まぁー結局解釈次第だよねぇーっていう。

mimisemi2010-03-25

いや、完璧な日だったね。最低の気分で起きたけどさ、思ってた通りね、月曜がやっぱスピーチのクラスのテストだったみたいでさ、「受けてない人は?」とか言われてさ、このクラスの先生嫌いなんだけどね、前に書いたっけ?で、まぁmake upはしてくれるっつーか当日っつーか今日の夕方の先生のオフィスアワーに来て受けなさいってことだったんだけどさ、まぁ実質的に準備って前日寝る前にちょこっと出るって言われてたところを読んで、んで自習室でもまぁ実質30分ぐらいだよね。なんか意味が分からな過ぎてゴメン。順序立ててっていうかストーリーらしく説明するのがスキゾなおかげで苦手なもので。


まぁね、んで超早起きしていった11時のクラスはさ、テストのレビューをするっつーんで受けてない人は退場!ってことでまぁせっかく早起きして行ったのに意味ねぇーじゃん!とかって思いそうだけど、まぁこれも解釈でさ、むしろ3時まで準備できるな!っていうアドバンテージが取れるな!ってことじゃん?んでまぁ結局30分しかやらなかったんだけどさ、まぁ他の時間は前に貼った般若心経の本を読破したのとあとナーガルジュナの英語のやつをやっと読み終えたっつーか疲れたよ。マジで。いつも書くけど英米系の本ってボリュームがあり過ぎなんだよな。しかもやっぱナーガルジュナって難しいよね。んでもなんかある意味で単純でもあってさ、まぁMulamadhyamakakarikaなんだけどね、まぁナーガルジュナの全部を読んだわけじゃないけど、これに限って言えばさ、何々って言えば何々とは言えなくなる。したがって何々は存在し得ないとかさ、何々は空であるとかさ、どこからそれが生じるのか?とかさ、基本的にこれだよね。これ一本って感じ。まぁ今のところの俺の印象だけどね。


だから途中から結構飽きてくるのね。いつもこの論法じゃん!って。なんかさ、ウィトゲンシュタインだよね。ナーガルジュナって。仏教界のウィトゲンシュタインって感じ。結局、分からないっつーかなんとも言えないものにはサイレンスしか無いみたいな趣があるよね。まぁようはロゴスで説明しきれないのが存在全般って感じなんだけどさ、ただ俺が思ったのはね、苦痛がなぜ発生するのか?っていうのをさ、ロジックっつー世界だけで考えるとある意味でナーガルジュナみたいになるんだけどさ、それを全部空と看做すっていうか、そんなものは幻想であるって喝破するのもいいけどさ、でも俺はそういう意味だと西洋哲学にかぶれすぎてるのか分からんけどね、まぁ俺が元々そういう人間なんだと思うけど、sufferingにも色々あるよねっていう。


怨憎会苦ってのがあるけどさ、まぁこれがいつも俺の言う嫌なやつを会わなきゃいけない苦痛なんだけどさ、んでも「苦」って色々あるじゃん?怨憎会苦にも色々あってそれこそ人によって全然苦痛が違うじゃん?っていうのはさ、あいつと会うの嫌だなーってのとこいつと会うのも嫌だなーって同じ怨憎会苦でも理由が違ったりするじゃん?こういうところが嫌でだから会いたくないっていうさ、それをようは個々が分析しなきゃいけないよね。俺が言いたいのはさ、仏教だと苦ってすげーデカイパラダイムで苦痛全般を言うけどさ、んでも俺はその個々の苦をそれこそ原子みたいなレベルで分析していくほうがいいと思うっていうか、これが思考だと思うのね。まぁ我を知るだよね。これが仏教で言う怨憎会苦かーじゃなくてなんでそいつが嫌なのか?ってのを徹底的に考え尽くすわけ。で、そういう経験が重なると傾向と対策みたいなのが出来てくるじゃん?自分は基本的にこういう人間とは本当に馬が合わないなっていうのが分かってくるじゃん?ようは「嫌」でも何が嫌か分析するんだよね。それを徹底的に理解してどうしていくか?っていうさ、苦痛が多いから解脱もいいけどさ、その苦痛を一個一個見ていってさ、一体それは何なのか?ってのを分析するって重要だよね。


