善と政治。

mimisemi2010-03-28

何気にアクセス数が30万越えたね。ネットって凄いよね。本当に。ウォール伝が有名じゃなくても検索エンジンとかで特定のワードが抽出されて引っかかったりさ、それこそドゥルーズガタリ的なリゾームにおいてはここのソースのポピュラリティってあんま関係無いよね。relevanceで引っかかるってのは本当に凄い。まぁYahooだったか忘れたけどまぁ検索の上位に来るページってそのページの元になるところが検索エンジンに金払ってたり、あとはYahooに対して望ましくない情報を載せているページを載せないとかさ、まぁこういう情報操作が可能だからまぁ怖いっていうか別な意味でのマスヒステリーとかってのが考えられそうだけど、逆に民主的でもあるのがさ、有名でもなんでもない人が違う情報に対して「違いますよ」って言えばそれもイコールに伝達するようになるからさ、一概に悲観的になる必要も無いよね。むしろネットっていう状態そのものが民度によって規定されることになるっていう。今ぐらいネットがポピュラーになるとネットが政治に絡んできたりして本当に面白いよね。ってことでまぁ今日貼るのはダベりから政治的な話になったやつなんだけどっていうかテキストでバーッ!と書いて、んでこのイントロダクションみたいなのはブラウザに直接書いてるんだけどね。無意識的に。まぁいいや。そんなことで貼りますね。すげー長いけど。


前に書いた「完璧な日」にやったスピーチのクラスの中間テストが20点でした。まぁそれはともかくとしてこのスピーチのクラスの先生は哀れなんだよね。いや、テストの点数が悪かったことの当てつけとかじゃなくてね、いや、前にも凄く嫌って書いたけど、なんで嫌か?っていうとさ、クラスがスタンドアップコメディのルーティンみたいな感じでさ、自分中心なんだよね。まぁそれはいいんだけどね、ちょっとでも生徒が喋ったりっつーか私語っつーレベルじゃなくて、ヒソヒソとさ、例えばクラスのことでも確認しておきたいこととかってあるじゃん?それを小声で授業の邪魔にならない程度に他の生徒に聞くとかさ、まぁ実質的に完全に黙ってるって逆に不自然じゃん?私語とは看做されない会話ってのもあるじゃん?そういうのを完全に許さないんだよね。ちょっとでもヒソヒソするとすんげー剣幕で注意しだしてさ、んで何でヒソヒソ話っつーか私語をするのがいけないのか?ってのを永遠と語るんだよね。それでいつも時間を費やしちゃって、んで遅れるみたいな。本人は自分のことをスマートだと思ってるのかもしれないけど本当にバカだよね。


学校の成績とかは良かったり学歴とかは良くても基本的にバカだよね。いや、どういう学歴か知らんけど、いかに学校の成績と本来的な頭の良さが違うってことが分かるじゃん?そういう意味でアメリカもバカが多いってことなのねっていうのがここ1年ぐらい俺が感じてることだよね。アヴェレージだと日本で言われるような深刻な学力の低下ってのはそこまでないっつーかまぁ差が凄いからなんとも言えないんだけど、まぁ平均的な生徒は凄い勉強するよねっていうかGPAにオブセッシヴね。まぁ当たり前なんだよねっていうのがさ、これによって奨学金がもらえたり、既にもらってる人は高いGPAをキープし続けることでまぁ奨学金を得るという状態を維持できるからまぁ維持に必死になるんだけど、いつも書くようだけどこれって本当に学問と関係無いことだよね。スプーンの上に卵を乗せてバランスを取りながら誰かに渡すっていうゲームがあったとして、それはゲームのためのスプーンの上の卵なんだけど、「ゲーム」ということを忘れてバランスを取ること自体に必死になり過ぎてるというか、GPAキープってそんな感じだね。いや、正直言うともううんざりだね。学校って下らな過ぎる。いや、俺がコミカレに行ってるっつーのもあるにしてもさ、ホント、まともな学校行かないと本当にダメだね。でもこれっていつも書くようだけどレベルとかの問題じゃない気がするんだよな。ビューティフルマインドでのラッセルクロウ扮するジョンナッシュもさ、classes dull your mindとかさ、ルーティンを暗記するだけのクラスみたいなさ、クラスに対する批判してるじゃん?でも自分のオリジナル理論が生み出せないから葛藤してるみたいな。それがまぁ前半で描かれるよね?


で、これって別にナッシュみたいな天才だけが言えるセリフじゃなくてさ、そこそこの人ならみんな気がつく事なんだよね。いかに学問とか本質的な創造性とかっていう重要なことが学校のシステムということと乖離しているのか?ってのは学問が好きであればあるほど気がつくはず。まぁそういう意味で本当の学問好きなんて学校にいないっつーかいなくはないけどさ、でもGPA維持みたいな学校のシステムとか学校のあり方と本来の学問のあり方が違うから、本質的に学問が好きなやつは学校行かなくなるよね。まぁレベルの高い学校は別として。だからまぁ自ずと学問好きはそれなりのレベルの大学に行かなきゃいけないってことになるよね。そうじゃないとくだらないシステムに飲み込まれてストレスだらけになるっていう。まぁそれを最近の俺は適応してきているというよりかは諦観みたいな感じだよね。今の俺は何も出来ない三流だからこういうところにいるしかないけど一流になれれば俺がシステム側に文句を言えるっていうか気に入らなかったらいつでもやめるとか場所変えるってことができるっていうさ、これがまぁ最近の俺が言う「実力」ってやつね。マキャベリで言うところのヴィルトゥね。


