狸さんへの返信。その3。

狸 2011/02/09 01:55 返信ありがとうございます。


まず最初に、最後の二つの質問について答えますね。


「狸さんが「辞めるということを正当化するべきではない」という意見は僕らのやりとりには珍しくちょっと理解不可能でした。」


これは、確かにちょっと説明不足ですね。ここで言いたかったのは、今回のやり取りの論議において、これは「絶対貧困」の話であり、これはもっと現実的にそくした政治的戦略の議論が必要だから、こうゆう場での議論で安易にするべきじゃないんじゃないかということです。例えば、僕の親友がブラック企業で働いていて、心身共に疲弊していたら、「辞めろ」と当然言います。けども、ここで僕は「狸」というペンネームで、個人的責任の生じない理論を展開しているわけです。


そうゆう時に、なんていうんでしょうかね、抽象的な場でモロ個人的な「辞める」を無責任にアナウンスすることは、あまりいい効果がないんじゃないかと僕は思っているということです。もしするとするならば、それこそ現実問題を自身で直接の責任のもとで引き受け、精緻な政治議論をできるくらいじゃなきゃダメじゃないというか。僕は正直いって、まだまだ政治という問題に関する言葉も法律の言葉も持っておらず、また持つことがないかもしれない人間です。自分の空間から離れた国や社会を中心に置いた理論の枠組みをもっていない、ゆえに個人的な状況でのみ責任をもって、政治に関わるということです。(が、これも結局は自分の空間から届く範囲の政治に過ぎませんが。)ただ、これは自分の問題を耳蝉さんに転化してしまったものであります。申し訳なかったです。


 ラカンの話では、言語は「象徴界」(ストラクチャ)のもので、意味が「想像界」、そして「現実界」(カントの物自体)を置いています。構造の順でいうなら、
想像界
象徴界
現実界」ですが、どれも相互に関わっていて、ラカンはこれを「ボロメオの輪」の図で説明しています。ラカンらの言葉の捉え方のいいところは、言葉の世界を重層化したことです。それまでは、「想像界」と「物自体」の二つの世界だった。そこに、物自体を「象徴界」と「現実界」に切り分けた。言葉は確かに全く万能ではない。けども、言葉こそが、人間そのものであり、人間の世界を構築している。


例えば、イメージなんかは言葉じゃないでしょって反論があるかもしれませんが、イメージも「言葉」の一種です。人間が自己のイメージを獲得する契機として「鏡像段階」というのがあります。これは、鏡にうつった自分ではないものを、「自分」とみなすことによって、自己のイメージを幼児は形成するというものです。鏡に映った自己というのは、「代替物」であり、「表象」です。言葉というのも、その本質は「代替」です。


ヴィトゲンシュタインに対して、耳蝉さんが感じる次のような違和感はわかります。「僕が規定している善い社会とか善くあることって言葉では言い尽くせないところが多いというか、それは言葉で語る事を放棄していることではなく、それが感覚的なものだからなんですね。」。けども、ヴィトゲンシュタインは全てを言語に還元できるなんて思ってない。有名な言葉の限界として「沈黙」を彼は述べていますが、この沈黙というのは、初期値としてあるわけじゃない。よく、「言葉では表わせない」という感情表現があり、そこでイメージされているのは人間が感情の源泉を持っていて、言葉がいくつかを汲み上げているというようなものだと思います。


しかし、ヴィトゲンシュタインしかり、ソシュールの言語に対するアプローチというのは、逆です。それこそ感情と言葉は「倒錯」していることを示している。つまり、言葉を話すがゆえに、言葉では表わせない、沈黙が生じる、ということです。それは言葉の本質が「representation」というように、再び―現れる=「再現」だからです。つねに時間的な不一致が生じてしまう。その不一致の、まぁ意味の過剰であったり、欠如が「沈黙」になる。そして、その欠如や過剰を埋めるために、再び「言葉」(広く、音楽も演劇も絵画などの表現行為)をするのではないでしょうか。そして再び「沈黙」が生じるという。


