!っていうね。ジャンルが違うだけでやることは一緒で過去にそれで成功してるならもうすでにそれはオッケーなんだよね。だからそういう意味で計算の速さとかどうでもいいわけ。いかにエッセンスを掴むセンスがあるか?ってところなわけで。


境界線無しに色んな分野の学問を究めてる人達ってみんなそうだと思うんだよね。個々にすげー隔たりみたいなのがあってさ、全然違うもの同士をやってるのか?っていうとそんなことはなくて、恐らく思考とか理解とかっていう頭でのプロセスという意味では共通してるから、だからそれがある人達ってのはやり方次第で何でも極められるってことだよね。そういう意味で数学脳とかって無いわけ。数学は生まれつきの素養ってのはまぁ無いとは言えないけど、世の中で信じられてるほどあるわけじゃないね。あれもパラダイムの一つだから。ようは数学宇宙っていうパラダイムの一つね。まぁもしくは数学脳ってのがあるとすればそれは数学っていうパラダイムがインストールされた脳ってことになるね。ようはハードウェアがあればいつでもインストール可能ってことね。


ハードウェアのスペックが良ければインストールも速いし、処理も速いけど、逆にスペックが低ければインストールは遅いし、処理も遅いけど、んでもこれだけは言えるのはさ、速さの差って別にゴール地点でどうでも良くなるじゃん?まぁ速さとかを競争してるなにかがあれば別だけど、別に人生の中でさ、例えばある問題ってのがあったとして、んでそれがどのくらいの時間で解けたか?ってどうでもいいでしょ?解けたってことが重要なわけでさ、それで言えばようはそのOSに対応したソフトウェアをインストールしてそれを使って何かを処理するっていうことに関して言えばまぁなんとかそのソフトウェアが動くぐらいのハードウェアのスペックがあればどんなハードウェアでも動くってことだよね。


ハードウェアのスペックの差によって演算のスピードの差とかは出てくるけど、例えば学校に提出しなきゃいけないエッセイをさ、遅いマシンでワードで書いたのとさ、速いマシンでワードで書いたのって別に出力に差はないじゃん?エッセイは出力されるわけでさ、遅いマシンだったからマシンがガリガリいってすげー時間がかかったとかさ、処理落ちしたとかさ、結果には関係無いよね。まぁ書いてる人のモチベーションには関係するかもしれないけど、少なくとも出力されたエッセイというフォーマットを結果として見ればプロセスなんてどうでもいいってことになるよね。つまりは速かったか遅かったかっていう演算のスピードの差なんてどうでもいいっていう。で、エッセイで言えば結果じゃん?良いエッセイが書けたかどうか?ってのが問題なわけで、マシンが速かったかどうか?なんて関係無いわけ。


で、数学って基礎レベルでは顕著だけど全部アルゴリズムじゃん?こうこうこうやってこうすればこういう結果が出てきますよってのがもう定石化されてるわけでさ、ワードで言えばマシンのスピードの差はあれ、ワードを立ち上げて何かを書いて保存してプリントアウトするプロセスって誰でも出来るでしょ?数学も一緒だよね。こうなるとチューリングとかが考えてたパラダイムってのも本当に分かりやすくなるよね。ような人間もただのマシンで人間が数学をやるということは演算の一部になるわけで、数学者ってのはその演算の結果をマシンが何かを演算して出力するのと同じようなプロセスで出力するだけだっていうさ、なんかデカルト的だよね。考え方が。機械論的って意味ね。ただ複雑系とかは何かの原理とか理性みたいなので理解できたり処理できたりするわけじゃないわけで、やっぱそこに人間的な創造性ってのが必要になるんだよね。ようはそういうのを解明するのにはアルゴリズミックな方法論だけでは不可能ってことね。そこが素晴らしいところだよね。ロマンがあるじゃん。


そういう意味でまぁライプニッツの夢ってのは永遠と果たせない夢になるわけだけどさ、でもそっちのほうが楽しいよね。生きてるっつー立場から言うとミステリーがあったほうが面白い。そういうミステリーが究明とかさ、真実みたいなものへの道に歩ませる強いきっかけになるっつーかまぁ魅力になるわけじゃん?それがつまりは知への道ってことだよね。未知なることがあるから探究心が生まれるわけで。まぁ常にインディージョーンズするようなもんだね。そういう意味で学問ってのは色んなインディージョーンズが歩んできた歴史だよね。で、今もリアルタイムで冒険が続けられてるっていう。凄いロマンだよね!物理的なレベルだともうさ、例えば未知なる遺跡がジャングルのどっかにあるとかさ、秘宝がどこかに隠されてるとかさ、まぁ隠されてるんだろうけど、でもまぁかなり見つかってるっていうがもう手がつけられてるじゃん?大半が。