この実力こそがまぁ自分を自由にする武器でもあり防具でもあるってことだよね。逆を言えば実力が無いとどっかにしがみついてないと生きていけなくなって、んでそこに依存するしかなくて、んでそこにスポイルされるみたいな乾電池人間になるわけじゃん?何も無いって人はそれをしながら生きていかなきゃいけないから奴隷みたいになるんだけど、そんなことしなくても自分でやってけるよってぐらいの何かがあればいいんだよね。でも今の俺は無いわけね。だから我慢するしか無いってこになるんだよね。学歴っつーのを頼って何も無い自分に飾りをつけることでしか社会でやっていけるという道を見いだせないっていう最悪の負け犬なわけ。これが嫌だから俺は自分でやってるわけだけどね。まぁ学問が好きってのが第一の理由だけど、奴隷みたいになるのも嫌だからってのもあるよね。まぁこれが本来のリベラルアーツのアイデアなんだと思うけど、それが形骸化されてるってのはいつも書いてるよね。


まぁそれはともかくさ、スピーチのクラスの先生なんだけど異常なレベルなんだよな。あの注意が。見てるとさ、特に誰かの特定の気に入らないやつに文句を言ってるってよりかは他人全般に対してそうなんだよね。で、なんかセメスターが始まった頃とかにさ、自分が3歳の時に父親を飛行機事故で亡くして、18歳の時に母親も亡くしたみたいなことを言っててさ、んでまぁシビアに頑張ってきたみたいなことが言いたかったんだろうけど、色々とその後の彼女の振る舞いを見てるとさ、「不幸」っていうミスフォーチュンに取り憑かれてるんだよね。自分はこうだったしこういう風にやれって言われてきたんだから他人もそうしなきゃいけないみたいなさ、自分が全てみたいなさ、それを他人に強要するのね。で、それ以外は認められないっていうようなさ、すげー器の小ささがあるんだけど、これが見てると病的なんだよね。「うわー嫌なやつ!」っていうレベルじゃなくて「哀れだ・・・」って感じるぐらいのレベルなのね。恐らくプライベートではまず彼氏なんていないだろうし、友達もいないだろうなって感じのさ、優しさの欠片も無いっていうのかな?まぁそういう人っていると思うけど、まぁキューティーの姉が似たようなタイプだったけどあそこまで酷くなかったな。上辺だけだったかもしれないけど優しさゼロではなかったし。


他人に辛く当たる事しかできないって不幸だよね。そんな自分がデフォルトなんで自分で自覚するという余地が無くなるっていう。この余地の無さが凄く哀れだね。詐欺師のサイモンと似てるかもしれない。サイモンもまぁ彼の言うことが正しければ虐待されて育ってきてさ、んで子供の頃とかも家にいることが出来なかったから外に出てんで自分たちで食い扶持を探すしかなかったとかでさ、んで詐欺のテクニックをサバイヴ術として使ってきたみたいなさ、まぁ詐欺師の言うことだから信じられないけど、んでもまぁ不幸であったって前提で言えばまぁ一応make senseするよね。あんだけ倒錯したマインドを持ってるってやっぱ原因が幼少期とかさ、育ち方にあるんだよね。じゃないとあそこまで歪まないんだよね。そういう意味でよく左翼の言うさ、犯罪者とかも社会の被害者だっていうのはある程度まであってるよねっていうのはあれは完全に不幸というものが生み出した産物だからね。サイモンもスピーチの先生も円満な家庭に生まれればあんな風にはならなかったわけで、それがすげー哀れだって思うんだよね。所謂、マテリアリスティックな充実だけじゃないよね。貧乏でも円満な家庭とかあるわけだしさ、厳しさの中にも愛があるって家庭あるじゃん?そういう人が育つとまぁ厳しくても愛があるっていう人に育ったりっていうかまぁ幼少期のディシプリンってその人の人格形成に多大なる影響を及ぼすよね。


そういう意味で俺は奔放に育てられたっていうか父親が放置主義みたいな感じだったからねっていうか良い意味でね。あんま親が色々なことに干渉せずに本人達にやることを考えさせてやりたいって言うことは全部やらせるみたいなさ、まぁ実際は俺があまりに奔放過ぎたんで親とぶつかってばっかりだったけど、まぁこれってADHDとかの本読んでると典型的なんだよね。俺だけが特別っつーよりかは人間類型として世界中に俺みたいな生まれつきの反逆児みたいなのがいるってことね。反逆児と言えばお転婆娘だけど、こないだ無視されたって書いたけどさ、昨日偶然会ったんだよね。学校で。で、さすがに無視っつーよりかは目が合ったんで「元気ぃー?」みたいな感じになったっつーかさ、話によるとニュースクールにアプライしてて、んで当然学費は払えないから奨学金を申請してるとかでプロセスの最中だっていうんだけど、人の役に立ちたいからっつーんでサイコロジーをやるらしいんだけどさ、まぁ過大評価し過ぎかもしれないけど、彼女には典型的なADHD的な反抗心と正義感を感じるね。過剰なまでのピュアさっていうか自由さっていうか。そこがやっぱ魅力だよねっていうか可愛いし内面的にも凄く魅力がある。かといって交際にはならないんだけども。ここが不思議なんだよね。俺は魅力的に感じてるのに彼女とかじゃないっていう。わけわからん。


