Enter The Voidについて。

ギャスパー・ノエのEnter The Voidを見たんだけどさ、いやーやってくれたね!って感じだね。モチーフや映像的なことで言えば凄まじく革新的というかオリジナリティ抜群なんだけど、Void感で言えばやっぱカルネ・カノンだなって気がするね。ただノエってニヒリズムとは違った意味での本質的な人生の虚無感みたいなのを表現するという点では一貫していてさ、今作でもアレックスとかでも格別不運な人とか状況的にあんま恵まれない人みたいな人の不幸というよりかは本当に虚無な感じの人生をその人生を送る主体の目線で展開するっていうことなんだけど、んでもそこで凄いなぁと思うのがさ、格別今作のように大変な境遇にあったりさ、まぁ別にドラッグディーラーとかやってるんで同情とかはできないんだけどさ、いや、まぁそこがポイントなんだよねっつーのがね、徹底的な犬死に感なんだよね。ただ別に生まれつき悪ってわけではなかったっていう。


で、こういう極端な犬死にを描くことで虚無感とかを出してるんだけど、でも別に恐らく平均的な人間の人生も拡大解釈しちゃえばこんなもんだよねっていうVoid感が当てはまるじゃん?これは俺が前にギャスパー・ノエについて書いた時にも書いたんだけどさ、こういうことは状況とか場が違えどいたるところで起きていることだしさ、格別そんなに悲惨でもないってことなんだよね。


ただあんまり見聞きしないっつーか「誰かが死んだ的」な生の帰結をニュースとかで知るぐらいでさ、詳細なんて誰も気にしないしまぁ描かれないじゃん?そこを描いてることによって凄まじいVoid感を出してるんだけど、でもそこで「可哀想な人だ・・・」って終わるんじゃなくて「俺も似たようなもんかもなぁ」とかって思わせちゃうっていうか、俺がカルネ・カノンに人生哲学を学べたっていうのはここなんだけどさ、このモチーフが保たれつつ凄いサイケな映像っつーかかっこいい映像っつーか革新的な映像とか絵の質感でそれを描いてるんで、もしかしたら結構哲学的かもしれないっていう題材を哲学的なアート映画みたいな感じで撮るんじゃなくて、モダンな感覚で描いてるってのが凄いと思うんだよね。


なんつーかさ、時代関係無くある普遍的なモチーフをそれらしく描いてるってことじゃなくて、なんつーか凄い「今」感があるじゃん?ギャスパー・ノエっつー監督が今生きててやってくれたな!っていうさ、それはテクノロジーとか演出方法も含むんだけど、そういう技術的な面でも今撮られる必然性みたいなのがあるじゃん?こういう撮り方とか作り方が可能になったんで作れました的なさ、まぁ一昔前で言えばマトリックスとかだよね。50年前とかでも同じようなモチーフのSFとか哲学映画は作れただろうけど、ああいう感じでは演出とか技術的なことで無理だったじゃん?


その中でなんつーか技術とかを取り入れました的にやってるんじゃなくてさ、そのモチーフなりストーリーを担うツールになってるっていうのがなんか凄く映画作りとテクノロジーの融合を感じていいんだよね。とりあえず3Dが流行ってるから3D対応してみました的な感じじゃないさ、まぁ別にEnter The Voidは3Dじゃないけど、なんつーか技術的な不要さっつーか浪費が無いんだよね。凄まじく機能的っつーかさ、機能美があるんだよね。


カルネ・カノンは形式だけで言えば昔でも撮れたけど、今作は絶対無理じゃん?そういう時代性みたいな「今」ってのを最大限に活かしてるって意味ですげー評価できるんだよね。まぁそんな感じなんだけどさ、俺がEX Nihiloに飲み込まれる時ってまぁ本当にこういう感覚なんだよね。チャーチルが黒い犬とかって呼んでたのと同じだと思うんだけど、まぁさ、でも別に俺の境遇は大変ではないけどさ、でもメンタルステイトって意味で大変というよりかは凄まじい虚無感に飲み込まれるときがあるんだけど、それってのはかなり冷めている認識というかさ、浮かれてないという意味で真理の一面を見据えているかもしれない精神状態なんだよね。それは危ない精神状態かもしれないけど、なぜそれが誘発されるのか?っていうとそこに真実の一面があるからっていうさ、ただの妄想だったら妄想なんだけど現実のリアルな一面っていう真実の側面があるから怖いんだよね。


