ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

狸さんへの返信。

昨日のエントリーに狸さんから書き込みをもらったので返信を1エントリーにするです。

狸 2011/02/05 14:40


お久しぶりです。狸です。


いつもエントリー読ませていただいてます。

前のやつはスルーして問題ないでしょう。そもそもあの記事が店の営業妨害になるということを証明することとして、検索の上で二番目にヒットするから、ということだったら、そこにいささかの意図性も見いだすことはできないですし。


さてさて、「言論の自由」を耳蝉さんが一つの「善」としていることはよくわかります。僕もそうです。今回コメントしたのは、「言論の自由」に関してちょっと質問したかったからです。


権力の濫用の拮抗という意味で、「暗殺」を挙げたのはすごく納得しました。三島由紀夫の「文化防衛論」の中の、学生との対話の中でも、「民主主義」、「言論の自由」は「暗殺」(暴力)とセットであり、「専制主義」、「検閲」は「粛清」とセットである、という図式を述べています。これは、先のエントリーにあるように、価値の問題でなく、どちらの体制を選択するかというところに帰着する。でも、問題を考える上で、とりあえず現在のところは「民主主義」は前提にしたい。それで三島も民主主義を前提とした上で、日本について述べていくことになる。そこで問題となるのが、「伝統」と「言論の自由」です。両者は基本的には、相容れないものです。


前者は、すでに与えられたものであり、自分ではどうしようもない不自由なものですから。じゃあ言論の自由だけでいいかというとそうでもない。「言論の自由」が横軸だとすると、「伝統」は縦軸です。横軸だけでは、全ては乱立し、文化は瓦解する。それを防ぐには縦軸が必要であり、三島はそこに「天皇」をあげました。けども、まぁこれは一種の三島のナルシズムの演出として日本で忘却されましたよね。で今の状況をみると、やっぱりそこは「外」の理想を、借りてやり過ごしているようにみえる。戦前なら西欧の近代化、戦後ならアメリカの消費文化。もっと遡れば中国の官僚文化。

 
最近ぼくは、日本という国を考えると時にあくまで地政学的な位置を考慮に入れないといけないと思ったんですね。それというのも、日本というのは、常に「外」に理想を設置して、その「外」によって常に自国の文化の動力を補ってきた。もちろん西洋も20世紀に入って「オリエンタリズム」なんかに代表されるように、「外」を設置して、行き詰った自国の文化を回してきた。けれど、西欧と日本の決定的な違いは、西欧が美的な理想として「オリエント」を認めた上で、学問的には「劣る」という二つの価値を織り交ぜて、結局はあたかも自分たちで自国の文化を回すというスタイルをとってきたということです。


だから、例えば耳蝉さんの日本の文化の批判というのも、僕は「外」の西欧、アメリカに理想がある、という日本土着のシステムを補強するものとして享受されていくように思えるんです。もちろんこれは実際そっちで体現されているとかいうことじゃなくて、あくまで理想をそこに投影するというか。
 

そうゆう日本において、日本に住んで、日本語で文章をかく人間として、耳蝉さんは前者の「伝統」の部分をどのように考えているのかなぁ〜と思ってコメントした次第です。「言論の自由」に対する重要性、またそれに付随する「暴力」の重要性はいつもエントリー読んでいて「なるほどなぁ」と思い、じゃあ、言論の自由に付随する縦軸をどのように考えているのかなと。相変わらず、まとまりなくてすません。まぁ、ようは、衒示的消費みたいなのを徹底的に批判する運動そのものが耳蝉さんにとっては「縦軸」なのか、それとも、日本を批判することで、常に文化の中に空洞をあけ、そこに外の「理想」を動力として注ぎ込むのか。みたいな問いです。