まぁそれはともかくさ、彼女の話とかも前にちょっと深い話を聞いた時に親とはあんま上手くいってないらしくてさ、で、自分で全部やってきたっていうさ、凄く親に何かの恨みを持ってるような感じがするんだけど、んでも彼女の優しさっていうかちゃんとしてる感じってどっから来るのかな?とかって思った時にサイモンとかスピーチの先生とかとお転婆娘を比べてみるとさ、まぁお転婆娘は前者二人よりかはマシな環境で育ってきたんだろうけど、んでもプロジェクト育ちでまぁ過酷でんで親とはうまくいってないってことだとまぁグレそうな感じがするじゃん?実際、そうやってグレてstreet hoodlumみたいになるやつら多いんだけどね、だからまぁ貧困とストリートギャングってモロに繋がるわけだけど、それはともかくさ、彼女がグレない理由って何なんだろうな?って思った時にADHD的な正義感とかもあると思うけど、そこはちょっとロマンチックに書くとプラトンイデアみたいなものを感じるんだよね。


ようは優しさとか善くあることってのは生まれつき備わっているものであるっていう考え方ね。個々に美のイデアとかがあるように個々に善のイデアとか優しさのイデアとかがあるっていう。だからまぁ無い人には無いんだよね。後天的に備わるということもあるというのは数学を考えれば明らかで数学的思考法がゼロな人間でもパラダイムをインストールすればそういう思考が出来るようになって、んで頭の中に幾何学空間が生まれたりするわけじゃん?数学空間とか抽象空間然りだよね。俺の場合、元々抽象空間があったんで数学空間が一瞬でインストールできたってのはあるよね。FFとかのスフィアっていうかさ、個々の人間のスフィア板みたいなのはあってさ、それは色々なものを積み重ねたり知っていけばその板をスフィアで埋め尽くすことが出来るみたいなさ、まぁああいう版的な感じってのはある意味でソクラテスのrecallっつーかさ、魂が知ってたことを取り戻すのが学習だ、みたいなアイデアとか、元々何かは備わっているっていうようなプラトンイデア論とかとも繋がるし、スフィアが無い板にスフィアを埋め込んでいくという意味だと経験主義的な、タブララーサとも繋がる気がするんだよね。まぁ今列挙したもののハイブリッドなもんだね。この板という概念は。


だからまぁスピーチの先生にもサイモンにも優しさを埋めるスフィアというものの余地というか空きはあるんだけど埋める機会が無かったとか、サバイヴのためにシビアになるしかなかったとかさ、そういうサバイブとかもまた社会的スキルってことでまぁスフィア埋めだよね。数値をそっちに振り分け過ぎてるっていう。ただまぁこれで言うとさっきの俺がいうイデアと矛盾するし、それはどうなのか分からないけど、んでもどんだけ厳しい環境で育ってきた人でも優しさがあったりする人っているじゃん?厳しいっつーかグレちゃうような環境ね。で、それはもう優しさのイデアがその人に生まれつき備わっていたのだと言うしかないっていうレベルになるんだよね。さっきナッシュの話が出てきたけど、ナッシュの天才的な数学の才能もまぁ生来的なもんだよね。ああいうレベルになると。サバンとかを考えるとさ、記憶とかは凄いんだけど何かを考えられないとかさ、まぁああいうのは脳科学的に説明ができるけど、さっきのスフィアで言えばまぁ思考するっていうスフィアをはめる場所が元々無いって言えるよね。まぁ脳機能障害ってことだよね。いや、全てのサバンがそうか分からないけど、まぁ典型的な症状として凄い記憶力はあるんだけど、それを元に何かが出来るってわけじゃないっていう。


それで言うと俺もまぁ脳機能障害はあると思うし、これがようは他人との違いじゃん?それは凄さという意味ではなくてまぁ標準から言えば違う脳を持ってるってことだよね。だからといってそれがすぐに特別とか天才に結びつくわけじゃないっていう、ただ違うっていうことなだけでそれをどう活かしていくか?っていうのは本人次第じゃん?で、それに関して言えば俺はもう自分の違いに自覚的になって自分の特徴を伸ばしていこうっていう育成の仕方にしてるわけだよね。普通になろうとしても無理だから諦めようっつーかまぁあとは普通っつーのが魅力的に見えないしね。


そう思うとまぁ俺って普通であるということの感覚が欠如してるわけじゃん?それはよくさ、社会に出ることで身に付くものだとかって言われるけど、んでも無い人には無いからね。そこの境界線は微妙だよね。無いものを得ることも出来る人もいれば、完全に無い人もいるっていうさ、俺で言えば振る舞い方の真似は出来るけどその振る舞いが自然に生まれてくる感じってのは一切無いんだよね。誰かがやってるしこれが普通だからっていう真似をすることでしか普通らしさを維持できない。だからもうそんなのやめだ!って思ったわけだけどね。まぁその普通とか振る舞いってのを定義すると長くなるからやめるけどね。


