音楽性ってそもそも何なの?っていう。

高柳と阿部のやつがすげーお気に入りなんだがさ、必ずこういうものに対してある批判があれだよね、こんなのめちゃくちゃやってるだけで誰でもできるとかさ、デタラメ的な批判ね。いや、それに関しては前に書いた気がするし、なにより今日書きたいのはあれなんだよね、もっとそういう批判より納得がいかないやつなんだけど、それがなにか?っていうと基礎ができててノイズとかフリーに行ったんだったらいいけど基礎すらもできてないやつのフリーなんて聞きたくないとかそんなのデタラメだ的な意見ね。あとはアートリンゼイみたいなギター演奏はちゃんと弾けてる上でああいうことをやっていれば凄いみたいな。


こういうのって究極的な矛盾だよね。こういうことを言うやつらの論理って本当にあれなんだよ、そいつらがいかに音楽を音として聞いてないか?ってことだよね。つまりは理屈だとかそれが録音された歴史的背景だとかさ、音そのものじゃないじゃん?仮に出てる音がすげー好きでね、それがノイズであれフリーであれ普通の演奏であれなんでもいいんだけど、そこにギタリストなりまぁ演奏者がさ、ジャズの基礎をできてるか?とかさ、普通の音楽は演奏できるのか?とかさ、ちゃんとした作曲はできるのか?とかって関係無いよね。めちゃくちゃおかしいじゃん?なんでアートリンゼイのギターはアート本人がギターを弾けていればあれは凄いってことになるのかさっぱり分からんよね。


いや、だって例えばLounge Lizardsの1stがなんでいいか?ってやっぱ俺はアートリンゼイのギターがあるからだと思うんだよね。あれがすげーアクセントになってるじゃん?そんなのどんだけ控えめに見たって明らかだよね。俺が主観的に好き過ぎるのは分かるけどね、でも客観的にも絶対アクセントになってるってのはあるじゃない?で、あの良さって音でしょ?やっぱ。変なギターノイズが入ってるっていうアクセントじゃん?でもそれがはピーガー系ではなくてメロディとも言えるような言えないような変なリズム感で刻まれている変な音のギターっていうさ、すげー独特のもんでしょ?だったらまぁ唯物論的にそれを見ればっつーか聞けばいいじゃないって思っちゃうわけ。つまりは俺が言いたいのは観念論的に音を聞くなんて間違ってるってことなんだよね。


だってさ、プレイヤーが演奏できるかできないか?なんて観念じゃん?実際の出ている音に対する関係性というのは観念的にしか理解できないよね。つまりはライナー見るなりネットを調べるなりしてさ、んでまぁもちろんね、ああいう時代にああいう音で凄い!みたいなさ、そういう評価もありなんだけどさ、それってまぁ一部じゃん?例えばシェフェールのCDとか頻繁に聞かないよね。あんなもん博物館的資料価値しかないと思うんだよね。ミュージックコンクレート作品としては全然他に面白いのがあるわけでさ、歴史的価値とかオリジンって以外で見たらっつーか聞いたらまぁ何にもないよね。すんげー退屈じゃん?


だからまぁなんつーか俺のシェフェールに対する評価とかってまぁ主観的っつーか観念的な評価だよね。それは歴史的評価とかまぁミュージックコンクレートのオリジンとしての評価とか色々あるんだけどまぁ全部後で色々読んで知ったことから出ている評価なんであってさ、まさしくまぁ解釈としての歴史だよね。別の音そのものを評価してるわけじゃないし、それで言えばケージだってそうだよね。ケージで好き!って言える作品なんてはっきり言ってないからね。せいぜいまぁロアラトリオぐらいだよね。そういう意味でまぁすげー観念的なわけだ。


でさ、阿部薫とか高柳昌行の話になるけどさ、高柳みたいにジャズギタリストとして超一流で色々と突き詰めてきた結果、ノイズとかインプロに至ったのかさ、それとも最初からノイズやってるのかさ、パンク的な衝動でノイズやってるのかさ、そんなのって音の前では意味がないことじゃん?問題は出ている音なんであってその人の個人史とか関係無いよね。いや、高柳ってまぁ物語的に凄いんだよね。行き着いた先が音の極北でした!みたいに言いやすい履歴を持ってるっつーか。でもさ、解体的交感でも集団投射でもいいんだけどさ、両者がどれだけジャズをやってきているか?とかさ、音楽ができるのか?って関係無いよね。