*以上は耳蝉さんの記事に関する僕の独断と恣意的な解釈なので、その点はご了承ください。


書き込みありがとうございます。相変わらずエントリーに対しての読解と解釈が完璧過ぎて感服します。


三島由紀夫の議論はダイレクトな感じですね。まさしくそれです。


で、問題の横軸と縦軸なんですが、いつも書くようにウォール伝にイデオロギー的な意味合いも伝えたいことも無くて、ただハイパーグラフィアなやつが書きたい衝動に駆られて書いているだけなので「批判する運動」というほど対してものではないのですが、結果的に「批判する運動」に見えていたらそれはそれでオッケーなんですけどね。つまりは僕が言いたいのはウォール伝の場合、憂国でもなんでもいいんですが、そういったものを考慮した作為が無いんですね。ただ書きたい事を書いているだけなんだけど、でも結果的にそこから憂国や現状の社会を批判するというある種の一貫した姿勢が浮き彫りになっている感じで、自分としても自分の書いたものを見て「ああこんな風に考えてるんだな」って思ったりするんです。馬鹿みたいな話ですけど本当です。


なのでまずウォール伝的なものは置いておいて話をしたいと思うんですね。「僕は言論を信じている!」みたいな運動としてやっているわけではないので、作為無しのただ考えて書くのが好きなやつの意見として聞いていただけるとありがたいです。つまりは僕が言う意見とウォール伝を繋げないでほしいんですね。いや、変な話なんですけど、僕が行為として縦軸にしろ横軸にしろ作為的にやるということは今の所ありえない感じなんですよね。やりたい!とは思ってるんですが、力不足をやはり感じたりしていて、運動レベルまで行くにはまだまだだなって思うわけですね。


・・・とまぁとりあえず分かりづらかったかもしれませんが、ウォール伝を置いておいて話すとですね、僕にとってのイメージとしての縦軸はズバリ危険人物になることです。言わばニーチェ的なダイナマイトですね。ニーチェは広く読まれていますけど、あの思想を実践しようなんて思う輩はいないか少ないわけです。まぁようは色々な意味で反社会的ですからね。でもこの「反社会」というのが僕の中ではキーワードなんですよね。それはとりあえずパンク的に何かに抗うというよりかは、社会や世間や風潮みたいなのに一切構造化されたりしない特異点的な存在として常に人間としてあるということですね。それは座標的に言えばどこにも属さないと思うんです。縦軸は権力や天皇と言った分かりやすいものではないと成立しない軸ですが、僕が言う軸の無い人間というのは言わば社会的に見ればただの気違いですね。


そこでまぁ三島そのままみたいになっちゃいますが、一千万人とか相手にしても俺一人だ!というのが言論なんですよね。別にこれは三島の引用というよりかは僕がそう思っていて、三島も同じようなことを言っていたということです。下手すればこれは気違いなんですよ。本当に。それこそ相手が一千万人なら精神病院送りとかにされるかもしれないわけですよね。


でも言論を民主主義の中で突き通すというのが、結果的に横軸にも縦軸にも属さない生き様のような様相を呈するようになって、宮台真司さんみたいな言い方になりますが、それがようはミメーシスを生み出すようになると思うんです。三島は死にましたが三島の思想は死にませんね。僕みたいに共感するやつとか、自力で三島みたいな思想に行き着くやつが必ず出てきて、とにかくまぁ徹底的に言論を突き通してきた人間の思想というのは不滅なものだと思っているんです。ちなみにその元祖がソクラテスですね。横軸どころか縦軸どころか時代を超越しちゃっていますよね。それこそ横軸と縦軸と時間軸みたいな全てに属するような影響力を結果的に言論を突き通すことで体現した人間ですよね。まぁそれが全ての軸に属することになるのが、軸すらも超越するということになるのか、なんと言えばいいのか分かりませんが、僕がさっき書いた危険人物というのはソクラテス的な意味での危険人物です。で、イメージ的には縦軸と書きましたが、横軸縦軸時間軸みたいなのを超越するという感じです。