「沈黙」というのは最初にあるようなものではなく、時間的にいえば、後から遡及的に前後するものじゃないかと。それで、耳蝉さんがいう「わかる」というのも、それは執着する「欠如」や「過剰」の部分だと思うわけです。言語化というのは、何も「言葉を話して概念を構築する」ことだけじゃありません。概念によって行動することも、「言葉」であると僕は広く考えています。それは三島が「正しいと思うなら、行動しろ」と常々いっていたからです。そうゆう意味で、常に「沈黙」に近づいては離れていく営み全般を僕の考える「言語」ととっていただければ幸いです。


でまぁ、この辺から本題に入っていきます。というかすでに入っていますが。


耳蝉さんが「殺し合い」と「善」の問題を提示してくれましたが、これはつまるところ「悪」と「善」の対立であり、フロイトの言葉を借りれば「タナトス」と「エロス」。少し長いですが、今回の話を進める上でとても参考になる文だと思うので引用させてください。フロイトの文化に対する考え方です。


「心理学的な観点からすると、文化には次の二つの重要な特徴があります。一つは知性の力が強くなり、欲動をコントロールし始めたことです。もう一つは攻撃的な欲動が主体の内部に向かうようになり、これがさまざまな好ましい結果をもたらすとともに、危険な結果をもたらしていることです。文化の発展のプロセスのために必要とされてきたわたしたちの心的な姿勢は、戦争にはあくまでも抵抗するものであり、それだけにわたしたちは戦争に強く反対せざるをえないのです。わたしたちはもはや戦争には耐えることができないのです。これはたんに理性的な拒否や感情的な拒否というものではありません。わたしたち平和主義者は、戦争には体質的に不寛容になっているのです。生理的な嫌悪感が極端なまでに強まっているのです。ですからわたしたちが戦争を拒否することの背景には、戦争の残酷さにたいする反感だけでなく、戦争にたいする美的な観点からの嫌悪感が働いているようなのです。」


おそらく、ここでフロイトが述べた「危険な結果」というのが、そのまま耳蝉さんが危惧しているし、主張している「善の危機」のことだと僕はとらえました。ただ、この文をみるとわかるように、善とは「文化」のことであり、それは殺しを「美的」に拒否する人間によって作られていったものです。フロイトがここで「美的」という言葉を使ったことを僕はエラいと思います。というのは、「善」も「悪」も価値判断ではないからです。ニーチェが「善悪の彼岸」というのも同じです。


悪という、「戦闘」を美的に好む人間。人間の「タナトス」に身をまかせる人間が一方にいるし、一方には「平和」を望む人間。もちろん、「タナトス」の中にも、「エロス」はあり、エロスの中にもタナトスはありますが。そこでまぁ、耳蝉さんがいうように、「長期的に善の社会を育めるという確信の元で殺し合いが行われて、結果的に殺しあいによって善が担保されたり善き社会が育めるようになれば、その殺しあいは善のために必要だったと人々が解釈することになるわけですよね。」というのは、フロイトがいう「危険な結果」を何とかするための発言だと思いますが、「文化」の前提は第一に「殺しは悪である」というテーゼです。これが屋台骨です。


だから、「危険な結果」のために屋台骨に手を出して、船を沈める可能性は大いにある。けども、それは必要でもある。最近僕は「罪と罰」を読んだのですが、あれは文化側から何とか「善」の修復を行なおうとするやり方の一つの答えだと思います。主人公のラスコリーニコフは人を殺します。と、同時に最後にはソーニャという愛によって、善として再生します。(「ヒメアノール」の最後の森田のシーンも僕は凄く考えさせられ、一つの再生と思いました。)こうゆう、物語的な強度によって文化の修繕は行なわれるべきだと僕は思っているので、最終的には「殺すしかない」という手段があるとしても、その前にあらゆる知恵、文化を総動員して、回避すべきであると。耳蝉さんの場合ですと、そこの飛躍が大きく、回避の努力が中抜きになっているように僕は思いました。(もちろん、これは前回のエントリーにもあるように、その極端さこそが、改善の必要条件という耳蝉さんの考えはわかります。が、論点を明確にするためご勘弁を。)