まぁそれが怖いからとりあえず行動したりさ、身体動かしたりとかさ、ヒミズの主人公がランニングするのもまぁ同じような理由だよね。でもそれって誤摩化しに過ぎないんだよね。真実を見ると生きる意味とかが見えなくなったりさ、考え過ぎると物語が崩壊するようなことってのがあるからさ、そこはまぁ誤摩化しておくか、あとは物語を作ってそこに自分という人生の主体を乗っけるしかないんだよね。


それがまぁ目標だったりやりたいことだったりさ、この映画の主人公も「ゴール」って言葉を使ってたけどさ、でもどの人も行き着く先はVoidですよっていうような一面はあるじゃん?それは主観的にしか感じられないvoidだけど、幸せな物語として映画になるような人生送ってる人なんて少ないわけでさ、かといってまぁみんながこんな酷い犬死にをするとは限らないけど、でも犬死にという言い方はともかくとして、魔の一瞬ってのがあるよね。まぁそれは事故とかさ、まぁ不運なことってことなんだけど、一瞬で人生のベクトルが変わっちゃう不幸な瞬間ってのがあるじゃん?この映画だと「両親の死」ってのが魔の瞬間でさ、「それは誰にでも訪れる」ってカルネでやってたけど、まぁ本当にそうなんだよね。逆にまぁポジティブに考えればさ、いつ死んでもいいぐらい生ききることみたいなのが重要になるじゃん?死を意識できることで変わることってのがあるからさ、だから必ずしもそれがネガティブかどうかってのは分からないんだよねっつーかネガティブとは限らないよね。


「どうせみんな死ぬ」だとニヒリズムになるんだけど、ノエは別にそういうニヒリズムを配信してるわけではないと思うんだよね。ニヒリズムは生の真理の一面の解釈によって起こる概念だからさ、人によっては真理を認識することでより良い生を送れるかもしれないわけでさ、真実の一面というのをエンハンスしたりそれをモチーフにするということ=ニヒリズムにはならないってことだよね。むしろ前に書いたようなさ、絶対肯定できるわけがないような現状を無理矢理応援しようとするような応援ソングとかさ、ああいうやつのほうが不気味じゃん?真実を覆い隠そうとする虚構で人々がそれを受け入れているということの恐ろしさもあるよね。そんなの「俺は弱いです」って言ってるようなもんなわけで。でも俺からしてみればノエみたいなリアリズム映画って逆に安心するところがあるんだよね。


「まぁこれはみんな一緒だよな」っていう暗黙の前提みたいなのを確認できるっていうかさ、まぁ俺だけじゃないんだってことではないんだけどね、ただその背後に何も無いというのはある意味での安心感を与える場合もあるよね。いつもにこやかで良い人に見えるけど実は裏の顔があるっていうかさ、本当のその人は違うみたいなのって俺的に言えばすんげー怖いわけ。まぁウォール伝リーダーにはお馴染みかもしれんけど、まぁそういう経験をしたしっつーか特に酷い例があったからさ、まぁすんげー怖いよね。でも最初から嫌なやつとか二面性が無い人って逆に安心できない?あの嫌な感じとかぶっきらぼうな感じとか気を使えない感じとかも全部その人の素なんだって思えば逆に可愛らしく思えてきたりしない?


