ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

抽象化=ちびくろサンボのバター。

mimisemi2010-03-07

数学する精神っつー本の中で、ポアンカレがフックス函数と非ユークリッド幾何学の関係性を馬車に乗ろうとした時に足をかけたとたんに気がついたってエピソードが出てくるんだけどさっつーか読む本がいっぱいあるのにね、ちくまから出てるヒルベルト幾何学基礎論だけを買いに行こうと思ったら無くてさ、あ、紀伊国屋ね。前はあったんだけどまぁ誰か買っていったんだろうなってまぁ誰かが買う以外に無くなりようがないんだが。


で、ポアンカレの話に戻すとね、フックス函数とか非ユークリッド幾何学に関してはさっぱり分からないけどね、あ、俺はね、ただあれなのね、ポアンカレ曰くね、数学から遠のいていた時もあったんだけど、遠のいていたのにも関わらずいきなりこの関係性に気がついたっていうのもね、脳の中で無意識に色々な検討があったに違いないって言ってるわけ。まぁこれってでも大体そうだよね。天才って呼ばれる人達のひらめきの背景には全部例外無く凄まじいインプットがあるわけだよね。天才っつーと無いも無い所から何か突拍子も無いものを生み出すっていうイメージがあるけど、まぁ当たり前なことだけどさ、何も無いところから何かが生まれるわけはないわけで、アインシュタインにしたって数学とか物理学っつーインプットがあったから相対性理論を出力できたわけでさ、確か夢に出てきたっつってたけど、常に脳はなんらかの情報処理を行ってるっつー意味である意味でまぁdown on the earthなことだよね。


ようはアインシュタインとかポアンカレが常人には達成不可能な天才かのように見えて実は過剰なインプットという万人がやりようによっては可能なプロセスを通過してるって意味でさ、別に神に選ばれしものたちってわけでもないんだよね。もちろん大抵の天才っつーかまぁ凄い人達ってドンブロフスキの知性OEがあると思うのね。ようは知識を渇望するっていうことね。これがまぁ生得的にある人達がまぁいるってことだ。まぁ知識を渇望するってある程度は開発可能だからまぁある種のまぁ思考のモードでもあるとは思うんだけど、まぁそういう知性OEがある人達ってのはその飽くなき知識欲に身を委ねて凄まじい量のインプットと思索っつープロセスを行うじゃん?で、結果がアウトプットとして出てくると。まぁあれだよね、錬金術の釜みたいなもんだよね。ドラクエのアイテム合成で出てくるああいうツボみたいな感じだわ。脳って。


だからインプットをせずに思考もせずにただ暮らすだけの人達の頭が悪くなるっつーのもまぁ頷けるよねっていうのは基本的に脳も筋肉と一緒で使わないと衰えるわけでさ、毎日単純作業ばっかやってそれで生きてるっていうだけの人達に思考力が無いのもまぁ当然と言えば当然だよね。そういう人達=思考力の無い人達ってことではないんだけど、まぁルーティンワークばっか課せられるような生活をしてる人達は構造的に思考力が落ちるようになりがちな傾向に陥るってことだね。それは過去にバイトをやってた経験からよく分かる。レジ打ちとか品下しみたいなバカみたいな作業を毎日やってると頭もバカになるね。ようはやってる作業の単調さと脳の働きが同調してくるっつーのかな?もちろんフルタイムで働いてたわけじゃないからバカにはなりきらなかったけど、でもあれが普通の職業と化してしまってさ、週5の1日8時間とかやってたら気が狂うっていうか、それよりかはむしろアコモデーション能力で脳がそれに適応しちゃうわけだよね。だから気が狂わないでそれが出来るような脳になっちゃう。チャップリンのモダンタイムスみたいなもんだね。行き過ぎるとああなる。イキ過ぎるとアナル。


だから俺みたいな高等遊民みたいな生活をしてるやつの頭の回転が速くなるってのはまぁ当たり前なんだよねっつーのは毎日インプットを行っていてプロセスをしていてさ、んでウォール伝に出力したりしてるわけじゃん?脳に悪いわけが無い。それプラスいつも書くようにっつーかプラスどころか要なのが労働してないってことね。まぁ働かないことが良いって言ってるんじゃなくて、今の俺みたいな生活をしている中で単純労働っつーのが介在してないっつーのは凄いアドバンテージってことね。常に錬金術のツボをグツグツ煮込めるっつーか、色々なものを入れてみるってことが出来てるって意味でまぁ脳にとって最高な生活をしてるってことだね。