今回のエントリーで何回も出ている耳蝉さんの「善」の途方もなさというのは、今の社会なり人が「善」を前提にした文化に生きているのに、振る舞いとして「悪」を採択しているからだと思います。ただ本当の「悪」ではない。戦争があっても、兵士として出兵するわけでない。ざっくりいうと、善の「フリーライダー」ですね。そうゆう人に対しては、僕は前回のやり取りでいったように「アーキテクチャ」のメタ次元でやるのが一番有効だと思うわけです。これは、単純にある問題に対してどのようなアプローチで対応するのがいいかという話です。耳蝉さんのアプローチが有効なのは、わりと個人的な人にうったえかける時というか。それこそ、ソクラテス的な対話です。これは仮定ですが、ソクラテスはおそらく今の時代に生まれたら、渋谷の駆け込み寺の和尚さんみたいになっているんじゃないでしょうか。


土壌の話もこのあたりから答えさせていただきます。というのも、この土壌の比喩は平和を愛する人間「2割」と、好戦的な人間「8割」の話の寓意だと思います。で、重要なのは、「善」なんですが、この状況でははっきりいって「善」は駆逐されて終わりです。力の強い好戦的な人間は簡単に2割を我が物にします。けれども、善悪が渾然一体になっているのが人間といったように、8割の好戦的な人間が土地を支配したあとに、彼らの中から「善」が出てくる可能性があるのです。それは、例えば好戦的な人間の親しい人が、好戦的な人間に殺されたら、怒ったとか。赤の他人なら、何も思わないが、自分の愛する人の場合に生じた、それまでにない感情の発露。


すると、ようは8割の人間たちが、また分裂し合う争うわけですよ。今度は好戦的と好戦的かもしれませんが、もしも善に目覚めた好戦的が勝ったら、人殺しを禁じる「掟」をつくるわけです。今回の状況を僕は人間が「掟」をつくった経緯にそくして話しました。解毒剤という「掟」は撒くというよりも、生じるものじゃないかということです。生物世界でいうなら、ある環境にとって害悪だと思っていたものが、生命が絶滅することを回避し、新たな生命になったという比喩なんかが当てはまるのじゃないでしょうか。


と、今回も長くなってしまいました。もうすぐ終わりにします。


 「狸さんが言う蜘蛛の巣的な変化って限界があるような気がするんです。「時間的」だからこそいきなり途絶える可能性があるし、封殺される可能性もあるし、蜘蛛の巣的な派生が一気に止まったり崩壊する場合もある。」という話もありましたが、僕にとってニーチェゲバラもみんな「蜘蛛の巣」です。例えば、宗教革命の父みたいに言われるルターですが、彼のはじめは蜘蛛の糸のようなものです。それが、まぁ書物を経由したにせよ蜘蛛の巣的に広がって、これだけ影響を及ぼす。


ソクラテスなんか、「蜘蛛の巣」の最たる人です。こうした一人の人間の思想なり行動が、これだけ時代と空間を超越して影響を及ぼす。だから僕は、砂上の楼閣のような糸が、現在までにこれだけ影響を及ぼしたという事実に感動する。というか、ほとんどこの辺は耳蝉さんと全く同じだと思います。違うのは、視点の置き場所というか。僕が超越による個別の変化を支持するなら、耳蝉さんは超越による超越の変化を支持しているのかもしれません。