嫌な感じはまぁ可愛らしくは思えないか。ただまぁ何を考えてるか分からないやつとかさ、本性が分からない人って怖いよね。身近な体験だと祖父とか祖母ってまぁ孫である俺から見たら良いおじいちゃん・おばあちゃんにしか見えないんだけどさ、死後に親からリアルな話とか聞くと俺が主観的に感じてた完璧な感じって崩れ去るじゃん?それはただの祖父・祖母と孫という関係から来るお馴染みの感じだったわけで、人対人ではないんだよね。関係性から来る相互的に作り出されるイメージみたいな感じか。だからまぁそれは虚構だよね。まぁそれでもそれは俺と祖父・祖母の関係だったからいいんだけどさ、でもそれはある種のヴァーチャルな関係じゃん?リアルな関係ってのは子供である親とかが持ってるわけじゃん?親と子の場合、親と子という関係以外の特に子供が成人してからの人間と人間っつーような関係も生まれてくるわけでさ、まぁややこしいよね。親の面もあり人としての面もあるみたいな。まぁ関係性から来る関係全般はまぁ同じだけどね。教師と生徒とかなんとか。


んでもさ、どんな人に対しても態度が一緒っつーか根本が変わらないっていう二面性が無い人ってのは虚構を作り出しにくいよね。そういう人ってのは作った感じでにこやかにしたりしないしさ、ずーっと素を出してるわけだからまぁある意味で素直だよね。それが良いということではないんだけど、でもまぁ根が分からん人よりかはクリアで安心できるじゃん?あんま好きじゃないけどこういう面では信用できるしまずこんなことはしないだろうなっていう見立てみたいなのができるじゃん?それってのは恐らくさ、その人間とその人間との関係性を持っている人の印象との一致だと思うんだよね。作っている人間の場合、そこをトリッキーに変えたりさ、まぁ調整してこういう人には下手に出て、こういう人にはぶりっ子でこういう人には一切気を使わないみたいなさ、まぁ女に多いと思うんだけどね、だから俺は女があんまり好きじゃないんだけどさってことを言うと母親が心配するんだよね。「ゲイなのかしら?」みたいな感じで。で、妹は「まぁゲイでもいいけどね」みたいなさ、まぁそれはいいか。


女が持っている女特有のキャラクターを嫌悪するのと性的な志向とは全然違うからね。例えばオナペットになってる女の性格とか関係ないじゃん?抜ければいいわけで。これはまぁ動物的な感じだよね。でも人として付き合う時には抜けるというよりかは付き合える感が大事なわけでさ、まぁそこをごっちゃにしてたりね、抜ける感だけで付き合ってる連中も多いとは思うけどさ、まぁこれも一種の関係性だよね。性的志向と人としての関係との違いっていうかさ、そのまぁ関係性の中に色々な要素とか反射するような鏡みたいな感じとかが色々あってややこしいってことだね。


で、俺はそういう意味でのややこしさが大嫌いなのね。だからノエみたいなズバッ!っとした率直な感じが好きなわけだ。その背後にはvoidの延長しか無いという真実が持っている二面性の無さっていうかさ、その素直さだよね。まぁ凄まじく残酷なんだけどさ、でもまぁ俺が感じる残酷さってのはさっきも書いたような不気味な応援ソングとか頑張って生きよう的な意味分からない歌謡曲とかだよね。ああいうのを聞いたり買ってる人がいたりとかさ、なんかまぁそういう現実のほうがよっぽどなんつーかtwistedな感じで不気味なんだよね。いや、現実の不気味さってそこなんだよね。凄まじい虚構とかがあったりさ、イデオロギー的な暗黙知とかまぁ空気の支配とかさ、本音と建前の違いとかさ、全部なんつーか残酷なものが介在してるじゃない?でもそれはしょうがないと言い切ったり考えることでしかやっていけないみたいな思考停止を求めるような力とかさ、その力自体がそもそも残酷だよね。