いつも書いてるけどさ、アメリカのロジカルな思考とかにまぁこっちに来てから影響を受けたってのもあるし、まぁ色々と経験したからさ、脳が物理的な情報という意味でも物凄く動いたから発達したってのはあるよね。俺の場合。で、今みたいなずーっとインプットみたいな生活が続いてるわけでさ、まぁそのインプットを支えてるのってまぁ知性OEだと俺は勝手に思ってるけどね、でもまぁ知性って好条件がそろえば上がるっつーか能力ならぬ脳力って上げられるんだなってすげー実感してるよね。そういう意味で俺って別に特に特化した知的エリートとかじゃないからさ、余計にそう思うよね。なんか普通にしててハーヴァードとかイェールに行っちゃうようなやつじゃないじゃん?そういう意味ね。


で、ヒルベルトってさ、あ、なんで俺がヒルベルトに興味を持ったのか?っていうと数学的ロマンだよねっつーかあれだよね、公理があればそこから定理が自然と出てくるだろうっていうようなさ、公理系が自己生成を続けて定理をどんどん出していっちゃうみたいなプロセスね。チューリングも似たようなことを考えてたらしいけど、でもまぁそれが数学的モデルになるかはともかくとして、んでもまぁ脳内処理ってそういうことだろうなって思うよね。もっともまぁ脳の場合、公理を詰め込むのがインプットとは限らないわけでさ、客観的な事実だけを詰め込めば普遍的な定理という事実が出てくるってわけではないんだけど、んでも公理系が脳のニューロンネットワークみたいにさ、ビンビンに電気を使って色んなやりとりをしてるってさ、パソコンで言えばデータ同士の結合とかが勝手にハードディスクで自動に行われちゃうみたいなもんだよね。


俺のミックスなんてそうじゃん?自分のデータベースにある音楽ファイル同士がある時にまぁ何かを思いついて、んでその繋がりがミックスになるっていう。それもまぁ俺が持っている音声データっていう有限の情報から演算された結果なんであってさ、まぁ演算ってほどドライなもんじゃないけど、まぁ俺が言いたいのはその演算っつープロセスは俺がこんな風に出力したい!って思ったアイデアってことね。そこをダダとかシュルレアリズムはその演算を取り除いたスポンテニアスな表現っつーのを目標としてたわけでさ、特にダダを演算無きアートとして考えるのってアリだよね。まぁもっともそれは既存の芸術における演算という概念を取り除くという新しい形の演算なわけで、まぁそれはダダ演算なわけで演算が取り除けるわけじゃないっつーかまぁ人間が介在してる限り演算を無にするって不可能だと思うんだけどさ、まぁ悟りとかは別としてもね。


まぁインプットするものがなんつーか公理である必要は無いんだよね。そもそも何が真実か?なんて分からないわけで。ただまぁ気になる情報ってのを集めたりさ、単純に面白いと思ったものにくっ付くってようはそこから養分を吸収するみたいなもんじゃん?その養分の吸収がまぁメンタル面での栄養になるわけだねってすげーベタな言い方になるけど、んでもまぁインプットってそういうことだよね。だからまぁ悪いインプットもあるわけでさ、まぁ何を良いか悪いか?って話は別として、まぁ例えば永遠と拷問の本を読んでるやつがさ、新しい拷問のやり方を思いつくとかさ、まぁそれも拷問の情報に関するインプットがあるから出てくる新しい拷問のやり方だよね。それが良いかどうかはともかくとして、まぁインプットがあれば必ずと言っていいかは分からないけどまぁそこには情報処理っつープロセスがあってさ、ポアンカレが言ってたような、無意識での吟味みたいなのがあってね、んであるときにそれが出力されるっていうさ、出力っていうか気付きだよね。「あ、そうだったのか!」っていう気付きね。それは別にそれに向かっているときだけ行われてるんじゃなくて、まぁ無意識の中でずーっと行われてる可能性があるってことだよね。