そういう意味でリアルインディージョーンズになるのは無理だよね。トレジャーハンターみたいなのが成立するのって未開の地がまだあったりさ、分からないっていう未知な場所がいっぱいあるっていう時代に成立してたわけで今は無理じゃん?まぁ金持ちが難破船に積まれていたと思われる財宝をサルベージュするみたいなことは今でも行われてるかもしれないけどそれってなんつーか落とし物捜索じゃん?でもインディージョーンズ的なプロセスって未知の古代文明とかさ、未知の遺跡に足を踏み入れた時に見える遺跡に掘られた壁画とか文字を見てその古代文明に思いを馳せるとかさ、それについて研究するとかさ、そういうロマンがあるじゃない?で、学問にはそういうロマンがいっぱいあるってことだね。まぁもっともテクノロジーの発達によってさ、ロマンだったものが達成されちゃって途方に暮れるみたいなこともあるんだろうけど、でもまぁ出来ることはまだまだいっぱいあるよね。


その究明のために個人個人が個々のスピードで古代文字について勉強するとかさ、遺跡発掘するために体を鍛えるとかさ、ようは組織化されないで個々が勝手に冒険してればいいんだよね。組織化された調査団みたいなのに所属してないと冒険ができないのか?っていうとそうじゃないわけで。まぁ実験とかが必要なのはどうしても組織が必要になるけど、そうじゃないものに関しては勝手に自分で掘り下げればいいんだよね。勝手にインディージョーンズしちゃえばいいわけだ。このインディージョーンズ感覚を見事に文字に表したような文章があるんで引用するね。Harvey Mansfieldっつー政治学者なんだけどさ、シュトラウスのThoughts on Machiavelliっつー本の後ろに書いてあるやつなんだけど


"When studying Machiavelli, every time that I have been thrown upon an uninhabited island I thought might be unexplored, I have come across a small sign saying, 'please deposit coin.' After I comply, a large sign flashed in neon lights that would have been visible from afar, with this message: 'Leo Strauss was here.'"


マキャベリで言えばマンスフィールドは未開の孤島みたいなところに放り出されて呆然としてたんだけど、そこにある他の冒険者の刻印を見つけたみたいなことだよね。で、その他の冒険者の名前がレオ・シュトラウスだったと。すげー素敵だよね!これ。学問におけるインディージョーンズ感覚ってこれだと思うんだよね。まぁ実際は現代では手つかずのことってそんなに多くはないと思うけど、まずは周りを見渡す前に自分で探検しちゃえばいいんだよね。発見なんて後からついてくる付属物みたいなものなわけで、最初から何かを発見しようなんて思わなくていいんだよね。最初はそれこそインディージョーンズ的な好奇心だけで十分っていう。


それが俺がさっき書いた素養ってことね。ようは自分で探検するぐらいの好奇心と思考力があるかどうかってことが実際はかなり重要ってことね。で、何十年もそれをやっててエキスパートみたいになった時に、ふと客観的にあたりを見回してみて、そこで始めて才能とか素養とかセンスってのを問い始めることになるわけでさ、それは自分の実存について悩みだす所謂、青年哲学病みたいなのは青年期に特有の病気であるってことと同じでさ、まずは16年ぐらい生きないと分からないんだよね。16年生きてきて、んでそこで始めて芽生えた問いっつーのにまた向かっていけばいいわけでさ、まず子供だったら成長することが重要じゃん?栄養のあるものを食べて遊んで学ぶことが重要ってことなわけで、スタートラインという意味だとみんな子供だから、別に素養とか年齢とかセンスとか才能とか気にしなくていいってことだよね。子供みたいにとりあえず好奇心があればやってみればいいって話なわけで。


自分の才能とか素養とかセンスが気になりだすのも恐らく思春期っつーか青年期だよね?大半は。そこから絶望が生まれたり、絶望を乗り越えた上での歩み方が生まれたりするわけでさ、これまた何かの道を歩むということのプロセスになるわけだよね。その結果が恐らくマイルストーンという形で後世に伝わっていくものだと思うんだよね。それはどこかの派閥とか組織に属してただやってるって人達とは一線を画するものだよね。まぁ組織に属するということが悪いとは言わないけど、まぁ思春期で言えば実存的な葛藤を抱かずに、まぁもしくは抱いてもレール型の学生生活モデルみたいなのに乗っかって何も考えないでやることをやってるっていうのと、辛い場合もあって楽じゃないことも多いかもしれないけど、自分の足で立ちながら歩きながら一個一個の答えを見つけては石を置いていくっていうさ、これがまぁ道を歩むってことだよね。獣道だろうが未開の孤島だろうが自分の足で道を切り開いていくってこういうことだよね。