色々な二項対立を設置してみて、思ったのですが、僕の考えっていうのは、凄く女的ですね。善が生じるなんていうのも、ニーチェが女性が「孕む」といったように。その場の中で蜘蛛の巣というのも、レヴィストロースの「ブリコラ」的というか。冷蔵庫の中の余りもので、できるものを作りましょうというか。ようは女々しいんです。四人兄弟の中で三人が女なのが関係しているかもしれませんね。

 
返信お待ちしております。


返信ありがとうございます。


僕が展開しているような意見の大半は現実に即した緻密な理論や政治的戦略の議論が必要なものばかりで、はっきり言ってしまえば安易にするべきではない話題ばかりだと思うんですね。でもそれを言い出すと意見って言えなくなるじゃないですか?多分、それで言うとこのブラック企業の話題に限らず、安易に書かないほうがいいようなことって相当あると思うんですよ。ブログという場に残ってしまうので、あまりいい効果がないものも多いと思うんです。狸さんの言うことをそのまま受けてしまうと、現実的な政治の話は全部現実に即した政治的戦略の議論が必要なのでこういう場で安易に「辞めろ」とかって言うべきではないということになってしまいますよね。


ちなみに僕が抽象的に書いていることでも、基本的にそれは現実社会に関するものだったりするので、かなり言い切っている部分に関しては恐らく全て「安易に言い切らないほうがいい」ということになると思うんですよ。戦略も無しにそんなこと語るな!ってことになっちゃいます。それは確かにそうかもしれませんが、それで言うとウォール伝自体が成り立たなくなりますよね。狸さんが言う意見を言う前提は分かるんですが、それはちょっと敷居が高過ぎる気がします。僕らは素人なわけですし、読むほうだって政治のプロ同士のやりとりだとは思わないですよね。


かといって別にアマチュアリズムに安易に寄りかかるようなことはしたくないんですが、狸さんの言う前提の話はなんというか「それいっちゃおしまいよ」的な感じがします。それを言い出すとほとんどが最終的に政治に繋がることであるので、それは距離の問題なんであって、現実のことなのであれば、それは現実に即した政治的戦略の議論を必要とするものになってしまうんですよ。それを言い出すともう素人が意見を言えなくなりますよね。僕はこういうやりとりやウォール伝的なものはブログならではのものなので、アマチュアリズムも含めて肯定的に思っているんですけどね。


仮に僕や狸さんが30年後ぐらいに具体的な政治的議論をして何かを実行できるような立場にあったとしても、そこで議論されることは、僕や狸さんが若い頃に色々と議論をしてきた上に成り立っているものというか、議論してきたし考えてきたからこそ言えるようになることってあると思うんですよね。僕らは少なくとも今はそういう立場にあるわけではないですし、素人同士のやりとりをしているわけですから、そんなに高い前提に立たなくてもいいと思うんですよね。


僕が虚空に向かって「辞めろ!」と言っていることだって、何十年後かに「僕は若い頃はそういうものにはひたすら辞めろ!と言っていた時期があったけど・・・」みたいな話ができますよね。ウォール伝に書かれていることは断想なのであって議論の帰結ではないんですよ。まぁそういう断想の垂れ流しがどういう影響を与えるか分からないので安易に発信するべきではないのかもしれませんが、僕はそうは思わないので発信しているわけですね。そのなんていいますか、NHKとかに出るような「青年の主張」的なものとウォール伝って差はないんですよ。媒体が違うだけで、基本的にここに書いてあるのはもう青年と言えるような年齢ではありませんが、若者の意見なんですよ。


ちなみに狸さんと僕のやりとりは若者同士の議論ですよね。別にオンラインであろうがオフラインであろうがそれがただ文字になっているだけで個人的なやりとりには変わりありませんよね。それこそ学校の中のカフェテリアかなんかで僕と狸さんが喋りあっているようなもんです。そこに政治的戦略の議論って必要ないですよね。まぁあるに超した事はありませんが、お互い無理じゃないですか?僕はそういうものが練られるぐらいのレベルになりたいとは思いますが、今は僕が言えるレベルのことを言うだけなんですよね。それはお互いそうなんじゃないでしょうか?


