狸さんともげらさんへの返信。その2。

狸 2011/02/07 22:38


返信ありがとうございます。


今回の耳蝉さんと僕の対立軸を出すとすると、僕がシステムというのが個々の要素から成り立っていることを仮定しているのに対して、耳蝉さんはシステムを個々の要素から半ば超越的に仮定している。前者の場合なら、個々が変われば微々たるものだけど、全体も変化する。後者の場合なら、個々の変化なんて砂粒みたいなもんで、システムそのものにハッキングかけるくらいじゃなきゃだめだ、という感じで捉えました。そのためには、耳蝉さんがしきりにいう「構造化されない」、つまりシステム外に立脚しなくちゃならない。ただ後者の場合のジレンマとして、「世界が洞窟という名のマトリックスで動いてたら根本的にそこに構造化されないで生きていくなんて不可能なんじゃないか?って思ったりもするわけです。」っていう問題がおこるということですよね。(間違っていたらお願いします。)


耳蝉さんが、今回のエントリーでいう「システム」という言葉は、「国」であり、「社会」であり、「会社」であり、「お金」でもあると思うのですが、僕はその最も根幹にあるものは「言語」だと考えています。「洞窟の比喩」の限界は、人間が言語を話す動物であるという点を考慮できていないため、カントの「もの自体」を現実の認識に組み込んでしまっている。そこは人類の哲学の知恵として、「言葉」を考えるべきだと僕は思います。フロイトラカン精神分析の成果の一つは、「もの自体」のような世界に対しても「言語」の分節を入れていったことです。その前提は、当然、人間は「言葉世界の住人である」という。


すると、前回エントリーの狂気のとこにも繋がるのですが、ニーチェも当然「言葉の世界」の住人なわけです。そして、彼独自の言語体系をもって西欧の大きい「システム」に対峙したわけですが、その言葉は「独語」です。別に誰もわからない言葉を話していたわけじゃない。ちゃんとした文法にのっとって「狂気」であったわけですよ。


だからシステムといえども、その前提は第一に「言葉」であることは否定できず、その上で洞窟の比喩の限界は乗り越えることができると思う。耳蝉さんがいう「根本の変化」というのは、誰もわからない言語を話すことなのか。そもそも根本とは何なのか。それこそ、脱構築じゃないですけど、「根本」というのはひとまず置いといた方が僕はいいと思う。それは言語にしろ、貨幣にしろ、システムの起源を問うことは今のところ不可能であるからです。生命の誕生、宇宙の誕生、どれも未だ説得のある理論はないし、そもそも起源がないことこそ、言語の本質であると僕は思ってます。


そこで次に問題となるのが、言語の上にできる「システム」ですよね。言葉が自分が生まれる前からあると同じように、システムもすでにある。そのシステムに対峙するやり方は三島や佐藤優みたいな場合と、僕みたいなささやかなやり方がある。


もし、僕が現在ロシア人であったり、朝鮮人であり、このやり取りが、ロシア、朝鮮でなされていたら、三島や佐藤優(彼についてはよく知らないのであまりいえませんが)みたいな言説を構成しようと思いますが、今僕は、日本のシステムを考えています。それで、今の日本を考えた場合、そこまで大きなシステムの変更をするより、個人の中のシステムを代替する方がいいと思うということです。「日本人として、それとも朝鮮人として生きるのか」みたいな選択が今の日本人に迫られることはまずありません。国外逃亡を考えるなんてこともない。民族紛争が起こることもない。ゆえに、僕はA→A´の代替システム(個人レベルでの)を提示したんです。


それで、大きなシステムに関しては東浩紀の考えが今のところいいと思っているんですね。これは前回のやりとりでも少しいいましたけど、基本的にシステムみたいな集合意識によって成り立つものはすでに所与のものとしてある。それに、我々の社会はその所与のものにあまりに依存している。「市場」というシステムを否定することは、中世ならまだしも、現在では不可能な点にきているし、すべきでない。そこで東さんが提示するのは、ネットです。ネットという空間も一つの大きなシステムですけど、他のシステムと異なるのは、「全てが可視化されている」ことです。その空間で「国家」というシステムの政治過程、まぁ議会だとかを移住してしまえば、少しはマシになるんじゃないかという議論です。*この話はおまけくらいの感じで。


で、まぁ今の人の意識を変化させるのに、国を変えようなんていってもシカトされるだけですよ。三島も結局相手にされなかった。それは「島宇宙化」っていう言葉で耳蝉さんも形容しているように、誰もが個々にしか関心がないからだと思う。だから、僕は島に橋をかけて、別の島に少し行ってみたらいいじゃないかと。そしたら、自分の島が沈んでも、そっちの島に入れてもらえばいいじゃないかと。「人間関係がなんとかなればオッケーな職場なり環境って凄く恵まれた環境だと思うんですよ。僕のイメージだとそういうのは凄くレアだなってことなんですよね」と耳蝉さんが言うのもすごくわかります。が、ようはそうした稀な環境があるというのも事実であって、小さな変化で環境がかわった、という思考モデルを採ったとすると、そうゆう稀な環境の人が、別の環境に影響を及ぼし、結局蜘蛛の巣みたいに派生していく。