ちなみに僕は以前はアメリカにその「外」の西洋を感じていましたが、実際、言ってみて理想からはほど遠い国だと思ったわけです。当然、民度は日本なんかと比べられないぐらい高い国で、まぁそれは相対的に見て日本が低過ぎるだけで、アメリカが格別高いとは思わないのですが、あれはつまりは最低レベルですよね。学歴で言えば中卒みたいな感じです。日本はまだ幼稚園レベルぐらいだと思うんです。では高校や大学はどこか?というとそれには規範となるようなモデル国家はまだ存在しませんよね。もしくはそんな国家は永遠に存在しないのかもしれない。でもそこで僕が言うイデア的な「善」ということになるんですが、どこにも無い場所としてのユートピアを常に求め続けるという姿勢こそが、つまりは理想を追い求める姿だと思うんですね。で、その理想の鋳型にもレベルはありますが、最低ラインで、人が飢えないとか殺しあわないとか不幸じゃないとか自殺しないとかってのは自明なことですよね。


でも今の日本ってまぁ殺しあうような殺伐とした雰囲気がありますし、電車でゲロ吐く人とかいますし、駅のホームで怒鳴りあいをしたりだとか自殺したりだとか、まずそのさっき僕が書いた中卒レベルすらも行ってないという感じがするんですよね。そんな中で「でもこれが現実だ」なんて言ってたら終わりですよねってことを前に書きましたね。「いや、でも悪徳な商売が横行するのはしょうがない」とか、恐らく「いや、引っかかったお前が馬鹿だろ」みたいな意見もあるというか、そういう意見のほうが多いような気がしますねってまぁそれは母に言われたことですけど。でもこれって凄まじくようは善やら正義という観念に関する諦めがあると思うんですよね。もしくはシニシズムとかニヒリズムのようなものとか。僕みたいに理念的なことを言うやつが大人になれない青二才が言う意見みたいになるって、それって社会の理想のレベルが低いってことなんですよ。もしくは理想なんて無いとか、求めるものなんてないというような諦めですよね。なので「何熱くなってるの?」みたいになるわけです。


でも例えばですよ、例の本屋の話は置いておいても、例えばあからさまに騙すような目的に合法的に先導して金を巻き上げるようなビジネスがあったとするじゃないですか?まぁ商売でも何でもいいんですが。それってまぁ引っかからないように気をつけよう!というのも当然持っていなければいけないものではあると思うんですが、それ以前に「酷いやつだな!」というような、人間として感じて当然のところを現実だなんだという理屈をつけて諦めるというか、そういうことを感じられなくなってるとかって凄まじい正義や善に対する不感症だと思うんですよね。僕はそういう不感症なやつらが大嫌いなんです。


そういう人もいるからと言われても僕は認めたくない。そういう人が結果的に悪徳に加担することにもなりかねないし、理想の低い社会の民主主義をより退廃させるような原因を作りかねないわけですというか作っていると思うんですね。ナイーヴだとかなんだとか言われようが「人として許せない!」というような当たり前の感覚って持ってないと社会って終わると思うんですよ。いかに法に触れない中で利己的に動くのがいいのか?というような、前に書いたサイコな意味でのマキャベリズムが「賢い」みたいに思えてくる腐った社会になるわけですよね。騙されるやつも悪いけど、そもそも悪いのは悪徳のほうですよね。何しろ「悪」がついているわけですから、それは絶対悪じゃないですか?


そこに悪徳の存在すらも容認してしまうというような感覚があってはダメだと思うんですね。僕は少なくともそんな感覚を持ってるやつとは付き合おうとは思いませんし話もしたくありません。人間的に軽蔑しますね。そいつが実社会で上手くやっていようが金持ちだろうが人間的にクソだと思うので徹底的に軽蔑します。でもそういうやつが一班的には勝ち組だなんて言われてる場合もあるわけですよね。そういう表面的なものでしか人間を評価しない経済的なものが主な基準の社会的ラベリングというのも本当に害悪だと思います。