で、なんつーかその優しさのイデアが無い人達って本当に哀れだなって思うわけね。結局まぁ性格が悪いってことで友達とかもいないしさ、あとはまぁプライベートでは良い人ぶるっていうかさ、友達が去っていかないような振る舞いをしてるんだけど、それは心から来ている振る舞いじゃなくて、それも本人の一つのサバイブ術っていうさ、ようは去っていかないような振る舞いをするということを意識的にやるということだよね。まぁそういう人の本性が何かのふとしたきっかけでバレるってのがまぁ所謂化けの皮が剥がれるってやつだよね。まぁそういう人達はいっぱい見てきたけど、ああいう連中の優しさってのは本当にただの社会慣習としての真似なんだなってのがよく分かったよね。善いこととされていることを社会的慣習として慣行するっていうことでそれ以上でも以下でもないんだよね。それで自分にアドバンテージが得られるという損得でしか動いてない。でも本当の優しさとか善ってのはカント的な定言的なもんでさ、リターンとか求めないことじゃん?そうあることが普通っていうかさ、そういう風なことをやりましたよとかそうですよっていうことなだけじゃん?俺の場合、親父からこういうのを凄く子供の頃から言われたね。そういう風なことに気がつけたのはまぁ親父のおかげかもしれないな。だって俺ってすんげー死ぬほど性格が悪かったからね。だから性格が悪い奴らの内面が理解できないこともないんだよね。


普段は「そういうやつらのロジックが分からない」っていうけど、んでも元はそういうやつだったから分からなくもないんだよね。だからこそまぁ哀れだなーっていうことも思えるし、彼らの立場に立って分析的に考えるということも可能なんだと思うんだよね。俺が元々善の塊みたいな人間だったらさ、悪のロジックは理解できないはずだよねっていうのがさ、元々善の塊みたいなやつには善のイデアがあって悪のイデアは無いわけでさ、だから無いものは理解できないっていうのが、まぁただ優しいことってのを慣行してる見た目だけの人達とか普通らしくあるということを真似することでしか実行できない人達みたいなのとまぁ同じことになるよね。本質的にはそれは理解不能なんだよね。で、ADHDとかギフテッドとかアスペルガーとかなぜかああいう生来的な精神疾患を持ってる人達ってのは妙にピュアなんだよね。それこそ善のイデアを生まれつき持っているとしか言いようがないような何かってのがある。まぁ俺とは矛盾するけどね。んじゃあなんで俺は嫌なやつだったのか?っていう。まぁそれは子供の頃だったからとしか言えないけどね。それは悪だったんではなくてただのやんちゃさだったっていうまぁ言い訳っぽくなるけど、まぁ自分をコントロールしない感じだよね。それで暴走するっていう。でもコントロールを覚えたADHDなりギフテッドは鬼に金棒だっていうのは色んな本に書いてあるけど、ドンブロフスキーのギフテッドの段階的な成長ってのはなんつーか仏教的っつーかスピリチュアルでさえあるよね。あの自覚と内観ね。


ギフテッドってのはプラトニズム的だよね。知的欲求とかさ、フィロソファー的なマインドを生来的に持っているとかさ、才能とかを生まれつき神から授かったって意味で持っているからまぁギフテッドなわけじゃん?素敵な定義だよね。本当に。これとカルヴィニズムを結びつけて精神的な救済を自分で施しているってのはだいぶ前に書いたからもう繰り返さないね。これで考えるとさ、いや、昨日もね、Strandっつーニューヨークの名所みたいな古本屋があるんだけどさ、そこで大量に本を買ってきちゃったんだよね。春休みもあることだし、まぁ読む本はあるけど、まぁ学校から家の往復だけっつーのもつまらないからっつーんで金曜は5時ぐらいに学校が終わるからどっか寄る癖がついてるんだけど、んでもマンハッタンと言えと俺にとっては本屋ぐらいしか行く場所が無いからさ、だからまぁ買わなくていいような状況でも本屋に行っちゃうんだけど、行くと大抵知識欲に駆られて何か買っちゃうんだよね。で、昨日は凄く爆発してたなと。カゴで買うぐらい買ったんだよねっつってもあの店ってカートとかがあるのが凄いよね。ようは大量買いする人達ってのが当たり前のようにいるんだよね。


で、数学のコーナー見てたらさ、まぁ大抵がわけのわからない高度過ぎる学術的な本ばっかなんだけどね、会話してる学生らしきやつらが二人いてさ、んで会話を盗み聞きするつもりはなかったんだけど、CDプレイヤーのバッテリーが切れちゃっててさ、会話が丸聞こえだったんで聞いちゃったんだけど、賢そうな会話をしてたっていうかコミカレでは聞けないような学生同士の学問に関する雑談が聞けてさ、まぁ然るべき場所に行けばちゃんとしたやつらってのはいるよなって改めて思ったよね。で、その後にさ、リアルラマヌジャンみたいなインド人っぽいやつがカートで買い物しててさ、んで数学のコーナーの本も色々見てたんだけど、わけわからないような高度なやつばっか立ち読みしててさ「うわー!」って思ったね。あれは強烈だった。敵わなさそうなやつって別に他にもいるよなって改めて思ったっていうかさ、まぁ分からないけどね、まぁ俺も別に勉強すれば分かるようになるから、自分が分からないような高度なものを読んでる人って凄い!って見えるじゃん?でもそれって相対的なもんでさ、自分がそういうのを理解してれば「仲間だ」っていうかさ、ちょっと話しかけたくなる感じになるでしょ?数学に関しては素人だからまぁ「すげー頭良さそう!」って見えただけなんだろうけどね。


