EX Nihiloに巻き込まれて死にそうです。

こないだっつーか日付で言えば昨日とか一昨日に久々に友達と会ったんだが、あんな感じでまともに人と会話するのが本当に久々なんだけど、でも思えばなんつーかレジのバイトみたいな人間のマシーン化を求められるようなものばかりをやっているような日常の中だったら別にそれは身体を動かしているかいないか?の身体的な差とかストレスやらまぁ精神的な差なんであって、そもそも人間同士の人間らしい会話が出来る関係とか人って限られてるよね。


まぁその辺のバイトに応募すれば同僚と友達になれるぐらいの軽さがある人ならアレだけど、まぁまず合わないよね。別に優越の問題ではないんだけど一般的に見れば変わってるってことになるよね。で、それはどこに行っても変わらないなってアメリカで思ったわけだけどさ、そのまぁどこに行っても感が帰国後というよりかは認識が変わった後に凄くてさ、まぁ帰国が決まった後に書いたことだけどさ、いきなりガラッと変わった例のアレだけど、ようはさ、繰り返しになるけど風景とか雰囲気とか言語とか文化とかそういうのってまぁ結局物質的なもんじゃない?BSとかでパリの風景とかニューヨークの風景とかさ、いや、帰ってきてからそういうのを普通の日本人として憧れの観点で作られたような映像とか番組を見る機会があるわけじゃん?そこで映るニューヨークって全然違うんだよね。


ペンステーションとかもやたらゴージャズなイメージで映されるけど、あの辺ってホームレス多いんだよね。特にジャンキーっぽい感じの人達をよく見かけるよね。それは治安が悪いという意味ではなくてああいうペンステーションっつー場所の構造からかまぁ住みやすいのかホームレスが居着くのか分からんけどさ、いや、俺が言いたいのってさ、ホームレスとかってすげーリアルな存在じゃん?


その人がどんな境遇でホームレスになったかはとりあえず置いておいてまぁ社会から疎外されたものっていうかまぁアウトサイダーっつーかなんつーかさ、まぁそういう生のリアルさってのがあるじゃん?そういうのを描くのが目的じゃないからさ、まぁあくまでOSの壁紙感覚で海外を映すからさ、だからまぁ大体において憧れっぽい一方的な感じが生まれるんだよね。ああいうのって学園を美化してロマンスの聖地として描くような漫画とかと同じような虚構だよね。オリジナルが漫画とかアニメとかだと虚構感が鮮明っつーか分かりやすいけど、んでもリアルなもんでも映し方次第でまぁいくらでも虚構になるじゃん?所謂、まぁ悪いものとして批判されるものとしてのステレオタイプとしてのメディアなんかが担ってる役割がこれだよね。


美談しかない伝記とかもまぁ一応原作っつーか元となる誰かの人生ってのがあってそれをドラマ仕立てにするっていう虚構があるじゃん?実際、ドラマになるような人生送ってる人なんて少ないわけで。まぁ悲劇なら多いかもしれないけど。いや、んで今日書きたいのはその虚構なんだけどさ、いや、場所が横浜だったんだけど、横浜って個人的に馴染み深い場所でさ、学校名がバレるけど通信制のスクーリングの場所とか横浜だったしさ、一時期よく会っては飲んだりしていた友達とも横浜で会ってたりしたんで印象が強いっつーかまぁ外部感が少ない場所なんだよね。久々に外に出ても外部に外部感が無いって凄いよね。懐かしさとか一切なくてさ、中島義道がウィーンに行ったときも凄く久しぶりだったのに学生の頃の自分みたいな行動原理になったって書いてあったよね。フラフラしていると普通に大学の講義が終わってビールでも飲もうかとかって思っているみたいな。