だからまぁそればっかやってないでたまにはまぁ休んだりしても脳は休むことが無いから休んでる時もプロセスは行われてるってことだよねっつーかむしろ円滑な情報処理を行うには暇が必要なわけで。哲学に暇が必要なのってそれだよね。脳内の余裕だよね。それによって概念なり情報の熟成を行えるっていうさ、まぁカレーの煮込みみたいなもんだね。で、そのインプットは広ければ広いほどいいってのはまぁ最近俺はよく思うね。一つのことをじっくりと体系的に研究するということも必要だけど、んでもそれを暗唱できるぐらいマスターするっていう意味でのインプットとさ、情報として入れるっていうインプットって違うよね。そこでまぁ俺が思ったのはね、俺ってあんま研究に興味は無いなってことなんだよね。所謂、一つのことを研究するということに興味は無くて、ただ興味があることに関する情報を入れたいっていうことなわけでさ、まぁ知りたい事を知り尽くしたいっていうそれだけだよね。だからある程度知っちゃえば満足するんでさ、あとはまぁそれをもっと深くするっていうのは時間の問題だよね。ある特定の期間とかに集中してやらなくても、それはライフワークとしてあるわけだから、常にawarenessは配られているという意味で思考から除外されないんだよね。常にそれに関する情報へのアンテナってのは立ってるわけで。


いや、ホントにそれだよなっつーかそれに尽きるなと。変に専門性っつーかさ、専門のフィールドとか自分で決めないで全部専門にしちゃうんだよね。別にそれが専門だからっつってそれこそ思考のクロージャーみたいなのを形成させちゃってさ、そればっかに打ち込むって必要も無いわけで、そういう意味で専門を見つけるって知識欲を狭めることにもなりかねないなって思ったよねっていうか俺に言わせればそれはナンセンスだなと。そもそも興味があればあるだけそれに関してはもうすでに専門なわけでさ、常にwork in progressな研究は続けられるわけじゃん?リアルタイムに。だから変な囲いはいらないんだよね。そういう意味でさ、俺は今、たまたま興味のベクトルのおかげで数学やってるだけで、別にこれを専門にしようとかって思ってないんだよね。まぁ学問的に学校でやってれば俺の他の興味ある学科よりかはまぁ社会的に有用だなっていうまぁ打算的なアレも大きいけどさ、んでもそれって俺と外界との関係性における意味なんであって、俺の中ではむしろどうでもいいことなんだよね。知りたいっつーか興味があるということにジャンルみたいな区分けってないわけで。


だからまぁ俺がやりたいっつーかずーっとやってるのってその区分けなきインプットだよね。好きなら好きなだけインプットしまくるっていう。で、結果的にそれがすげー広まるとさ、さっき書いたポアンカレの無意識のプロセスって凄まじいことになるよね?ようは色んな分野から得た情報同士が差別無しに勝手にやり取りを行うわけじゃん?それってすげーインテグラルだよね。ようは学問の高次元化って恐らくこの分野の区分無きクロスオーバーだと思うよね。ようは色んな観点から何かを検討できるっつーデータベースを持つことだよね。もしくは視野でもいいし。だから別に俺がプラトニストだからっつって例えば全部観念論的に考えるのか?っていうとそんなことはなくて、むしろ俺って最初はすげー唯物論的に物事を考えてたし、そういう思考のパラダイムって常に頭の中の一つのパラダイムとして存在してるわけでさ、観念論的になったからといって別に観念論者になったわけじゃないんだよね。まぁ最近仕入れて気に入っている概念が観念論ってだけで、自分が全部それを元に物事を考えるようになったのか?っていうと全くそんなことはないわけで。


それってもっと大枠の他にも言えることじゃん?科学者だからこう考えるとかさ、哲学者ならこういうだろうとかさ、倫理学者ならこういうだろうとかさ、それってナンセンスな区別だよね。別に自分の中に科学者のパラダイムも哲学者のパラダイム倫理学者のパラダイムもインストールできるわけでさ、で、それが一つのユニバースを生み出すわけだよね。まぁ常にオープンなユニバースだね。まぁ宇宙みたいなもんで常に拡大するユニバースだね。そういう思考の小宇宙みたいなものを人間ってまぁポテンシャルとして持ってるわけだよね。恐らく。まぁ個人差はあるのかな?まぁそりゃ分からんけどね。俺は他の人になったことないし永遠になれないから分からないけど、まぁなんとなく俺は俺の脳内でそう思うってことだね。