なので別に凄まじく現実的で政治的戦略が必要な類の議論にしたって、僕らは僕らなりのレベルでやりとりすればいいと思うんですよ。そのやりとりって絶対無駄にならないですし、それこそ30年後かぐらいに読みなおす機会とか出てくるかもしれないですよね。それはやりとりの記録として全然アリだと思うんですよ。僕らは今はプロじゃないわけで、プロじゃないなりにでもやりとりはすればいいと思うし、現実的な話題にもどんどん意見を言いあえばいいと思うんです。


ちょっと本題になるまでに書き過ぎた気がしますが、ちょっとツッコミを入れたいんですが、ラカンフロイトの話が出てきていますが、僕は両者ともにちょっと色々と読んだぐらいの知識しかないので細かいことは言えないんですが、そもそも狸さんが言語についてなぜラカンの議論を出してくるのかがイマイチ分からないんですね。ラカンの哲学って科学ではないし、僕が知りたいのはラカンの哲学ではなくて、狸さんの意見なんですよね。今回の狸さんの書き込みはちょっと他からの転用が多過ぎる気がします。あとなぜ自己イメージの話や、表象の話なども全てラカンから拝借してこなければいけないのですか?


それがコミュニケーションであるならばもうちょっと自分なりの言葉で言う必要があると思うし、僕らのやりとりってずーっとそうだったじゃないですか?僕は普段からウォール伝にせよやたら他から概念を拝借してくることを避けていますが、なぜそれが嫌なのか?というと、「ラカンはこう言っていた」みたいなことを当てはめればあたかも自分がそれについて語れたような錯覚に陥ってしまうからです。それこそただのコピペになっちゃうわけですよ。そういう論文って多いらしいですが、僕にしてみればそれはナンセンスです。ラカンフロイトの理論も思考材料として知っておくぐらいだったらいいと思いますが、何かをそのままフロイトラカンの概念に当てはめるというのは個人的に凄く違和感があります。


あと個人的にこういう議論の中ではソシュールがどういっていたとかウィトゲンシュタインの言語に対するアプローチがどうであったとか、どうでもいいことなんですよね。僕が聞きたいのは彼らの概念ではなく狸さんの言葉なんですよ。今回はなんか軸をずらされてしまったような気がしました。「あれ?」という印象があります。なぜ自分の言葉で語ることをしなくなってしまったのかな?と思いました。あとなぜソシュールウィトゲンシュタインラカンでも誰でもいいのですが、「彼らはこういっていた」ということで、なぜそれがそのまま狸さんの意見になってしまっているのかな?ということですね。


それは彼らの哲学なのであって、狸さんのものではありませんよね。言葉の定義にしても沈黙にしても、なぜ彼らの概念がそのまま狸さんにとっての納得できるようになるものなのかがイマイチ分からないんですよね。あとは仮に概念を咀嚼したものであれば狸さんの言葉でそれは語れるものではないのですか?固有名詞をそこまで出してこなくてもいいのでは?と思ってしまいました。僕が「ウィトゲンシュタインに感じる違和感」というのは「全てを言葉に還元する」ということの違和感の例えとして言ったもので、もちろんそれは僕のウィトゲンシュタインの理解に関する勘違いであったわけですが、でも僕の言葉に対する考えはそのままなんですよ。


つまりは言葉というのは凄く限られたもので、その上に何かが成り立つほど万能なものではないということですね。あと色々な概念を持ってして定義する「言語」となってしまうと、それは共通語としての「言語」にならなくなってしまいますよね?狸さんが言語に関して広く考えているのはよく分かりましたが、でも普通に「言語」というものを書く時に、そんなに広い意味はないわけですよね。それは色々な概念装置を頭に持っている狸さんによる「言語」の定義になってしまい、それは他者とやりとりをするときに齟齬が生まれるものになってしまいませんか?それだとコミュニケーションが成り立たなくなっちゃうんですよね。狸さんが考える「言語」と僕が考える「言語」の違いしかそこにはなくて、何も発展できないというか、ちなみに僕が言語と呼んでいるものは辞書の定義の言語で、狸さんのような哲学的な広い意味合いはないんですね。


