ハーバード白熱教室見たんだけどさ。

エントリー全体通して「白熱講義」って書いてるけど「白熱教室」ね。


サンデルの白熱講義が7話から終わりまでやってたんで一気に見たんだけどさ、やっぱ相変わらず気に食わないのがあのスタイルなんだよなぁー。いや、全面的に俺はサンデル先生良いと思うんだけど、道徳系の問題とかを出すときにさ、殺人犯及びギャングの弟がいるマサチューセッツの知事だったか政治家だったかさ、そいつが仮に知っていても弟の居場所を教えたくないとかって言ってたのとさ、ルームメイトがカンニングしてたけどそれを通報するかどうか?っていうさ、まぁ分かるんだけどね、でもこれってさ、政治哲学っつーよりかは前にも書いたようにTPO依存の問題じゃん?はっきり言ってサンデル講義でやられている半分ぐらいのことは講義にも度々出てくる「選択の問題」だよね。そこに普遍的な道徳律やらルールなんて存在しなくてさ、そのコンテキストに適した判断をそこに介在する判断するものが下すしかないじゃん?


まぁサンデルのやつは学部生に向けての講義だから議論のレベルを低くしてるとか分かりやすくしてるってのは当然あるんだろうけどね、でもまぁ本質的なことが語られないのが惜しいなって思うんだよね。まぁああいう身近な問題とか実際あった問題とかを題材に政治哲学のモチーフみたいなのを講義形式にするっつーさ、まぁストーリーテリング的な政治哲学講義だよね。結局でもやっぱ帰結はなんつーか多元的な社会を目指すっていうさ、ここのアクセプタンスっつーかまぁ多様な価値観を認めあうということってのがまぁなんつーか帰結になってさ、そこはムフ的なまぁ闘技的民主主義ってことに行き着くわけだけど、結局それってさ、政治哲学者が抱きがちなロマンなんだよねぇー。


ああやって上昇志向がある人間がハーバードとかに行って白熱している分にはいいんだけど、それってまぁしょうがないけどすげークローズドな世界だよね。それこそあの講義を理解できない人間が大半な訳でさ、実際、サンデルのベストセラーになってるやつは話題的な意味で売れてても、ガチのサンデルの政治哲学の本とか難しくて売れてないわけじゃん?売れてないっつーか読めないんだよね。時間が無いというエクスキューズもあるけど、まぁ理解できないって人が多いと思うんだよね。


ドラッカーのマネージャーのやつが売れてもガチのドラッカーはさっぱり読まれないとか理解されないっていうさ、まぁこれって別に日本に限ったことじゃないよね。アメリカだってまぁ俺は庶民が通う学校に行ってたからよく分かるけどまぁ酷いんだよ。考えないやつは徹底的に考えないし、そもそも考えても無駄というレベルの人達が多いわけでさ、つまりは政治の不可能性じゃん?啓蒙とかが不可能な人達が大半という中で政治をどうしていくか?ってさ、個々がアクセプタンスの幅を広げるとか、多様な価値観を受け入れつつ自分の考えと照らし合わせて思考を成熟させるみたいなさ、まぁ分かるけどそれってのがようは哲学者のロマンなんよね。それこそアリストテレス的な世界観で言えば雑事をやってくれる奴隷がいるから小難しいことを考えることが出来る有閑階級の連中があーだこーだ言ったり哲学やったり政治やったりするっていうさ、でも現代って大体まぁみんな必要に迫られる奴隷じゃん?前にアレントのやつで書いたマルクスの話だよね。


それは俺が前に批判したさ、生まれつきのどうしようもな奴隷気質のやつらはもうしょうがないっていうレベルの奴隷ではなく、社会構造とかからくる必然性による生存権のための必然性っていうことの労働だよね。それが人間活動を阻害して人を非政治的な人間に貶めることになっちゃうっていうさ、それはね、俺が批判したいのは元々頭が悪いやつとか奴隷気質みたいなやつらはしょうがないとして、暇があればなんかやるだろうって人達も必要以上にその必要性に縛られ過ぎていて脱政治化されているという現実があるわけじゃない?いや、前に書いたBIの話にも繋がるけど結局まぁ本当の政治性っつーかさ、民衆が政治を担うということを実現させたかったらまず人間活動を阻害している過度な必要性からくる労働を無くすことだよね。もしくは軽減させるっていうか。