それは実存にしても言えることでさ、散々担ぎ上げてきたような仏教への批判みたいになっちゃうけどさ、実存って言った所で色々あるからね。それこそすんげーコロラリーがあって属性があってキリ無いじゃん?んでも個々の実存って違うんだよね。所謂beingみたいなので括れるほどbeingって単純なもんじゃない。だからこそ一般化が出来ないものだと思うんだよね。それこそすんげーややこしい話をすれば主観を通した客観から他の主観に入ってみて、んでそこからまた客観視してみる・・・みたいなさ、気がおかしくなりそうなね、まぁホームズが推理に時にやるやつだけどさ、でも主観の数だけ宇宙があるのは確かでしょ?だったらその主観の数だけ違う見え方のbeingがあるわけでさ、それを統合は出来ないよね。まぁそりゃー意見の違いってことになるんだけどさ、そういうことが言いたいんじゃなくて、存在を規定するパースペクティヴって永遠に得られないと思うんだよね。色即是空・空即是色ってまぁ般若心経を読めばいいんだけど、んでもそれって般若心経の受け売りでさ、自分なりに空を理解してないよね。


それこそ科学的な観点からの空とかさ、西洋哲学的な観点からの空とかさ、ようはただ俺が般若心経を読んで理解して空を悟ったとかさ、そんなことがあったとしてもそれは悟りではなくてただの受け売りだよね。本当の空を理解するには多分全部理解しないとダメだね。学問全般。仏教だけやってたら分からないことっていっぱいあるじゃん?そのいっぱいある中に存在論の観点が変わってしまう何かってのもあったりするわけでさ、まぁその可能性を俺は最近科学とか数学に感じてるから色々と読んでるんだけどさ、仏教っつって仏教だけで終わるのはダメだなって思ったね。ナーガルジュナとか般若心経とか色々読んで空は理解できたからいいか?っていうとそんなことなくて、もっと空を理解するのはもっと色んな分野の知識が必要だなって思ったわけ。まぁ膨大な知識だけどね。いや、それは空を理解するために他の事も勉強するってよりかは、何かのジャンルの一つの概念でも、俺の見識が広ければ広いほどより深い理解ができるし、俺なりの解釈がもっと可能になるんじゃないか?って意味ね。


例えば今の俺で言えば本業の哲学ですら途中だしさ、まぁそりゃーこんな歳で終わるわけないけど、科学系に関しては無知じゃん?そんな中で究極的な真実なんて見えてこないよね。恐らく色んな知識が統合しないと真実って知れないと思うね。もしくは真実なんて無いとかさ、全ては結局空だっていうのもさ、空であるっていうのと結局空だったって同じ空の解釈でも全然違うからね。色んなのやってきて結局空だったっつーのと空関係の本を読んでそう思ったってのは違うわけで。まぁ般若心経もそうだしナーガルジュナとかってオントロジーの最高峰の哲学だとは思うけど、だからといって西洋哲学をやらなくていいか?っていうとそんなことはなくてさ、色んなパースペクティヴが必要なんだよね。


でもさ、色んなジャンルをクロスしてやってる人ってそんないないよね。それこそ科学から数学から哲学から仏教からサイコロジーから脳科学から認知科学まで全部に精通してる人ってあんまいないよね?まぁこれまた日本の頭脳の最高峰であろう苫米地さんとか宮台の話が上がりそうだけど、彼らですらフィールドは限られてるじゃん?ようは俺がいいたいのは限られてないフィールドから来るオントロジーの概念ってどんなもんなのかな?ってことなのね。それを凄く追求したいね。ようは一個一個の学問でマキャベリについてとかさ、群論についてとかさ、そういう感じでやるんじゃなくて、色んなのを吸収した結果、頭の中で表れてくる世の中とか世界像とかオントロジーの見え方ってどうなるのかな?ってことだよね。まぁアカデミックとは親和性無さそうだけどね。それが俺の問題でもあるんだけど。あまりに形而上学でつかみ所が無いことに興味があってさ、んでアカデミアで求められるのって狭い分野での細かい研究だからさ、俺ってそういうのに興味ないからさ、だからまぁ考えていかなきゃいけないよね。まぁどの道数学は必須だからやるけどね。足りない知識を補うって意味でとりあえず数学と物理はやる感じだな。あれもモロに哲学でオントロジーだからね。なんかいくら時間があっても足りないな。マジで。このままずーっと勝手にやらせてほしいんだけどね、まぁそうはいかないのかもしれないけど、大学院とか行かなくても食えるようになれれば最高なんだよね。アカデミアにしがみつく必要がなくなったらそれはそれで良いわけで。