で、今の俺ってのは数学者としての自分っつーパラダイムを拡大しつつ耕している最中なわけだよね。で、まぁもし気が向けばっつーか余裕があれば科学とかもガンガンやっていくってことでさ、まぁ科学っつーか物理学だけどね。んだからまぁそういう意味で別に専門を作るみたいなことに専念しないし興味ないよね。むしろ全部専門なわけでっつーか全部専門にするぐらいの勢いが無いといくつものパラダイムは脳内に形成できないよね。ようはかじる程度の知識じゃパラダイムは生まれないってことだね。もちろんかじる程度じゃ情報量が少ないから、無意識でのプロセスに関しても情報量が下がるわけで情報は多ければ多いほどいいね。


多過ぎるとややこしくなるとかさ、注意力が分散するみたいな考え方もあるけど、それって方法論の問題なんであってさ、ほぼ無限みたいな知識欲をオーガナイズできるだけのまぁ枠組みを作っていくってことだよね。ようはごちゃごちゃになってるってことは情報を吸収したり咀嚼できてないわけでさ、それって意味無いんだよね。で、情報量の多さとごちゃごちゃって関係無いよね。それって質量的なイメージなだけでさ、脳ってまぁある種コンピューターより優れてるみたいなところがあるわけで、いくらでも情報は入るわけじゃん?ごちゃごちゃになるのはむしろインプットの方法論が悪いってことだよね。どれもこれも理解しないままただ読みたい!っていう意志だけで読んでるとかさ、別に体系的にやりたいからっつってフィールドを狭める必要は無いよねっつーか狭めるってのは本当にバカバカしいことだね。


学者バカって言葉があるけどこれってこの専門性のある種のバカバカしさをよく表してるよね。その分野のことしか知らなくて他の事が無知故に狭いパラダイムでしか物事を考えられないとかさ、他の分野に関する無知が出力にさらけ出ちゃってるとかさ、それって知識っていう総合的な面から見るとかなりの欠陥だよね?情報の偏りなんて良いことがあるわけないわけで。大抵優れた学者って色んな分野に関する知識と見識を持ってたりしてさ、んでその学者がまぁ説明の為にあえて言うけど、まぁそのメインとしてやってるところの出力結果っつーのもその分野だけをやってたから出てきたものじゃなくて、その出力結果からは分からないような他の分野から仕入れた知識とか情報とか方法論とかパラダイムなんかが介在してるかもしれないわけでさ、ようは一つの分野をやるにしてもその分野のことだけやってればいいってことじゃないってことだよね。ようは知識とか見識は広ければ広いほど良いってわけだよ。


で、特に数学っつーのはその基礎をささえるfoundationなんだよね。ようは何の思考をするにしてもあったほうがいい思考のパラダイムってことだね。それはまぁ数字に関してもそうだし、ロジックということに関してもそうだよね。だからまぁそういう意味で俺はまぁ言い方を変えちゃえば、今まで無かったっつーか欠落してたパラダイムのインストールを行ってるってことだよね。プラトン幾何学っつーかまぁ数学を全ての基礎だ!みたいに考えてたっつーのはまぁそういうことだよね。数学的方法論からはまぁ色々と学べる事が多いよね。単純にまぁ言ってる事とか書いてることとかが矛盾してないか?とかさ、自分がstateしたもの同士から論理的帰結はこんな風に導きだせるとかさ、まぁこういうのって主にロジックだけど、論理の飛躍とかを数学は絶対許さないじゃん?っつーか飛躍があったら数学って成立しないからさ、それをまぁ言語っつーかまぁ普段のことでもそういう精神を持つってことだよね。ようはmathematical rigorって数学に限らずほぼ全般のことに関して言えるってことだよね。言葉って数学ほどの体系的な縛りが無い分自由でしょ?まぁ数学は言葉より本質的に自由なんだけど、ようは1+1=2にならなくてもいい場合もあるじゃん?