こういうことを長ったらしく書いたりするやつが俺みたいなニートみたいな生活してるやつしか出来ないっていうことが問題なわけよ。いや、時間があってもここまで長文をダラダラみんなが書くようになるとは思わないけどでも政治的なことに関心を持ったり本をディグったりってことをするようになる人っていると思うんだよね。忙しいからっていう言い訳が無くなったときに人間的な活動をするようになる人は多くないかもしれないけどいるだろうね。そうなった時に始めて民主主義の可能性ってのを吟味できると思うんだよね。これだけみんな生活に追われてたら哲学とか政治どころじゃないからさ、基本的にみんな奴隷になっちゃうじゃん?そういう余裕の無さからくるconflictなんてのは大抵が生存権に必死な利己的な態度からくるものになると思うんだよね。洗練された哲学的議論なんてできるわけない。


「政治なんて暇人がやることだ」ってまぁ例のあの人が言ってたことだけどさ、まぁ言えてるよねってのも前に書いたよね。庶民感覚だと本当にそういう感じなんだろうなっていう。サンデル先生とかハーバードの生徒は地頭もあるしなにしろバイタリティがあるからさ、ああいうトピックに向かうパワーとかってのがあったりするけど無い人が大半じゃん?無い人が大半だからこそコメディ番組の司会とかが何億とか稼ぐようになるわけじゃん?みんなが哲学的なディベートをできるようになったらサンデル先生がマイケルジョーダン並に稼ぐようになると思うんだけどまぁそれはまず無理だよね。そういう社会は来ないよね。俺は政治哲学者全般の民衆への過度な期待とか一般化ってのがすげー嫌いなんだよね。だったら一回コンビニとかスーパーでバイトしてみればいいんだよ。まず功利主義とか言っても通じない人達ばかりだしさ、関心が無い人達ばっかなわけよ。そこはチョムスキーみたいなド左翼も一緒だよね。妙にピープルに望みがあると思ってるっていうかさ、でももうそこは無理じゃん?それは無理ですねという前提で話し始めないと政治哲学って始まらないと思うんだよね。


で、そんな前提で話し始めてる数少ない哲学者がレオ・シュトラウスとかだったりするんだけど、ああいう考え方だからポピュラリティが無いよね。哲学のポピュリズムで言えばやっぱ「みんな考えよう!社会のために!善い生のために!」とかって言えるサンデル先生みたいな人のほうがウケるんだよね。シュトラウスがああいうポピュラーな講義をやれるとは思わないよね。アランブルーム然り。両方もうとっくに死んでるけど。かといって別に俺は政治哲学の議論とかが出来ない人を馬鹿にしてるとかってのはないんだよ。これは向き不向きの問題でさ、俺は明らかに肉体労働とかウェイターとかさ、レジ打ちとかまず向いてないじゃん?それは経験から言えることだよね。会社出勤とかも無理だし雑事とかも得意ではない。でも思考は得意だと思うんだよね。またこういうことを言うと「なんでそんな程度のもので「得意」なんて言えるのか不思議です」みたいに思う人がいるかもしれないけどさ、まぁそういうことを思う人の為に言えば俺が得意なことなんて少ないわけ。で、数少ない得意なことの中で考えるってことはまぁ得意なほうだと思うわけ。そりゃー世の中にはもっと凄い人はいるけど、俺の能力値で言えば得意なほうに入るわけね。そういう意味で「得意」なんです。


いやさ、民衆への過度な期待に帰結を置く限りそれはいつまで経ってもデリダみたいな来るべき民主主義になっちゃうんだよね。絶対来ないけどいつかは来るだろうと思ってやる思想とか哲学みたいなことになっちゃう。そうなるとどんどんリアリティから乖離していってさ、政治哲学ってもんが机上の空論みたいになっちゃうんだよね。そうじゃなくて俺はもっと政治哲学って科学的な強さを持ってると思うわけね。それこそサンデル先生が最初の講義で言ってたようにさ、既知のことを知るってことでまぁなんつーかパラダイムシフトってのが訪れるんだけど、でもそれは一般的な考え方とは相反する場合もあるかもしれないっていうさ、そういう突き抜けちゃう感じが政治哲学だと思うんだよね。だから政治哲学って突き抜けきらないと意味無いわけ。そこで変にポリティカルコレクトネスみたいなのを介在させてさ、例えば民主主義を絶対のものにしたりね、民衆に過度な期待を抱いたりさ、所謂、政治的に「コレクト」なものを保ったまま政治哲学なんてできないわけよ。