まぁそれはともかくさ、んでも般若心経には感動したね。ナーガルジュナとかインド哲学とか空関係の本を読んだから般若心経の本を読んでも理解できるようになったんだけど、般若心経がなんで凄いか?ってのがよく分かったよね。空の概念が集約されてるお経なんだよね。あれ。凄まじいよな。本当に。ただどれだけの人が本質的に理解してるのか分からないけどね。よく唱えられるお経だけど真意を理解するものは多くないみたいな感じだよね。当たり前に流通してるものだけど意味を知る者は少ないっていう。「三世に出現する全ての仏は智慧の救いを依りどころとして、無上の正しい覚りを得て覚者となられる」とかすげーいいよね。「智慧の救い」って良いよね。智慧の救いを依りどころにしているから心に覆われることはないとかヤヴァ過ぎでしょ?っていう。昨日からずーっと感動しててさ、般若心経唱えてるんだよね。嫌な事とか雑念が過ったら般若心経を唱えるようにしてるね。今日も学校でやってたし。まぁ学校では声には出さないけどね。般若心経はいつも持ち歩こうって思ったよね。それこそ一時期の紅衛兵毛沢東語録を持ち歩いてたような感じで、俺にとってのバイブルが般若心経なのかもしれないね。そんぐらいあれは凄い。あれだけ空の概念が凝縮されたものってのも無いだろうな。だからまぁあんだけ広まったんだよね。だからあんだけメジャーになったわけだ。


で、智慧の救いって俺が実践してる哲学そのものだよね。学問に生きるってそういうことだよね。学問に熱中してないと人生が虚しいから智慧の救いを依りどころに生活してるっていう。俺が最近「趣味が無いな」っていうのもこれだよね。智慧の救いを依りどころにしてるんで、身体とかさ、それこそレジャーとかさ、良い景色とかさ、バカンスとか全然関係無いんだよね。何かが読めてればいいっていう。これってまぁ結構幸せだよね。あと本って腐るほどあるからさ、ゲームみたいにやるのがなくなるみたいなことがないじゃん?だからまぁ人生が保証されてるよね。智慧に救いを求めるならアーカイヴは無限みたいにあるから終わる事が無いからさ、一生それ出来るもんね。それが俺のやりたいことだよね。だからまぁある意味で今は出来ているわけだけどね。


あーんで書こうと思ってたのはこんなことじゃなくてさ、最初に話を振ったんだけどさ、「これも解釈でさ」ってのが今日のメインポイントなんだけどね、特に般若心経とか読んで感動したりさ、ナーガルジュナの本が難しいながらも凄い知的刺激受けてたりするとさ、すんげー満足感があるわけ。充実感っつーのかな?すんげー幸せな気持ちになるのね。まぁ自習室で学校と関係無い本読んでるのって俺だけだと思うけど、まぁそれはともかくさ、中国語のクラスでもテストでさ、んでまぁあんま準備してなくてっていうか、まぁどうでもいいじゃん?前のクラスでは先生が良かったから色々と覚えられたけど今は本当にダメなんだよねって前にも書いたよね。面白いギャップね。スピーチの先生は先生としては凄くいいんだけど凄く人間的に嫌いなんだけどちゃんと授業やるししっかりしてるから教師としては評価せざるを得ないっていう。その一方で中国語は全然授業がダメだけど先生が俺の事を気に入ってたり、先生もまぁなんつーか優しいおばあちゃんみたいな感じでさ、憎めない感じでだからまぁ全然敵対心が無いんだよね。これはこれでいいなっていう。元々そんなに別にエッセンシャルな授業じゃないから嫌な先生じゃないだけ全然いいなっていう。