コンテキストとかそれこそ空気を読めばさ、その人が3だ!って言ってるなら1+1=3になるのが言葉だよね。そういうのが暴走するとさ、所謂まぁイデオロギーになるわけじゃん?どう考えてもおかしいのに指導者がそう信じてるから実行するしかないってことでんで虐殺とか侵略行っちゃうみたいなさ、その指導者の内部ロジックではそのとき自分がやっている虐殺は正当化されてるんだけど、んでもそれって1+1=3のロジックなわけでさ、「いや、それはおかしいですよ。間違ってますよ」って誰かが言わなきゃいけないよね?でも言えなくなるのがまぁ恐怖政治だったりするわけで。その言葉なりイデオロギーが真実だと思ってたけど実行してみたらワークしなかったっつーのでダメでしたってのが証明されたりすることが多いでしょ?それっていかに言葉ってのが無責任で真実味なんてひとかけらも無い相対的なものだってことが分かるわけじゃん?


ポストモダン思想なんかもそうだけどさ、やたら晦渋に哲学を語ってみるとかさ、でも厳密に分析してみると矛盾だらけとかそもそも言葉が成り立ってないとかさ、そんなところもあるわけじゃん?そこで解釈論だのなんだのっつってまぁ学者とかが必死になって晦渋なテキストの解読を行うわけだけど、まぁこんなことばっかやってるから哲学は死ぬんだよね。そういう意味で哲学無き哲学研究って最悪なんだよな。むしろ一番哲学にとって害悪なものにもなりうるわけで。そういう意味で俺は完全にアカデミアっていう世界での哲学には完全に興味ないよね。まぁ政治学も最終的にそうなったんで、だから「どうしよう?」って結構路頭に迷ってたときに数学と出会ったんでまぁ最高のタイミングだったんだけどね。


前に哲学研究ってゾンビ解剖だって書いたけどまぁ本当にそうだよね。言論とか思想とかは人によっては現在形で生きてるって意味で哲学者は死んでるし、仮にその哲学はもう時代遅れとかさ、あんま価値が無いものだっていうような客観的事実みたいなのがまぁ割と常識的に言われててもさ、流布するっつーとあれだけど、まぁエクリチュールは漂ってるじゃん?で、色んな人達によって恣意的に解釈されたりするって意味でまぁゾンビなんだよね。生ける屍だよね。まぁ似たようなことをニーチェが言ってたと思うけど、別に俺はニーチェのパクリをしたいんじゃなくて、たまたままぁニーチェと同じようなことを部分的に言ってるってだけなのね。そういうのを気にしないで自分の言葉で言うってのが哲学でしょ?「ニーチェによれば・・・」って最初に言うのが哲学学者ってことでまぁ死んだ哲学を解剖をしてる人達ってことだね。ニーチェとかぶってようが自分なりに考えて導きだしたものがあるならそれは自分の言葉で語っていいわけで、別に引用とかさ、学術的なエビデンスみたいなのを自分の言論のアクセサリーとして使う必要は無いのね。それが語られているというだけで十分なわけで。それがディスコースってことでしょ?


「何々によれば・・・」っていうつぎはぎだらけの文章ってネクロな文章だよね。それこそフランケンシュタインみたいなもんだよね。そんなのに俺は興味無いんだなっつーかむしろ嫌悪するよね。まぁ必要な情報を得る上で買う事になったそんな風なヴァイヴを持った本っていくつかあるけど、まぁ徹底的に解説に徹している本ならいいんだけどさ、そいつの哲学をやりたいのかさ、誰かの哲学を説明したいのか、立場がよく分からないのってあるよね。解説なら解説で解説書っていうコンセプトで書けばいいのにさ、下手に自分の哲学を中途半端に展開してみたりしてさ、それってまぁニーチェならニーチェを後ろ盾にした言論だよね。ようはニーチェの威を借る研究者だよね。


ニーチェが言ってるってことは普遍的に認知されるからそこから何かを敷衍すれば誰も文句は言わないだろうっつーかさ、自分で基盤を作らない哲学者としては最低の態度ってのがあるよね。そういうやつが哲学やってるっつーのが許せないよね。まぁ本人が哲学やってる気分になっててハッピーならいいんだけど、でもそういうやつが書いた本って大抵つまらないからね。で、なぜか優等生に多いんだよなー。不思議なことに。学生とか研究者としてはすんげー優秀なやつがつまらないものを書くっていう率がすげー高い気がする。むしろ面白いものを書くやつらって外野の連中が多かったりするわけで。だからたまに優秀な研究者がウィットに富んだ解説書とかを書くと珍しくなるんだよね。ようは大抵の研究者がつまらない気の効いたことも言えないようなものばっか書いてるからさ、やけに光るんだよね。ちょっと面白みのあるやつが。