まぁようは残酷に支配されてる感じだよね。そこに怖さを感じるんだけど、でもノエが描く残酷さとか怖さはそもそもどんな人間の生にも内在されている生そのものが持っている残酷さとか怖さだからさ、それはまぁあんまり人々が意識しないものだよね。そういう残酷さとか怖さに怯えたりしないじゃん?逆にまぁ知らないよね。だからこうやってエンハンスされた形で表現されないと分からなかったりするじゃん?でもそれを分かるきっかけを与えてくれてるとかさ、いや、「これですよ」的な即物的な感じとかさ、スッキリしてて安心できるんだよねぇ。まぁ俺の場合はね。俺は虚構が大嫌いだからこういうストレートなのが好きなんだよねっていうまぁ個人的な好みなのかもしれないけど、汚らしい意味での認識とか解釈みたいなのが介在しない真実みたいなのにまぁ憧れを持ってるってのはいつも書いてるよね。それに向かうのがエロスだと。そういう意味で俺にとってのノエの映画とかってエロスそのものだよね。


別にそれは美しくもないし善みたいな解釈は存在しないけど、でも下手な解釈とか認識が介在しない即物的なものが持つクリーンな感じってのはあるじゃん?それを美と捉えるならこれは究極の美的な映画ってことになるよねっていうかつまりはデカダンスの美とかってそうだよね。まぁノエのはデカダンスみたいなもんじゃないけどね。そんな安易なもんではない。何々主義というよりかは真実っていうさ、傾向性とかがないじゃん?その客観的な感じをああいうカメラワークでさ、輪廻転生みたいなモチーフとかドラッグみたいなモチーフを使って描いてるっていうさ、まぁ別にそれは完全な客観性ではないけどね、でも鑑賞者がその悲劇の傍観者という立場に否応無しに立たされるっていうさ、それはある意味での自分の剥き出しの実存みたいなのと向き合うようなシビアさがあるよね。こういうこと考えないから普段生きていけるのになんで嫌なことを思い出させるの!的な怖さっつーか残酷さだよね。


でも輪廻転生繋がりで言えばさ、仏教とかってつまりはまぁ色々あるけど悟ることってのが目標なわけでさ、それは「考えない」みたいなさ、自分の実存と向き合わないことでは絶対到達不可能なものなんだよね。残酷なものに対しても受け入れ難いことにしてもそれが真実なら受け入れるしか無いっていうさ、それをやったところでイコール悟りになるわけではないけど、でも仏教的に言えば輪廻転生っつーサイクルから卒業するためには悟って仏になるということじゃん?まぁ勢いで言っちゃえばこの映画の内容を受け止めるみたいなさ、これを気持ち悪いとか怖いと感じない心っていうかさ、「まぁそうだよね」って分かるどころかまぁ見てスッキリするぐらいの感覚っつーのかな?これが受け入れられたらそもそもこの世とか生なんてものに未練は残らないはずだからまぁスッキリと昇天できるよね。いや、ちょっと言い方がおかしいか。


これを受け入れるってこととこの世への未練とか生への執着ってのは別だけどさ、まぁでもこれで言えば妹への愛だよね。それが現世への執着の大きな理由になってるんだけどさ、仮に自分が明日死ぬとかさ、この映画の主人公みたいな犬死にをするってことになったらさ、どんなことに未練が残るか?ってことだよね。まぁ俺は無いけどね。かといって死ぬ理由も無いし自殺なんて迷惑かけるから本当に追いつめられるまではやりたくないしさ、まぁようは生きる理由なんて無いけど死ぬってことはコストがあったりさ、悟りを得られたから入滅するみたいな感じで死は選べないからさ、だからまぁ生きるしか無いってことになったらまぁどうせ死ぬんだしだったら生きてる間に生きているということを通してやりたいってことを全部やりたい!って思うよねっていうか俺は思うんだよね。


まぁある意味での快楽主義かな?それはストイックな快楽主義だよね。そもそも人生なんてものは無なんだからさ、だったらまぁいかに苦痛を和らげるかとかね、楽しむかってことだと思うんだよね。まぁ苦しみから距離を置くということが幸福の一つの条件であるみたいに言ってたのはショーペンハウエルだけどさ、まぁこれは仏教的な感覚だよね。