あと数学の先生は前にボロクソ書いたけどさ、あ、その連絡をくれない先生じゃなくて授業のほうの先生ね。ボロクソでもないか。たださ、間違ってるっつってもどういう間違いをしてるかがプロセスの中で分からないんじゃただ「間違いだ」って判断するのはおかしいだろ!って散々言ってたんだけどテストではね、ちゃんとそれやってるのね。ようはやり方は全部あってるんだけど単純な計算ミスとかがあったりするとマイナス1点とかになるのね。ようは配点が5点とかだったりすると4点になるわけ、これがさ、答えが間違ってたらバツ!っていうんだったら結構俺のテストの点って酷いんだけど、前の数学のクラスでも多かったんだけど、凡ミスばっかでさ、ただやり方は全部覚えてるからあってるからまぁ悪くない点数だったんだよね。凡ミスが無ければ94点ってところか。凡ミスだらけだったんで84点になっちゃったんだけど。散々100点とか言っておいてアレだけどさ、ただ俺としては凡ミスはもうADD的なもんだからしょうがないと思ってるわけ。でも俺が悔しかったのは地で間違ってた二問ね。これは普通にダメだったんでこれが凄まじく悔しかったね。この二問があってて実質的にパーフェクトだけどケアレスミスで削られて90点とかだったら納得なんだけどさ、問題をマジで間違ったっつーのはアウトなんだよね。そういう意味での完璧さは絶対求めるよっていう。まぁなるべくケアレスミスも無くしていこうとは思うけどね。100点をコンフォートゾーンに置いてるのは間違いないわけで。


まぁそれはともかくさ、また話が逸れたけどね、いや、その数学の先生にはなんか色々と書いちゃってすみませんってことだったね。テストでちゃんとした採点をしてたんで納得したのね。プロセスも見てないで間違いは間違いって言う人なのか!ってのが俺の早とちりだったってのが分かったんでさ、本当にごめんなさいだよね。あ、んでね、中国語のクラスでさ、いつも可愛いなーって思う子がいるんだけどさ、南米系の白人の子なんだけどさ、なんかね、相手も意識してるだろうなーとは薄々感じてたけどやっぱそうだったのか!ってのが今日分かったっつーのがさ、テストの用紙にね、先生がね、メアドを書いておいてくださいとかって言うわけ。ようは連絡先としてみたいな感じで。意味分からん?まぁ分からなくてもいいや。まぁテストがあって、んで緊急用の連絡先ってことでメアドと携帯番号書いておいてくださいってことだったんだけどさ、んでまぁみんな書くじゃん?で、テストが終わってテストを集めるって時にさ、先生が生徒と喋ってて俺がテストを渡せなかったのね。で、例の可愛い子はもう渡しててさ、んで「春休み中にテストで分からなかったところとかをちゃんと予習しておくように」とかって言われててさ、まぁあんまできなかったんだろうね。まぁあの先生の授業じゃ中国人以外だれもできないと思うけど。


んでさ、俺はなんとなくさ、その子の近くにあえて立ちながら先生にテストを渡そうとしてたらさ、その子が話しかけてきてさ、「テストの写真を撮らせてくれない?」って言うわけ。「え?」ってなってさ、「あー全然いいけど」って感じで答えたら「どうもねー!」みたいなすげー可愛い笑顔でテストを携帯で撮ってたんだけど、「なんで?」って聞いたらこの子曰く「先生がテストで分からなかったところがあったら復習しておきなさい」って言われたけど、もうテスト渡しちゃったからあなたのテストを写させてみたいな感じだったんだけど、ここで俺が思ったのはさ、これってメアドと携帯が書いてあるから撮影なんじゃねーの!って思ったんだよね。まぁ俺は携帯無いからメアドだけだけどね。んでも分からないからさ「メール送ってきてもいいよー」なんて言えないっつーか別にただ本当にテストを写したいだけだったらそれだけだしさ、変な事言えないなーとは思ってまぁ言わなかったけどさ、これもまぁ解釈じゃん?多分俺に興味あるんだな!って解釈しちゃえばさ、ウキウキだよね。俺は普段から死ぬほどモテたいと思っているけど、今セメスターもバッチリだな!って勝手に思えるじゃん?