ユーモアとかウィットとか創造力の欠如って学問をやる上で凄まじい弊害だよね。でも研究ってむしろ徹底的に学んで分析するみたいなことが要求されてるように見えるからさ、つまらねぇー公務員みたいな連中が従事することが多いんだよね。だから研究結果とかしてはある程度良いのが書けても読み物としてクズみたいにつまらないのが繁雑するわけだ。こういうのが特に哲学を殺してきたってのは言うまでもないよね。なぜか文系に多いんだな。そういうのが。まぁ文系理系って分け方あんま好きじゃないけど、まぁ分かりやすく説明したいからあえて使うけど、理系で本当に凄いやつらってむしろぶっ飛んでるやつらが多くてさ、だから何かを書かせると面白かったりするんだよねってまぁ俺の勝手な印象だけど。哲学とか社会科学とか政治学みたいなのでぶっ飛んだ面白いやつがいないってつまらないよね。本当に。なんであんなにお堅いのかな?


まぁぶっ飛んだやつらがやる分野じゃないってのはあるのかな。まぁぶっ飛ぶって奇抜な発想をするとかじゃなくてぶっ飛んだやつが何かをやるってことだからね。だから普通のやつがぶっ飛んだフリをしてもダメなんだよね。そういうのは特に本家には一瞬で見透かされるからね。「学問に足りないものはユーモアだ!」って俺のステイトメントにしようかな?まぁ前から俺がさ、難しい哲学とかを漫画にして解説するとかね、別にユーモアじゃなくてもまぁ脱構築して分かりやすい形で提示する重要性って前から言ってるけど、そもそもなんつーかね、俺が思うに本質的に難しい概念ってそんなに多くないんだよね。どれも解説次第では普通の人にも伝わるんだよね。多分。


そういうのをジャーゴンフリーで分かりやすく説明するのが学者の役割だと思うんだけど、特に日本の学者ってそういうのを怠ってきたよねっつーか酷いよね。むしろジャーゴンとか使いまくって難しく見せることに終始するみたいなさ、「俺って頭がいいだろう!」みたいなのを見せびらかす為に何かを書くみたいなさ、それって本末転倒だよね。NHKスペシャルでとかで数学とか科学についての特集とかって放送したりするけど、ああいうのが良い例だよね。どんだけ高度なことでもさ、分かりやすく噛み砕いてCGとか使って解説すれば分かりやすいものになるってことだよね。理論的に複雑でもその複雑さの背後にあるのは何らかの事実だったり概念だったりするわけでさ、数学ってのが何かのものを数という形にして抽象化するものなのであればさっつーかむしろ数学って帰結するところはその逆じゃん?抽象から始まって具体的になるっていう。


ようはすんげー複雑なプロセスのものであってもさ、結果的に定理として出るものは何らかの物理的な説明が出来るようなものになるみたいなことだよね。ようは情報空間の情報を物理空間の情報に変換するみたいなことだよね。数学ってその往復だもんね。まぁ情報空間だけの留まるものもあるけど、んでも少なくともその数学やってるやつらにとっては頭の中ではそれは具体的なものなんであってさ、だからまぁ考えられるわけじゃん?だから頭の中で曖昧ってことはありえないんだよね。だって思考するってすげーconcreteなことじゃん?頭の中で抽象的ということはありえないよね。頭の中では何でも具体的なんだよね。その頭の中での具体性を抽象するという事によって得るのが抽象化っていう抽出のプロセスじゃん?抽象ってそういう意味で凄く良い言葉なんだよね。湯葉を作るみたいなプロセスに似てるよね。コーヒーを煎れるとか紅茶を煎れるってことでもいいんだけど。コーヒーで言えばドリップだね。コーヒーはコーヒー豆という意味では実体があるけどさ、でもその味ってコーヒーにするまで分からないじゃん?