正直者は馬鹿を見るみたいな言葉がありますよね。あれってまぁようは正義や善に対する諦めなんですよね。もうそんなことはありえないから馬鹿にならないために賢く振る舞おうという、言わば正義や善の放棄ですよね。でもそれを放棄する人生になんて僕は価値は無いと思うんです。それはアメリカも一緒ですよね。少なくともアメリカに理想が無いことは確かです。なので僕は理想はやはりイデアにしか無いと思っているわけです。みんなが餓えない社会なんて無理かもしれないけど、でもなるべく殺しあったり餓えたりしない社会を目指していこうという、そういうような理念を個々が持つということですね。


「まぁそんなの無理だよ」って意見が聞こえてきそうですが、まぁ僕もそうだと思うので、だから民主主義は無理だと思うんです。でもシステム的に今の所は民主主義以上のものがないのでこれでしょうがないと思うんですけどね。他の人は無理かもしれないけど、僕は理想を自分の中に描くというか理想があるんですよね。それがイデアだって思ってるんですけど、それがあるからこそその必要性や素晴らしさを説くというと大げさですが、封殺されようが言い続けるというのがつまりはまぁプラトンの洞窟の比喩で言うところの哲学者ですよね。僕は自分が哲学者だとは思いませんが、洞窟の外の太陽を知っている人間だと自負しています。これまた気違い扱いされそうですけど、でもそんなの関係ありませんね。一千万人が相手になっても僕は自分の言論を持ち続けます。で、それは別に横軸や縦軸などに規定されないイデアという超越的なものに感化され続けるということだと思ってるんですね。


ちなみにこういう話をしても「んー・・・それは正論なんだけどさぁ」っていうまぁその正義とか善という感覚から言えば正しいかもしれないけど、現実は違うっていう、まぁ大抵の人はそんなことを言うんでしょうが「そうなんだけどさぁ」って言えるということはやはりその人にもイデアは見えているわけですよね。仏教で言えば仏性みたいなもんですね。僕が言うイデアと仏性は違いますが、見えていたりそれが宿っている人は少なからず存在するという意味で似ているということです。


あと僕が言うこういう言論ってかっこわるいじゃないですか?ポストモダン的なアイロニストとかニヒリストのほうが哲学的に洗練されているように見えてかっこいいですよね。僕が言うイデアとか正義とか善の感じって初歩的過ぎて古典的過ぎてなおかつナイーヴで洗練されていなくて荒削りでダサいですよね。それでもこれは僕の言論なので言い続けるんですよね。まぁ思想的にはレオ・シュトラウスの影響をかなり受けていますけどね。で、全然まだ書いてませんが、伝統についてなのですが、日本で言えば僕の伝統の解釈は最高にラディカルなもんだと思っています。


それこそ言論のために人を殺すとか暗殺するとか、そんな過激なことをやっていたのが日本で、今みたいなインポ体質は少なくとも日本の伝統とは大きくかけ離れていますよね。今のインポ体質はアメリカに玉抜きされた去勢された日本人がアメリカに追いつこうと必死になって作り上げてきた虚構の社会です。常に日本が「外」に理想を設置する癖があるというのも戦後に特にアメリカへの憧れというのがイデオロジカルに広まっていた結果で、追いつけ追い越せ的な感じの体質が完全に染み付いてしまっていて、日本人が日本人としてどう生きていくか?とかどういう社会を育んでいけばいいのか?ということを考えられなくなったというか、考えてこなかったと思うんですね。あくまで理想はアメリカ的なものにあって日本がどうやっていくのか?という日本を主体にした理想というのは無かったと思います。逆にそれが行き過ぎたのが戦前ですよね。あれは日本が日本としてやっていくことを考え過ぎて大東亜帝国みたいなのを作ろうと思ったわけですよね。侵略が良いはずはありませんが、日本という主体で動いていたのは確かだと思います。