これとは別に二つほど他の子からアプローチかな?って思ったのがあったんだけど、これはあまりに憶測だろうってことで書かなかったけど、まぁこれも恐らくアプローチだったんだろうって勝手に解釈しちゃえばハッピーじゃん?まぁバカみたいに良い解釈ばかりを続けるってことなんだけど、それとは対照的に俺って普段は全部悪い解釈しかしないんだよね。だから精神的にキツくなるわけ。今日の事でもさ、「やっぱあの子は俺に気があったんじゃん!」っていうさ、いつもの黄金律がワークしてるな!ってことじゃん?各セメスターで「お!可愛い!」と思った子からは必ずと言っていいほどアプローチがあるっていう。これが今回もあるってことでまぁ最高じゃん?


あとスピーチのクラスで気がつかなかったけど意外と可愛いなって思ってる子がいてその子からも何かしら来たらもう完璧だな。黄金律は完全にワークしてるってことだ。ようは俺のモテたい欲というのが具現化してるってことなんだよね。まぁただあんまり近いアプローチをされすぎても困るんだけどね。変な話なんだけどさ、可愛いな!と思ってても付き合いたい!って思うのとは別でさ、まぁとりあえず会話できればいいんだけどっつーのがまぁ具現化してるじゃん?だからまぁ今後今日の可愛い子とはもっとフランクに話そうかなとは思うけどさ、まぁこれは良い解釈をしてないとそういう発想にはならないよね。


はい。次。で、まぁ良い気分でさ、「あー俺、モテモテだなー!やっぱり。前髪のボリュームがなくなってきてはいるがまだハゲにはほど遠いからまだまだイケるぞ!」って楽観視できるじゃん?自分のM字ハゲに関しても。これは日本に帰った時にも母からもよーこからも言われたことだからね。よーこはブログで散々ハゲとか言ってるけど全然そんな風には見えないけどなぁー?みたいな感じで言われてさ、母親からはむしろ髪増えたねって言われたりとかさ、まぁ元々薄毛からはほど遠いんだけど、んでもM字なんだよね。髪の密度とは関係無しにM字って来るからね。


で、M字だけで止まるって人もいるけど、俺もそうありたいもんだとは思うけど、まぁ育毛の話とかはまぁまた別にするにしてもさ、なんかすげー満足感あるよね。テストも結局いつも言ってるように最小限の時間的コストである程度こなせたしさ、今日自習室で読み終わった二冊の本は本当に良かったしさ、んでまぁ米が無くなったからね、いつものダウンタウンの日系のスーパーに寄って色々買ってさ、あ、まぁその前に買わないで寄るだけって思ってたいつも寄るダウンタウンの本屋で結局本を買っちゃったんだけど、まぁこれについてはまた今度書くとしてさ、二冊買ったんだけどこれまたすんげー面白い本でさ、もう最高だなー!とか思ってたらNYU駅で買い物袋ぶら下げてまってたらさ、40過ぎぐらいのおばさんがさ、なんかアイコンタクトしてくるわけ。で、見てみたらおばさんっつってもまぁ別に普通にヤルのはかまわない感じの40代過ぎぐらいの人だったけど、バッグがマリリンモンローのウォーホールのやつでさ、んで俺もウォーホールだから「ウォーホール繋がりだね!」みたいな感じでさ、直接言ってきたわけじゃないんだけど、なんつーか「アタシのバック見てよ!」みたいな感じっつーの?お互い笑顔でさ、「あー同じウォーホール系だねー」みたいなまぁ会話は無かったけどんでも会話が無いコミュニケーションってあるじゃん?そんなのがいきなりあるのがこっちではよくは無いけどんでもまぁ日本ほどゼロではないから楽しいってのはいつも書くけどさ、なんかパーフェクトな日をさらにパーフェクトにするような良い出来事だよね。あーやっぱニューヨークっていいなぁーって改めて思ったっつーか。