そんなもんコモンセンスと既存の政治哲学のパラダイムの中を行き来している無駄な思考だと思うんだよね。そうじゃなくて政治哲学ってさ「うわー!!グロいなぁー!!現実!!」っていうのをexposeしちゃうもんだと思うんだよね。だからこそソクラテスの時代からの伝統であるさ、cityとphilosopherの対立だよね。プラトンの洞窟の比喩で言えば洞窟の中の囚人と哲学者ってことになるんだけどさ、でもコモンセンスを変えるということは無理だと思うのね。それこそ通念を変えるというのは難しいし、変える先ってのがアンポピュラーなさ、すんげー常識に反するようなものだったとしたら絶対ポピュラリティ得られないじゃん?社会主義とかがウケが良かったのはさ、良さげな理念とかユートピア思想があったから受けたんだよね。夢見がちな人達を熱狂させるだけのパワーがあった。まぁ9割ぐらいが誤読とか勘違いだったわけだけど、んでも本来の政治哲学が持っているすんげー殺す感じっつーかさ、デスな感じっつーか妖刀村正みたいな感じってポピュラーにならないよね。


「善き生」とか「革命」とか「人間解放」みたいなのじゃないとウケないんだよね。まぁ俺は、労働とか過度の必要性からの解放っつーマルクスの最終的な革命ってのは絶対達成させるべきだって思うけどね、でもそれってone of themで政治哲学全体ではないよね。政治哲学全体で言えばすげーアンポピュラーなもんになるわけよね。でも真実ってそんなもんだと思うのよ。認めたくないような汚いものが真実だったりさ、それを受け入れたらどうにもならないみたいなのが真実の残酷さだよね。でもそれをいかにして受け止めつつ善い社会を育んで行くか?っていう前向きなやり方をしないと話が進まないと思うんだよね。「政治を担うのはそう、テレビの前の貴方です」みたいな茶番をやってるんじゃーいつまで経っても変わらないわけで。


あとさ、サンデルが言いたい善とか道徳って結局なんかね、俺が思うにさ、プラトンの言う哲学王が導きとして必要とする善のイデアみたいな話だと思うんだよね。相対主義的でもない歴史主義的でもない刹那的でもない普遍的な善とか正義とは何か?みたいなのを問うてる気がするんだけどさ、いや、そんなのは無いですよとかってのがまぁ例えばウォルツァーの道徳だったか善の定義にもあったじゃん?それは場所とかコミュニティとか歴史とか文化に依存する相対的なものであるっていうさ、まぁもう手のつけようがない相対主義になるわけだけど、でもそこをサンデルは良しとしないでなんか普遍的な正義とか道徳とか善みたいなのを追求しようとしている感じがあるけどさ、その態度はいいんだけど、現代的なポリティカルコレクトネスという枠組みにハマり過ぎてしまっていてさ、道を誤ってると思うんだよね。例えばそれはアリストテレス奴隷制を肯定していたという話をする時に「これは凄く寂しいことなんだが」とかって前置きを置くじゃん?ああいうコモンセンスな常識人的な感じって政治哲学者には致命的だと思うんだよね。


「いや、ありかもしれないね」って言えるぐらいの度胸とかさ、ポリティカルコレクトネスとかね、自分のポピュラリティとか社会的地位なんかを失ってまでもマジなことを言うみたいな態度が無いとずーっと煮え切らないままの来るべき理論に依拠したまま終わると思うんだよね。まず奴隷制は肯定してはいけないっていう暗黙の了解があるじゃん?それに準じてるのはもうダメだよね。いや、ダメだって誰が決めたんだ?っていうさ、そりゃー道徳の問題で昔みたいな非人道的な奴隷の扱い方とかはいけないけどさ、大量の労働しかしないさ、アメリカで言えば不法滞在の移民なんかが実質的に奴隷の役を担ってるわけじゃん?で、アメリカはああいう大量のまともなアメリカ人じゃやらないような仕事をやる不法滞在移民がいないと経済成り立たないわけじゃん?ってことはもう実質的に奴隷制みたいなもんに社会が支えられてるってことだよね。ってことはまぁ結局奴隷を必要としてるってことだよね。


