ツイッター機能としてのウォール伝を復活させますってことで。

mimisemi2010-03-17

遠山啓の数学入門に出てくる話なんだけど、数学のかけるってさ、英語ではmultiplyでドイツ語でもフランス語でもロシア語でも基本的に増えるっつーニュアンスがあるらしいんだけどね、だからまぁヨーロッパ人とかっつーか欧米人は概念的に混乱するっていうかさ、それっていかに数学が言語なのか?ってのを表してると思うのね。ようはかけるって記号で書けば・だったりバツだったりするけどさ、それをある言語で読み上げるって言った時に「かける」とか「multiply」ってことになるんだよね。それがようは名称ってことなんだけどさ、ようはこれって数学的概念と言語的概念に差異があるってことだよね。「かける」っつーか「multiply」って言葉が数学的概念を説明できているものではなく、ただその数学的概念に近いものが言語から選ばれてるってだけだよね。まぁそれって言語全般そうだけどね。いつも書くけどまぁ日本の哲学がややこしいのって西洋哲学を輸入した時に何やら難しい言葉が色々な哲学的概念に与えられてしまって、んだから無駄に哲学が難しくなっちゃったっていう。


特に日本語ってさ、仏教的な概念が元ネタの言葉って多いでしょ?ってまぁ例を出せって言われるとアレなんだけどさ、そう思うとまぁ仏教って当然哲学的じゃない?だからまぁ哲学用語に対応しやすいっつーことなんだろうけどさ、いや、別にそのまま仏教の言葉が哲学の言葉に対応するってわけじゃないけどね、例えばなんだろうなぁ?説明しにくいな。っていうかね、ウォール伝に対するモチベーションを一新しようと思ったのよ。っていうのはね、特に1月ぐらいからそうだけどさ、なんかウォール伝が記事っぽくなってきてるんだよね。個々が独立した何かに対するトピックの意見なり考えとかになってたりしてさ、まぁそれはそれでいいんだけど、それはともかくとして今流行ってるツィッターってあるでしょ?


ウォール伝ってツィッターの長文バージョンみたいな感じだからね。あえて記事として書かなくてもいいようなことをあえて記事にしちゃうみたいなさ、そのどうでもよさってのが売りっつーと自分でも変だけど、まぁそれが自分でやってて一番楽しい理由だしさ、ブログ更新しなきゃ!みたいなプレッシャーに襲われないっていう良い理由だったんだよね。でも最近なんかまぁある意味で調子が良いのが続いててさ、記事化が進んじゃってるんだよね。結構ちゃんと書こうとしてる自分がいる。んでもこれじゃーダメだなっつーかつまらねぇーなっつーかさ、いやつまらなくはないんだけど、俺のツィッター欲が満たされねぇーなと思って。どうでもいいことも書けるからストレス解消にもなってるしさ、電話もメールもやらない俺としてはそれが唯一社会みたいなものに対しての繋がりだったりするわけじゃん?


社会っつーと大げさだけど人付き合いってリアルに無いからね。俺。むしろいつも書くようにブログに書き込んでくれる人とかに返事を書くってのが本当の意味での俺と他者との会話なわけでさ、普段は全然そんなことやってないわけよね。それをやる場じゃん?だったらツィッターやれよ!だけどさ、はっきり言ってウォール伝って最初からツィッターだったからね。それこそぼやきだったわけだ。ただ俺の性質上長いぼやきなんだけどね。だから結局はまぁ長文ツィッターなんだよね。記事として書こうなんて一切思ってないわけで。それが最近無いなと。1月の上旬ぐらいに「書く事無いからやめようかなー」なんてぼやいてたけど、あれこそがウォール伝なんだよね。「書く事が無いなー」ってのをあえてエントリーとして書く事がウォール伝なわけでさ、何を気合い入れてるんだ?俺は?って話なんだよね。最近の俺は。