まぁコーヒー豆噛めばいいって話になりそうだけど、ようはよりそのテイストを感じるのにはコーヒーにするのが一番いいってことだよね。このコーヒードリップの一連のプロセスが抽象するということだよね。豆を買ってくるなり取ってきて、んでそれをミキサーで粉々に砕いて、んでコーヒーマシンにセットして煎れるっていう。で、それを飲むときに始めてコーヒーのフレーバーが分かるわけじゃん?煎れ方で味とかも変わるわけで、だからまぁこのドリップする一連のプロセスって重要なんだよね。凄く。コーヒー豆を砕けば全部同じコーヒーが出来上がるのか?っていうとそういうことじゃないわけで。まぁ味覚ってことで言えば個々が違う味覚を持ってるから同じ味なんてありえないんだけどね。そもそも。客観的な同じ味なんて分からないわけで、まぁそれは概念も一緒でしょ?全部が人間を通じて理解される以上、それが万人に同じものとして理解されるかは分からないよね。ただまぁそれをなるべく分かりやすく伝えるのが学者とか研究者の役目でしょってことが言いたいわけで。小さいサークルで研究するってことも大事だけど、その結果を世に広めるってのも同じぐらい大事なことだと思うんだよね。


そんな意味でだからまぁなんつーか啓蒙的なテイストがある本って凄く好きなのね。俺。ああいうのって頭が良い人にしか出来ないことだからね。高度なことを抽象化して頭で理解して具体的な形で出すって頭が良くないと出来ない。難しい文章を書くってことが逆に知性の面から見ればむしろマイナスに見えるんだってことは本当に研究者とか学者とかじゃない普通の人でもおぼえておかないといけないことだよね。分かりづらさってのは書き手の欠陥なわけで。難しい事を難しい言葉を使ったまま説明するって楽だからね。大抵が文献の引用と言い回しのパラフレーズで成立しちゃうからすげー楽。変な話、そいつが理解してなくてもパラフレーズと引用だけで説明が成り立ったりするんだよね。すげーバカバカしいことだと思うんだけど。


で、俺なりの空の解釈になるけどさ、いきなりだけどね、これってようは全てに差が無いみたいなさ、全てが実際は何でも無いということが数々のものの抽象化によって具体的に分かるっていう抽象概念なんだよね。ようはあらゆることのエッセンスってものを抽象して意味論的なこととか本質的なフォームみたいなのを考えた時に全てが溶けて全てが同じになるみたいなことだよね。悟りってのはだからまぁある種のチーズフォンデュみたいなことなんじゃないかと思うわけね。結局まぁ全部溶けるんじゃんっていう。そこに差別も意味もフォームも存在しなくてさ、全部とろけるチーズになっちゃうっていう、まぁちびくろサンボのバターみたいなもんだよね。まぁちびくろサンボにそういう解釈があったかはともかくとして、あのバターになるって感覚は悟りに近いものがあるねっていうか俺は今の所まぁ同じものだと思ってるけど。


で、最初の話のポアンカレの無意識のプロセスだけど、これもまぁ脳内チーズの熟成みたいなもんだよね。脳内においてはそれぞれが特別な差別が無くある種の流体みたいな様相を呈して存在するみたいなさ、まぁそれをニューロンみたいなね、具体的な無数のワイアー同士のネットワークのやり取りって捉えてもいいし、全ての大きな思考っていうのが流体みたいなもので、それが混ざり合わさっているというか、それが頭の中でチャプンチャプンしてるってのが思考って事みたいなさ、まぁそれってイメージの問題だからまぁどっちでもいいんだけど、まぁどの道、専門化という名の蛸壺化は良くないってことだね。まぁ言い方を変えるとあれだ、専門を極めるのはいいけど蛸壺化するのは良くないってことだね。それは業界レベルでも他の分野同士の繋がりっつーかネットワーキングは必要だし、別にそれを一人がやってもいいわけだよね。一人が色んな分野の専門家で自分の脳内で勝手にネットワーキングをしてもいいわけで。


まぁ情報が抽出されて脳にとけ込んでいれば勝手に脳はネットワーキングを行うってことだね。これって最高じゃない?学習って思ったより簡単!ってことになるよねっつーよりかはまぁ人間っつー動物は学習するということに長けているということが言えるよね。個人差はあれ使い方次第で能力が伸びるっつーのもさ、筋力とかと同じ感じで考えられるって結構な朗報だよね。


まぁそんな感じで今日はこの辺で。




まぁネットで読めるんだけどね、ただまぁなんか本が欲しいっつーか特にこのちくまのやつが欲しいなと思ったわけで。