ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

概念と対応関係。

mimisemi2010-05-31

概念全般ってオントロジーで言えば微妙だよね。数学のオントロジーってまぁ人類が滅亡しようがなんだろうがまぁ存在するっつーかさ、そういうのとは関係無い次元に存在してるっつーかまぁ概念として存在してるわけだよね。まぁそれを存在と呼ぶとプラトニックになるけどそれを言えばこのウォール伝だってさ、まぁウォール伝は存在してるよね?でも例えばこれを読む人がいなくなったらっつーかさ、いや、読まれる可能性がゼロになったらそれは存在しているって言えるのか?ってことだよね。


つまりは人類が滅亡してもネットのデータだけ残ってるんだけど、そもそもそれが読まれるってことがもう完全に無くなるって意味でそれは知覚されないという意味で存在とは看做されないよね?客観的に言えばウェブ上のバイナリデータとして存在しているっていう知覚とかとは関係無いドライなデータとしてそれは存在していると言えるんだけど、んじゃあ仮にそれすらも無くなったらそれってどうなるのか?ってことだよね。まぁ無くなるよね。でも有って無と両立しないとダメじゃん?パソコンが故障してout of orderなのはパソコンが無いと成立しないっていうoutだよね。まぁ無とは違うけどさ、言いたいこと分かるでしょ?


無いって言えるのは在るからあると言えるっつーかなんつーか。金が無いって言えるのは金ってもんがあるから無いっていう概念が存在できるわけだよね。まぁでも金もルールみたいなもんだから無いと言えば無いよね。それ言い出すと全部無いんだけどね。中道みたいになるけどね。言語ってまぁ記号でしょ?だからまぁ国によって違うわけだ。で、言葉ってのはまぁ概念とか具体的なものに対応させるものとしての記号だよね。今書いてるこれも記号の連続なわけで。で、簡単なのが猫とか椅子みたいなもんだよね。まぁ猫がいない国ってあるかもしれないけどまぁ大抵はあるから猫という存在に対応した言葉ってのは色んな言語で見つかるわけだ。


でもこれってただの対応関係だよね。縁起とか諸行無常みたいなのに西洋の言葉が対応しないのは西洋圏に基本的に仏教が存在しなかったからだよね。逆もまた然りで西洋哲学的な言葉ってのは東洋に伝わって来なかったからっつーかまぁいつまで?ってのは分からんけどまぁ当て字を使うしかなかったわけだよねって別に暴走族のヨロシクを漢字で書くみたいな当て字じゃなくて無かった概念に既存の概念から対応させるってことだよね。江戸時代だったかにオランダに留学してなんかを学んできた人が「カテゴリー」って言葉に範疇って言葉を当てたとかさ、まぁ当てるってことだよね。


で、その「範疇」って概念が人間とは別に存在しているか?って多分無いよね。それはまぁモロにman madeな概念なわけでさ、数学とは違うよね。でも範疇っつー概念も数ってもんも知覚されない限りそれは存在しているとは言えないんじゃないか?って意味で概念というものの存在自体がある意味で人間を前提としないと成り立たないもんだと言えなくもないよね。まぁ卵が先か鶏が先か?みたいな議論になるけどね。知覚されたり概念としても看做されないものの存在ってどう規定すればいいのかな?とか思ってさ、まぁそれってだいぶ前にさかのぼるけどね、まぁ俺の音の疑問でさ、今思えば俺は昔は音に関する哲学っつーか思索をしてたんだなってことでまぁ思索って意味であんま今もやってること変わってないんだよね。


今はまぁちょっと数学ってのがマイブームになってるだけで素材が変わってるだけで態度は変わってない。あ、んでその音の疑問ってのはね、誰もいない山中でなんかの表紙に小石が湖に落ちて鳴った「チャポン」という音は存在した音って言えるのか?ってことだよね。それは鳴ったのだって事実があればそれは知覚されているという意味で存在しているって言えるけど、音なんて知覚されないところでいくらでも鳴ってるじゃん?で、それらの音は存在しているのか?って言えるのか?ってことだよね。