当然これは、「じゃあ今のこの劣悪環境を変えれるのかよ」と反論がくるかもしれませんが、言論の効果はつねに「時間的」なものだと僕は考えています。だから、そうした劣悪な環境の、例えば会社の社長がいたとして、その息子がこうした意識をもって、自分が引き継いだら、ささやかだけど、会社のシステムを変えていこうと思えば、それは変化とみていいと。個人的な例ですけど、僕はなぜか鬱っぽい人によく相談されます。その時に、なんとなく僕という人間の環境との枝をコネクトすると、彼らは少し緩和されているように思います。それは彼にとっては大きな変化だと思うし、そこに「構造化されない」とかは全然関係ないとすら思える。劣悪な環境から、稀な環境の人のおかげで偶然にも抜け出させたら、次に自分も劣悪な環境にいる人にコネクトしようとなると。 耳蝉さんが実家で暮らす選択しがあり、その条件の中でブログという媒体をつかって人生をかけて書いている。


それこそ、「働きもしない奴の言葉なんか」という意見も当然あるかもしれませんが、これを見て、意識を変革した人は必ずいるはずです。第一に僕がそうです。今回、文章を書いていて、前回の駄文に比べると少しはマシになった気がします。それは、耳蝉さんがブログをしており、そこに僕が触発され、質問をし、やり取りをしたからです。こうしたやり取りが少しでも、他の人の意識に訴えることがあったら、それこそ小さな変化をですが、未来において少しでも劣悪な環境が変わっているかもしれない。「社会性がゼロ」というのは他人の効果によって決まるもので、僕が影響を受けた時点でもはや「ゼロ」とは言えない。もちろん、こうした効果は、さっきもいいましたが、時間的なもので、もの凄く苦しいし、孤独なものかもしれないが、言論で対峙するとはそうゆうことだと思います。


耳蝉さんが今回のエントリーをうまくかけなかったのは、なんとなくわかる気がします。それはもしかしたら、僕が稀な環境の人間で、耳蝉さんはそうじゃなかったという個人的経験から来るのかもしれません。それで、読んでいてふいに、古谷実の「ヒミズ」「シガテラ」「ヒメアノール」が頭に浮かびました。(的外れかもしれませんが勘弁を。)


ただ、社会という物語を考えるときに、乱数は避けられません。それは障害児だとか、雷にあたるとかと同じで、不条理です。劣悪な環境に遭遇するのも不条理です。不条理というのは、本当の「不条理」だけです。案に不条理を言葉にすべきでないし、日本に生まれた時点でかなり、幸せだろうと。しかも、戦争に行かなくていい時代に生まれたのだから。


耳蝉さんも自覚しているので、あまり言いたくないのですが、殊に労働の中の若者と大人になった瞬間にすさまじいルサンチマンの噴出を感じます。それは極端なほどの二項対立になって浮かび上がっている。すると、その熱が、逆に他の若者の、例えばちょっとしたイザコザを加熱させると思う。その二項対立を前面に出すのなら、同時にそれを受ける若者に対する訓戒的な、二項対立も提示しなきゃいけないと思います.
「子供の可能性は無限である。けれども、選択は有限である。」みたいな感じです。羽生が将棋について語るとき「可能性は有限なのに無限であることに魅惑される」、みたいなことを言っていました。


そうしないと、星野智幸の「俺俺」みたいになってしまうと思います。この話を簡単に言えば、二項対立の片方によった若者が、みんな「俺は〜〜な環境でさぁ」みたいに集い、知らない内に、全員が「俺」に同一化されてしまうという悲劇の話です。耳蝉さんが、劣悪な環境を辞めたのなら、少しでも辞めない人を作るべきであり、辞めることを正当化するべきでないと思います。「辞めるな」とアナウンスすることじゃありません。これは現実問題の次元の一段上の、抽象的な次元に置いてです。軸をずらすというか。空間をずらすというか。


で、少し回りを見れば若い人(40代くらい)で雇用を生む仕事をしている人はいます。村上隆は、日本の美術界の古い体質を常に痛罵していますが、同時に彼は「カイカイキキ」という自分の会社を作り、そこで社員数千人を食わしています。東さんにしても、これだけ不況の出版界で、「思想地図」という文芸雑誌を売り上げ、自分で作った出版社も軌道に乗せています。


僕が嫌なのは、会社を辞めてしまった若者が、同時にそうゆう新たな市場を自分で作るでもなく、時代と環境のせいにして自分を正当化することです。確かにかなりの劣悪な時代かもしれません。けども、ニヒルになるのが簡単と一緒で、劣悪を叫ぶだけなのはとても簡単だし、楽です。自己責任論はただちに唾棄すべきものですが、同時に時代と環境による正当化も唾棄すべきです。 もし、「小さな変化」のモデルを採れば、万が一の機会が来たときに反応ができる。それを「劣悪な環境がおかしい」に終始していても、何も変わりません。


あまりに長くなってしまったんで、次の文で最後です。


「僕はそれでしかやっていけないのでどの道、選択肢は無いといつも書いていますが、じゃあ共感はするけど選択肢がある人間はどうしたらいいのか?という問いにいつも答えられないんですよね。」