だからなんかユーモアとかが無くなってる気がしてきてて。そういうのに自覚的になってきたから昨日とか久々に下ネタとかいっぱい出たでしょ?ザーメンの如く。アレこそがウォール伝なのにさ、変に改まって真面目に哲学的概念とか数学的概念を説明するってまぁマジなときはいいけどさ、それだけってどうなの?っていうさ、そういうのもあっていいけど肝心のぼやきの部分はどうなってるわけ?っていうさ、そういうわけでぼやき書いてないんだよね。最近。そりゃイカンなと思って。精神的にも良くないからね。いや、まともなエントリーを書く事がプレッシャーになるということではなくて、ツィッターが無くなるってことが俺にとって有害ってことなのね。だったらそれとは別にツィッターやればいいじゃん!って話になるけど、ウォール伝が俺にとってのツィッターなわけでさ、だからまぁツィッター機能をもっと回復しようかなと思ってだからまぁ完全にこうやってぼやきを書いてるわけだけどね、まぁ気持ちいいね。ぼやきって。書きたい事をひたすら書くっつーよりかはもっと自然な行為で思った事書くって感じだもんね。書くというよりかは単純な思いっていう。


あ、んで最初のまぁ言語の話だけどさ、あれもまぁ思いつきだけどさ、まぁうんこしながら数学入門読んでて思った事なんだけどね、変なことに「それだけじゃ量が少ないな」とかって思ってる俺がいるわけ。量ってうんこの量じゃなくてエントリーの量ね。ようは一つの思いつきだけじゃ足りないなとかって思ってる俺がいるわけ。それってどういうことなんだ?っていう。完全に自分の中でツィッター機能を無くしてるよね。妙にまともなブログにしようとしてる俺がいてすげー嫌になったね。まぁそこまでまともにしようと思ってないっつーか一般的な意味で言うところのまともとはほど遠いけど、俺の基準の中でのまともさね。俺の基準のまともさは一般的には全然適当な部類だろうけど、まぁ俺の中ではちょっとでもまともならまともなんだよね。そういう雰囲気をまぁ最近のウォール伝に感じるわけだ。あまりに真面目過ぎるなと。


まぁいいや。そんなところなんだけどさ、やっぱり落ち込んでることと言えば例の数学の先生から連絡がさっぱり来ないってことだね。あれだけ「よっしゃー!」とかって思ってた分、やっぱ期待値が高かったんだなっていう。才能を見いだされたというのが嬉しかったんだけどさ、ただまぁちょっと俺が変わったなと思ったのはね、昔の俺だったら「あーきっと愛想つかされたんだ・・・」とかって落ち込んでたんだろうけどさ、今の俺は「俺の才能に恐れをなしたに違い無い」とかって思うようになってるのね。まぁ大いなる勘違いの一つかもしれないけど、結局ポジティヴ思考ってこういう感じで解釈していくってことだよね。あとはまぁ細かい事を書いちゃえばさ、いや、逆に色々と書いちゃうとあとで返事がもし来たときに会い辛くなるんだけど、そもそも俺はもう思ってるわけで思ってることは全部書くっつーコンセプトでウォール伝やってるなら全部書けよってことでさ、それもあるわけよ。なんでそれを黙ってるの?っていう。なんか嫌な気分になってるってウォール伝に書いてないからだよね。それに気がついたのが今日ね。ツィッターをやってねぇーからだ!俺って気がついたわけだ。これは良い気付きだったなと。


んでまぁ俺のポジティヴな解釈をサポートする事実としてはね、書いてないことだったけどさ、いきなり俺がチャイティンについて書くとか言い出してるもんでさ、しかも先生がチャイティンのことをあんまり良く思ってないっつーかさ、まぁあえて辛辣な言い方をするとさ、ふつーの人の典型みたいな人なんだよね。デカイアイデアをせせら笑うみたいな凡人さがあるわけ。コツコツやるのが数学者だとかっていうのを信じてる感じね。でもチャイティンって凄いじゃん?でもそれを認めたくないみたいな根性があるんだよね。これって相当スノッブじゃん?