で、そんな最高の気分のまま電車に乗ってさ、んで買ったばっかの本読みながらね、んでまぁ自分の駅に着いてんでそっからバスなんだけどさ、抽象的な本を買ったからねっつーか読んでるの最近そんなのばっかだけど、まぁ物思いに耽るのが凄いんだよね。だって今日は一日抽象的な本読んでたから常に心ここにあらずだよね。そんな中で色々と頭の中で考えながらさ、バスを降りようと思ったらさ、運転手が「なにやってんだ!お前!」とかって俺に言うわけ。で、俺は「は?」って感じでさ、止まったから出ようとしたんだけど・・・とか思ったらね、もうバスは止まってて、んでも俺が降りようとしないっつーんでね、んで進もうとしてたときに俺がドアを開けるもんだからさ、あ、後部座席のあたりの出口か手動なんだけどね、バスが走ってるのに開けようとするなんて気違い沙汰じゃん?だから「なんのためにそんなことやるんだ!」とかってめっちゃ怒られたわけ。はぁ・・・・せっかくさぁー一日完璧過ぎる最高の日だったのに最後って時にバスの運転手に怒られて終わりかよーとか思ってさ、一気にテンション落ちたよね。


まぁバスが止まってるのに気がつかないほど考え事をしてる俺が悪いんだけどね。前もそれでトラックに轢かれそうになったからね。結構危ないんだよね。ずーっと抽象世界にズッポリなのって物理世界を気にしなくなるからこういうことが起きちゃうわけでさ、家に帰ってから猛烈に反省したよね。あれじゃー運転手も怒るよなーって。あーでもなぁーせっかく良い日だったのに最後がなぁー・・・とか思いつつさ、便意を催してきたんでうんこしながら買ってきた電車でメインで読んでたほうとは違うほうの新しく買った本を読みながらさ、「抽象世界にどっぷり過ぎるのも危ないな。特にこういうことがあるとな。今後は気をつけないとなー」とかって思っててさ、んで「うわー何か今、モロ現実世界に戻ってきたって気がするな。今日は一日般若心経とかのおかげもあってずーっと変性意識みたいなのが続いてたのかもしれないなぁー」とか思いつつさ、「マジで現世に戻ってきた感じだなぁー・・・」とかって思った瞬間に「家賃!」ってのが頭をよぎったのね。前に滞納っつーよりかは普通に渡すの忘れててさ、大家さんから何回か警告もらってたんだけど、これ以上はもうアウトでさ、しかも昨日チェックを渡すつもりが忘れててさ、絶対今日渡さないとなっつーかまぁボイラー室のボイラーにチェックを置いておけばいいだけなんだけどね、ようはそれを思い出せて良かったなと。ようはボーっとし過ぎてて「何やってんだ!お前!」ってバスの運転手に言われてさ、最悪だーって思ってたらむしろ最高だったっていうさ。あのまま何も言われないで変性意識状態のまま家に帰ってきてたらまたそのまま読書続けて家賃のことなんて思い出さなかったと思うんだよね。それをあのおかげで思い出せたってのがむしろ良かったなっていう。


っていうのが今日のエントリーなのよ。ようはもう解釈しかないよねっていう。これまた苫米地本にも書かれてることだけど、時は未来から過去に流れてるっていうさ、これってまぁナーガルジュナが元ネタだと思うんだけどさ、「If the present and the future depend on the past, then the present and the future would have existed in the past」みたいなね、まぁ完全に同じではないけど時間の感覚って似てると思うね。ようは過去の出来事ってのも未来から過去に流れているっていう流れの中で何かが起こればそれは未来から過去を規定できるんだよね。ようは今の俺で言えば過去の引き蘢りだった頃とかがあって今があるわけで、それは未来から定義すればそれは必要だったことだっていう解釈が可能でさ、今日の俺の最後で言えばバスの運転手に怒られたってことで家賃のことが思い出せたんでむしろバスの運転手に感謝っつーか、ずーっと抽象世界に入り浸ってたのに喝を入れてくれたって意味で感謝できて、これもまた完璧の流れを締めくくる良い出来事だったって言えるわけだよね。まぁそんなのふつーに思い出して家賃払えよって話なんだけどさ。


