気分の波が激しいですねぇ。最近は特に。

こないだ久々にここにたまに書き込みをしてくれる画家のyokoと飯食いにいったというか毎回ごちそうになっているわけだが、色々と哲学談義的なものをできたり、なにより彼女が現在哲学かで学んでいて、しかも俺はあんまり知らないギリシャ哲学の特にソクラテス以前が好きらしく、その辺のソクラテス以前の哲学者の話とかを色々聞いたりして、なんかすげー勉強になっちゃったんだな。うん。


いや、で、今日書きたいことはさ、いつも謎に思っている気分障害なんだけどさ、まぁ躁鬱というレベルではないんだけど、でもまぁ心療内科の先生曰く、鬱状態から抜け出すとスッキリした感じになって何でもできるように感じるみたいな全能感が生まれるらしいんだが、それはともかくとして、yokoに聞いたところ「はっ!」としたのがさ、つまりは俺がハイテンションでギターを弾いたり何かを書いたりしている時のようなハイな状態っつーか躁状態みたいなのがあるからこそその流れとして鬱が来るってことなんだけどね、つまりは精神のup and downを安定させるような薬を飲めばまぁ落ち着くらしいんだけどさ、でも俺的に言えば躁の時の生産性ってのが凄く好きなんだよね。


まぁ別に生産というほどお金とか仕事に繋がっているわけではないんだけど、んでもまぁ大抵読書が異常にはかどる時はハイな時だし、ウォール伝に長文を書くのもまぁ程度の差はあれ調子が良い時だしさ、んで今日とかはもう気分的に最悪だったりして、また最近ちょっと調子悪い流れになってるんだけどね、んでもまぁいきなり夜中から調子良くなったりしてまぁ不安定なんだけどさ、この調子良くなった時のハイな感じが好きだからさ、それを安定させたらなんか俺ってある意味終わりじゃね?って気がしてくるんだよね。


あの躁状態の時の生産性とか集中力があるからこそなんつーか一時的に超人っぽくなれたりするわけでさ、あれが無くなったら俺はマジで普通の人になっちゃうなぁーっつーかまぁ普通から考えての普通にはならないけど、でも俺的にはそれは結構普通になるってことでつまらんのだよね。いや、例えば今日みたいな体が動かなくなるレベルの急激な鬱状態って凄く苦しいんだけどさ、でも調子が良い時の感じって好きだからなんかそれを求める限りしょうがないことなのかな?って思ったりしたんだよね。だからまぁ俺って普通の仕事とか無理なんだよね。人間関係が無理とかってのも経験的に腐るほど経験してるからまぁまずその辺行っても無理ってのがあるけどさ、仮に良い職場であったとしてもこの気分障害があったらコンスタントに仕事するとかって無理だもんね。だから躁状態の時を活かした何かをするしかないんだよね。


特にストレス要因とか無いのにも関わらずずーっとこの波ってあるんだよねぇ。別に日本に帰ってきてからパワーが落ちてるとかじゃなくてあっちでもずーっとあったんよね。それこそそういう悪い調子の時に学校で嫌なこととかあったりしたときはもう本当に大変だったけどさ、まぁそれに比べれば今はマシだけどね、でもなんとかならんのかなぁー?とか思いつつ治したくないと思う自分もいるんだよね。鬱状態を常に抑圧しつつ躁状態だけは確保したいんだよね。これってそもそも治すものなのかな?と。いやまぁそりゃー大抵の人が毎日大変でもまぁそんな気分の変動は無いわけじゃん?「いや、そんなの誰にでもあるよ」とかってよく言われるっていうか言われそうだけどさ、いや、そういうレベルじゃないんだよねぇーってのが理解されないっつーか理解してもらおうとも思わないんだけどね。この体が動かない感じって分からんだろうな。体が動かなかったら出社なんてできないわけでさ、普通に生活できてる人が言う「そんなの誰にでもあるよ」なんてまさしく誰にでもあるレベルのものなんであってさ、俺が言ってるレベルではないんだよね。


でもそういうのって見た目とかで反映されたりしないからね、だからメンタル系の人は大変だよね。でも俺はこれを病理だとは思ってないんだよね。脳の特徴っていうかさ、それこそ長所もあるじゃん?いや、俺の場合ってことね。調子が良いときの俺は凄いと自分でも思うのよね。それは例えば今日みたいに調子が悪くて何も出来ない時とかに相対的に思うってことなんだけどさ、でもまぁ調子が悪いときは休んでればいいじゃん?で、調子が良い時に何かやればいいわけでさ、でもこういう生活の仕方って許されないんだよねぇー。いや、実家では許されるけどさ、一般的にはそうじゃないじゃん?仮病って言われたらそれまでみたいな。でもさ、いや、それって重要だよね。休みたい時には休んで調子が良い時にやるってさ、そういうバイオリズムって人によって色々あるじゃん?