何書きたいのか分からないんだけどさ、まぁでもなんつーか会った後とか横浜の街とか歩いてても友達にはちょっと失礼だけどさ、彼らのせいではないんだけど凄まじい虚無感を感じるんだよね。まぁそれは恐らく「どこも一緒感」なんでさ、つまりは外界というのは当然ただの外界があるわけで、それを認識するのは主観だからさ、認識にとっての外界でしょ?そこに刺激が皆無になるというのはさ、そりゃーある程度歳とればそうなると思うんだよね。ムッシュかまやつゴロワーズを吸った事があるかい?って曲にそんな一節があったなぁ。だからこそ赤ん坊みたいな何もかもが新鮮だった時に戻りたいと思うであろうみたいなさ、つまりはこれって主体の認識の問題なんだよね。まぁ赤ん坊の頃に戻りたいというよりかはそういう何もかもが新しい感覚に戻りたいと思うってことだよね。まぁそれじゃあ刺激が強過ぎるから逆に落ち着いてたほうがいいって言う人もいるだろうけど、基本的に外界には常に刺激を求めてしまう俺としては「同じ感」って凄いデプレッシヴなものなんだよね。


だからそもそも外界に刺激を求めるなんてことをやめないといけないんだろうけど、でも外に出ると大抵鬱っぽくなるな。それはその時は友達と会ったりさ、どっかに行ったり歩いたりしているからそのときは楽しいんだけど、友達と別れた後とかにその「同じ感」が襲ってきて急激な凄まじい虚しさを覚えるんだよね。それは別に友達と会うのがつまらないってことじゃなくてさ、むしろ会ってる時に楽しいからこそ別れた後に寂しさみたいなのを感じるってことなのかな?でもかといってんじゃあまた明日会おうかみたいなそんなしつこさはいらないんだよね。んで帰りはこないだは歩いて帰ったんだけど距離が絶妙な感じでフォレストヒルズの家と駅に似ててさ、だから歩いて帰る時とかの感覚が似てるんだけど、こんな季節で寒いじゃん?で、寒空の中を歩いてると妙に懐かしい感じが甦ってきてさ、それってのがようは風景とかではない心情の風景としての風景だよね。


寒空の中で徒歩で家路につくみたいなものの懐かしさね。いや、これはまさしくあっちに居た頃に学校が終わって寒空の中を歩いて家まで帰る時の感覚とそっくりだなと思ってさ、だからこういうのがあるからこそ同じ感って余計に感じるのよね。別に環境とかが変わってもさ、感じる虚しさとかって一緒なんだよね。それが何に対してのものなのか?って言葉にし辛いんだけど、あっちでもずーっとあったんだよね。そんなことを考えながら歩いててさ、んで家が近くなってきたら無意識的に左ポケットに手を入れて鍵を探してる自分がいたんだよね。でも今は実家だから鍵はいらないわけで。まぁみんな帰ってきたら鍵閉めるけどね。


学校が虚しいのか?ってまぁあっちの学校はまぁ虚しかったしさ、散々ボロクソコミカレ批判というよりかはシステム批判とか前に書きまくってたからもう繰り返さないけどさ、ストレスで言えばあっちの頃の生活のほうがすげーあったんだよね。でもその中でもさ、とりあえずやらなきゃいけない義務みたいなのがあるとそれは必然的にやらなきゃいけなくて、んでそれをやり終えると「終わったぁー」みたいな達成感を感じるみたいな誤摩化しがあるじゃん?ああいうのって実存的な誤摩化しだよね。労働とかをやって得られる達成感とかってまぁ基本的に一緒なんだよね。


まぁ仕事とかデカイプロジェクトとかをやり終えて感じる達成感は労働というよりかは仕事の達成感でレベルが高いけど、daily choresみたいな感じの労働の達成感ってあるじゃん?んでもそれって気が紛れるものだよね。それをやってれば基本的になんかまぁ何かをやってるっていうことで社会的な認証も得られたりさ、意味のない「やった」みたいな感覚で心が一時的にせよ満たされたりするじゃん?そこで深く考えずにそれだけをこなしつつそこから解放されたら一気に好きな事をやるみたいなのが割と主流なのかな。でもまぁ大抵が疲れてるからまず酒とかになるよね。で、あとはテレビとかゲームとかAVとかエロサイト巡りとかなんでもいいんだけどさ、まぁ人間らしい活動とはほど遠いなんつーか低俗的な快楽だよね。