いやね、俺が初歩的な独我論に陥ってるのは分かるよ。でも存在ってまず独我論に立たないと規定できないよねってなんかフッサールみたいだな。まぁ方法論的独我論だよね。現象学で言うと微妙に違うのかもしれんけど。Existence precedes essenceってサルトルだけどさ、でもそのexistenceって何なのよ?ってことだよね。あ、んでカントのコペ転て言うとまぁ存在とかさ、物ってのを人間は認識できなくて人間の認識ってのが現象を作るってことだよね。でもそれで言うと数学だって同じなんじゃないの?人間の認識ありきのパラダイムなんであってさ、まぁそれでもちろん色んな事が記述できるから神の言葉みたいな感じの雰囲気になるけど、例えばさ、全てのものはもう知り尽くされたっていうか解明され尽くされたっつー世界があったとして、その世界での人間の日常的な言語と万物を記述する数学との違いって何なの?ってことになるよね。


言語も結局概念を記述するためのもんなんであって数学も結局一緒なんじゃないの?っていう。数学の神秘性って分からないことが多過ぎるから神秘的なんであって仮に全てが解明尽くされたらその神秘性って失われるんじゃないかな?まぁそんなことは無いと思うけどね。まぁ全てが解明され尽くすなんて事自体がそもそも考え辛いっつーかどういうことなの?って感じになっちゃうけども。


それってエルデシュの冗談のさ、The bookだよね。神という名のSupreme Fascistが持っている本に全ての数学が記述されているっていう。で、まぁある人間がそれを覗いたりすることができる機会があったりして、んでまぁそれを論文として書いたりするっていうさ、で、俺が言いたいのはその神にとってのその本だよね。当然神はその本に対して神秘性なんて感じないわけで。そもそも自分が神なんだから。神秘性って分からないものに対する畏怖の念だよね。あとはまぁ感嘆とか憧れとかね。それはまぁ不完全な存在じゃないと抱けない感覚だよね。あとさっき書き忘れたんだけどさ、猫とかっつー抽象度が低い実体が目に見えて分かる存在の言葉って簡単でどこにでも存在するけど難解で抽象的な概念になると対応しなくなるんだよねっつーか対応しなくなるものもあるってことだよね。あとはまぁ文化とか宗教に依存した言葉とかね。


まぁそれはともかくさ、認識され得ないものの存在だよね。つまりは。俺が言いたいのは。まぁ円周率みたいなもんだわ。その全体なんて誰も分からないんだけどさ、でもまぁ無限に続くということだけは分かってるわけじゃん?まぁだけとは言わないけどさ、でもまぁ無限って知覚され得ないもんだよね。でも数学的言語で記述はできる。まぁだからカントールって凄いんだけどね。俺が言いたいのはさ、例えば数学の発見ってまぁ考古学みたいなもんじゃん?誰も知覚してない古代遺跡ってのが地中深く埋まっててさ、んでまぁ将来なんかの拍子に発見される可能性もあるんだけど、まぁ数学の定理も一緒じゃん?まぁこういう古代遺跡みたいなもんだよね。


でも無限っつーかさ、知覚され得ないものの存在を規定するものって何?っつーとやっぱ認識なんだよね。数学的思考法でそれを理解するってことだよね。概念を理解することと無限を数えるとか円周率を全部言うとかって違うことだからね。まぁ全部言うなんて無理なんだけどさ、俺が言いたいのは理解はできるけど具体的な知覚は無理っていうさ、いや、概念としてしか知覚できないって意味でまぁ数学全般全部一緒だとは思うんだけど、それでさっきの話に戻るんだけど、誰もいない山奥で鳴った音が存在していると言えるんか?っつーのもまぁつまりは概念として存在しているとしか言えないんだよね。だって何かがあれば音って発生するわけで無響室とかじゃない限り音が存在しない場所なんて無いじゃん?あったら行ってみたいと思うけど、でもまぁなんつーかつまりは想定だよね。音が存在しないという場所は宇宙とか異次元とかじゃない限り実質的にありえない。従って山奥で発生している音というのは存在するっていうことだよね。自明なことなんだけどでもこれって概念だよね。実体ではない。