それに従って個々がやっていったほうが全体的な生産性って上がると思うんだよね。決まった時間に出社するとかさ、なんかまぁそういうのってあるじゃん?まぁそんなのは常識なんだろうけどさ、それって大半の人の中での常識なんであってさ、そうじゃない人はどうすればいいの?ってことだよね。そうじゃない人用の出社の仕方とかがあってもいいじゃんね?まぁフレキシブルなんたらみたいなそういうのはあるみたいだけどさ、でも実際まぁ大半の人が疲れてると思うんだけどね、それってまぁ本来の人間のバイオリズムに合ってない生活をしてるからだよね。そんな疲れた中でやってることの生産性って非常に疑わしいと思うんだよね。特に日本ってやたら労働時間が長い割に生産性が低い事で悪名高いけどさ、それってこの異常なまでの意味無し長時間労働っつーか、もしくは人間の本来のバイオリズムに反したことをし過ぎている結果の一つなんじゃないか?って思うんだよね。


俺は精神的にまぁこんなだからこそ思うのかもしれないけど、「人生って大変だ」みたいなのに激しく疑問なわけ。これもただのイデオロギーでさ、「大変なのは当たり前」という前提に人間らしい生活を送れないことがもはやもうデフォルトであるみたいなさ、そういうような非人間的なロボット的な生き方をさせるためのイデオロギーなんじゃないのかな?って思うんだよね。本当に。なんでそもそも大変じゃなきゃいけないのかがさっぱり分からんよね。なんでみんな生活に追われなきゃいけないのかさっぱり分からん。生活のために生きるなんて意味無いと思うんだよね。


まぁ幸せな生活のためだったらいいけど空虚な生活のためだったらまぁ生ける屍だよね。そんな風なことに気がついてさ、別にまぁ生活はしていけるけど毎日が辛いだけで空虚だってことで自殺するとかってすげー分かるんだよねぇ。最近さ、超マイナーなミュージシャンの自殺を知ってさ、まぁ去年とかだったんだけどね、まぁだいぶ前で言うといくつかあったんだけど、なんかやっぱみんな生活のためだけの生活とか労働になっちゃったんだろうなぁーとかって勝手に思うわけですよね。で、どんどん活力みたいなのが無くなってきて音楽すらもできなくなっちゃうみたいな。


それをよくなんかさ、まともな食事すらも得られないほどの国なんかと比較してさ、十分贅沢なのになんで自殺なんかするんだ?なんていう風潮とかもあるけどさ、なんつーかそれってレベルが違うんだって。生存で大変なレベルと実存で大変なレベルって違うわけでさ、あと死ぬぐらいの覚悟があれば何でもできるとかってよく言われるけど、そんなのお門違いもいいところなんだよね。何でもできるようなパワーが無いから死ぬんだよ。みんな。死ぬ事でしかこの生き地獄を終わらせることができないと思うから自殺するんであってさ、それは消極的なわけでさ、死ぬ気になればなんでもできる的な意味での死っていうのはそれこそ特攻的な意味じゃん?ヤクザの鉄砲玉が死ぬ気で他の組の事務所に殴り込みをかけるみたいなさ、そういう死のベクトルと消極的自殺は全然違うよね。そこをごっちゃにできる人は幸せもんだよな。自殺者の気持ちなんて一生理解できないんだろうなって思うよね。非常にお気楽な人達だなって思うけど、俺は絶対あんな人達みたいな感受性にはなりたくないって思うよね。死んでもそんなのは嫌だなと。


まぁなんつーか常に死を意識して生きるんだよね。少なくとも俺はね。なんでもできるというよりかはやれそうなこととかやりたいことは徹底的にやっていつでも死んでオッケーぐらいになるまでまぁそれを極めたいっつーかさ、やれるときにやらないとダメだもんね。今の俺はそれが可能だからまぁ特攻的なwant to玉砕も可能だなって別に気分が鬱だろうが躁だろうがそれは常に思うよね。


まとまりが無い感じだけど、他のもっとまとまりがないやつに比べたら全然いいですよねっていう。



阿部薫の自殺を事故扱いする輩が多い気がするんだけど、ブロバリン97だか98錠なんて明らかに自殺でしょっていう。全然ベクトルは違うんだがhideの自殺もなぜか事故扱いしたがる輩が多いよね。もっとなんで彼らの実存的葛藤に理解を示せないのかさ、理解しろとは言わないけど、彼らの選択を尊重することって大事だと思うんだよね。事故扱いしちゃいけないでしょ。いや、それは自殺全般そうなんだよね。それだけ彼らの中には理解できなくても凄まじい自殺を選んでしまうぐらいの葛藤があったわけでさ、そこをなんつーか感性的に鈍いやつらが「事故だった」とか「死ぬ事なかったのに」とか言うのってどうかと思うんだよね。いや、それは阿部薫っつーよりかは自殺全般に関してそうなんだけどね。あ、んでhideの自殺の理由が実存的葛藤だったかは分からないんで阿部薫と同列には語れないんだが、ようは自殺を認めない事故死扱いってのが自殺者の自殺という選択に対する尊厳ってのを犯してるっていうことになるわけね。