ちなみにナショナリズムというのは当然の感覚だと思っているんですね。僕は今の日本は好きではありませんが、同じ日本人が行き辛いと感じていたり自殺しているというのを見てどうでもいいって思わないんですよ。世界平和もいいんですがまずは日本からですよね。自分がそこに属していて友に善い社会を育んでいこうと思うならナショナリズムがなければ成立しませんよね。それは左翼が革命を起こしたがるのもナショナリズムからなので、僕が言うナショナリズムは別に国粋主義的な意味ではありません。


人がちゃんとやっていける善い社会を近い場所のここに作りたいとか、現状がダメだから変えていきたいって思うのがナショナリズムなので、右左関係ありませんね。僕はアメリカに言っても「アメリカ社会がどうあるべきか?」なんて一切考えられなくて、常に日本を考えながら「アメリカはへぇーこうなんだ」みたいに学んでいた気がします。外に出ると愛国心を自覚するという典型的な例ですよね。日本についてどうでもよかったら留学中に村社会がどうのだとかなんだとか日本的なトピックを取り上げて批判しようとかって思わないですからね。あっちでやっていこうと思っていてもずーっと気になっていたのは日本社会なんですよね。これがつまりは当然の感覚としてのナショナリズムですよね。


ちなみに伝統というのは守るものではなくて伝統の良いところを常に学び続けるという姿勢だと思います。ただ伝統を守り続ける伝統主義なんて時代の流れと共に行き詰まるのは当然ですね。守るものではなくて改変していくものというかなんというか、で、その伝統的なものがどんどん洗練されていってそれが伝統としてまた受け継がれるというようなことですよね。なんといいますか、なぜそれが伝統として受け継がれてきたのか?という理由を常に知っていないといけないということですよね。ただ伝統を守るということに固執し過ぎていたら思考停止になりかねませんからね。


どんな伝統だってそれが守られてきたその共同体や民族にとっての利点があったわけですよね。もちろんそれが無い伝統もありますよね。孔子だったと思うんですが、頭を切って川に流すという生け贄の儀式みたいなものが残っていた村があって、それを思考停止的に実行している村人に対して「そんなものは何にもならないことだからやめなさい」って戒めたみたいなエピソードがあるんです。かといってもそれは社会力学的に見ればその儀式をするということが村の連帯を強めていたいり、つまりは一見非合理的なものに見えるような儀式やら呪術めいたものであっても実は共同体にとって良い機能を果たしていたらそれは一概には否定できないんですよね。そういう裏のまた裏みたいな堂々巡りがあるわけですが、こういった吟味が常に伝統に対して必要ということですよね。で、明らかに必要ではなかったり無駄どころかやらないほうがいいようなことは廃止にしていく必要があるわけですよね。


ちなみに日本独特のタコツボ化とか村社会的な考え方というのは僕は文化だと思っていません。文化というものはどんどん洗練されていくものというか、それが絶対的にその国民に対していいものじゃないといけないと思うんです。そういう意味で冗談抜きで日本のサブカルチャーは世界に誇れる文化だと思いますが、僕が批判しているようなギョーカイ体質やタコツボ化する社会というのは進歩的ではなく、多くの場合、古い世代の既得権益を守る為に悪用されているような悪しき権力のシステムという意味で文化の逆だと思っています。つまりは文化を破壊するようなものですね。それは本当の文化の為に壊さなきゃいけないシステムです。良い働きをしていないというのは明白なわけですからね。


ちなみに割と若い世代では嫌になるような体臭がするようなおっさん世代の古いシステムとかに疑問を持っていたり迎合しなかったり迎合しようと思っても精神的に出来なくて会社を辞めてしまうだとか、それってつまりは精神が健全な証拠なんですよね。そういうちゃんとした感覚を持った若い人達が彼らの新しい感覚で日本を作り上げていけば今よりかは絶対マシな社会が出来ると思っています。カンブリア宮殿とかでも新感覚なリベラルな会社とかって紹介されてますよね。