まぁあれは控えめに見ても強烈でめちゃくちゃに聞こえるかもしれないけどでもパワーが半端じゃなくて誰でもできるという感じはしないけどさ、でもまぁめちゃめちゃだっていう人はいそうっていうかまぁでもそれってめちゃめちゃじゃん!ってつまりは音楽やってないじゃん?っていうさ、勝手なそいつの音楽っていう観念からその音への評価が定まってるんだよね。いや、それがさっき書いた基礎云々ってことにも繋がるんだけどさ、いや、でもまず音を聞けよってことじゃん?まぁ俺は元々ノイズ好きっつーかそれはノイズミュージックというよりかはああいう音質の音が好きなんでね、だから彼らのコンテキストとか関係無しにあれをいきなり単体で聞いて感動するみたいなことがあるんだけどさ、いや、これでいいんじゃないの?って思うんだよね。で、今は阿部薫にせよ高柳にせよ他のやつも聞いてるんだけど、でもまぁ俺の解体的交感でも集団投射でもどっちにせよ音に対する評価は変わらないよね。あれはあれで独立して凄いわけだからさ、仮に今後この二人に関する知識が増えたところであれは凄いままなんだよ。それこそがまぁ音そのものを聞くってことなんじゃないかな?ってことだよね。逆を言えば俺がこの二人を知った後であれをダメだって言い始めたらそれは観念的なものによって評価が変わったってことになるよね。


まぁその時の気分とかさ、10年後でもなんでもいいんだけど好みは変わるよ。根本はあんま変わらんけどでも変わるところもあるじゃん?そういう意味でその時々での評価っつーか好き嫌いは変わるけどさ、でもそれはその時の好みっていうことが軸になってるわけでさ、高柳が凄いジャズのギタリストとか阿部薫はめちゃめちゃやってるように見えて色んな楽器をちゃんと演奏できましたとかさ、そういうことが評価の軸になるわけじゃないってことだよね。で、なんつーかさ、音そのものを追求していくとやっぱ晩年の高柳みたいになると思うんだよね。あとは灰野さんとか。


もうフォーカスされているところが音楽というよりかは音そのものになるんだよね。音そのものが軸になって、んでそれをいかに出すか?とか表現するか?というところで楽器なりフォーマットなりという選択が生まれるっていう。いや、高柳のギター4本とかテープとかなんとかっていうKeith Roweみたいな感じで演奏してるやつあるじゃん?あれってもう天然でチュードアのレインフォレストになってる気がするんだよね。いや、だからまぁ最初からフォーカスされているところが音な音楽家なんだったら最初から音楽の形体がああいう場合ってのもあるわけだ。それがまぁようは音響とかノイズ寄りの音楽ってことになるよね。Keith Roweなんかは最初から音そのものっていうアプローチだったんだろうね。分からんけど。


もちろんまぁね、いきついた極北みたいな世界の方法論だけが形骸化されてさ、スタイルとして演奏されるとかってまぁ俺は個人的に嫌いなんだけどさ、でもまぁ音はやっぱ出ている音で判断するべきだよね。だからそいつが何かのコピーをやっているのかオリジナルでやっているのか天然でやっているのかさ、そんなことは関係無いよね。とりあえず出ている音が凄ければいいんじゃない?ってことだよね。別にそれは轟音だろうが綺麗な音楽だろうが関係無いよね。いつも言うように俺にとってのアンビエントってムード音楽だからね。あのやかましくないやつね。


ムード音楽にも色々あるじゃん?おとなしめの方向性のJackie Gleasonとかだよね。煩いムード音楽もあるんで。それってさ、俺にとってムード音楽が通俗的でダサイもので1ドルとかで売られているゴミみたいな音楽っていう社会的なコンテキストとか関係無いんだよね。それ自体で聞いてまぁ全てではないけど、俺にとってはすんげースペイシーでドリーミーに聞こえるムード音楽だったらさ、それはもうそれで俺にとってはすげーいいんだよ。まぁJackie Gleasonは評価が高くてレコードとか結構良い値段ついてるけどね。俺がレアグルーヴのカルチャーが好きな理由の一つにこの音自体への個人的な評価ってのがあるんだよね。