輪廻転生への準備が今の生なのだみたいな解釈もできるけど現世への執着を捨てるという本来的な意味での魂の解放としての生って解釈もできるよね。これがまぁ俺的に言えば悟りっつーか仏になるってことだと思うんだけどさ、まぁ死んだらみんな仏にはならないからね。ホトケってのは通称なだけで。まぁどの道死への恐怖は和らぐと思うんだよね。この映画にしろ悟りにしろ。だから心が楽になるわけでさ、それって今生きててできる精神解放の一つだと思うんだよね。


無駄に執着し過ぎるから死ぬのが怖くなって恐れることが多くなり過ぎて現世の生活が地獄みたいになるわけじゃん?その地獄を作り出してるのは自分だからね。地獄の解釈の一つじゃん?これって。同じ風景でも餓鬼にとっては地獄に見えていて仏にとっては極楽に見えてるみたいな。まぁこれが行き過ぎると唯心論みたいになるしさ、世界観が唯識とかあとは西田幾多郎みたいな感じになるけどさ、でもこういう世界観とか考え方って生と死を考える時には凄く有効だと思うんだよね。有効っつーか凄く理解を促してくれるようなパラダイムを提供してくれるっていうかなんていうか。


で、まぁこの映画もそんなパラダイムの一つだと思うわけよ。これを受け入れることが出来たらまぁ相当楽だと思うんだよね。まぁ楽って言い方はアレだけど、でもまぁ学べたなぁーって感じはいつも書くようにカルネ・カノンから得られたんだよね。なんつーかそもそも楽観とか悲観とかって主観的な問題じゃね?的な感じだよね。まぁそうだよね。何しろ「観」なわけだから。まぁでもあれね、今が幸せだったらそれでいいのね。まぁそんな単純なことでもないんだけどさ、ただその幸せの揺るぎなさって例えばこの映画みたいな世界観も十分分かってるって上で幸せなのとさ、臭いものに蓋をしている幸せって違うよね。


例えばこれを見て現在の自分の幸せが揺らぐようならそれは脆弱な幸せだよね。んでもさ、これを見て「うん。分かってますよ」って言えててなおかつ厭世的になったりニヒリスティックになったりしないで生を満喫しようとするとかさ、幸福を追求しようとするとかさ、それってもう死をバックにしてるっつーかさ、少なくとも恐れてないって意味で強いじゃん?死神すらも味方みたいな感じね。


そうなるとたいして霊とかも怖くなくなってくるよね。まぁ霊がいるかはともかくとして霊的なもんも別に怖くないよね。まぁ不気味なのはさすがに怖いけどね。恐山に夜中行くとかまぁそれは無理だよね。でもあれなんだよね、仏教に霊を浄化させる力があるとは思えないけど、コンセプト的にはさ、世の中に凄まじい執着を持ってたり恨みみたいなのを持ってる霊にたいして般若心経を唱えるとかってさ、「なんで死んでまでそんなに現世に執着してるわけ?全部空なんだぜ?基本的に。成仏するかしないかはあんた次第だよ」的な諭しを怨念に対してするって感じだよね。そんなに別にずーっとこの世に留まるほどこの世ってたいそうなもんじゃないよ的なまぁ宇宙規模の感覚じゃん?空の感覚って。宇宙観だよね。ようは。それが世界観になるわけだ。


シュレーディンガーとかハイゼンベルクが東洋思想に凝ってたとかもしくはインスパイアされただとか物理学の世界観との類似に驚くとかってことなんだけど、ようは物理学の世界観って宇宙の世界観じゃん?空の世界観とか仏教の世界観も同じかもしくは似てるって意味で宇宙の世界観だよね。そんな中で現世なんてすげー小さいものだよね。もちろん仏教者にとっては修行をする場であるし、物理学者にとっては研究をする場だから意味無いっつーかいらないってことではないんだけど。なんかようはでも俺が言いたいのはさ、このノエの映画にしてもセックスして子供が出来るとかさ、事故で死ぬとかさ、すんげー即物的な感じで生が描かれてるでしょ?まぁ元は精子でしょ?みたいな。