その辞書的な言葉の定義から言葉なんて凄く有限なものだと僕は考えるわけです。かといってそれは別に狸さんの言語に対する考えの否定ではないんですね。でもこうなってしまうと同じ言語でもお互いの定義が著しく異なる言語というものに関する議論になってしまうので、それはもう不可能ですよね。そもそも僕は狸さんの言語感にもの申したいことなんて一つもないんです。なんというかそれに対しては「そうですか」としか僕は言えなくなってしまうわけですね。だってそれってもう個人領域じゃないですか?だから僕に言えることは無くなってしまうんですよ。少なくとも僕はそのコミュニケーションのシャットアウトみたいなのを感じてしまいました。今まではやりとりだったのに、今回は狸さんの独り語りと概念の解説になってしまっていますよね。それこそ僕が普段独り語りをウォール伝でやっているように、それは自分のブログでやればいいことで、コミュニケーション上でやることではないのでは?と思いました。


それはフロイト云々の話も同じなんです。これもなぜフロイトを出してこなきゃいけなかったのか全然理解ができませんでした。僕の善に対する危惧をなぜ一旦フロイトに変換しなければいけないのかも分かりませんでした。すみません。今回の狸さんの返信にソフィスト臭を感じてしまいました。もしかして自分が固有名詞を出し過ぎていたのかな?と無意識的にやっていた可能性があるので、今までのやりとりを読み返してきましたが、そんなことは無かったようです。本当になんといいますか、「今回の狸さんどうしちゃったのかな?」という感じがあります。なんでそんなに理論武装しなければいけなかったのだろうか?と疑問ばかりが残ります。


いや、全然論点が外れているということではないんですよ。フロイトが述べていたことが今回の話を進める上で重要なファクターになるというのは分かるんです。でもなんでそこまでフロイトに即して話を進めなければいけないのかが僕には理解不能なんですね。今まで通りみたいにやりとりをやっていれば良かったと僕個人的には思うんですが、なんか狸さんの今回の返信は凄く異様に見えてしまいました。いや、元々そういう人はいるんですよ。凄く博学で色々な概念を知っていて、色々な概念装置を使って説明する人っていますよね。そういう人には大抵僕は「なんで自分の言葉で喋らないのかな?」とは思うんですが、別に論点が合っていれば問題ないんですよね。好みの問題ですから。


で、狸さんに関しては今回の返信は論点に関しては全然問題ないと思います。ただ僕が気になるのがこの変化なんですね。今までとは明らかに違う感じの返信が来ていて、しかもその大部分が今までの狸さんに無かったような、様々な既成の哲学概念によって説明しているというところなんですよね。切り貼り感が半端じゃなくて、それが返信の大半を占めてしまっている。それはズバリ聞きたいのですが、なぜそれをやる必要があったのでしょうか?僕にはそれがなんか軸のズレにしか感じられないんですよね。固有名詞が出過ぎているので凄く返信し辛くなってしまいましたし・・・。僕のウィトゲンシュタインの解釈が適当だったのは本当に申し訳ないと思っています。