ゴミと言われてきたB級ファンクとかB級サントラみたいなのをかっこいいじゃん!っつってフロアでかけちゃうみたいなさ、結局まぁその発掘と提示によってレアグルーヴっつージャンルが生まれるわけだけどさ、まぁスタイルと化したレアグルーヴってまぁスタイルと化したノイズ音楽とかと一緒であんま興味ないけど、んでもまぁオリジンはノイズにせよレアグルーヴにせよ似てる気がするんだよね。両方とも分野は違えど音そのものにフォーカスしているっていう。モンドもそうだよね。


俺がムード音楽好き!とか言ってる感覚はまぁ世間的に言えばモンド的な感覚なんだと思うけど。レコードは相当売ったけどモンド系とかムード系はほとんど売ってないな。お気に入りのは全然売ってない。まぁそれだけ今でも好きってことだね。他はかなり売ったけど。でもまぁ俺はモンド好きだとは思ってないんだよね。モンドって言われる感覚のものを愛好する人達と似たような感覚を持っているってだけでさ、モンド好きってことではないよね。だってモンドにも色々あるからね。ジャンルで聞いたりしてるのもまぁ観念的だよね。「モンド聞こうかな」とかってモンド聞いてるなんてまぁそれって所与のモンドっつー作られた概念の中での音楽を聴いてるだけでさ、すげー観念的じゃん?


それこそまぁデスメタルとか聞いた後にマーティンデニーを聞くみたいなさ、このジャンルの無さっていうか音という観点から見ればジャンルなんて関係無いという観点こそ俺は音楽的だと思うんだよね。それは聞く側の態度なんであって音楽そのものに音楽性は内在されていないと思う。それは内在されていても発見したりそれを評価するのはリスナーだからさ、音楽性なんてものがあってもそれはまぁ一般的な概念だよね。だって俺にとってはさ、普通の人には全部同じように聞こえるかもしれないノイズとかでもやっぱ音楽性があるやつと無いやつとかってまぁ俺的には全然あるんだよね。かといって別に必ずしも音楽性があるやつが良いというわけでもないし。


あとはまぁ前にも書いた気がするけど現代音楽の電子音楽みたいなのでさ、コンテンポラリー過ぎるっつーかアカデミックな道を進み過ぎて音がわけわからなくなってモンドみたいになってるのとか好きなんだよね。アカデミックなコンテキストでの評価なんてどうでもいいんだけど、んでもそういうのがちょー真面目な理論的な追求から生まれたものだったりするとなんかウケるじゃん?まぁこれは観念的なところだけど、でもそういう面白さってまぁモンドなんだよね。だからリスナーの数だけモンドの定義があると言っていいと思うんだよね。で、それは結局まぁ概念を広げてしまえば音楽性とかってのも同じだと思うわけ。例えばまぁさ、例がないけどアカデミックなんだけどゲテモノにしか聞こえないようなやつをモンド的に楽しんで聞くってまぁ俺の世界だけで通用する世界観じゃん?


まぁそれを「これモンドですよ!」って薦めたりするのもいいんだけどさ、そういうまぁ個人的なものだよね。モンドのコーナーには置かれてないけど俺が店主だったらモンドとして売るかなっていうようなさ、そんな感じだよね。で、まぁそれは音楽全般そうなわけでさ、だからなんつーかそのね、音そのものっていう観点から見ればさ、それがアカデミックだろうがさ、いかにもなモンドらしいバカバカしいコンセプトで真面目に作られたレコードだろうがさ、出ているのはノイズにしか聞こえないんだけどやってるのは超一流ジャズギタリストの演奏みたいなレコードとかさ、そういうのって全部二次的なもんでさ、音から見ればはっきり言って関係無いとさえ言えるぐらいのものだよね。


もちろんそういう二次的な情報があることでさらに理解が深まるとか楽しめるとかっていう情報が補助的な役割を果たす分にはいいと思うんだけどさ、ジャズ弾けるのか弾けないのか?とかさ、ちゃんと音楽理論を勉強した人なのかそうじゃないのか?とかで評価が変わるなんてバカバカしいってことだよね。全然現前している音を聞いてないじゃないかって思っちゃう。


まぁ人の数だけ音楽に対する解釈が色々あるからいいんだけどさ、特に阿部薫みたいな音楽家に対する批判ってどれも俺にとっては的外れなものに見えるんだよね。なんで激情したサックスを吹いたらいけないのか?とかさ、さっぱり分からないよね。批判が。まぁそんなの見なきゃいいんだけどさ、ただああいうのって個々の音楽観みたいなのが凄い出るんだよね。そこでジャズのイディオムがどうのとかさ激情型過ぎるとかさ、そういう的外れな意見とか見るとそんな感じで音楽聞いてんのか!こいつは!とかって呆れちゃうんだよね。ホント、これは個人的な引っかかりが昔からあるんだよね。