低俗的なものに需要があるバックグラウンドとして絶対これはあるよね。結構多くの人がこんな感じの生活をしているから、こういう生活をしている人達の快楽とか娯楽の部分を満たすためのものってのに需要ができるんだよね。かといって別にそれは必ずしもそれを消費する人が低俗とは限らないわけでさ、俺も仮に労働して疲れ果てたら酒飲んで寝ながら映画とか見てると思うんだよね。まぁバイトやってた時は終わった後は大体酒飲んでたよね。チューハイだけど。それが唯一の楽しみだみたいに言う人もいるよね。なんだかなぁーって感じだけど、あの頃はニューヨークに留学するっつー目的があったから凄い頑張れたよね。


今ってまぁデカイ大枠の目標という意味では変わってないんだけど、目先のやる事ってのが無くなったっつーのは言い過ぎだけどさ、まぁ個人的にはやることはあるんだけど、学校的なものが無くなったじゃん?だからまぁ永々にごまかしが効かないような状態が続いてるんだよね。かといってそれに耐えられないというわけではなくて、それがあるからこそまぁ読書がはかどったりするんだけどさ、いや、義務が欲しいって言ってるわけではないんだけどね、でも義務ばかりに追われる生活って逆にまぁ虚無感とか感じる余裕が無いからさ、ひたすら疲れ→アルコールみたいな流れが続くじゃん?だから実存的な葛藤みたいなのに逆に悩まないみたいなね、まぁ俺はそんなのゴメンだけどね。


俺の場合、躁鬱なのか鬱なのかは分からないけど、んでもまぁやっぱ躁鬱というほどではないのかもしれないけど気分障害があってさ、特に今日なんか酷いんだよね。もう身体に力が入らないぐらい脱力感と虚無感が凄くて。かといって何もやりたくないというような鬱状態とは違ってさ、本とかはすげー読むんだよね。こういう時のほうが本を読むかもしれない。逆に調子が良さ過ぎたりハイなときはギター弾いてるよね。俺が感じてる虚無感って何なんだろうね?まぁでもさ、あっちの大学を卒業してTAやりながら大学院に行くみたいなさ、上手く行くかは分からないけど、でもやるしかないみたいな中でやってる物語の中のゴールってあるじゃん?で、授業とかに出るのは虚しいけど、でも将来に繋がってるんだとかって虚偽意識的に思えるってことの精神的な支えって凄まじいよね。


だから今思うと学校に属しているとかさ、留学生であるっていうファクターがすげー精神的な支えになってたんだなって何もステータスが無くなった今になって凄く感じるんだよね。今はその物語が崩壊したって感じだよね。ただやりたいことはつまりは知的欲求を満たすとか学問をやりたいってことで今もやれてるからさ、状況的な絶望感とか無いんだよね。かといってこのままでいいみたいな安堵感みたいなのはないけどね。


そういう意味でまぁ俺が読書を続けるっていう俺の一番メインな部分では全然何の断絶も無いからさ、いいんだけどでもやっぱ物語って便利なんだよね。だから人はそれにすがりたいのかなと。大学院なんて行ける保証はないのにでも「やってみるしかないんだ!」っていう意志で物語を信じ続けて生きるって結構宗教的だよね。言わばあっちに居た頃の俺のゴールって死んだ後に極楽に行くぐらいの現実味の薄いものだったかもしれないわけだよね。それはどのくらいやっていけるかが分からなかったからさ、その中でまぁ数学なら何かを書いて発表すれば発表したって実積が残るからそこからまぁ何かに繋がるだろうみたいなのがあってさ、まぁ結局ダメになったけど、でもそのできるだろうとかさ、結果ダメになったみたいなのも物語の中で展開しているものでさ、物語がある以上、底抜けな虚無感って無いとは言わないけどさ、たまに気分的なもので感じたりはしてたけどね、でも基本的に物語っつー守護者みたいなのがいるじゃん?所属というものが与えてくれる安心感ってこれはあるよね。かなり。


実際何もそれ自体では意味を成さないことでもそれで給料をもらってるってことでまぁそれが労働として成立していてさ、んでそれをやってるとまぁ文句言う人いないしさ、そんな感じになるからまぁ自分も何かを成し遂げてる感じになって永遠とその虚偽意識が続くんだけど、学生気分ってのもまた虚偽意識の一つだよね。アメリカの場合はまぁ大学が厳しいからもうアメリカ社会的な競争社会に入ってるって感じになるけどさ、いや、まぁなんつーか相変わらず悩んでますよねってことだよね。


んでもその悩みって生に対する悩みなのか?っていうさ、将来への不安って言われるとそうでもないんだよね。まぁ今の若者が感じるようなレベルの将来の不安は感じてないわけよ。そんなことまで考えてたら気が狂うからそういうのは考えないようにしてるんだよね。それは俺がもうなんとかして超人にでもなって克服するしかないぐらいに思ってるんだけどさ、まぁ誤摩化しでもあるのかな。でも不安って感じてても何もならないものだからまずは何かをするってことが大事じゃん?