これなんか、耳蝉さんが最後に自分で分析してたから、改めていうまでもないと思いますが、やっぱりそこは耳蝉さんが「選択した」んですよ。で、自分にとって選択肢がある人間は選択をすればいいだけ。どの思考モデルがいいかを選択すればいいだけ。僕はニーチェのモデルを取っていますし、絵を描くときもゴッホのモデルを採択しますが、耳を切るきはありません。一人で暮らす気もありません。耳蝉さんの思考モデルが、実家でなくちゃできないなんて僕は思いませんし、そう思うことはただの選択を回避する「自由からの逃走」にしか見えません。


*劣悪な環境の捉え方が少し耳蝉さんと僕でごっちゃになってますが、「絶対貧困」に対しては、ただちに政府が対策を講じるべきだと思ってます。湯浅誠さんみたいな活動です。耳蝉さんがいう、「抗う力どころか考える力すらも失ってしまうような環境に置かれた人間」も絶対貧困です。言論でできることは、少しでも絶対貧困でない人間に訴え、意識を変革させるもんだと思います。マルクスは、ブルジョワ階級の人間です。その彼が、劣悪な環境に対する言論を、同じブルジョワ階級に訴えたというところに僕は感動します。


*今回は、少し辛辣な返信になってしまいましたが、このへんの忌憚のなさを遠慮するべきでないと思ったので、失礼を承知ですがご了承ください。


こんなに長く描いたのは、はじめてです。


返信ありがとうございます。相変わらずの文章の上手さと明確な議論のポイントと進め方に感服します。


狸さんと僕の対立軸は狸さんが書いている通りだと思います。そこの部分を明確にしていただいたおかげで、僕が言いたかったこともはっきりした気がしました。というのは僕はむしろその言語に規定されない超越性のようなものを言論や善や正義やイデアに求めているというか、僕が前の返信で「縦軸でも横軸でもないもの」と言っていたものこそがまさしく超越的なものなんですよね。言葉の話は凄く分かります。最近、僕はエントリーでウィトゲンシュタインに対する違和感というか「どうも合わないなぁ」みたいなことを書いたのですが、僕が違和感を感じるのは、まず彼の哲学があまり合わないというのは個人的なこととして、メインの違和感を感じるところというのは全てを言葉に還元してしまうというか、言葉で世界を語り尽くそうとしたり、分かろうとしたりするという姿勢なんですよね。僕が規定している善い社会とか善くあることって言葉では言い尽くせないところが多いというか、それは言葉で語る事を放棄していることではなく、それが感覚的なものだからなんですね。


例えば前にも書いた人々が殺しあわないほうがいいとか、殺伐としていないほうがいいとか、そういうのって当たり前にいいものだと思うんですね。いいというかどちらか?と言われれば殺伐としてないほうを選びますよね。殺しあわない世界が良いのは言うまでもないです。ただだからといってこの「殺しあわない」ということを明文化したりすることはできなくて、それは人々の善の感覚によってその時代と場所によって担われるもので、言葉によって伝達されるものではないんですね。むしろ善のために殺し合いが一時的に必要な場合もあるだろうし、定言的に殺しあうことを否定することはできないんです。ただ望ましいこととしての「殺しあいが無いということ」というのがあり、それは善の感覚によって担われるものなんですよね。なので長期的に善の社会を育めるという確信の元で殺し合いが行われて、結果的に殺しあいによって善が担保されたり善き社会が育めるようになれば、その殺しあいは善のために必要だったと人々が解釈することになるわけですよね。そういった形でしか善は規定できないし、むしろ争いごとを極力避けようとする姿勢が善を追いやってしまう場合もあるわけですよね。


僕が言う根本はこれまた抽象的になってしまいますが、これこそがまさしくイデアですね。僕が普段から書いているイデア的な善というのはこれなんです。無理だと思っていても誰もが思い描けるイデアってあると思うんですね。それこそユートピア的なことですが、育った環境や人種などが違っても、ユートピア的なビジョンって人間の間で類似があると思うんですよね。ちょっとまぁ違う意味になっちゃいますけど、天国とか極楽みたいなイメージが西洋東洋に関わらず似ているのと一緒です。それを思い描いて実現させようとする意志ですよね。一般的にはこれは「夢」とかって言われますが、自己啓発本とかに書いてあるような、思い描いたような自分になる!っていうのは自己改革プログラムとしてよく書かれていますが、これは社会にも言えると思うんですね。


もちろん自己改革プログラムを行って全ての人が思い描いた自分になれるかは分かりませんが、少なくともそれは僕にとってはやらないよりかはよっぽどいいと思ってるんですね。進む先が見えるしポジティブになれるし生きる力が湧いてきますよね。でも逆に理想が無さ過ぎると大抵の場合は厭世的になると思うんですね。あとは前に狸さんが書いていたような「なんとかその日を過ごしましょう」的なモデルを選択することになってしまうわけです。「まぁボチボチやっていけばいいじゃない」というのも僕は似たようなもんだと思っています。これって自分がそこそこやっていければいいっていう利己的な思想そのもので、もちろんそう生きる人を否定はできませんが、かなりマズい現実的過ぎる考え方だと思っています。