あ、ちなみに全てがそうではないので返信できそうなところは返信しますね。「最終的には「殺すしかない」という手段があるとしても、その前にあらゆる知恵、文化を総動員して、回避すべきであると。耳蝉さんの場合ですと、そこの飛躍が大きく、回避の努力が中抜きになっているように僕は思いました」ということなんですが、これは本当に言えていると思いますというかウォール伝全般そうですよね。これは狸さんだけではなく結構色んな人に飛躍が激しいと言われます。「その前にあらゆる知恵、文化を総動員して、回避すべきである」みたいなワンセンテンスといいますか、これがあるだけでだいぶ違うのに僕はそれができないというかやれる場合もありますが、勢いに任して書いていてやれないことも多々あって、それは反省するばかりです。ちなみに僕の中ではその「回避すべきである」って明文化しなくても当然のことであったわけですが、でも明文化しないと飛躍に見えてしまうということですよね。今後は本当に気をつけたいと思います。


で、「今回のエントリーで何回も出ている耳蝉さんの「善」の途方もなさというのは・・・」と始まる狸さんのここからの返信は今までのような狸さん自身が言葉で語っていると思いますし、ここからに関しては僕も安心して書けるので書きますね。


で、その「アーキテクチャ」のメタ次元でやるって言うのは分かるんですが、でもそれって限界がありますよね?というのが僕の前回狸さんにお聞きしたかったことなんです。それは誰かが誰かに対して個人的なアプローチをするということではなく、悪を採択してしまうような価値観をどうしていけばいいのか?という話なんですね。で、これに関して言えば啓蒙にも限界があるし、一対一のやりとりは規模が小さ過ぎて全体の変化なんてもたらせませんよね。そこで僕は普遍的な凄くベーシックな善の必要性について書いていたわけですが、それは具体的に僕がどう人に対して対応していくのか?という問題ではないし、僕がソクラテス的であるかどうか?というのも問題ではないんです。


ようはその普遍的な善の必要性の是非が問題なんです。でもそれというのは誰もが分かるレベルの善であるので、むしろ僕が気になるのは、なんでその誰もが分かるレベルの善を人々は放棄してしまうのか?ということですね。いやがらせが無いのに越した事はないのに、なんの社会的・組織的メリットが無いような単純な「嫌なこと」をするのか?ということですね。そういうことをしたい人が結構な数いるなら、それはもうそもそも善なんて全ての人間に備わっていないというか、善悪の判断すらもつかない人間が多いということになりますよね。


それは気付かせることすらも不可能なレベルであるかもしれないので、まぁ全てにおいてではないと思いますが、結局、そういった善の欠落が社会に悪影響を与えるわけですよね。だからいかに善というものが政治的に社会的に必要なものなのかということなんですよね。結果的に個々の振る舞いが社会という大枠を規定するわけで、それだったらやはり人として最低限のラインのマナーというか善は守ってほしいわけですよね。あらゆる意味で悪くあることが社会にいかなる悪影響を及ぼすか?っていうまぁ単純な議論なんですけどね。でもこれって僕にとっては凄く本質的なことで、だから僕は凄く善とは何なのか?とか徳とは何なのか?ということが気になるわけです。


それが人間や社会にどう影響を及ぼすのか?ということですね。で、まぁ持論は言うまでもなく善や徳はあるに越した事は無いし、最低限のものがなければ生き辛い社会が出来上がるってことですし、この辺の現実への影響は狸さんも書いていたことなので繰り返しませんが、その善の欠如がなぜ特に日本に著しいのか気になるところではあるんですよね。これは僕が感覚で感じていることでまぁ主観的なことなんですが、でも明らかに日本人に嫌なやつが多いのは何でなんだろうか?って凄く思うわけですよ。アメリカ人は嫌なやつでも最低限の礼儀ぐらいは弁えてるやつらが多いんですよね。この差は一体なんなのだろう?と思うわけです。これが前の返信にも書いたアメリカと日本の善の程度の差ですね。ただ別に理想がアメリカにあるというわけではなくて、アメリカは合格ラインぐらいにはアベレージのレベルは行っているかな?という印象があるんですね。