半年ぐらい前にもチャイティンのメタマス!を持っていって色々と質問したんだけどはぐらかされたりさ、あとは「これは間違ってる」とか言い出す始末でさ、結構呆れてたところもあるんだよね。で、間違ってるわきゃーねーだろと思ってそこを読み返してみたらそれは別にチャイティンの概念でもなんでもなくて普通の数学の証明だったのね。ようはそれを理解できてないってことじゃん?で、チャイティンの本だから「こいつが間違ってる」みたいなことを言い出す始末なわけだよね。でもここが俺の悪い癖でさ、せっかく良い先生に会えたんだから良いところだけを見ようとか思ってさ、生徒らしく接してたりね、「一緒に研究やってくれるんですか?」みたいな低姿勢でいたりするんだけどさ、結局はっきり言っちゃえばさ、全然俺より知識が無いわけ。まぁ数学的な知識は当然あるけど話を聞いてる限り別に普通の数学の勉強してればいくらでも追いつけるレベルでさ、結局まぁたいしたことねぇーなっつーかまぁ本当に凄い人以外まぁその辺の先生なんてみんあそうだろうなっていう。


学校で普通に良い成績修めてまぁそのまま就職したって感じの人達だから先生っつってもまぁ普通の人だよね。ちょっと学問に特化してるってだけで別に教授=物知りってことではないよね。それこそ職業的な先生なんて先生になってから研究なんてさっぱりやらないわけで。毒づき過ぎ?でもこれは思ってた事だからね。あえてあんま考えないようにしてたけどさ、結果的に俺が色々と喋り過ぎたっつーか、知識欲の半端じゃない感じとかが多分先生の手に負えないっつーレベルだったんだろうなとかって解釈してるんだよね。チューリングの本を注文しました!とかさ、読んでる数学の本とかいちいち教えてたりしたからさ、俺としてはそれが数学的なコミュニケーションのつもりだったんだろうけど、相手としては全然知らない分野のことで何も言えないからさ、それこそ先生としての面目が丸つぶれになるじゃん?チャイティンの本とか持っていっても「分からない」とかって言う始末だし、「まだ数学の基礎やってるわけだから基礎レベルのことやればいいじゃん」とかって言い出す感じだったからね。


「Something less ambitious」なことをやれって言われたのね。これってドリームキラーだなと。哲学で言えば哲学が好きになっていきなりフッサールの研究をやりたい!って言い出してる学生にさ、まずはプラトンから読み始めなさいって言ってるようなもんだもんね。まぁ別にプラトンから読み始めることはいいんだけどさ、別に最初から何らかの得意の分野に興味を持てたらそれをやればいいわけじゃん?なのに初心者だからこれをやんなさいって言うっておかしいよね。で、俺は別にいきなり高度なものを読んで基礎を飛ばそうとしてるわけじゃなくて、自分で個人的にやろうと思うところはそういうところにしか興味が無いってことなんだよね。そんな基礎的っつーか学科でやるようなことについていちいち「こんなことを勉強しました!」なんてレポートなんて書いてられねぇーよっていう。


先生はようはそういうのをやれって言うわけだよね。で、その理由は何か?っていうとまぁ自分が監督できるレベルだからでしょ。多分チューリングとかチャイティンとかゲーデルって言われても分からないんだろうな。まぁちょっと分かってても監督できるほどの知識が無いっていうさ、ただ一応教授っていう地位にいるからさ、生徒より知識が無いとかさ、生徒がやりたいって言ってることに対して「俺は分からない」って言えない立場にあるっつーのかな?先生が生徒に対してドリームキラーなのってそういうところもあるよね。あくまで劣ってるっつーか自分より下っていう認識あるじゃん?ヒエラルキーっていうかなんていうか。でも大学生なんていうましてや二十歳過ぎた連中とかが大学にわんさかいるアメリカでさ、先生より知識がある生徒がいてもおかしくないよね。18歳がデフォルトっつー大学なら別だけどさ、それこそ30過ぎた人達とかもいっぱい来てるわけで、中には先生よりその分野に詳しいって人もいるだろうに。ただまぁ体面上、学科として終えなきゃいけないからっつーんでコースを取ってるって人結構いると思うよね。それが大学ってところだからね。


まぁ意外とただの妄想とか思い上がりでもないでしょ?俺の妄想とか予想って完全にスキゾな感じじゃなくてある程度の事実から導きだしてるってところはあるからね。まぁ俺の才能に恐れをなしたっつーのは半分ぐらい冗談だけど、多分手に負えないって思ったのは少なからずあると思うね。教授としては教授らしいことをステレオタイプに言うんだけど、例えば前に会った時に色々と先生が話してくれたこととか全部知ってることだったからね。特にあの頃は数学ガールとか読破したばっかだから、色々と基礎的なことも話程度には頭に入ってることが多かったから、色々と先生に教えられたように見えたことも全部色んな経由で知ってる事ばっかだったっていう。「キミはまだ始めたばかりだから知らないかもしれないが・・・」っていう前提で話してたつもりが全部知ってたとかって教授としてもショックだと思うんだよね。