それは日本でもそうじゃん?奴隷奴隷って言うけどさ、奴隷が一番合ってるって人だっているわけじゃない?何も頭ごなしに奴隷は否定できないよね。それこそ社会に必要な奴隷だっているわけでさ、まぁ現代で言うところの低賃金労働者だよね。でも彼らは生活に必死過ぎて小難しい政治哲学の本なんて読んでる暇もなければさ、もしくはそういう奴隷がやるような仕事しかできないからそういう仕事をやり続けるしか無いって人達もいるわけでしょ?それって現実じゃん?「そんなことない」とかって逃げたらダメだよね。リアリティを全部受け止めなきゃダメだよね。で、そういう人達はアメリカであれ日本であれ結構な数存在しているわけだけど、でも社会を担っている一員だよね。でも啓蒙は無理っぽい人達は多いわけ。そこをどうするの?ってことじゃん?いや、もうここですでに民主主義とかってありえなくなると思うんだよね。東浩紀が言うような1万人単位ぐらいの民主主義ってのは現実味があっていいけどさ、人口何億みたいな国を民主主義でやっていくなんて無理だよね。


だから俺はいつも言うように中間団体主義が国家に依存し過ぎない社会形態としていいと思ってるんだよね。まぁ社会がブロック化していく感じだけど、でもそれはデカい社会っつー中に存在している旧来のものと違って独立してるところだから価値観の多様性とかさ多元的なものを育める可能性とかって少なくとも今みたいな悪い意味で全体主義的な社会よりかはあると思うんだよね。それこそメンヘラーがやっていけるような団体とかさ、普通なら社会に入れないような人達もスタートできるような団体ってのが色んなところにあったほうがいいじゃん?今の日本は社会の形体として行き詰まった資本主義的な社会主義の国って意味で本当に末期だと思うんだよね。もう本当にクソ社会だよね。


まぁでもね、そういう社会を構築していくにもね、別にそれは民主主義の元で行われる必要性は無いし、それと政治的ディスカッションって別なんだよね。個々の団体の構造を作れる人はそりゃー居るけど、それはまぁ極めて俺が定義しているエリートに近い人達だよね。いや、官僚とかって意味じゃなくて市民エリートね。まぁリーダーだよ。ホントに。いや、俺が言いたいのはさ、それを別にみんなの合意の元でやる必要は無いってことなんだよね。やりたかったら市民エリートが勝手にやっていっちゃえばいいと思うわけね。で、そういう市民エリートが作った団体のセクターみたいなところで少数のその団体における政治的な討議ってのはあると思うんだよね。それがまぁ少数だから可能な民主主義だよね。あーなんか例によって定型のアナーキズムっぽくなってきたからやめようかな。


それで各セクターの代表が利害関係なんかを他の団体との均衡点を見つけていきつつ最終的にそこで形成される民意みたいなのが全体の政治に対する総意になるっていうさ、なんかSFとかでよくあるA地区B地区C地区みたいな感じだよね。市民の一票一票というよりかは民主主義が可能な規模での討議の結果をまずはその人達が属する団体の総意として出して、で、他の団体の総意とまた吟味を重ねていってそれが最終的に国民全体の民意になるってことなんだけどさ、まぁこれだと政治っつーよりかは利害関係の交渉とかになっちゃうよな。でもこんな小規模民主主義の世界ですらも人々が討議できるっつー前提があるからね。いや、出来ない人多いじゃん?何も分かってないセレブに憧れる有閑マダムみたいな高級ニートみたいな主婦とかもいるわけじゃん?だからまぁ無理なんです。討議は。


討議がありえるとすればああいうハーバードの学生同士のディスカッションっていうさ、まず知能レベルとか意志のレベルがああいうところまで行ってないと政治的討議は無理ね。ハーバードにいる生徒なんてアメリカの全体から見ればすげー少ないわけでさ、ああいう世界観とかやりとりを外の世界でも一般大衆ができるか?っていうと無理だからね。だからまぁ結局政治哲学は机上の空論になっちゃうわけだ。ようは外の討議とかに期待をかけている時点でもうアウトってことだよね。