あと土壌の話なんですが、狸さんの言うことに結構疑問があります。ブラック企業とか悪どい消費者金融とか詐欺をやっている人達が善を駆逐して悪徳が蔓延るようになったとして、なんで彼らが土地を支配した後に彼らの中から善が出てくる可能性があるのですか?僕は元々の8割の人間は利害関係で分立しあうだけで、善に目覚めるやつなんてまた駆逐されて終わると思うんです。善が生じるものなのであれば、ブラック企業にも善は生じる可能性があるわけですし、それは高利貸しとかメキシコの警官とかを平気で殺すようなギャングとかの中にでも善は生じる可能性があるということですよね?なんで善を駆逐するような人間達の間で善が生ずることになるのでしょうか?


僕は悪人は悪人のまま一生を過ごすと思っています。そのぐらい助けようが無いアコギな連中っていっぱいいますからね。いや、ちょっとでは質問の内容を変えますね。メキシコのZetasという極悪非道の麻薬組織がありますが、彼らがメキシコを制圧したとしますね。で、前回の土壌の話に繋げると、2割ぐらいの善良な市民を全員殺害して、メキシコにはzetasのメンバーしかいないとします。そのzetasの中で対立が生まれて内部戦争とかが起きる可能性はありますが、そこに善が発生して内部分裂が起きるとは到底思えないんです。だって警官とか女弁護士とか平気で殺すような集団ですから、そもそも善の感覚なんて無いわけですよ。そんな彼らの中からどう「善」が出てくるのでしょうか?殺されたら殺し返すというのはギャングによくある復讐なのであって善とは違いますよね。「共存の掟」は善ではありません。ヤクザの手打ちって善じゃありませんよね?


ポイントとしては彼らが善を駆逐してメキシコを制圧したというところにあるんです。それは善を知らなかったからではなく、無いのかもしくはそんなものはくだらないものだとして否定しているから善を駆逐したわけですよね。あとまぁナチスとかでもいいんですが、彼らに善が生じる可能性ってあったと思いますか?僕は善を駆逐するような好戦的な人間ってこういう輩しか思い浮かばないので、狸さんが言う好戦的な人間との違いはあるのでしょうが、それにしても善が生ずるということには非常に疑問があります。


あと蜘蛛の巣に関しては全く言うことはありません。僕も狸さんと視点の置き方が違うだけで基本的には同じですね。齟齬がなくて安心しました。


あと最後に、狸さんは自分の考え方を女的と言っていますが、それもあると思いますが、人間への信頼みたいなのを凄く感じますね。それこそ性善説的なものを感じます。僕はその逆の性悪説を取るので、だからこそ善を強烈な力で蒔かないと社会なんてどんどん退廃していくと思うんでしょうね。今の日本がそうだと思うんですが。


あとはあれですね、前に狸さんが安易なニーチェ解釈と言っていたまぁ無力になる言論全般の話にもなるのですが、徳や善を説いているソクラテスとか孔子でもなんでもいいんですが、広く読まれている割に実践者が少ない気がするんですよね。やはりそれはそんなのを実践すれば正直者は馬鹿を見る的な社会だからなのかな?って気がしますね。ナイーヴなこと言ってんじゃねぇ!っていう、それでもう善とか徳が理想的過ぎるものになってしまうという。ここに理想を諦めることの危険さを僕は感じるわけですね。少なくともそれは良いものだ!って分かっている人が多ければ望みはあると思いますが、まぁそうじゃない人も多いみたいですからね。だからまず何よりも先に善くあることという最低ラインの地盤が敷かれていないと社会は上手く行かなくなる気がするんですね。いや、社会は回るかもしれないけど非常に世知辛い世の中になるということですね。


今日はこの辺で失礼しますね。あと狸さんの返信の最初のほうの言葉全般に関する書き方を批判しましたが、内容は凄く面白いものですし、これはこれで独立したトピックになるので、よろしければ今回のやりとりが終わったらすぐにとは言いませんが、これに関するやりとりをいつかやりましょう。


お返事待っています。