まぁ音って実体じゃないけどでもまぁ鳴ってる音ってあるわけでさ、まぁそれが幻聴かもしれない可能性はあるんだけど、そういう話はともかくとしてまぁそれは音だって理解できる音じゃん?つまりは認識が介在する音だよね。でも認識が介在しない実体とか音ってのもあるわけだよね。それがどっかに埋もれているであろう古代遺跡だったり山奥の音だったり無限だったり発見されていない数学の証明とかだったりするわけだよね。全て質は違えどどれも認識は今の所は介在していないとかこの先も介在する事は無いという意味でまぁ想定によってのみ成り立つ存在だよね。で、それを存在と言えるのか?ってのがまぁ問題なんだけどね。


人類が滅亡しても数ってのはあるし、人類によって知覚されなかった音ってのもまぁあったことになるよね。ウォール伝もデータが仮に全部消えてもまぁあったことになるわけだけど、んでもそれはあったという事実から想定できる過去の存在だよね。で、忘れられたらどうなるのか?っつってもあったもんはあったわけでさ、そこにつまりは知覚が介在しなくなった存在ってのが成立するわけだよね。成立っつーと大げさだけど。ともすれば知覚されてない存在なんていくらでもあるわけだよね。そんなの考えりゃ当たり前のことなんだけどさ、でもそれを「存在」という言葉に当てはめるには認識が必要なんだよね。つまりはそれは認識の介在ということなんだけど、ただ存在においては人間の認識というのは必須ではないってことだよね。そんなもんが介在しなくても存在するもんは存在するわけでさ、でも人間っつーある意味で閉じている有限のシステムみたいなのから外部的なことまで言及できないってことなんだよね。そうなるともう抽象的な形而上学とかにならざるをえないみたいなことになるんだよね。


そういうのはナンセンスだからやめようっつー考えもあるけど、まぁやめないんだよね。ステレオタイプかもしれないけど科学的態度ってあるじゃん?科学者は形而上学はやらないとかバカにするみたいな。ああいうのって科学っつーものに依存した思考停止だと思うんだよね。まぁそれはいいか。でも確かなものを求めようとしたらそれは全てを認識に委ねることになるよね。で、人間の認識なんて限られてて認識が届かないところもあるわけでさ、そういうもの以外の存在は排除しようっつーと言い過ぎだけど、あんま考えないことにしようってまぁーこりゃーダメだよね。なんつーかそれって諦めなんじゃないかって思うわけね。「確か」って事もまぁ概念だからね。人間において言える概念ね。存在そのものから見たら何言ってんだ?って話なわけで。


あ、んでね、電気とかにしてもまぁ知られてなかったものの存在を証明してなおかつそれを物理現象として利用しようってことでまぁ発明っつーよりかは発見だよね。まぁ電気を利用して何かをしようってのは発明だけど、んでもそれも電気とか人間の生活っつーか電気を利用するっていうことから見てすでに閉じられたシステムの中で作り出されたものなわけでさ、例えば全てのものの組み合わせとか考えたらまぁまぐれでそういうのが発見されたり作り出されたりする場合もあるんだよね。おそらくまぁエジソンがやってたのってこういうことじゃないかと思うんだけどね。知識は無くてもまぁ組み合わせみたいなもののバリエーションを絞って試行錯誤みたいなね。Experimental Mathematicsってのがあるけど、なんかエジソンと同じ匂いを感じるんだよね。


The Computer as Crucibleっつー本があるんだけど、まぁ実験数学についての本なんだけどね、でもデタラメやってるわけじゃなくてある程度の理論から何かを想定してとりあえずコンピューターで数値を出してみるみたいなことね。もちろん数学の理論的なことはさっぱり分からんけどね。高度過ぎて。でも面白いんだよね。数学の理論が分からないけど概念なら理解できるって結構最初からあるのよね。一見矛盾してるように見えるけど、そこで何が起こっているのか?とか何をしようとしているのか?っつーのは分かるのね。でも詳しい理論的なことについては分からないってことね。つまりは建物を理解するのと建物の構造とか細部を理解することの違いみたいなもんだよね。かといって俺は理解なんて大体で良いなんて言うつもりは一切無いけどね。だからまぁ俺が数学者としてやっていくかはともかくとしてとりあえず知りたいから数学やるってことだよね。まぁ数学「も」やることにしたって感じか。興味があるのに細部を理解できないって歯がゆ過ぎるからね。