なんか何を書きたかったのか忘れちゃったね。いや、まぁ結局ね、サンデル先生が究極的な善のイデアを求めてるかどうかはともかくとして、でもまぁプラトンが言ってたような善とかと似たようなもんだろうって仮定してさ、それが分かるのってやっぱ哲学者とか一部の頭の良い人達じゃん?で、そういう善のイデアという導きを持ってる人達が人々を率いていくっていうさ、まぁ哲人王の発想ってこういうことだよね。だからなんつーか俺はサンデル先生が普遍的な善とか道徳みたいなことを言えば言うほどなんか哲人王の発想に近づいちゃってるように見えるんだよね。


サンデル先生は絶対哲人王なんて認めないだろうけど、でも究極的な善を定義するっつーか求めるってつまりはそういうことだよね。つまりは普遍的な善のイデアが統治するっていうさ、いや、哲人王ってのは比喩でさ、ようはテーブルのイデアを持った家具職人がテーブルのイデアの具現化という行為を行うことでまぁテーブルってのが完成するわけでしょ?で、善のイデアも一緒でね、あとはもうそれを実行するだけっていうようなさ、人格的要素が除去されているものなんだよね。善のイデアって。だから哲人王がいきなり狂った暴君になるかもしれないみたいな話はナンセンスでさ、善のイデアとかまぁ究極的な相対化されない善とかを追求していったらね、それがつまりは政治なり倫理なり道徳を規定する支配者になるわけよ。で、そこに民主主義的なプロセスとか合意は無いよね。ただ哲学者か誰かに得られた善の概念というのをつまりは実行するということでしか真の政治は可能にならないんだよね。それが可能かはともかくとして、政治哲学っつーフォーマットを使って善とは何か?とかってやりだしたら帰結はそうなりますよってことだよね。そういう意味で哲学王的な発想に近づくってさっき書いたわけね。


まぁでもやっぱ政治家に教養はあってほしいもんだとは思うけど、まぁブッシュみたいな人が大統領になっちゃったりするわけじゃん?小泉とか。教養ある頼れる感じのさ、それこそ三国志曹操みたいな人が大統領にはならないじゃん?今の時代は。ポピュリズムだからね。政治って。だからなんつーかこういう構造をどうしていけばいいのか?とかさ、なんかもっとそういう議論が必要だよねって思うんだよね。同性愛結婚とかさ、中絶の話とかさ、サンデル先生の白熱講義みたいなディベートが展開できればいいけど大学の外のリアル社会だと無理じゃん?サンデル先生がやってること自体はすげーいいし、白熱講義もいいんだけどさ、あのフォーマットをデフォルトにしちゃうってのがマズいんだよな。あそこはハーバードだから成り立っている空間なんであってさ、政治とか道徳的問題とかってまぁ社会で起こっていることじゃん?そこをどう哲学の教養とかがない人達が色んな意見のアクセプタンスを広げていきつつ、より広い観点からの議論をしていくことができるのか?っていうことってまぁ無理じゃん?


馬鹿が中絶をした医者のクリニックを爆破するとかさ、そんなのがアメリカの現実なわけだからさ、ああいう助けようが無いアホのキリスト原理主義者みたいなのとかをどうしていくのか?とかさ、ようは政治的ロゴスが無い人達だよね。政治哲学者ってみんなに政治的ロゴスがあるっつー前提で話を進めているのが多い気がするんだけど実際は無い人が大半じゃん?だからさ、ハーバードに行くような政治的関心が高いさ、すげー向上心を持った人達が政治をバリバリ学んでさ、んで政治家になって世の中を統治していくしかないと思うんだよね。仮にハーバードをエリート機関だと仮定すれば俺が言ってるエリート養成機関ってつまりはこういうことになるわけよ。ああいう場でエリートが育っていけばいいんだよね。それで政治を担えばいい。その政治っつーのは彼らの仕事なんであって民衆の仕事じゃないよね。民衆の手におえるようなもんじゃないわけだから。政治って。


日本の場合、エリートの不在がマジでヤバいんだよね。DQNみたいなやつが政治家とかになってるからもうなんか本当に終わってるなって思うんだけど。っつーかもう寝ようかな。思った以上に長くなり過ぎたなっていう。まぁ今日はそんな感じで。