そこで仮に「自己」というのを「根本」とかって言い換えると、少なくとも自己の中で一番根本的なものはトートロジーみたいになりますがやはり自分自身ですよね。世界がクソだと思ったりつまらないと思うのであれば自分が変わるしかない。その変わった自分のパワーを持って社会も変えていかなきゃいけないんです。そういう意味では多少の考え方の違いはありますが、個人レベルの代替システムに異論はないんですね。でもこの「変えてやろう!」とかって思う意志とかってかなり気違いじみたものなんですよ。


それこそ言語や論理や合理性から考えたら「は?」ってなるような感じで、それこそシカトされるようなものなんですが、これは構造化されないということが大前提なんですね。というのは構造化されてしまうと、構造化された中で「変えてやろう!」とかって思うようになってしまうからなんですよね。まぁ言葉が微妙なんですが、超越的な気違いじみた感じがシステムによって緩和されてしまうんですよね。僕は基本的に狸さんの意見に異論はないのですが、狸さんが言う蜘蛛の巣的な変化って限界があるような気がするんです。「時間的」だからこそいきなり途絶える可能性があるし、封殺される可能性もあるし、蜘蛛の巣的な派生が一気に止まったり崩壊する場合もある。だから僕はそういった蜘蛛の巣的な派生の弱さも考慮に入れた気違いじみた変革の感じとか善の感じとか超越的な感じの必要性を感じているんです。


これが言わば僕の言いたかった特異点なんですね。特異点であるが故にそれは消失しないし時間的な制約も無いわけですね。その時間的な制約の無さの元祖がソクラテスなんです。場所も文化も関係無くて、彼に心底感動する人間は多くないかもしれないけど、どの時代にもいると思うんですね。それは彼の特異点が成せる技だと思っているんですね。で、それに相当共感するようなやつは自分も特異点でありたいと思うはずなんですね。タイプは違いますし政治的にも違いますが、三島は同じような超越的な感覚を持っていたと思います。で、特異点になれたわけですね。まぁそんなに詳しいわけではないのですが、僕が特異点だと思っている人物はキング牧師とかガンジーとかゲバラとかですね。まぁ言わば革命家達ですよね。


その革命性といいますか、革命的な感じとか超越的な感じって言語を介さなくても分かる人間には分かるものなんですよね。いや、別に狸さんには分からんだろうというつもりはなくて、ただそれはなんというか言語化しなくても分かっている人には分かっている感覚なんですよね。狸さんも逆に言語化すると言語化による齟齬が生まれる可能性があるぐらい概念的なものです。ちなみに僕はそれでもなるべく言語化したい!とは思っていますし、だからまぁ異様に書きたくなったりするのかもしれませんが、でもやはり完全に言語化なんてできていないわけですよね。それこそ言葉にできないような思いというか考えがあるんですよね。でもそれを伝えようとしなかったり「分かる人には分かる」的な感じで済まそうとは僕は思っていません。それはただの怠惰ですからね。


でも確実に言語化できるレベルで言えば稚拙なレベルかもしれませんが、おかしいことに「おかしいよね」って言うというような、人として当然の感覚を持つとか失わないことの必要性なんですけど、これも僕が今回やたら出てくる善のイデアを関係していることで、それって「おかしさ」を言語的に規定するのではなくて、明らかにおかしいという異様な感じを察知する普通の感覚ってことなんですよね。で、その感覚がなぜ人間に備わっているのか?というとそれを僕がイデアだと呼んでいますが、悪徳を容認してしまうような感覚の持ち主って狸さんが前の返信で書いていますけど人間の文化とか文明に対する冒涜だと思うんですよ。それこそあからさまに悪徳なものに悪徳を感じられないというのはどういう感覚なんだろう?という、それこそプラトンが書いていたような悪徳そのものですね。


悪徳は悪徳すらも理解できないわけです。なので徳なんて理解できないのは当然ですね。凄く話のレベルを落としますけど「公正さ」とか「平和」とかってもう議論の余地がないものだと思うんですね。そんなもの議論無しに全ての人間がそれこそアプリオリな善的な感覚で持っていなきゃいけない感覚ですよ。でも僕はその欠如を日々色々なものに感じるわけですね。でもそれって凄くベーシックなものなので、僕がいつも書くように、その徳やら正義って高度な政治哲学の議論なんて必要ないし、当たり前に人間同士が理解しあえるものだと思っているんですね。でもそれは備わっているかは分からないので、相当あくどい人間はともかくとしても、人間としてやっていくならそれが教育なのか言論でもなんでもいいんですが、常に想起されなきゃいけないものだと思うんですね。忘れてはいけないものですよね。


でも人として当然の感覚が僕がネガティブな意味で言う構造化されることによって失われる可能性があるというか、そのデフォルト設定がまず前提としてあるような善ではなく社会的な感覚になってしまうのが凄くヤバいと思うんですね。構造化への危惧をしつこいぐらいに書くのはそれがリアルな魔の手だと思っているからです。凄く怖いんですよ。これ。うちの母も妹も父も基本的に善人ですが、でも彼らのロジックは僕から見るとやはり社会の感覚に犯され過ぎているように思えます。妹は僕の影響を受けているようで、最近は凄く見直しますけど、母と父はやはりずーっと社会でやってきたので感覚が染み付いてしまっているんですよね。だからといって彼らに理念が無いとか人格が腐ってしまったということではないんですが、凄まじい諦めを感じるんですね。いや、それは恐らく普通の感覚なんでしょう。でも僕はその普通の感覚が非常にヤバいものだと思うんです。だからこそ特異点として構造化されずに善という名の洞窟の外の太陽を浴び続けることが必要だと思うんですね。