って社会的な帰結になるかは分からないけど学問ってのは社会的な脈が無いわけでもないから学問へのコミットが社会的なコミットにも繋がるかもしれないっていうのは前から書いてることだよね。それしかやりたいと思う事がないし、消極的な理由でもそれしかできないと思うし。まぁだからそれは俺次第じゃん?いつになるか分からないけどさ、知識の量が尋常じゃなくなったらなんとかなるだろうって思ってるわけね。ようは極めればなんとかなるだろうとは思ってるわけ。それは極めればなんとかなるジャンルのものをやってるからだよね。そういう意味で今の俺は実力不足ってことなわけで、だからまぁ研究っつーと大げさだけど読書を続けるしかないよね。


まぁそんな意味で将来への不安なんて感じててもしょうがないし、極めたい事ってのはもう見つかってるから後はやるだけってことでやってるわけでそれはそれでいいんだよね。そういう意味で将来への不安ってのは無いというよりかは不安を感じる要素として見てないってことだよね。んじゃあ他の要素は?っつーと特に無いよね。衣食住はあるしさ、使える金は限られてるけどさ、もうさすがに売るもの売りつくしちゃったからギターとか買えないけど、でもまぁギターとかエフェクターの分とかはもう払えるようになってるしさ、まぁあとはもうあんなデカイ買い物はしないよね。はっきり言って買うのないからね。まぁ何でも変えるっつったらワーミーとかベースとかテルミンギターとか買うと思うけど、でも別にまぁ12弦ギターが俺の人生を変えたわけではないように、新しい機材なんて買った所でやりたいことが無ければ目新しさだけですぐ飽きるよね。新車買っても2週間で飽きるのと一緒だわ。


まぁそんな意味で俺は今はギターっつーよりかはギターで出す音っていうものにフォーカスしてる感じだよね。だから機材とかどうでもいいわけだ。まぁベース欲しいけどね。そういう意味でなんつーか欲しいものが買えない!なんてことは無いんだよね。そもそも欲しいものが無さ過ぎて困ってるぐらいなんだよ。だからニューヨークに居た頃も欲望を探す為に街を彷徨ってたりしたよね。でも何にも買うのが無いわけじゃん?だからやたらスニーカーとかが増えたんだよね。もはやそのスニーカーすらも有り余るほどあるからもう買うのないわけだよ。洋服も外に出なくなった今となっては着れないぐらいの洋服持ってるから欲しいとかって思わなくなったし、あとは眼鏡とかもそうだね。好きな形もののを全部買っちゃったから欲しいのが無いんだよね。まぁ無駄に金があれば買うだろうけどでもそれは無駄な消費だよね。必要以上に買うって意味でバカバカしいからなんかもういらないじゃん?それはストイックになっていくというよりかは欲望しまくって満たしまくってもう欲望が無くなるみたいなもんだよね。


ゲームとかもやりたいと思うやつがないし、映画とかも見たいやつは大体見ちゃってるし、DVDとか買い過ぎてたからもう欲しいと思わないしさ、いや、こないだ大量に売ったけどね、レコード然りだね。今まで欲しいと思ってたものをそんな意味でほとんどまぁここ5年ぐらいで大体買い尽くして満足しちゃったってことだよね。ハマってるときはさ、キムズビデオとかに行くと興奮してたし、もっと昔で言えばレコード屋なんて行ったらもうアドレリンでまくりだったしさ、本屋とかもそうだったけど、でもニューヨークの後半とかを回想すれば分かるように本とかも買い尽くしちゃうんだよね。