ようはまぁ全部解釈だよねっていう。悪く捉えてばっかいると昔の俺みたいに精神がダメになるっつーよりかはマッドな狂気のレベルまで行っちゃうから、よく解釈できるものはよく解釈してさ、かといって楽観的に思考停止になるんじゃなくて都合の良いように解釈しちゃえばいいんだよね。いや、ようは自分の中で半々ぐらいの時にね、さっきの女の子だったら「気があるのかもな」って思ったら「気があるんだ」ぐらいでいいわけ。そのほうが楽しいからね。そこを「そんなことない!」って否定してつまらない気持ちになるよりかはさウキウキしてたほうがいいでしょ?これもまぁアクセプトの一つのやり方だよね。都合の良い解釈っつーとあれだけど、他人に迷惑がかかったり、それが自分を騙す事になって結果的に良くないことになってしまうようなことさえなければポジティヴな解釈を個々の事柄にしていくほうがいいね。「俺なんかに興味持つわけないだろ!」とかっつーのは自分に対する自分でやってるドリームキラーみたいなもんだからね。素直に興味がありそうだって思ったらそれでいいし、それ基準で勘違いでもいいから話してみたほうがいいよね。「ダメだ!」ってふさぎ込んでるよりかは百倍いい。ようはこうやってよい解釈をしていけば自分が良い方向に行けるかもしれないっていうことがあったらそれは大いにそういう解釈をしていっていいってことだよね。だってエビデンスなんて取れないじゃん?事態を俯瞰して全体性とかも解釈するのってようは個々の仕事じゃん?だったらポジティヴなほうがいいってことね。


まぁ俺が言いたいのは大げさなことじゃなくてさ、例えばバス一つにしてもさ、今度からは気をつけようとかってまぁ思えるしさ、これもまぁ良い解釈じゃん?レッスンになったみたいな。家賃もこじつけくさいけど、んでもまぁ実際あのバスからの流れで思い出したのは事実だからさ、あのバス事件あっての家賃だったなって思えるじゃん?「あーあとちょっとだったのに最後は怒られて終わりかよー」って思ってるよりよっぽどいいよねっていう。ようは家賃を思い出したことで「あーあーあとちょっとだったのにー・・・」って思ってた残念なことが最高の日の最後を飾るような良い出来事に変わったってことだよね。これがようは苫米地本に書いてある「「未来に起こる出来事の結果として過去がある」ってことだよね。今回の場合、これが一瞬だったけど、これが10年越しとかってこともあるわけでさ、10年前に起こった悲劇から続いてた惨めな生活が最終的には最高な形で帰結したってようは未来で起こった出来事の結果として過去があるってことだよね。これもまぁ俺が前から散々書いてたことでさ、俺の暗黒期があったからこその今なわけで、暗黒期無しでそのままでストレートで来れれば時間のロスも少なかったのに・・・ってことは絶対無いって事なんだよね。暗黒期があったから今があるってなわけでそれを抜きには今は無いわけだよね。


っていうかもう疲れたから寝るわ。学校がある日は普通の人らしくまぁ俺にとっては早起きの8時半に起きて9時半頃家を出て11時過ぎぐらいに返ってくるからやっぱ自然と眠くなるんだよね。まぁそんな感じで今日はこの辺で。般若心経のやつとかもう貼ったけど一応また参考程度にアフィっておくね。あと引用した苫米地本とかも。




金太郎飴の中でも極端な金太郎飴化する前のやつだから比較的最近のと比べれば情報量が多くていいね。