本当に凄い先生なら違うんだろうけど普通の教授とかだったらそうなんじゃないのかな?いつも書くけどさ、自分より頭が良さそうな生徒のことを気に食わないって先生いるんだよね。まぁそれは前に書いたからいいけど、残念ながらこの数学の先生もまぁ同じ穴の狢だったなっていう。まぁ人間的には良い先生なんだけど学べることが無いってのは致命的だよね。それこそ大学に所属してる人っていうコネ程度の利点しか無い。そういう利点でいいじゃん!って思って動いてたからさ、知ってる話とかも聞いてるフリして「そうなんですかー」とかって聞いてたけどさ、これってある意味で先生をだましてるってことだよね。先生とコネって意味で仲良くなりたいから良い従順な生徒を演じてるっていう。これって相手をある意味で騙してるってことだもんね。コネのために。


これは良くないよね。俺がこんだけ本音を書いてるのもまぁ本音でしか生きてかないっつーまぁ俺のやり方だからね。だからまぁ正直なところを書いてるわけだ。そこを「良い先生に出会えた!」なんて思ってるのって結局、詐欺師のサイモンを「良いやつと出会えた!」って勘違いしてるのと同じレベルじゃねぇーの?っていう。先生と詐欺師を比べるのは酷だけどさ、ただ俺が言いたいのはね、俺の勝手な思い込み補正ってのがかかって相手のあり方が勝手に俺の中で形成されてるぞってところね。それがようは俺の他者に対するナイーヴなところなんだよね。他人のことはあんまり気にしないとか興味無いとか言ってるくせにやっぱ期待してるわけ。色々と。


っつーか期待できそうな人が見つかるといつも思い込み補正をかけちゃう。これがようは自分で幻みたいなのを作り出しちゃってさ、ずーっとマヌーサな感じっつーかドクサな感じに自分を埋め込んじゃうんだよね。事実と違う事をベースに何かを考えるってやっぱ危険だよね。で、大抵まぁさ、思い込み補正がかかってるときでもさ、「おかしいな?ここが」とかって思ってるところいっぱいあるわけ。相手に対してね。それはサイモンでも同じだったからね。んでも「せっかく良いやつと出会えたんだから良い面を見ていこう!」みたいに思ってさ、それがようは幻を作り出すんだよね。結果的にそれが相手への過度な期待になっちゃってさ、事実と違う時に現実とのギャップに苦しむわけじゃん?


詩人だったか小説家だったか忘れたけど女性にすげーロマンを抱いててさ、んで実際結婚してみたら女なんてロクでもない生き物だってことに気がついて自殺したっていう人がいたよね。明治だが昭和初期の作家とか詩人だったと思うんだけど。俺ってこういう感じだよね。まぁ女性に関しては過去にトラウマがあるからそういうのは一切消えたからまぁ今となればまぁ良かったんだけどね、ただまぁ他者に対する期待ってなんかやっぱまだまだあるなっていう。だからまぁ今回の教訓としてはさっつーかまぁ前に書いたけどさ、結局まぁ自分で勉強してさ、自分の足で立てるぐらいにならなきゃいけないってことだよね。誰かの助けがいるっていうような、誰かに依存してるような状態じゃいけないってことね。一方で当然助けが必要なものってのもあるよ。でも俺はそういうのはコラボレーションだと思ってるのね。