で、俺が言いたいのはこういうさ、本をカート買いしちゃうようなマインドもまぁ生来的なものがある程度のレベルまで行くと備わってないとあんな風にはならないんじゃないか?って思うわけ。ようは頑張って努力して勉強するとかじゃなくてさ、好きだから学問ばっかやってるって完全に変わり者でしょ?んでその好きの度合いが半端じゃないって後天的に身に付かないもんだよね。俺で言えばまぁ後天的に発見したんだけど、んでもさ、無い人は学問と出会ったって没頭しないじゃん?没頭するっていうことは何らかの素養があったってことだよね?で、その没頭する感じって意味だと基本的に興味があるんだけど知らないことが多過ぎるっていうのを知りたい!って思う欲求ってのが俺を動かしてるなって意味で音楽とかとまぁ学問も一緒だなってことなんだけどね。両者の差はないっていうか、基本的に知識欲だからね。音楽はまぁそのおかげでまぁ広いジャンルのものを聞くようになったし知ってるしまぁそれが俺のミックスにも表れてると思うけど、あの無造作っていうかさ、分別が無い感じって学問でも一緒なんだよね。とにかくまぁ興味があるものに関しては没頭するっていうことだから体系的じゃないんだよね。良い意味でね。節操無いっつーのかな?色んなところにぴょんぴょん飛ぶ感じ?


こういうのってもう脳の構造としか言いようがないよね。こういうのがあるんだからしょうがないっていうことじゃん?おかげでまぁ昔はレコード代とかCD代が物凄かったし、今は本代が凄いっていう。こういう没頭する感じってまぁ全部を知識欲と言っていいかは分からないけど、でもまぁイデア的だよね。元々備わってるものっていうか、無い人には「?」に見えるっていう。俺の妹で言えばさ、妹も音楽好きなんだけど自分から探しに行こうとかさ、調べたりしないんだよね。俺が教えてあげたようなので満足してるっていうか、あそこに違いを感じるよね。妹はまぁ平均的な音楽リスナーで俺は度を超してるっていう。俺はむしろ調べないと満足しないから、ここがすでにイデア的じゃん?生来的な違いっていうか。どっちが凄いとかじゃなくてね。


ってことでまぁあれなんだよね、優しさとか善も同じような感じだったら生まれつき持ってない人もいっぱいいるわけで、だからこそ善くあることを説く宗教とかがまぁもてはやされるっつーとあれだけどまぁありがたがられるっていうかさ、人間を正しく機能させるためのドクトリンっつーのかな?みんな生まれつき善のイデアを持っててそれを行使できたら宗教とかいらないじゃん?みんな善を持ってたらそれこそこの世は極楽浄土になるよね。善の理想郷になる。でも実際そうじゃないしそれは不可能ってのは世界を見ればよく分かるよね。生活圏でもそうだし世界っつーレベルで見てもそう。特にサイモンとかスピーチの先生みたいなのを見てるともう手のつけようがないっていうかさ、善とか優しさとはほど遠過ぎるんでもうさ、「素質が無いんだな」って解釈するしかないっつーのかな?「才能無い」って音楽とか数学とか芸事とかでもいいんだけどさ、これってようはそのままそのイデアが無いって解釈できるよね。備わってるものがないから極められないっていう。これってなぜか芸事とかスポーツとか学問とか音楽みたいな感覚的なもので言われることが多いんだけど、それは「感覚」という意味においてその考え方が成立しやすいからなんだと思うよね。だってさ、「優しさのイデアが無い」って言い方しないじゃん?


でも優しさとか心の善さとかもスポーツとか学問の才能と一緒なんだよね。だから無い人には無いわけ。で、とりわけ無さ過ぎる人は本当に哀れだなと思うのね。スポーツとか学問の才能が無くても哀れだとは思わないけど、優しさとか善の才能が無いっていうのは本当に哀れだなって思うね。そういう意味で善も悪も差はないんだよね。善が尊いことだとされる所以はレアだからだよね。善も悪も平等に存在してて悪を当たり前のように行使する人間達もいるっていうさ、全ての人に仏性があるとかさ、性善説的な考えをするっていうのはまぁ楽観視した人間の見方だよね。そういうのがあるのになんで善い行いをしないのか?ということになるんだけど、世界ってのはもっとある意味で平等でさ、さっきも書いたけど善も悪も差はないんだよね。ただ定義された概念として存在するわけで、どっちが良いか悪いか?なんて概念は存在しないわけ。すげーランダムに振り分けられてるっていうかさ、で、昔から善が尊いとされている理由ってのがまぁさっきも書いた、まぁ俺の考えだとまぁレアだからってことになるのね。むしろそれが当たり前だったら尊いわけじゃないじゃん?レアだから尊いんだよ。ってーことはようは世の中は悪人だらけっていうと言い過ぎだけど善人なんてほとんどいないってことだよね。だからこそ人間にはモラルというディシプリンが必要なわけで。まぁこういう話するとプラトンの国家に出てくる透明人間と指輪の話になるんだけどね、まぁそれはいいか。


世の中甘くないみたいな通俗的な言い方ってようは世の中に嫌なやつがいっぱいいるっていうことだよね?そんなに楽じゃないっていうかさ、理不尽なことをするやつとかいっぱいいるから強く無いと食われちゃうとかさ、社会でやってけねぇーぞってことになるわけじゃん?この言い方っつーか考え方が結果的に社会人になるってことはシビアな環境にも耐えられるようになるということにイコールになって人間が奴隷化するとか善みたいな生温いことを考えなくなるっていうかさ、俺がナイーヴだとかって言われるのはそれだよね。善=甘ちゃんみたいになっちゃうわけだよね。これじゃあダメだろうってのがまぁ俺の意見だよね。社会に適応するってことがイコール小賢しくなるとか狡猾になるってことになっちゃ社会は終わりってことだよね。むしろ社会ってのは善を目指すべきものなわけで、だから俺みたいなやつが甘いナイーヴなやつだって言われないような社会になるほうがいいんだよね。だからまぁ優し過ぎるっていうとまぁ自分を褒め過ぎだけどセンシティヴ過ぎて傷つきやすくて汚い人間に耐えられないってことがダメなんだってことにはならないっていうのは本当に肝に銘じておいてほしいね。社会ではそういうのを負け犬呼ばわりするけど、それは社会が薄汚れている証拠なわけで、薄汚れているからこそ汚れてないやつを排除しようとするわけじゃん?