まぁあれはほんのごく一部なんでしょうが、日本という場所でああいう組織がやっていけるどころか収益を伸ばしていたりするとかってつまりはそれでやっていけるということですよね。むしろああいう会社のほうが伸びていたり労働効率が高かったりして。だから人をコキ使って過労死とかさせてる割に効率が最悪な会社とか潰れればいいと思ってるんですね。まぁコキ使って効率が良ければいいという話ではないんですけど。まぁとにかくまともな人が鬱になる会社なんて絶対いいわけがないんですよね。それを「現実だから」なんて認めていたら何度も書くように社会が終わりますよね。悪徳が栄えますよね。だからまともな感覚を持っている人ならそんなものに加担してはいけないわけですよ。居心地が悪く感じたり気分が悪いと感じる心を信じて加担するのを辞めたりそんな職場辞めればいいわけです。


ようは明らかに良くない職場なり事柄なり商法なりに対して違和感を感じるって人としての最低ラインだと思うんですよね。「悪徳もありだ」という意見もありますけど、これって僕としてはニーチェが言ってた「最後の人間」にそのまま当てはまるような終わってる人間だと思うんですよ。民主主義的で平等主義的であるからこそ、悪い意味での多様な価値も容認しなければいけないし、何より争うと思わないわけですよね。完全に人として終わりです。


この争わない感じがマズいという意味でのニーチェの近代批判は本当に的を得ていますよね。そこを争わなくて民主主義も平等もあるか!って僕は思うんです。悪徳も認める平等とか博愛って何なんだ?ってことですよね。引っかかるほうが悪いと考えるような価値相対主義もクソ以下の価値観です。そういうクソ以下の価値観に最後の人間が一千万人いようが抗うとか迎合しないとか自分の意見を言い続けるというのが言論ですよね。まぁさっきの三島の話に戻りますけどね。なので民主主義の内在されている矛盾を解くには民主主義的な価値観に常に懐疑的でなければいけないわけです。その上での民主主義ですね。これはレオ・シュトラウスの言葉ですが、「我々は民主主義の敵であり味方でもある」ということですよね。民主主義的な価値観に埋没してはいけないわけです。


民主主義的な概念に支配されればそれはただのイデオロギーですよね。洗脳とほとんど変わりがないわけです。でも基盤としての民主主義ならそれに対して批判もできて然るべきですよね。むしろ批判がなければそれは危ないと思うんです。それが僕としては最初に書いたシステムとか構造に構造化されないで常に特異点として言論を貫いて生きていくことだと思っています。まぁそれがウォール伝というかウォールデンに繋がるところでもあるんですけどね。市民的不服従の理論的なオリジンはソローですからね。ちなみに僕はその不服従が非暴力的である必要は無いと思ってるんです。暴力をなしにしたらシステム的に飲み込まれていくのは目に見えていますからね。最近の例で言えばイギリスの学費値上げに対する学生のデモですね。あれこそまさしく民主主義的な暴力を伴う言論の行使だと思います。三島も言っていますが、「殺される」という危機感が無ければ政治家なんてやりたい放題ですからね。


ちなみに地政学的な考慮は日本が日本としてやっていくにあたって必要不可欠なものだと思います。さきほども書きましたが、大東亜帝国建設なんてのはモロに地政学的な考慮だったわけですよね。完全に間違いだったと思いますが、岡倉天心が言っていた「アジアは一つ」というのは思想的に連帯の哲学としてはそこまで間違っていなかったと思いますが、大東亜共栄圏思想は本当にクズ思想ですけどね。岡倉天心の思想やら八紘一宇やら様々な日本の思想が換骨奪胎されたものですよね。まぁアジア主義と言っても日本なんてもうダメで中国とアメリカのヘゲモニー争いになってる感じがありますが、どの道、地政学的考慮というのは必須だと思います。それを考えていくと軍を持つなんて国防上当然のことになるわけですよね。僕はミリタリーライクなものは左翼体質があるので好きではありませんが、政治的に必要ならばそれは必須なのは自明なことだと思っています。


凄まじく長くなった気がしますが、とりあえず今回の返信にしてはこんな感じです。よろしければお返事ください。