ある程度押さえるものは押さえちゃうと買うものが無くなっちゃうんで欲しくなるようなものを探しに本屋に行くような感じになるんだけどもう買うのが無くなっちゃうわけでさ、だから本当に寂しかったね。街に出てもどこも行く所も無いし欲しいものもないんだもんね。SOHOがあったから気になるブランドの店なんかは色々と巡り歩いたけどまぁメンズなんて気に入るようなの滅多に無いしさ、気に入るようなやつのはもう持ってて同じのいらないってことでもう欲しいの無くなるじゃん?そうなんだよねぇー。俺って全然ストイックじゃなくてさ、欲望しまくって消費しまくってるんだよね。その結果、まぁ何も残らないっつーかさ、まぁ衣類とかはいいんだよ。スニーカーとか服とか生活の中での機能があるわけでさ、オブジェじゃないんだから全然いいんだけどね、あとはジーンズなんかもすげー買ったからね。あっち安いしさ、しょっちゅう買ってたわけじゃないんだけどでもまぁ5年近くいたからさ、そりゃー衣類は増えるわな。


食費を浮かしてお金をある程度余計に作るっつー術を常にやってたから使える額とかは結構あったんだよね。あとまぁまだ実家がそこまで酷くなる前とかはちょっとオーバーしてても大丈夫だったから、まぁ典型的なスポイル型のダメ留学生だよね。韓国のボンボンとかこういうのが結構いるよね。まぁボンボンの度合いが違うけどね。買うものの額とかが違うけどもスタイルとしては似てるかもしれない。


まぁでも俺は基本はやっぱ読書があったからさ、そんな中でまぁ街を出て欲望を満たすために何かを消費するわけだけど、まぁその消費する対象が無くなってしまったってことだよね。で、最近で言えば本とかもそうなのね。帰国後はそりゃー凄かったよね。もうレコード売りまくって買いまくったよね。日本語の本が定価とかマーケットプレイスみたいな額で買えるからもう楽しくてしょうがなくてさ、月に何十冊買った事やら。そんなハイペースが半年ぐらい続いたからもう結構落ち着いてきちゃってさ、本屋行っても買うのないよね。あとある程度色々と読んでるとさ、既知のことが多くなるわけ。面白そうな解説本とか出ててもそれについてもう知ってたりさ、すでに良い解説本とかを読んで原書とかも読んでたりするといらなくなるじゃん?そうなると必然的に必要になる本って専門書ばかりになるんだよね。


で、専門書は日本語のやつとかべらぼうに高いから洋書買うでしょ?でもその専門書の洋書やらはあっちにいたころに数学にせよ政治哲学にせよ哲学にせよ結構買っててさ、いや、で、長過ぎるから読んでないとか数学とかだったら分からないから読んでないっつーのが多いんだけど、そういう意味で未読の分厚い大著って結構あるんだよね。そんな意味でまずはそれを読むだけでもまぁすげー大変だし、それを読むっていう時期になってるよね。今は。もうホントにビギナーじゃなくなったなって最近は感じるよね。


だから俺はなんかね、書店に求めるんだよね。子供の頃に玩具屋に行くと楽しかったような感じってのがさ、少なくとも帰国後とかは書店に感じてたからさ、ジュンク堂とかもう聖地みたいなもんだったけど、今はもうそうでもないんだよね。あとまぁいやらしい話、マーケットプレイスで買ったほうが安い本とかが結構あるからあえて本屋で新品を買うようなのってあんまり多くないんだよね。新書の類とかも好きなトピックのものについてはもう結構読んだし、それはあっちに居た頃に紀伊国屋とかブックオフで新書ばっか買ってたっつーか新書ぐらいしか買えなかったからさ、だからまぁ色々買ってたわけじゃん?そうするともうあれだよね、買うの無くなるよね。で、帰ってきてからはあっちで買えなかったようなハードカバーとかを買ったりして、んでそれもまぁ結構落ち着いてきちゃったっていう。