でもそういうのに適応できないとか耐えられなくなって引き蘢りになるとかさ、メンヘラーになるとかむしろそういうのって人間らしいわけよっていうか善というと大げさだけどヒューマニティがあるからこそ感じられる精神的な痛みなんだよね。それを感じられる素質を持っているというのは薄汚れた社会でやっていくには凄く大変なことになるんだけど、んでもそれは凄い才能なんだって俺は言いたいな。むしろそれは本来的に現状の社会ではなく理想的な社会からはむしろリスペクトされるような人間なんだってことが言いたいね。だから変にアダプトしようとしたり自殺しようとしたり自分を負け犬呼ばわりしたりせずに自分らしく生き続けてほしいって思うよね。俺が前に「耳蝉さんみたいな人が生きているのを見ると励みになります」ってコメントをもらったことがあるけど、これってようは俺が人間らしく生きてるからだよね。それは俺が人間らしさと自由を尊重するからこそ自分の基本としてやっている生き方じゃん?で、それが励みになっちゃうって逆にどうかな?って思うよね。いや、そういったコメントをもらったことは凄く嬉しかったけど、この人がこういうことを書いたってことはこの人の身の回りには俺みたいな基本的な人間らしさを保ったまま生きている人間が多くないってことだよね。すげー悲しいよね。それって。それはコメントを書いてくれた人が悪いんじゃなくて、俺みたいなやつが生きていることが人間らしくレアに見えてしまうというこの現状がどうなのかな?ってことだよね。


だからこそ俺はこれを人間としてのプライドだって考えたいのね。狡猾に立ち回ったりずる賢いことをしたりせずにナイーヴなまま穏やかな人間として生きていくってことを貫徹することだよね。そんなんじゃやってけねぇーぞって言われても、それはいつも書くようにやっていくために汚れないといけないなら俺はそんな風に生きたいとは思わないってことだよね。人間としてのプライドを捨ててまで生きたいと思わないってことね。だからこそ俺は自分が人間らしく生きれる道ってのを模索してるわけじゃん?まぁこういう風に書くとまぁモラトリアムだとか自分探し君だとか青二才とかって言われるんだけどね、でもそういう風に言う人達って大抵がスピーチの先生とかサイモンみたいに本人達は幸せじゃないはずなんだよね。まぁドリームキラー全般そうだと思うんだけど。


俺はあんな仕打ちを他人にしないとか、先生だったらあんな風にはならないとかってさ、そう思えることがもうすでに才能なわけ。善の才能ね。そういう才能を社会でやっていくためっていう理由のために殺したりしなくていいわけね。むしろ社会のために行使するべきものなのが善の才能なわけで。いや、別に俺が聖人だって言いたいんじゃなくて同じ人間としてああいう人間はありえないなって思えることが人間らしいってことね。本人はそうじゃなくてもさ、「ふーん。そういう人もいるんじゃない?」ぐらいにしか考えない人もいるじゃん?で、俺はああいうのを見てさ、自分にもストレスになるしすんげー見てるだけで色んな意味で心が痛むって良い感受性なんだよね。大変だけどんでも価値のある感受性だと俺は思うわけ。だからそれを殺す必要は無いわけね。むしろそれを本当に自分が善だと信じられるならその才能を使って社会にコントリビュート出来るぐらいになればいいわけで。


また聖人風になって来たから最後に俺らしさをガンガン出すとまぁ俺は極端なだからね、ああいう人間が逆に今で言うナイーヴな人達ぐらいね、肩身が狭い思いでやっていけなくなるぐらいの社会でいいと思うのね。性格がねじ曲がったやつらが逆に排除されるみたいな世の中ね。やり手だけど善のヴァーチューが無いんでダメっていうさ、能力だけじゃなくて善っていうところっていうか人間らしさも能力と同じぐらい大切なものとして見られますよっていう社会ね。能力だけを見てるからスピーチの先生みたいなのが跋扈するわけで。ああいうのって仕事とかやらなきゃいけないことはやるタイプだから学校の成績とかすげー良いわけね。仕事もちゃんとするし。だからなぜかまぁ社会的にちゃんとした人ってことになるんだけど、それはいかに善って概念が社会的なステータスとして組み込まれていないか?ってのがよく分かるよね。