お互いがその能力とか分野のことをリスペクトし合いつつ何かを出していくみたいな。でも先生と俺の関係ってさ、完全に俺が先生に依存する感じになるじゃん?俺は数学的に素人だからなんつーかまぁ将来推薦状を書いてもらうとかさ、まぁ業界に食い入るのにその業界の人と知り合っておいたほうがいいみたいなところじゃん?でもさ、多分芸人とかでもそうだけどさ、別に師匠とかいなくても面白かったら売れるじゃん?それこそ本当に凄い芸人とかだったら売れるよね。そんなもんテレビに出れば一瞬で分かることだもんね。学問も一緒でさ、俺がなんか客観的に「凄い!」って思えるものを書ければそれが「凄い!」っつー証明になるわけでさ、逆を言えばそういうのを数学で書けない俺ってのはダメなんだよね。それがモロに力量不足だってところじゃん?そこを先生とのコネとかで上手く乗っていこうとかって思ってたところが少なからずあってさ、これって業界に食い入る為の根回し的な動機じゃん?完全に実力で勝負しようと思ってない良い証拠じゃん?それってモロにダメだなと。


完全にダメだよね。俺は先生がダメとは言わないけど、やっぱ俺がダメだったなっていう。まぁんであとは俺がその先生にメールが来なくて「いいやー」って思ってるってことはその先生に魅力を感じてないってことじゃん?「素晴らしい数学的素質がある」って言ってくれたのは嬉しいけど、んでもそれって客観的に見ればただの事実だもんね。先生が俺のことを励まそうとか思って言ってくれたんじゃなくてただ事実を述べただけなんであればさ、それを言ってくれたってところに変な愛着を感じる必要はないんだよね。「あ、そうなんだ」って思ってればいいわけで。そこを俺みたいなお人好しは「理解者が現れた!」とかって思って過度な期待をしちゃうんだよね。こういう誰かを頼ろうとする甘ちゃんなところが俺は大嫌いだな。俺自身が。自分自身に実力があってそれを自分で認めてればそれが自信ってことじゃん?まぁ他人から見れば傲慢に見えるかもしれないけど、本当に実力があれば他人はそれを認めるしかないわけでさ、だったらまぁそんぐらいになんないとダメだよね。俺はまだまだ自分に対して甘すぎるなと思ったわけね。


それこそ心からリスペクトできそうな先生に会えなさそうな見通しが立ってるならそれこそ自分の足で立たなきゃいけないよね。そんな人は歴史上の人物か現世では一握りの人達なんだから俺の生活圏でそんな人がいるわけないって思ってたほうがいいね。んで仮にいたらラッキーとかそういうレベルだよね。基本まぁ自分でやっていくっていう態度を貫かないとどんどん自分に甘くなっちゃうよね。それこそ学校っつー場所に在籍してれば安全だろうみたいな。これって最悪だよね。本当に最悪。だからこそ今回のことってのはさ、「相手が恐れをなしたに違いない」ぐらいに思っててさ、んで先生に「あいつマジでやりやがった!」ぐらいに思われるぐらいのやつにならないとダメだよね。そのときは本当に先生もポテンシャルがあるとかじゃなくて実力があるって認めざるを得なくなるわけで。まぁ別に先生を認めさせる為に数学やるわけじゃないけどさ、ただまぁ実力はつけないとダメだよね。


特に最近はそういうつもりでいたからさっつーかさ、これってまぁ苫米地用語で言うところのコンフォートゾーンだと思うんだけどさ、「数学に関しては凄まじい感じでいる」っていうところをコンフォートゾーンにするとさ、例えば前に書いた授業の後にコンピューターでやる問題とかに関してもね、Good Job!とかって言われるぐらいのスコアじゃ納得しなくなるんだよね。それこそ全部First Attemptで全問正解ぐらいじゃないと自分で納得しなくなる。テストとかも100点以外認めないとかね、まぁこれって精神的にまぁ厳しいっつーか自分を追いつめる感じだけど、それこそこれしか俺がやっていける場所はないって考えるなら最低学校でやるレベルの数学なんてこんぐらいじゃないとダメだよねっていう。まずはそれありきでしょっていうような基盤的なところだよね。で、こないだちょうどまぁ練習問題でさ、20問やって20問全問正解でね、1st attemptだったんだけどこれって俺の意識が変わったっつー良い兆候だよね。