なんか書いてて思ったんだけど久々になんかオントロジカルなエントリーを書いてるなって気がするけどなんでか?っつーと明らかで学校が終わったからだよね。くだらないことをやらずに引き蘢りを続けるって俺にとってはやっぱ生産的なんだよな。まぁ別にお金になるようなもんは何も生産してないけど考えるって意味だと一人でひたすら居るってことが凄く効果的なんだよね。あとはまぁ単純な事とかくだらないことをやらないってことだよね。世の中には少しぐらい哲学者とは言わないまでも考える人ってのが存在していいと思うんだよね。それはアーティストも一緒だよね。別に発表とかしないけど絵は描いてるみたいな人ね。社会性とそれを結びつけるかはともかくとしてまぁ社会性って結果だと思うのよ。まぁ少なくとも俺にとってはね。創造というプロセスにおいて社会とか他者が関わるってことも多いだろうけど、まぁそうじゃないこともあるよね。両方あっていいわけだ。まぁ俺は創造というほどのことをしてるつもりはないけど、まぁいつかはやりたいなーとは思ってるよね。それのためだけに生きてるようなもんだからね。まぁイデアに向かって生きるみたいなことだよね。非現実的かもしれないけどさ、でも無限が存在するからにはやっぱイデアも存在するわけよ。だから俺はイデアを信じるのね。夢然り。


絵もまぁすげー細かく言えば色んなもんの組み合わせだよね。それはブリコラージュって意味じゃなくて色んな色とか線とかの組み合わせって意味で絵っつーのは一つの個体ではあるけど、んでも解体すれば色んな要素の組み合わせだよね。だからといって創造性が無いとかって言ってるんじゃなくて、イデアルなものを絵の具とか言語とかで記述することができるって事自体が素敵じゃん?まぁそのイデアルが大量殺人だったりすることもあるんで手放しにそれが良いことだとは言えないけどね。で、そのイデアルなものの組み合わせって無限か?って言われると本当の無限から比べれば有限じゃん?色のバリエーションとか絵の曲線とか無限ではないよね。実質無限だけど厳密に言えば有限ってことね。で、まぁ悪夢は人が描きそうな絵なら大体まぁみんなもう描いちゃったってことだよね。音楽然り。まぁ音楽とか絵がそうだとは言わないけど、んでももっと先にどうなるのかな?って気はするよね。


書ける絵が出尽くした世の中なんてのがあるのか?っていうさ、まぁそんな中で天才ってのはいつでもいるけど、んでも昔の天才ってまだその時点でやられてなかったりしたことをできたから天才って言われる場合もあって、だからまぁ今って天才が出にくいってのはあるよね。昔だったら天才と言われていただろうけど今は発見された事とかもう成されたことが多いからむしろフォーカスを「成されていないこと」に置いて何かをやらなきゃいけないっていうまぁある意味でしがらみだよね。で、俺が言ってるのはその成されてないことが無くなっちゃったらどうすんの?ってことだよね。


なんつーか人々のためになる労働とかが限られてる現代ってまぁこういうことだよね。金が必要だから仕事とかビジネスってのをねつ造するんだけど、んでもそれは本質においては別に必要とされないものっていうかさ、必要とされるものなんて衣食住なんだからさ、あとはもう剰余だよね。で、その剰余ですら成されるようなことはもう大企業がやってたりさ、元は誰かの発見とか発明だったりしてもまぁそれって大企業が囲い込んだりそれ自体が大企業になったりするじゃん?そんな中でまだ誰もやってないことってのにフォーカスし続けるとなんか突飛なことしか残らなくなる気がするんだよね。音楽なんて本当にそうだよね。そういう人いんのよね。誰もやってないことってのにフォーカスし過ぎてわけのわからないことになってるっていう。そういう意味で俺の悪夢は自分の音楽だ!って思ってたもんが余裕で既存のもんと変わらなかったってことだよね。