能力だけで見てるからああいうのがやり手になったりする。まぁやり手ってほどじゃないけどまぁちゃんと仕事する先生ってことになるじゃん?でも先生っつー立場であんなバッドなヴァイヴを発しているって俺としてはもう完全にダメなことだと思うのね。俺基準で言えばクビだよね。あんなの。どんなに仕事ができようがあそこまで性格が悪いんじゃクビだよね。これは能力主義じゃ出来ないことだよね。能力主義が基本なのは資本主義と一緒で善悪の判断無しに主義の前に来る何かがあるものが勝っていると看做すものじゃん?それが資本であったり能力であったりさ、cardinal virtueとして善が組み込まれてなくて、「カネ」なり「仕事ができる」っていうところだけ見られて判断されるからだから悪が蔓延るんだよね。仕事ができるけど性格が悪いやつよりかは仕事はそこそこで性格が良いやつのほうが勝っているって看做さないとダメだよね。まぁ俺は今の社会基準で考えても後者のほうが勝ってると思うけどねってまぁ優越ではないんだけどさ、例えば人望があるとかさ、その人がいるだけで場が和むとかって直接的に数字とか成果に反映されなくても全体としてみた時に絶対コントリビュートされてる要素ってのがあるのね。でもそういうのを全然考えないで能力とカネだけで考えるから社会から善っていう概念が無くなったりさ、それだけを追求することを必要なことだと定言してやらせるとかさ、そういう基準で社会が回るとかさ、そういうのが最悪なんだよね。そういうのが閉塞した社会を結果的に生み出すことになるし、大量の悪を蔓延らせる原因になるわけ。日本にドリームキラーが多いというのもそういう意味で凄く頷けると思わない?


数値とか具体的な形では良さが見えないからこそ尊さが分からなくなるからこそ善の素晴らしさを説くってのがまぁ古代からのレッスンだと思うのね。数学で言えば数字で表せないirrationalなものが善なんだけど、数字で出ないからってことでどうでもいいことなのか?っていうとそうじゃないわけで。irrationalって書くと「非合理的」って意味にもなるじゃん?善ってそうだよね。合理性から見れば非合理的なこともいっぱいあるけど、それも含めていいわけじゃん?で、俺が言いたいのは結果的に善ってのは広まれば広まるほどね、結果的に数字にも繋がるものだと思うのね。閉塞した社会よりかは善が行き届いてる社会のほうが結果的に数字というところから見ると例えば生産性が高いとか自殺率が低いとか個人消費率が高いとかさ、「社会的にドライに良いこと」とされることですら一見非合理的に見える善からもたらされるものってのが多分にあるわけね。それがさっき書いた仕事ができる嫌なやつよりそこそこできる良い人のほうが結果的にそれは数字にも繋がるってことね。それは狭い会社っていう社会でも同じ事なわけで、これはミクロとマクロみたいな関係だと思うのね。とにかく善ということは掛け値無しに良いことなわけ。それは数字ばかり気にする人ですら数字のための尊重しなきゃいけないものなのね。


irrationalなものが結果的に合理的なものになるってあると思うのね。irrationalに見えるってのはその場を切り取ってしか判断してないわけで、未来像とか全体像を俯瞰すればそれは良いことであるって考えることが出来るようになればそれは逆算して考えてもrationalなことなんだよね。逆を言えば悪がいかに悪いことなのか?ってのが逆算からも分かるよね。まぁだから俺はまぁキラー要素を持ってるよね。悪は許さん!で良いと思うわけ。悪すらも多様な価値観として認めるっていうのは絶対良くない。何を善とするか?っていう問題があるけど、それは別に倫理学とか哲学とかやってない人でも分かるような自明な善ね。単純にズルしないとか優しくあることとかさ、思いやりがあるとかっていうそういうことね。なぜか人間として当たり前のことってのが守られてないよね。それがなんか見た目だけのさ、建前だけのことになってるよね。だから善とか言い出すと「バカじゃねーの?」みたいになるわけ。でも善って人間が人間らしく生きていくために不可欠な要素なんだよね。つまりはそれが社会にも繋がるってのはプラトンとかアリストテレスとかも似たようなこと散々言ってるじゃん?だから善と政治って密接な関係にあるわけね。


だからまぁ俺が言いたいのは政治なのね。ゲバルト無き革命は個々の善のヴァーチューから生まれるんだよね。悪を根絶するとか認めない!っていうある意味で善至上主義的なある意味で偏り過ぎた考え方ぐらいのほうが世の中は変わっていくと思うのね。「まぁそういう人もいるからしょうがない」って考えるのが穏健派ね。俺の親父がそう。「争ってもしょうがない」とかって考えるわけ。でも俺はタカ派だから「根絶やしにするべし!」ぐらいに考えるわけね。そうじゃないと変わらないし、結果的に悪を見逃すことにもなりかねないじゃん?日和見的な人間には絶対なりたくないからね。


でも誰でも争いたくない!って思うからさ、スピーチのクラスでもさ、アメリカ人ですら先生ってことでみんな表面上は従うわけ。それはその先生がコントロールしている領域で逆らえば自分が損害を被ることになるから迎合するんだよね。これって最高の奴隷精神だよね。アメリカ人ですらこうやって組織的なコントロールがあれば奴隷化するわけ。だからこそ悪人は根絶やしにしないといけないのねっていうが悪人みたいなのが小さいものでも権力を握ればそれに付随する被害っつーか社会的な害って凄まじいものになるからね。権力の乱用って本当に酷いよね。人をコントロールできることが出来る位置にある人間ってのはどんなに小さい権力でも善人じゃないといけないよね。まぁそれじゃあ軍隊とか成立しなさそうだけどさ、軍隊を成立させる必要があるのって基本的に悪から身を守るためじゃん?悪に対処する方法だよね。だとしたらその元となる悪を根絶やしにしちゃえばいいじゃん!ってことだよねってまぁナイーヴ過ぎるけど理想論的にはそうだよね。それが可能であれ不可能であれ人間ってのはそういう世界を願わないといけないんだよね。