数学にしても図解シリーズとか漫画でわかるシリーズとかさ一瞬で必要そうなのはほとんど買っちゃったからね。まぁ数学はそこで止まってる感じかな。その図解シリーズとかのレベルの数学を概念でしか理解してない感じだよね。計算が嫌いだから全然問題とかやる気が起こらなくてさ、だから大学とか微妙なんだよね。あんま期待してないけどでも数学の授業が楽しいっていうイメージがコミカレ後期で凄く強くなったからさ、あれが毎日続いたら楽しいだろうなぁーって意味でやっぱ数学科に行きたいんだよね。本だけ読んでも面白く感じないものでもさ、講義で見たりすると結構面白さを発見したりするのってあるんだよね。まぁだったらYou tubeとかで見ればいいじゃん!って話なんだけど。


ホントでもさ、帰国するちょっと前ぐらいのさ、math056ってまぁ中学から高校1年ぐらいのレベルの数学っつーか算数だけどさ、別にエキサイティングな授業じゃないんだけど、でも数学に興味を持ち出してたからまぁすげー楽しみだったし面白かったよね。あれだけが生活の楽しみだった気がする。だからそういう意味で惜しいっつーかさ、そりゃーやっぱあっちで学生続けてられれば良かったよね。でも別にまぁ親はまた1年からやり直すってことに金銭的には分からんけどコンセプト的には同意してくれてるわけだからさ、一般家庭じゃまずありえない話だろうけど、うちではありえてるからだからやっぱ大学行けばいいじゃん?ってことにはなるんだよね。でも計算とかが嫌いだからあんま問題とかをやる気がしないっていうまぁすげージレンマに陥ってるわけで。受験勉強は数学でも結構無理だな。


なんで計算しなきゃいけないんだろうね?微積分とはこうですとか三角関数とはこうですっていう概念だけでいいと思うんだけどね。なんであんなややこしい計算を人間の手でやらなきゃいけないのかがさっぱり分からん。それこそmapleとかで立式だけやればいいと思うんだけどね。だから計算せよじゃなくて立式せよって問題でいいと思うわけ。数学はね。これは小室直樹先生が計算と数学は同じものではないって言ってたから間違いじゃないと思うよ。学問の神みたいな人が言ってたことなんだから一般論とは異なるけど絶対そうだと思うわけ。俺は自力でそう思っていたけど小室先生も同じ事言ってる!ってことでまぁ俺は凄まじくはしゃいでたっつーか嬉しかったわけだけどね。


なんかだったら自分でやればいいじゃん?って話になるよね。だから別にそんな自分の方向性と合わないような大学とか行ってもしょうがないじゃん?っていう。元相方とかにもコネとかないとましてや俺なんて年齢的なこともあるからまず就職なんて無理だみたいなことを言われたけどさ「なんでそんなこと言うんだ!」って正直思ったけど、でもまぁ彼は客観的な事実を述べただけで、彼は大学を卒業してる人だし、在学時に色々と日本の大学のことについて経験した人でまぁ言わば先輩だよね。その人が俺の能力とか関係無しにあのドロドロのコネ社会じゃ無理!っていうんだから恐らく無理なんだろうな。


最近「学問と世間」って本を読んだけど、大学系の本を読めば読むほど日本の大学っつーのに何も求めることがなくなっちゃうよね。腐敗が凄過ぎるっつーかさ、ウジ虫が湧いててもう人体は変色して溶けてますみたいな感じだよね。だからまぁこっちの大学出て大学院留学すればいいじゃん!ってことになるんだけどさ、年齢的なこと考えると本当にどうなんだろうなぁー?って気はするよね。まぁスマリヤンとか相当歳いってから大学卒業したからさっつってもまぁあのぐらいの人だったらそりゃなんとかなるよな。


そこでまた状況がどうのとか年齢がどうのとかってウジウジ言っている自分に腹が立つんだよね。まぁそういう現実的なこととかを見聞きしたりしてるとやっぱ現実的になっちゃうからモチベーションとか自ずと下がっちゃうよね。そんな中でも「いやそんなの関係無いです!俺はやりたいんでやります!」ぐらいの根性が無いと出来ないだろうね。でもそう思うと数学ってone of themだからそれだけやるってつもりはなくてさ、今みたいに並行して哲学とか政治哲学とかも進めるわけでさ、まぁどんぐらい数学に費やさなきゃいけないのか分からないけど、でもやっぱ理論的なことを理解してないっていうのが凄く気持ち悪くてさ、だから物理学もやりたいんだよね。で、そういう本は読んだから概念とかは結構分かるようにはなってきたけど、でも細かい理論的なことは分からないことだらけだからそのモヤモヤを解消したい!ってだけでさ、正直、数学で身を立てよう!とか数学者になろう!みたいな野心って無いんだよね。ただモヤモヤを解消したいってだけだから。正直なところを言ってしまえばね、