それって世界観広いじゃん?少なくとも主観よりはね。そういう世界観があるんだよね。ノエの映画は。So What?的な感じっつーかな。別に救いの為にやってるわけではないんだが、俺みたいに良い影響を受けてる人はいると思うんだよね。救われてる人もいるかもしれないわけで。「超バッド映画」とかってまぁ上辺だけ見ればそうかもしれないけど、深い所で言えばこれほど実存的なものの一面を表してる映画ってのも滅多にないよね。そういう意味ですんげー純粋な映画だと思うんだよね。まぁノエのやつはみんなそうだよね。


生きる力が湧いてくる本とか映画とかってまぁ大抵は物は考えよう的な空元気だったりすることが多くて持続力が無いと思うんだけど、本質を受け止めるってことはもうacceptってことだから持続力は抜群だよね。受け止めた地点からそれは死ぬまで続く揺るぎない認識になるわけじゃん?で、さて、んじゃあどう悔いが残らないように生きようかな?とかさ、どう幸せを追求していこうかな?とかさ、死に関わるものがスタートにあるものって強いと思うんだよね。それは死ぬ寸前みたいなのを経験した人の人生観が変わるのと一緒だよね。大体まぁ絶望から這い上がった人って強いし這い上がった人に限って言えば大抵が幸福を感じてると思うんだよね。


あとちょっとまぁ話が変わるけどさ、明日には死んでるかもしれない的な認識がチャレンジ精神を生むっつーかさ、新しいチャレンジに対してのリスクも受け入れる強さになるっていうのかな。そういう認識が無いと思いっきり生きれないからこそ認識するんだよね。保身ってのはまぁ結局は身を守るってことで結局はまぁ死を恐れるみたいなことだと思うんだよね。そうなるとそれに雁字搦めになって何もできなくなっちゃうじゃん?それってつまらんよね。そういう意味でのまぁ安心なんだよね。この映画の安心ってつまりはそれなんだよね。んー安心というよりかはなんつーかイタリアのネオレアリズモ的な感じだよね。人間の生にはどうしようもないような被投性があるけども、それを題材にすることで自分の問題としての生の問題提起できるっていうかさ、まぁ問えるっていうのかな。んでもその前提には当然リアリズムの描写が必要なわけでさ、その装置としてのリアリズムっていうかさ、まぁそんな解釈も可能だよね。


まぁ俺にとっては「生きろ!」とかって言われるよりかはよっぽど生きる気がしてくる映画だよね。どの道、人間の生というのを考えざるを得なくなるって意味で実存的な問題提起として良いと思うんだよね。別にまぁ映画自体にそういうコンセプトがあるわけじゃないんだけど、リアリズムを描く事で浮かび上がってくる生の問題って絶対あるんだよね。リアリズムはそれが事実という意味でようは客観的でそれはつまりはもう科学的ってことになるよね。


最後に引用になるけどさ、スピノザの知性改善論の引用なんだけどね

一般生活において通常見られるもののすべてが空虚で無価値であることを経験で教えられ、また私にとって恐れの原因であり対象であったもののすべてが、それ自体では善でも悪でもなく、ただ心がそれによって動かされた限りにおいてのみ善あるいは悪を含むことを知った時、私はついに決心した、我々のあずかり得る真の善で、他のすべてを捨ててただそれによってのみ心が動かされるような或るものが存在しないかどうか、いやむしろ、一たびそれを発見し獲得した上は、不断最高の喜びを永遠に享受できるような或るものが存在しないかどうかを探求してみようと。


ってことなんだけどようはなんつーか自明なVoidに対する方法論的な主知主義的アプローチっつーのかな?Voidに対して主意主義的であり過ぎるとニヒリズムになるので、Voidからの生の強度を獲得するための理性っつーのかな?そういう感覚を研ぎすましてくれる感じっつーのかな?ノエの映画は。


まぁそんな感じですかね。