割とまぁ10代の頃から色々作ってたからさ、んでよく言われたんだよね。ちゃんと音楽とか音楽理論分かっててこういうのやってるならいいけど、何も分かってないでやってるならただのめちゃくちゃになっちゃうよ?とかってさ、本当にすげーそういうそれこそこういう意見そのものがわけがわからなかったわけでさ、俺的には作った音でそんなもんmake senseするじゃん?音がすでにあるわけだからそれが音楽理論にどう関係があるのか?とかさ作ったやつが音楽理論を熟知しているのか?とか全然関係ないよね。んでもまぁ俺は弱かったっつーかまぁ反抗的ではあったけど今ほどしっかりとした意志を持ってなかったから結構そういう意見に流されたりしてすんげー一時期フォーマルな音楽へのコンプレックスがあったんだよね。そんなんで留学するときは大学行って音楽理論を徹底的に学ぶ!みたいなことをマジで考えてたわけで。いや、それが5年前とかだからそんなに昔の話ではないよね。まぁ結構昔か。


俺が音楽理論を学ぶとすればそれはすげー作りたいような音が理論を駆使しないと作れないような類のものだった時にはやるだろうね。まさしく今昔は全然興味無かったギターに夢中になってるかのように出したい音があるなら絶対それを出そうとするよね。そのためのテクニックとかメソッドが音楽理論とかちゃんとした演奏とかだったらさ、まぁそりゃツールとしてやるよねってことだよね。でも今の所は全く必要性は感じないからやる理由もないんだよね。まぁ必要なのはエフェクターとかアンプとかギターの知識だよね。音楽理論とか全然関係無い。でもまぁ音は昔からいじってたから素人ではないからさ、まぁ音作りのベースがギターみたいな感じになってるだけでさ、音をいじる感じってのは一緒だよね。だからまぁ違和感無くやれるんだと思うよね。それこそ全然新しいことを始めた感が無いんだよね。それこそ俺の数学が哲学とかの学問の延長上に存在するようにギターもまた音楽とか音作りっていうことの延長上に存在するだけで全然違うことではないんだよね。結局は一緒っていう。


で、ギターで言えば俺が出したい音って意味でもギターのベーシックな奏法をできてたほうがやりやすいし幅が広がるってところでちゃんとしたギターもやりたいんだよね。ただちゃんとチューニングしたやつは妹に譲ったからまぁなんとかしなきゃいけないんだけど。適当に手を動かして出た音を即興とするのは俺は凄く嫌でさ、鼻歌的に浮かんだフレーズとか頭の中にある音ってのを忠実にギターで出すっていうさ、それをやりたいんだよね。例えば阿部薫とかジョンゾーンみたいなサックスの感じをギターで出したいとかさ、それってやっぱ技術あったほうがやりやすいんだよね。それこそ頭で浮かんでる音とかフレーズと手の動きとか弾き方が対応してなかったら俺の中でめちゃめちゃになるからね。そういうのでやったやつって客観的に見ればどれもノイズで一緒なんだけど俺としては全然違いがあるんだよね。だからまぁ俺の中でのめちゃめちゃとちゃんとした音との差ってのはあるよね。それは客観的に両方ともめちゃめちゃなんだけど、まぁそんなの関係無いじゃん?自分が出した音を出せればいいんだから。


ってことでした。やっぱなんつーかホントに書きたいことに関してはすげーよく書けるね。久々に調子が良い感じで気持ちいいね。ギターもそうだけど凄まじいスピードで指を動かすって行為に俺は快楽を感じるんだよね。で、タイピングも適当な文字を打つよりかはこうやってちゃんとした文章と言っていいかは分からないけど、まぁ一応文章として成り立っているものを超高速でガーッ!って書くのが気持ち良くてさ、それはギターも一緒なのね。いや、適当に指を動かしてタイピングしてるのでは快楽が無いのと一緒でギターもただ適当に弾いてるだけじゃ全然気持ちよくないんだよね。最初はまぁ珍しさみたいな感じでさ、そういうのはあったけどさすがにこれだけ触ってるとそういうのは無くなるよね。


ってことで。