「無理だから」という理由で諦めたらそういう世界は永遠と成立しなくなるわけで。俺はそういう世界を願いつつ権力志向でいるんだけどね。そういう世界を願うからこそ権力志向になるのね。リアルに変化を求めようとすればそりゃー権力志向になるよね。善によって統治できたら最高だと思わない?俺はそれ経験したいんだよね。自分が別に首相とかにならなくても、例えば何かを束ねるみたいな立場にいて、んでそれを善によって束ねることが出来たらどうなるか?ってのを見てみたいね。それは別に先生でもいいんだけどさ、自分が善い教師だったら生徒はどう反応するか?っていうか、クラスがどんだけ良いものになるか?って自分の善を試せるじゃん?善の利用だよね。それに対する波状効果はどういうものなのか?ってのを経験してみたいね。それは単純に思いやりがある先生とかボスってことじゃなくて、先生として教えることはちゃんと教えつつ善を維持するっていうとアレだけど、機能として果たすべきことは最低限満たすっていうのを最低条件にしないとダメだよね。


そうじゃないとただのナメられる教師にもなりかねないわけで、明らかにクラスの邪魔をしてるやつとかがいたら締め上げてもいいわけ。それこそ権力を利用して「今日はお前は欠席扱いね。次やったら落とすから覚悟しておいてね」っていうようなことだよね。これもクラスの進行という教師も生徒もその空間で共有している共通善という概念から悪を閉め出すということが共通善にコントリビュートするということでそれにおける権力の利用は良しとするわけね。それは乱用ではなくて必要な利用なわけで。だからこそ善のヴァーチューを持った人がどんな大きさでも権力を持つというポジションなら、そういう人がならないといけないわけ。どう権力を使うのか?というのも善という基準から導きだせる人じゃないとダメってことね。


こういう形而上学的なことってさ、例えば人工知能の開発とかが可能になれば調査できるようになると思うのねっていうのがさ、例えば俺という人間を完全に数値上でシミュレートできるとしてさ、んで俺がこういう場所にこういう状態でいたらどういう行動をするだろうか?っていうのをテスト可能になればいいんだよね。ようは俺はセックスに興味が無いと言っているけど、こういう外見の人とこういう個室で一緒になって、んで精液もそこそこ溜まっている時であったらそのシミュレートされた空間において俺シミュレーターは本当にセックスをしないのか?ってさ、可能世界的なことが全部トライ可能になるよね。これで言えば社会のstate of natureの予想も立証可能になるし、政治的予想とかも全部シミュレートできるようになるよね。当然細かい相違はあるんだろうけど、でも大枠は把握できるって強くない?すげー強いよね。これ出来たら最高だなって思うね。


前に貼ったdeadliest warriorっつー番組はさ、過去の侍とかバイキングみたいな戦士をシミュレートして仮想空間上で闘わせるってことだけど、まぁ実質的に取れてるデータって武器データだけじゃん?それを元にシミュレートしてるんだろうけど、実際は侍のスキルとかさ、人格とかそういうのも全部シミュレートしないとシミュレートしたとは言えないよね。武器だけで見ればこっちのほうが弱いかもしれないけど、例えば少林寺のモンクってのはトレーニング量が尋常じゃなくて感覚とか素早さとか全てにおいてその辺のバーバリアンよりかは優れてるみたいな要素も全部数値化できないといけないよね。こういうのが可能になって始めて社会科学って可能になると思うのね。可能世界を予想して科学的にシミュレートして取れたエビデンスからそれを科学とするということね。でも実際の社会科学って似非科学だよね。全部想定じゃん?どんだけエビデンスがあっても現実に対して例えば物理学みたいな厳密な科学足り得ないんだよね。シミュレーターがあって始めて社会科学ってのは成り立つよね。そうなれば俺は絶対未来でホッブズの言っていた万人の万人に対する闘争ってのが科学的に証明されるときが来ると思うのね。


だって凄くない?色んな民族とかさ、年齢とかの人達のエミュレーターを仮想空間内で走らせて振る舞いを見れるってさ、凄まじい科学だよね。殺し合わないだろうって思ってた人達も納得させられちゃうよね。ただまぁこの民族は比較的すぐ強奪に走るけどこの民族は最後まで抵抗しなかったとかさ、個人差とかもいっぱいあるにしても、それは文化とか民族の違いで出てくると思うよね。まぁそれがまた違う倫理問題とか政治問題を生み出すのは目に見えてるけど、んでもシミュレーターはあったほうがいいね。War Gamesっつー映画が示唆的だよね。まぁ表面的な戦争ということに限って言えばだけどね。んでもなんか俺が生きてる間にそれは見たい気がするな。そのシミュレーターをいじってみたい気がする。気がするっていうかいじってみたいよね。で、まず必要なのは人間を理解するってことだよね。今回話した事の総括みたいになるけど、人間を理解できればさ、いかに善が尊いか?みたいな形而上学的な話もエビデンスとして立証できると思うんだよね。俺は全部想定の中で話しているけど、善がもたらす全体への効果ってのを証明できればそれって凄いよね。逆に証明できなかったらダメなのか?って話にもなりかねないけどね。でも全部悪より良いに決まってるよね。逆に全部悪のほうが世の中は成立しやすいということがシミュレーターで分かったら、それを善にreplaceするにはどうしたらいいか?ってのを考えられるじゃん?それが数値だけで物事を考えない人間の良いところじゃん?そういうのも含めて善って必要ってことなんだよね。


ってことで終わりです。ハイ。




Strandで買ってきた本の一つなんだけどかなりオススメです!イアン・スチュアートの本は基本的にどれもいいね。