前は練習問題なんて意味無い!とかって思って適当にやってたけどさ、まぁその後先生に憎まれ口叩かれるのが嫌だっつーのがあったにしても、なんつーか数学に関しては特にハングリーじゃなきゃいけないなってところでさ、コンフォートゾーンをめちゃくちゃ上げたわけだよね。だから実質的に全問正解でも全部が1st attemptじゃないと納得しないようになってさ、だからたかが練習問題でもミスをしないっていうのと厳密に計算して答えを出して全問正解でやっていくっていうことに無意識に集中するようになるから他の生徒とのモチベーションが全然変わるわけ。他の生徒とかはまぁ別に数学をただの一つの科目だと思ってやってるからさ、練習問題終われば教室出られるからまぁ適当にやって終わらせようってやつもいるんだよね。まぁ俺もそういうやつの一人だったからそういう気持ちはよく分かるんだけど。


でも俺の場合、政治学でも哲学でも多分食えないだろうっていう勝手な想定の中でさ、数学なら大丈夫かも!っつーかまぁ実際食えるかどうかはともかくとして、まぁ大学院とかの待遇は文系よりいいからっていう理由は前に書いたじゃん?単純なシステムとの兼ね合いとあとはまぁ知らない分野にチャレンジするっていう楽しさなんだけどね、でもまぁそれだけじゃダメなんだよね。それこそそれで食えるぐらいにならなきゃいけないわけで、だからまぁ楽しみ程度じゃダメだなっていうさ、それこそまぁ実力っつーエビデンスが無いとダメだなっていうね、だからまぁ俺は計算速いけどすんげー時間かけて一問一問解いていくわけ。気をつけていても凡ミスが多い俺にはまぁこんぐらいがちょうどいいんだけどね。


もちろんね、合格点取っててさ、先生からもGood Jobって言われてるのに「こんなんじゃダメだ!」って思うのはダメだよ。そりゃ当然合格点は取れるけど俺はパーフェクトを目指していた!っていうようなことだよね。ようは結果は結果として認めてそりゃー合格点だからいいけど、合格点取れればいいやー程度のモチベーションで数学はできないからさ、だからまぁそれは変えていこうってところで今はまぁ完全に変わった結果が態度として出てるんだよね。だから宿題とか数学だけはやるようになったしさ、全然苦痛じゃなくなったのね。むしろ読書と同じぐらいやってることに充実感があるっていうか、モロに俺の目標とか理想的なあり方への道へとダイレクトにコネクトしてるなっていう、趣味と実益の満足感だよね。これこそが最高の生の肯定だってのはいつも書いてるけど、まぁベタな言い方しちゃえば今の俺は数学を通して自己実現が出来ているって感じだね。まぁ数学だけじゃないけどさ、ただまぁ学校で良い点数を取るとか宿題をやるってことだダイレクトにそれにコネクトするからいいだろうっていう数学をやる上での利点ってのがやる前から見えてたけど、それがもろに実現してる感じだよね。本当だったな!っていうかまぁ思い描いていたことだから本当になってるな!いつも通り!ってところなんだけどね。


こういうモチベーションでいれば先生から連絡が無いなんて街でたまたま会ったやつと仲良くなってんで会話が弾んでメアド交換したけど相手からメールが来ないぐらいの微々たるもんで悩む必要なんて全く無いんだよね。それが分かっているのにも関わらずなんかイライラしてるのがまぁ自分へのイライラもあるしっつーのはまた結局他人に期待して裏切られたんじゃんっていうさ、思ってたほとたいした人じゃなかったってのはいつもあることだから慣れてるにしてもやっぱそういうことがあると辛いし、辛いのは俺がナイーヴに他人に何かを期待し過ぎてるからで、結局俺の甘ちゃんなところっつーか弱さが見えるからすげー嫌なんだよね。


それにイライラしてるってのもあるし、期待を裏切られた!っつー単純なショックもあるよね。まぁオイラー素数の証明の説明を空いた教室でしようとして説明できなかった時にそれは気がついてたけどね、去年の9月とか10月ぐらいだったけどね。そんときの俺は単純に数学の先生と数学っぽいことが出来ている事自体に満足感を感じてたけど、今の俺は半年前の俺とは違うわけでさ、そんなことどうでもいいことだよね。結局先生はそれを理解してなかったし理解しようとしても無理だったわけで、あの時点で先生の力量なんて分かってたはずなのに、まぁそこに思い入れ補正が入っちゃってまぁ幻想を作り出していたってことだよね。サイモンで散々懲りたはずなのにまた同じことを繰り返してるなっていう。そんな自分にイライラする。