まぁ俺は元々レールが大嫌いなのと、他と同じってことが本能的に大嫌いなんでまぁ勝手に自分で色々とズンズン進んでいったって感じだけど、結果的にこれのほうがレールに乗っかっていくよりよっぽど良かったなって心底思えるわけだよね。それが今の俺を形成してると思うとドロップアウト万歳!ってことだったわけで。それはマシェットの扱い方を心得てるとかさ、長年の冒険家のスキルってのがまぁ蓄積してるから、他の未開の地に行ってもその経験値が役に立ってるってことだよね。それが今の俺の場合、数学っつー未開の地なわけでさ、まぁ俺にとっての未開の地ってことね。それを受動的に既に切り開かれた楽な道を歩むんじゃなくてガイド無しで今まで自分がやってきたように自分で道を切り開いていくってことが冒険の醍醐味だし、そのプロセスが楽しいからやるわけだよね。学問をやる理由ってのはこれに尽きると思うね。


去年の年末から「楽しい事が増えたな」って思えるようになったのはひとえに数学のおかげなわけだ。探検する場所があるから探検するのが楽しみ!っていうそれだよね。別にそれがさ、探検ガイドとかに載ってるような探検し尽くされたような道でもいいわけ。自分なりに探検していってそのプロセスを楽しんでいけばいいわけで。で、そこで何かを発見するってのはまぁさっきも書いたようにただの付随物っつーか探検のただの所産なわけで、未知のものを発見するために探検してたわけじゃないよね。探検っつープロセスを楽しんでいたらまだ知られていない謎の廃神社みたいなのを見つけたとかさ、集落跡みたいなのを見つけたとかさ、それはむしろ「見つけてしまった」っていう感じだよね。


思うに特に数学はそういうのって多い気がするな。たまたま何かの計算してたら何かの法則を見つけてしまったとかさ、その法則を見つける為に四苦八苦してたんじゃなくて、なんか他のことやってたらたまたま見つかって、んで「面白いものを見つけた!」っつーんで論文書いて・・・っていうさ、まぁ今はどうか知らんけど、過去の数学ではそういうのが多かった気がするな。別に取り立てて新しいことっていうのにフォーカスをおかなければさ、探検して楽しそうなところっていっぱいあるじゃん?


新しいものを発見しよう!とかって最初から思ったらまぁ色んなところはもう探検し尽くされてるわけでさ、「もういいや」ってことになりそうだけど、とにかくまぁ探検スポットみたいなのを探して自分で歩いてはウキウキしてるっていうさ、そういう山道の散歩で十分いいんだよね。そこで他の探検家と発見の競い合いをするとかさ、いかに早く山に登れるか?みたいな競争をするんじゃなくて、山を歩きながら自然の風情なりサウンドスケープなりを感じながら楽しめばいいんだよね。で、お気に入りのスポットがあればそこに座って一息ついてみたり、スケッチしてみたり、サウンドスケープを録音してみたり、写真を撮ってみたりすればいいわけでさ、そこがすでに探索されていた場所だったなんて事実はどうでもいいわけじゃん?自然の風情を楽しむということに新しさなんて必要ないわけ。


絵に書いたようなスローライフだけど学問ってこれでいいと思ってるんだよね。俺は。だからこそどっかの派閥とか組織とかに属してやりたくもない探索とかをさせられるのが嫌だし、もしくはやらなきゃいけない仕事ってのに時間を取られ過ぎてしまって山道を散策する時間が無くなるとかってのが嫌だから、だからまぁ冒険家っつーか登山家みたいなのでやっていきたいって思ってるわけだよね。冒険家も登山家も職業じゃないけどさ、でも俺はそれをなんとか生活に繋げていくっていう道を模索したいんだよね。出来る事なら山に庵でも作って毎日山道を散策していたいと思うけど、まぁそれは物理的にも無理だから、ソロー的なね、別に電車とかバス使えばすぐ都市に出られるぐらいの文明との距離感で山を満喫したいわけだよねっつーか今はモロにそれを実践してる感じだけどね。学校もそこそこで暇つぶしとか気分転換ぐらいにはなるってぐらいで存在してるのがいいよね。まぁお気楽と言われそうだけど、まぁ俺はこんぐらいのペースでやらないと精神が崩壊するんで、まぁこれが俺のベストな社会との付き合い方でもあるんだよね。山7割文明3割ぐらいのもんか。これがちょうどバランスいいね。俺にとっては。


ってことで今日はこの辺で。