哲学に関しては自分で出来るから学部とかに入る必要は無いし哲学の学歴とか意味無いから行く必要はないんだけど、数学に関してはいつも書いてるように受動的過ぎるけどさ、自分で読むってことより講義のほうがダントツに分かりやすいっつー印象があるんだよね。まぁある程度のレベルまで言っちゃえばあとは自分でやれるってことになるんだろうけど、今の俺ってそうなってないからこそ、なんつーかとりあえず学部に入って勉強したいみたいな気持ちがあるんだろうね。それこそさっき書いたような義務としての出席というのもあったりさ、アカデミックな意味では成功するかは別としてまぁなんつーか物語の中にはいれることになるじゃん?それがまぁ精神安定になるのかな?みたいな情けない理由は無いとは言えないんだけど、とりあえず今のままじゃなんかダメだなって気がしてきてて。


読書はできてるんだけどね。でもなんか分かりやすいゴールが無いからだから余計に虚無感が目立つんだろうね。だからといって大学に入ればオッケーなのか?っつーとそんなことないだろうしさ、元相方なんかは早稲田だけど大学教育がトラウマになったぐらいまぁ酷かったらしくて、それは一般的なレベルでは早稲田のレベルは高いんだろうけど、元相方ぐらいのレベルになるとトラウマになっちゃうわけだよね。まぁ俺にとってもそれは少なからずそうだろうなって気はしていて、だからあんま楽観視できないってところがあるんだよね。結局コミカレ的な無駄な感じが永遠と続くのかな?っていう。まぁでもそれでもサブジェクトが数学なら楽しいだろうからいいんだけど。でもまぁ本当に分かるね。元相方は日本の大学じゃ本当に無理だったんだろうなって昨日話してても改めて思ったね。


でもまぁ人生経験として行ってみるのもいいんじゃない?ってのはあるよね。とりあえず俺は経験してないから分からないじゃん?で、あまりにも酷かったら中退すればいいわけで。学費が安ければ惰性でも学歴の為に居続けるけど俺が行こうと思ってるところって高いからね。学歴のためのあれだけ払うって感じのところじゃないからさ、まぁそれは先の話だからいいか。まずは入れるようにしないと・・・ってことで計算とかやるの嫌だってことでなんか堂々巡りだな。


もうやめようかなー。この辺で。結局なんかこうやって書いてて今の俺はこの虚無感を埋めるためにそこそこの義務としての大学という場所を求めてるんだなってことがよく分かったね。モラトリアムもいいところだけど、まぁでも俺は本当に数学が好きだからやりたいわけで、プライマリーな理由がそれなんであれば別に二次的な理由とかなんてどうでもいいと思うんだけどね。


やってて「うわー!楽しい!」って感動できることが凄まじく少なくなっている中で、例えば最近で言えばギターとかはやっぱ数少ないたまに上手いこといくと楽しいっていうものだったりするわけね。哲学に関して言えばもう無いね。そういう新鮮味を感じるというのはもう無くなったっつーかまぁそれだけ結構読んだってことなんだろうね。だからあとはもうディティールなんだよね。専門的なディティール。そういう意味でまぁ哲学学者的な研究だよね。やっぱフッサールとかシュトラウスとかスピノザとかさ、ニーチェにしてもそうだけど全く頭が哲学的にタブララーサだった頃はそりゃ興奮したよね。で、今は昔ほどではないにせよ数学的にタブララーサだからまぁ数学に刺激を求められるかな?って感じなんだけど、計算が好きじゃないって結構致命的だよね。好きじゃないっつーか面倒なんだよな。概念分かってればいいじゃん?って思っちゃうのね。数値なんてmapleとかで出るんだから。


まぁ今日はそんな感じかな。鬱っぽいときはとりあえず薬飲んでこうやって書くのが一番自分にとっての良い心理療法になってる気がするってまぁ昔からそうですけどね。