数学っつーフォーマットなら先生とか大学の助けなんか無しで実力だけでやっていけるものなのにシステム的な援助を得ようとしてたっていう俺の浅ましさは最悪だよね。学問をやるやつとして本当に最悪だったなっていう。先生と知り合ったっつってコネ入手!とかって最高に短絡的だよね。ダメ過ぎる。あまりにダメ過ぎる。まぁ先生から連絡は無いと思うけど、仮にあったとしてもまぁ別にやってくれるなら断る必要も無いしやってもいいかなーぐらいのもんでいないとダメだよね。まぁすげー傲慢だけどそもそもコンフォートゾーンとかエフィカシーが高まってればそこまで高くない人の付き合いなんてそういうものになるわけでさ、別に失礼でもなんでもないよね。単純なモチベーションの違いですよっていうところなわけで。


ただまぁ俺は先生の言う基礎レベルの研究をしなさいなんてことは一切受け入れないけどね。それは助言でもなんでもなく本当に意味の無いことだからね。先生としてもいきなり始めたやつがいきなり自分より高度なレベルのことを話しだしてるとかってのが認められないっつーのは分かるよ。自分は何十年やってきててんで数ヶ月かそこいらのやつに追い抜かれてるわけだから。それが認められないのは分かる。でもそれで別に俺が先生にレベルを合わせる必要は無いわけでさ、自分でやりたいことをやればいいんだよね。別に背伸びしてあえてレベルの高いことをやろうとしてるわけじゃなくて単純にそういうものに興味があるからやろうと思うわけで。


前にも書いたけどドリームキラー的なもんにしてもそうだけど対処できるのはやっぱ出る杭になるんじゃなくて出過ぎて打てない杭になるしかないんだよね。ドリームキラーとか凡人みたいのが潰せないレベルのクオリティの何かを持っているっつー人間にならないとダメだな。それが前に書いた弱肉強食の世界で強者になるってことだよね。弱者でいても食われるし、ちょっと秀でててもドリームキラーとか変な平等主義者とかに足を引っ張られるからんだから卓越し過ぎてないとダメだよね。もう認めるしか無いっていう潰せるレベルじゃないっていうところまで自分を持っていかないとダメだね。それが結果的にサバイヴになるなら大変でもやる価値はあるよねっつーのがそれが結局生存するっていうところにダイレクトにコネクトしてるわけで、俺はそうなることでしか生きていけないわけだから、今後生きようと思ったらそうするしかないってことだよね。


だから数学の練習問題とかテストとか満点なんてデフォルトっていうのが当たり前になるわけで。そういうのがまぁ生活の中っていうかまぁ数学の授業を受ける俺のあり方に顕在化してて見いだせるから「どんどん具現化していってるな」ってのを生活のレベルで実感できるわけだよね。かといって当然ガリ勉になるってことじゃなくて最小限の時間的コストを払って最高の効果を得るっていうね、最高にスマートでエレガントな数学科の超優秀な生徒っつー自己像を具現化させるわけだよね。だからまぁガリ勉でもダメなわけだ。予習をするのはいいけど一日やってるとか学部程度の数学でダサ過ぎるからそれはやらないのね。そんなガリ勉が必要なぐらいだったらまぁ将来的にダメなのは見えてるからね。


っていうことでした。ぼやきを再開!って始めたエントリーがこんなに長分化するなんて!っていうのがまぁウォール伝だよね。だからこそぼやき程度のモチベーションで書くのがいいんだよね。なんかこうやって色々と書くと思考の整理もつくしねっていうかそれがいいんじゃんね。すげー整理ついてスッキリしたよね。今は最高の気分だなぁー。分かってたことでも明文化することでまぁ最適化されることってあるよね。それがデフラグのプロセスとしてのウォール伝なわけで、それを最近全然やってなかったなってところなんだよね。だからこそ長文ツィッターとしてのウォール伝は必要だなっていうところなのね。結局まぁそんな感じでいつも寝るのが遅くなるんだけどね。