別に僕は一次元的な善の感覚を押し付けるつもりはなくて、ようは騙しあわないとか公正でいるとか無駄な嫌がらせをしないとか、凄まじくベーシックな部分のことを言っているんですね。これってイデオロギーでもなんでもないし、僕の思想でもなんでもないんですよ。善悪の対立というほど世の中はシンプルではありませんが、少なくとも僕が言っているベーシックなレベルでは子供にでも分かる善悪の話なんですよね。「いや、それは分かるけど世の中は違うロジックで・・・」と諦めることがつまりは諦めのロジックを受容するということであり、究極的に言ってしまえばそれは善の放棄なんですよ。善悪の価値が相対的な世の中を結局は認めるということになってしまいます。


僕の政治思想などを伝えるのは骨が折れることですし時間的なものだと思いますが、ベーシックな善は人類が共有できるぐらい当たり前の所与の感覚だと思うんです。前者は思想で後者は普遍性ですね。でも価値相対主義の世界だと普遍性は否定されますから、絶対的な善みたいなものは認められないということになるんですよね。で、前の返事にも書きましたが、「そうなってしまうよね」と相対主義的な価値感を理解した上で普遍性に戻るというよりかは進む感じですよね。歴史的に見れば相対主義が跋扈したのはニーチェ以降だと思うんですよ。人類で見ても凄く最近だしピンポイントですよね。


で、僕らが生きている時代が当然ながら現在で、それはもう相対主義的な価値観を経験している時代なんですよね。だからこそ次は普遍性だろうって思うんです。それは前時代的な普遍性ではなく進歩的な普遍性です。それは取り戻す普遍性ではなく相対主義によって明らかになった価値の相対性の上に立脚する人類が選ぶ普遍性ですね。それが無いと世知辛い世の中は永遠と変わらないと思うんですよね。ちなみにこれにも程度があって、アメリカはこの感覚がかなり日本に比べればマシです。日本が酷過ぎるんですけどね。でもそれはアメリカという外に理想を追い求める価値ではなく、善という基準からアメリカと日本を比べてみて日本が劣り過ぎているという意味で見えてくる差です。


まず手前のレベルとしてアメリカを見習うのはいいかもしれませんが、理想のレベルで追い求めるべきではありません。理想で追い求めるべきは僕が散々書いている普遍的な善なんです。それは信じるものではなく気付くものですね。「そういえばそうだよね」的な当たり前のことです。仏教者が仏教を押し付けるのではなく悟りに導くのと同じような感じですね。ソクラテスも基本的には同じようなスタイルというか辻説法的に善とか徳を説いていましたよね。ソクラテス的産婆術は善を気付かせる最良の手段なんです。僕が前から政治に必要なのはヴァーチューだと言っているのは、プラトン的な意味でもあるし、マキャベリ的なヴィルトゥの意味も両方あります。


悟りはレベルが高過ぎますが、僕が言うベーシックな善はレベルが良い意味で低過ぎますね。「人が年間3万人も自殺する世の中を良いと思えない」ぐらい当たり前のことです。でもまぁ人によっては「自殺するなんて馬鹿だよね」って書いたりしますよね。まぁ前に2ちゃんの不謹慎な書き込みについて書きましたが、ああいうのを見ると善という感覚がそもそも備わってない人達がやはりいるものだなと痛感させられるもので、まぁ凄くヘビーなんですよね。


例えば仏教とかならそういう人にも手を差し伸べるんでしょうが、僕はやはり聖人にはなれませんし、彼らに何かを語ろうとも思わないんですよね。それは元々善が備わっていない人に善の想起は不可能だからです。ブラック企業なんかはもれなく悪徳な人間がやっているものだと思うので、そもそも変える対象ではないんですよね。まぁ変えれればそれはそれでいいんですが、ああいうシステムでやっていけないようにするって法的に可能ですよね?それを今の日本ってやってないわけで、あんなものが跋扈している日本って何なんだ?って思うわけですね。


さっきも書いたかもしれませんが、僕は狸さんが支持する東浩紀が提案しているものとか、蜘蛛の巣的な派生とかAからA'でBというものに一切異論は無いし同意するんですが、でもまずはベーシックな善のインフラが整っていないとダメなんじゃないか?って思うんですよね。逆に狸さんがおっしゃる小さい変化で変わっていける世の中なら僕は何も言うことないんです。民主主義にも期待しますし啓蒙にも期待できます。でも僕はそれには悲観的なんですね。