しかも音響系とかエレクトロニカみたいなのと同じような時代に同じようなことをやってたっつー滑稽さだよね。こんな中で「いや、似てるけどアンビエントのつもりでやったつもりはないんです」って言ってもアンビエントにしか聞こえなかったらそんなのどうでもいいことだもんね。才能の無さってこういうことを言うんだろうな。まぁ中途半端なのかな。自分の才能の無さに絶望することってしょちゅうあるよね。悲しいよね。本当に。無くはないけど凄くもないって生殺しで結構辛いもんがあるよね。だったら最初からないほうがいいみたいに思う事もあったりなかったり。


だからまぁあんま世の中とは関係無い自分進行のものをやるしかないんだよね。世の中とかぶることなんていくらでもあるからこそニッチとかを見つけずに自分ペースでやっていけばいいっていう。仮に俺が受験始めたとしたら浪人になるけど俺はスローニンになりたいね。素浪人じゃなくてスローニンね。FF5の敵の名前の表示のところに漢字が使えなかったのかなんなのか「サムライ」とか「ゲイシャ」っぽい西洋的な感覚の東洋の感じを出す結果になってるよね。スローニンって。駄洒落のSlow人ってことじゃなくてFF5的なスローニンなんだよね。なんかひたすら言葉の響きとか表示に依存する概念みたいな。意味分からないか。まぁ俺しか分からないと思うね。これは。


いやね、イデアルなもんを現実的なものに対応づけるって言葉とか数に特化したことじゃなくて概念全般に言えるんだよね。だから文学とか絵画とか音楽も芸術だけど数学も芸術なんだよね。ただなんかね、音楽の場合、特に俺の場合は色々と聞いたことによって自分のやりたかった音楽とか作りたかったようなイメージに近いものが俺が作るよりももっと良い形で実現されてたりなんかするってことに気がついたりなんかしてさ、だからまぁいつも書くようだけど俺がやる必要が無くなっちゃったんだよね。まぁまだあるけどね、んでもそれもある程度作っちゃったんだよな。あるってもんはある程度作っちゃってるから作るもんが無くなるのよね。結構寂しいよな。これって。


つまりはイデアルが無いと何も作り出せないってことだよね。逆を言えばイデアルがあれば99パーセントの努力でそれは実現可能になるわけ。で、数学で言えばさ、恥ずかしいしナイーヴ過ぎて言えないけどね、でもあるのよね。これってどうなの?っていう。それが証明されてようがされてまいがそれをとにかく数学的に記述したいんだよね。これってまぁ数学的正当性はともかくとしてイデアルはあるじゃん?バカの思いつきかもしれないけどさ、でもまだあるからいいよね。だからやりたいってのはあるよね。知りたいのもあるけどやりたいってのもある。それがつまりは最初の話に戻るんだけどね、実際にそれがあるかを見なくてもあるだろうと想定できるってことはそれはあるってことなんだよね。まぁ数学とか科学で言えばあるだろうってことでまぁ頑張るんだろうけどまぁある意味で錬金術みたいなのと同じなのかな。今の俺で言えば錬金術レベルかもしれないんだけどさ、んでも「あーただの錬金術だった」って思えるのでもいいじゃん?無理だってことが分かるってこともまぁステップなわけで。今はそれすらも分からないんだよね。だからまぁ分かるようにしようよと。


その割にそれ一筋で他が見えなくなるってほどやってるわけでもないんだけどね。one of themとしてあるって感じか。いやね、俺のまず最初の目的としては「あるだろう」と完全に想定できるぐらいになることだよね。山奥で音が鳴っているだろうってまぁ別に特に知識が無くても想定できるじゃん?でも数学はそうはいかないよね。その想定のためにはまず数学っつー世界の法則を知らないといけない。で、その上で「あるだろう」って想定できればまぁそれに取りかかれるかもしれないってことだよね。まぁ逆に無理だっつーかさっき書いた錬金術だったっつーのもまぁ数学の世界の法則を知れば分かるでしょ。多分。