いや、でもあれでしょ?バカな思い込みとか思い上がりとかアホなポジティヴ思考でもないでしょ?すげー道理が通ってると思うんだよね。だからこそ自分でも納得できてるわけで。ホントに「ダメだったらどうしよう?」なんて思考が介在する余地がないね。あとまぁこんだけ言っちゃうとやるしかなくなるっつーのもあるから余計にいいよね。自分に甘いのは一番嫌だからこうやって書いちゃってアップしちゃえばやるしかなくなるっつーのはまぁ俺にとって最高のことだね。元々崖っぷちだけどそれをもっと際立たせるっつーかまぁエッジにいるかエッジを超すかってところだよね。崖から落ちそうで死にそうだけどまだ生きてるって最高に生を感じる事が出来るもんね。あとあれだ、先生が俺に何回も言ってたのはさ、「数学をやるってことになったら長い道のりだし、大抵は詰まると思うけど根気よくやるのが大切だよ」って言ってくれたんだけど、まぁそんなことはねぇーぜ!ってところもまぁ自分で勝手に証明していきたいよね。詰まった事なんて一度も無いぜ!っていう。今の所詰まったことは無いわけで、今後もまぁ恐らく詰まることはないよね。一瞬で理解できるってのはいつも同じなんだからそれでいいんだよね。「いつも詰まる」っていうスタンダードに自分を置く必要なんて無いわけ。


いや、一瞬で理解できるってのは噓だな。分からなくてもその場で「なんでだろう?」って考え込んだり分からなかったらそれを放置しないから比較的速く理解できるって言ったほうが正しいね。あやふやなままで何かを放置しないんだよね。「何なの?」って思ったら徹底的に理解しようとするんだよね。これは数学に限らず全部でそうだからだからまぁいいんだよね。慢性的に。「これは1セメぐらいかかるよー」とかって言われても別に自分が1セメかける必要ないじゃん?これがまぁ俺の言いたかったことね。別に「いつも詰まる」必要は無いってことなわけで。「1セメぐらいかかるよー」とか「理解するのに時間がかかるよー」とかまぁこれもある種のドリームキラー的な呪詛だと思っていいってことね。


そこで「いや、別に一瞬で理解できたけど」って言っちゃったら嫌なやつだって思われるじゃん?っつーか人間関係崩壊するじゃん?でも別にそれでいいのね。まぁあえて人間関係崩壊させる必要は無いけど、そいつとか一般的に時間がかかるとかって言われてることを鵜呑みになんてしないで、別に自分のペースでやって早く理解できればそれでいいわけよ。そいつの言うことなんて聞く必要ないわけ。なんにしてもさ、まずは下積みからみたいな基準に当てはめようとするよね。これって悪しき平等主義だよね。


頭が良いやつも悪いやつも同じ所から同じ時間をかけて登っていかなきゃいけないっつー悪しき平等主義ね。なんでそれを強いるのか?って自分が時間かけて上がってきた階段を一瞬でエスカレーターみたいなので上がられたらたまらないから「階段を上りなさい!俺だってそうしてきたんだから!」っていうようなことだよね。そういう人に「何言ってるんですか?」って言えるぐらいの実力を身につけるってのがそういう人間への最高の攻撃であり防御になるってことね。そういうやつらと付き合わなくて済むようになるし、自分の力で立てれば一番頼りになるのって自分自身ってことになるから人生においてこれほど頼りがいのあるね、ある意味での健全な精神的な安定性をもたらしてくれるのとかって結局は自分自身だよね。そういう自分になるしかない。っていうのはまぁ今の所の俺の考えだわ。別に他者を見下すとか協力し合わないってことではなくてね、無駄な付き合いをしなくて済むような最適化された生活を送るためにも頼れる自分ってのを形成するしかないってことね。


ってことで今日はこの辺で。


PS


で、まぁツイッターの表記が全部ツィッターになってるけどツイッターの面持ちで臨んで。


PS2


で、結局まぁ改めて読み返してみるとぼやき程度で始めたのがすんげー真面目な話になってるんだよね。でもまぁこれでいいなと。最初はぼやき程度で書き始めるってーのでいいんだってことね。別にちゃんとしたエントリーになんて最初からする必要はないわけで。まぁでも全部ぼやきだけどね。ぼやきから語りへって感じか。ぼやきがあればとりあえずなんか書くっつーフットワークね。今日は長くなったけどまぁ本当にぼやきだけで終わる日とかもあっていいわけでって逆にレアなんだけどね。