善を失わせる環境やシステムや世間のロジックといった、言わば健全な社会を作る土壌を荒らしているようなものが多過ぎるので、そもそもそれは土壌が荒れているので健全なものは育たないんですよ。稀な場所から派生できてもそれは部分的な良い土壌の上のみの出来事で、悲観的に言ってしまえばかなりの数の荒らされた毒が蒔いてあるような土壌が多いと思うんです。それはもう人間がどうにか出来るレベルではないんですよね。その土壌を無くさないと毒に犯される人達は増える一方になるわけです。僕が言う根本の意味は色々ありますが、この「土壌」ということは「根本」の中に入っていることですね。ちゃんとした畑を耕した上で作物を作らないと作物は育たないですよね。


もしかしたら僕と狸さんの違いというのは実際はほとんど無いのだけど、社会の見方に違いがあるのかもしれませんね。僕はそれこそ狸さんが言うようなヒミズみたいな世界観を経験し過ぎてきたのか、まぁあとは不正やら汚いことやら酷い人間に敏感に反応し過ぎてしまうという意味でヒミズ的な世界観を生きていたかもしれません。まぁでも家はありますし家族は優しいですしあそこまで酷いわけではないですけど、あ、んでヒミズ繋がりで言えばヒミズの主人公は超越的な善の感覚を持っている人間ですね。


「悪はゆるさん!」というあの当たり前の感覚こそがなぜか浮いたようなものに見えてしまうのは、僕が語る善が狂気みたいになってしまうアイロニーそのものかもしれません。狸さんが書いていた「やるせない」感じですよね。本当にあれはやるせない漫画です。いや、最高に褒めているんですけどね。


で、話を戻すようですけど、狸さんには今回の僕の返信に対してもまた返信をしてもらいたいと思いますが、あとこれはダイレクトな狸さんへの質問として聞いてみたいことがあります。というのが僕がさっき書いた土壌の話です。いや、思考実験的なことなのですが、それはというとですね、8割ぐらいの畑が中国にあるような有害物質を含んだような畑で、それはもうその8割と買い取るなりして最初からやり直さなきゃいけないんだけど、それは物理的に不可能だとします。ようはそれで農業をやっている人達が大勢居るので、それをやってしまえば彼らが大量に失業することにもなるし、まぁ他の色々な理由によって不可能だとしておきますね。でも2割は狸さんが言う稀な環境と同じ意味での良い作物が育つ良い畑があったとします。で、その中で色々と育んでいけることもあるし、その2割の畑発で社会にアピールできるような何かを作れるとします。でも蜘蛛の巣の派生は8割の有害物質を含んだ畑には行き渡らないか、行き渡っても毒されて巣が腐ってしまったり邪魔者として排除されてしまうとします。


そんな中でその2割の良い畑だけでどうやって全ての畑を好ましいものに変えることができると思いますか?というのが僕の質問です。僕は散々書いてきましたが、強硬的にでも社会的に多大なる悪影響を有毒物質土壌が及ぼしていることで、善という解毒剤を8割に蒔くしかないと思っているんです。全ての人が変わったりはしなくても、人々が選択すれば良い作物を作っていけるという基本的なものが担保されていれば、蜘蛛の巣派生は可能になりますよね。それは土壌に有害物質は無いということで、蜘蛛の巣派生が途絶える心配も無いわけです。僕がさっき「いきなり途絶えるかもしれない」と書いたのは有毒な畑が多かったらそれは途絶えてしまうか、派生の範囲にも限界があるだろうと思っているということなんですね。というわけでこれについての狸さんの意見をお聞きしたいと思います。


あと狸さんが辛辣だったかもしれないと言っていたことについては凄くありがたく思っていますというか、それは結構自覚していることもありましたね。あとは相変わらず「なるほどな」と急所を突かれた感じは良い意味でいくつかありました。それこそ「劣悪な環境はおかしい」っていうだけなら簡単だし、前の返信の話で言っても「衝動」だけで書いているのは問題があって、推進力というのをもっと意識しなければいけないんですよね。狸さんがちょっと僕に批判したかのように見えることは実は全てではありませんが、結構もう自覚があることなんです。だからこそたまに無力感を感じるんですよね。いや、諦めはしないですけど、もっと何かできないのかな?とはいつも思いますし、推進力もどう確保していけばいいのだろう?っていつも考えていることです。


余談になりますがイギリスの学生のデモとか見てるとやっぱああいう国って最低限の「そんなのおかしいでしょ!」っていう感覚があるんですよね。だからデモをやるんですよ。イギリスも財政的な色々な問題があるのでしょうけど、今みたいな世の中の状況で貧乏な学生とかがイギリスにもいっぱいいるという中で学費を値上げするなんて気違い沙汰ですよね。


でもその気違い沙汰に異議申し立てをしないのが日本なんですよ。それは過剰な適応と妥協と社会のロジックに毒される結果なんだと思っているんです。まともな正義の感覚があれば吹き上がるはずですよ。我慢なんてしないはずです。でもなんで我慢してしまうのか分からなくもないですけど生存権ばかりを気にして不正にも目を瞑るってやっぱやっちゃいけないことだと思うんですよ。そういう意味で仕事が無くなるって分かるんですけど、その恐怖感をいい事にやりたい放題やっているブラック企業なんてみんな辞めちゃえばいいんですよ。そうじゃないとああいうところは食っていけなきゃいけない!って人が永遠に押し掛けるようになり続けますよね。