そんなの無理だよとか証明されてるよとかって分かっちゃったら嫌じゃん?まぁ分かったほうがいいのかもしれないけど、せっかく見つけた面白そうなことなわけだから俺自身でそれは知りたいってことだよね。その知る課程で得られるものってのがたくさんあるだろうからまずは目標を持つことが重要なんだよね。今無理だとか分かっちゃったらそれへの情熱って無くなるかもしれないじゃん?まぁそれだけじゃないけどさ、んでもそれが大きな原動力の一つなんだからさ、それを維持し続けるためにも答えは今は見ないって選択を取ったほうがいいんだよね。そっちのほうが楽しいからね。ワクワクするっつーかなんつーか。


今の俺の留学で言えばアメリカへのナイーヴな憧れっつーのもあったからまぁこっちに来てさ、んでまぁこっちに来れたことで直接的にアメリカとかこっちの学校から得たということではなくて、そういう中にいることで経験したり成長できたりしたことっていっぱいあるわけでさ、これが重要なんだよね。数学で言えば数学っつー世界を探検することでこれまたアメリカと同じような経験っつーと変だけどまぁそれが軸になって様々なことを経験したり成長するきっかけになったりっていうさ、それを得たいよね。結果だけじゃなくてプロセスの中で得られるものってのが大きいわけよ。まぁあとはやっぱ知りたいっつー欲求はいいよねってことだよね。素晴らしいっつーか空虚な人生を満たしてくれるものだよね。知識欲って。別に俺はアメリカでセレブになりたいとかって言ってるわけじゃないわけでさ、現実に立脚してるでしょ?だからまぁその辺のなんつーか完全な妄想と夢の区別ぐらいはついてるってことだよね。


こないだ全部が虚しいって書いたけど結局やっぱそれを克服するにはっつーかそんなのに目を向けさせないのが知識欲だよね。あとは考えるってことね。こればかりは俺が俺でなければできないことだからさ、ある意味でまぁ社会にとってはって意味じゃなくて俺にとっては俺だけしかできないことじゃん?だからまぁやるのに価値があるよね。価値っつーと変だけど、生きる事に意味を与えてくれるものになってるわけだよね。つまりは。


ってことで今日はこの辺でやめにしようかな。まぁなんつーかあれだよね、その世界の事がある程度分かってれば想定できることってあるじゃない?それは数学でも同じなんだよね。でも今の俺にはその数学の世界の事が分かってないから分かる必要が在るんだよね。まぁ必要があるっつーか分かりたいっていう欲求がメインなんだけどね。で、ある程度分かった中で俺の想定が成立するかしないかが分かるじゃん?でもそれは分かってからでいいんだよね。分からない中でとりあえずテクニカルに無理ですとかって言われてもなんで無理なのかが分からないわけで納得いかないよね。どの道。できるにしてもできないにしても理由が分からないと納得できないよね。


カントールって無限についてだけ考えてたわけじゃなくてさ、当然、数学の世界のことを熟知した上で色々なことが想定できてそれが主流になったわけじゃん?つまりはベースにあるのは知識だよね。その世界を知るための知識っつーのかな?だから全体を知る必要があるんだよね。そうじゃないと全てがあやふやなままなわけで。それがつまりは山奥の音と同じってことだよね。聞こえなくてもあるってことは知識から言えるわけじゃん?だからまずは世界を知ることが大事になるんだよね。そうすると今は見えない存在も見えるようになるかもしれないわけで。つまりは存在ってそういうことだよねってことね。認識が介在しないと存在とは言えないけど、でも認識を能動的にその存在に近づけることはできるよね。まぁ手がかりがあるものならね。で、その認識と存在が重なったときにそれを「ある」って言えるようになるわけだよね。


ってことで今日はこの辺で。