狸さんが「辞めるということを正当化するべきではない」という意見は僕らのやりとりには珍しくちょっと理解不可能でした。抽象的な次元において軸をずらすとか空間をずらすという行為はブラック企業で死ぬほど働かされていたら無理なことだと思うんですよね。そういうところで働きながら物事を考えるというのは不可能ですからね。そんなのは身体にも悪いし魂も蝕まれていくので、実家に帰れるみたいな選択があればとっとと辞めるのが一番いいと僕は思っているんです。本当はゼネストとかやればいいんですけど、それは日本人には無理っぽいですから言わないんですけどね。


ブラック企業って本当に絵に書いたような悪の組織ですからね。ネットで「あそこはこんな会社だった」って書こうものなら、それこそ名誉毀損とかで訴えてくるらしいですよ。こんなの社会に存在しちゃいけないでしょう。グレーゾーンというよりかは労働法に違反しているとか、パワハラがあるとか、法的に違法しているところが多過ぎるわけで、あんなの法が介入しなきゃダメですよ。僕が劣悪な環境ばかりを批判しているように見えるかもしれませんが、あれは何気に手っ取り早く法的に規制ができる、手近な意味で一番変えていきやすいものだと思うんですよね。あれだけ大っぴらに違法行為をやっているわけですから、法が介入できないわけがないと思うんです。なんで規制されないのかがさっぱり分からないんですけどね。それこそ政治に善の感覚が完全に欠落していて、「今な不況だからしょうがない」なんていう社会のロジックがあるんじゃないか?なんて思っちゃうんですよ。


赤木智弘さんが「僕らには戦争しかない!」って言ってたのは極端な意見ですけど、比喩的に見れば凄く説得力があるんですよ。ようはもう全部破壊してしまいたい!ってことですよね。不正がまかり通り過ぎているから全てを壊したいってことだと思うんですよ。まぁある種の革命示唆なのかもしれませんが、赤木さんの主張の根本にも「こんなの絶対おかしい!」っていう強いメッセージがありますよね。赤木さんは「何かがおかしい」程度に書いていますが、実際はそんなレベルの怒りではないと思います。そうじゃないとあそこまでの極論は書いたりはできませんからね。


あとすみません。まだあとちょっと書かせてください。補足になるんですが、狸さんが書いていた、フロイトや特にラカンのほうだと思うんですが「人間は「言葉世界の住人である」という」ことについて、僕は最初にも書いた通り言葉で世界が構築できるほど言語って万能ではないと思うんですが、でも基本的に言いたい事は分かりますし、反論はありません。で、僕が言いたかったことは、人間が「言葉世界の住人」であったとしても、そこにはまず善のストラクチャが必要ですよね。ストラクチャというかインフラですよね。ちょっと言い方がおかしくなるかもしれませんが、それこそ「言葉遣い」という言語世界に生きる住民である人間が持っていなければいけない言葉の振る舞いってあるじゃないですか?


この言葉世界のパラダイムで言えば、僕が言うベーシックな善はまさしく言葉使いです。で、言葉遣いについてのルールみたいなのを明文化するほどたいそうなものではないというのが、つまりは最低限の言葉遣いということなんですね。僕が強調したかったのは言葉という第一の前提にも前に存在する善のことなんです。それがつまりは僕の言いたかった根本の一つです。だから根本を変えるというよりかは、根本をちゃんとインフラとして作ってから言葉世界に生きなきゃいけないですよねってことなんですね。僕は今の日本はこの根本がガタガタ過ぎると思うので、これを変えない限りどうにもならないって思っちゃうんです。壊れている根本の最低ラインのレベルが高くない善の骨組みがある後に、言語があって、その上にシステムができる。まぁ言語に関しての意見の違いが僕と狸さんにあるとは言え、僕はどちらにせよ一番下の部分に善があればとりあえずオッケーだと思うんです。それは理想的な善という高いレベルではなく当たり前というレベルの善ですね。


もっと短く書こうと思っていたのですが、また色々と長々と書いちゃいました。前に書いたことの繰り返しとかも書いちゃったと思いますが、それは相変わらずのことなので多めにみてやってください。


・・・・とここまでが狸さんへの返信で、ここからは狸さんのもげらさんに対する返信ともげらさんの僕と狸さんに対する返信を貼っておくです。あ、これまた同じ理由でね。エントリーの一部として残しておきたいものなので。

狸 2011/02/07 22:38


もげらさんへ


耳蝉さんも言ってくれているように知識量だとか、勉強量はあまり関係がないのでどんどんコメントしてくれていいと思います。けれど、一つ僕がコメントする時に注意していることを言わせてください。例えば、大学でも高校でも、授業中に何か疑問があったとすると質問に行きますよね。けども、質問なんて大抵関連図書みれば書いてあるとわかっていても、先生の所に行きたい気持ちになる。これは、まぁ先生とコミュニケーションしたいという欲望なんですね。先生に、僕は勉強している学生です、と伝えたくなる。これと同じように、耳蝉さんにコメントする時も、そうゆう気持ちが確実に入っているのは事実です。


で、ここで僕が注意しているのが、それがコミュニケーションの自己目的化になっていたらダメだと思っていることです。例えば、このコメントで最近知った知識や本を耳蝉さんにただ提示するだけだったら、それは渋谷で女子高生が芸能人についての最新ニュースを話すことと全く同じです。(コミュニケーションの本質は、何かしらの共有トピックを媒介にした自己目的化なので、全然これが下らないとかじゃないですよ。)それをあたかも上の段階の会話みたいに錯角すると、ロクなことないってことです。


やっぱ、真剣な議論っていうのは、将棋じゃないですけど、一つの闘いというか、弁証を目指すゲームというか。でも、そうゆうコミュニケーション願望はどうしようもなくある。だから、それに拮抗するだけの「疑問」が熟成するのを待つという感じなんです。先生の質問にいくときも、どうしたら、先生に名前を覚えてもらい、かつ学術っぽい質問をできるかを考える。先生に、「あぁ、アイツはコミュニケーションしたいだけなんだな」って思われるは嫌じゃないですか。だからって、知識増やせとか、そうゆうことじゃ全然ないです。どっちかっていうと、問いの深度を深める、って感じですかね。


さっきのエントリーで言うなら、最期の「なんていうか、何かを疑問に思って、それを質問してもそこからうまく発展することは意外と稀です。なので、こうコメントして、それが返ってきて、それに触発されて、書いて、自分がこんなこと考えているのかぁ、と思うと、考えるというか、書くという行為は、根本から他者のネットワークに繋がってるんだなと感慨にふけってしまいました。それと、絵の感想ありがとうございました。 自分の表現物をみせるというのは、ひじょうに卑しい根性で、僕は大嫌いなのですが、この人にはどうしても見てもらいたい、という時だけ、見栄や卑しさを承知で提示してしまいます。なんていうか、言葉を話せるようになった猿が、「もしかしたら、こいつも喋れるのか?」と思って、話しかけてみちゃう心境みたいな感じというか。」


っていうのは、欲望です。で、それまでの長々と書いたのが、問いでって感じですかね。


で、縦軸と横軸に関してなんですけど、例えば議論する時に、お互い考えていることの違いは多かれ少なかれあるじゃないですか。その時に、たぶん同じ問題を共有しているんじゃないかぁ、っと思って質問するときに、いきなり枠をがっちり作るんじゃなくて、少し探り探りと言いましょうか。恋愛のコミュニケーションの比喩というか。いきなり、「好きだ」もいいですけど、「明日、授業何時からだっけ?」というメールからはじめて、少しさぐりを入れるみたいな。


議論を始めるときは、二つのやり方があって、一つは完全に議論の枠組みをつくり、テーマを決めて話すみたいな「NNK」の番組みたいな感じです。ただ、これは連想による逸脱が著しく制限されてしまうんですね。で、前回の耳蝉さんとのやり取りで、わりとゆるい枠の中で議論したら、色々と話が飛んで、本筋から離れたのが本筋になってみたいな繰り返しになって、僕としては凄くスリリングで面白かったわけですよ。でも、最低限の透明なふやふやなラインくらいは必要である。なので、今回は三島をだした次第です。


で、面白いのは、もげらさんが、こうしてコメントしてくれたことで、僕は自分の中で以上のようなことを考えているのか、と発見できたことなんですね。だから、まぁごちゃごちゃ言ってましたけど、全然コメントも発言もしていいと思います。


狸さんは知性も高ければコミュ力も半端じゃなく高そうだなぁーってまぁ俺のコメントはいいか。以下はもげらさんの返信です。

もげら 2011/02/08 02:12


耳蝉さん、狸さん、こんにちわ。


先日の僕のコメントについて狸さんが触れてくれたところは自分も感じているところです。まだ僕のなかでは諸学問が有機的に結びついてないために、切り貼りのようになってしまったり、自分の言葉で話せなかったり、色々とコメントしてから気付いてしまったんです。それで「あ〜何やってんだよ俺は……」って。まぁよくあるやつです。コメントを避けるようなことはしません。これからも色々とお二方に絡んでいければと思っています。けれど一生懸命自分の考えを述べている人に対して、僕もやっぱり一生懸命勉強して自分の考えを述べたいと思ったんです。うまく言葉にできなくてすみません。先日のコメントは変にナイーブに見えるかもですね。でも皆さんのフォローがすごく暖かかったです(笑)


時間がないのであまり細かいところに触れられないんですが、とりあえず反応しておきたくてコメントしました。


勿論ちゃんと全部読んでますよ(笑)耳蝉さんのエントリーも触れたいのですが、それはまた今度にします。


人としての温かみと、それを守りたい真摯さ、両者とも感じる文章でなんだか沁みました。うーん、なぜ大学にこういう言論がないのだろう。教授にふっかければこういう話が飛び出すのかなぁ、それとも何かつまらない規則があって話せないのかなぁ。ただ単にジャンクペーパーを書く官僚になってしまったのかなぁ。。。と本人に聞いてみようかなぁ。


それではまた。


書き込みありがとうございました。


僕のエントリーにも触れたいということで、また時間があるときにでもお願いします。色々な意見をお聞きしたいのでよろしくお願いします。教授に色々とふっかけてみるってのは余裕でアリかと思いますね(笑)