ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

狸さんへの返信。その5。

狸 2011/02/11 02:02 返信ありがとうございます。


そうですね。「場」と「内容」が自分の中でうまく整理できてなかったのかもしれません。ホント、繊細なフォローしてもらいありがたいです。アカデミックに行くことに関しては、構造に飲み込まれたら、それまでの人間ということで割り切っているので特に気にしてないです。この辺は、野球を6年間やってきたからですかね。というか、半分冗談ですけど、僕が教授になったら報告しますね。プロ野球選手になるよりは簡単だと思うので、頑張ってみます。ちなみに分野は零細の20世紀の西洋美術と美学です。耳蝉さんも言論一本で食えるようになったら、ぜひ教えてください。


完全な悪の例として、快楽殺人者とアコギな商売する連中の二つが出たと思います。けども、この二つが僕の中では全く別のものなんです。快楽殺人者に関しては、天災、病気と考えています。というか、何に快楽を感じるかというのに価値判断はつけられません。例えば、人間の性愛はヘテロが一般的にみえるかもしれないが、これはかなり文化的なバイアスがかかっているもので、ホモもバイと本質的には同じです。人が苦しむ表情に快楽を感じるのも、健全な性交で快楽を感じるのも、動物を殺して快楽を感じるのも、基本的には同じです。


僕は今、癲癇の症状がある障害者の方たちのケアをするアルバイトをしていますが、彼らの趣味思考は実に多彩です。ある人はマジックテープをはがす音に興奮して、数時間その行動をしますし、ある人はとにかく四角い形のものに反応して喜びます。こういった人たちをみて、いかに快楽がバイアスのもとにあるのかをわずかながら実感しました。 ただ殺人の快楽を認めてしまうと社会が安定しない。だから人の生死に関わる快楽に属する人間を抑圧するような文化体系をつくってきたということだと思います。ボクシングなんていうのは、人を殴ることに快楽を感じる人の欲望をうまく体系に組み込んだものだと思いますし。


快楽殺人者なんかの狂人なんていうのは精神病患者なんかと一緒に依然は閉じ込めていましたが、今ではある程度治療の対象です。殺しの快楽の原因が幼少時のトラウマにあるだとか、まぁ批判も色々あるし、安易に解釈すべきではありませんが、一種の病気のようなものだと考えて社会の中に位置づけています。だから、「悪」とは思っていません。


これに比べると、アコギな商売の人たちの方が今回の議論での「悪」の対象に入るのは実によくわかります。というのは、彼らは「合法」であるからです。ようは「善」のフリーライダーですよね。そこで「実際の世の中って善であるということが不利に働くことが多いと思うんですよね。それは力学的に悪のほうが絶対的に強いからなんですよ。彼らは何でもできますし人を欺くこともできるし合法ならなんでもやれるわけです。」という意見は確かに一側面の事実ですが、僕は善のほうが立場的には優位だと思っています。というのは、彼らは「合法」でなくては活動できないからです。


ちょっと迂回しますが、個人的な話をさせてください。僕は現在実家で暮らしていて、大学生という身分はありますが、ほとんど家と図書館を往復する毎日です。その毎日の中で、一番利己的な振る舞いはできるだけ将来のために本を読むことです。けれども実際はそれが一番利己的ではありません。一日の1時間でも家事に時間を当てることの方がよっぽど利己的です。それは、その1時間が自分のためでなく、誰かの代わりをしているからです。面白いもので、人のための働きというのは、その1時間が数倍になってかえってきます。この例でいうなら、その時間によって、より安定した読書時間が確保できるのです。もしも、家事をしなければ、ご飯を作ってくれなくなり、自分で作ることになり、余計に時間が取られるということだってあるからです。


善の性質も基本的にはこうゆうものだと思います。人のために何かをすることで、無償でやられたことに対する責任を生じさせ、その解消に自分がやられたのよりもより多くの無償をする。この関係の中で生じた価値というのは、金銭的な等価交換では全くありません。それこそ「贈与」とか呼ばれるものです。 ここで話を戻します。悪徳業者が確実に「悪」だといえるのは、善の人々によってつくられた贈与の余剰部分を、贈与空間に参加せずに奪っていくからです。ただ、構造的にみればわかるように、価値を作っているのは善の側です。彼らははっきり言えば、善がなくては何もできない。その行為の前提に善がある。だから、彼らが「善を殺す」なんてことはよっぽどの馬鹿以外しないと思います。おそらく「生かさぬよう殺さぬよう」というんでしょうか。*ただ、これは法=「善」という前提になってますね。前回のエントリーで耳蝉さんがナチスとかを出したように、そんなに法の話は単純じゃない。なので、とりあえず、ここでは民主主義国家という前提で使います。


「快楽殺人者」と「アコギな商売」の後者を「悪」とするなら、僕は賛成です。それに対するベーシックな善の必要性は当然重要です。あぁ〜何だかやっと耳蝉さんがいう善の意味がわかったような気がします。ここまでが間違っていなければ、ようはその贈与の社会において、その空間を壊すようなことをするメリットなんて何もないだろう、ということですよね。ただ、そんなに話しは単純じゃない。ある人がとても困った事態に面している。誤魔化しちゃえば、何とかなる。透明な水にわずかな毒薬をたらすけど、希釈して、わからないようにしちゃう。その「誘惑」をどう考えるかということですよね。まさに「雪印」とか「船場吉兆」とかの企業倫理でもあり、社会倫理をどうするか。


これに関しては、本当難しい問題だと思います。露呈すれば、それこそ膨れ上がったダメージを受けることになりますが、「嘘は墓場まで」とかいうように、うまく墓場まで持っていければ、そのダメージを帳消しにすることができますからね・・・・。う〜ん。問題の先送りというか。日本の財政なんかもこれですよね。永遠に問題は先送りにできると思っている。でも、いつか沸点に達する。それで誰もが沸点に遭遇しないようにする。爆弾ゲームみたいな感じというか。もうこれこそ、工学的な設計でそうした状況が生じる程度を減らしてけばいいような気がしますね。できるだけ早いじきに、沸点を生じさせるというか。贈与で価値が無制限に増えていくのと同じで、この問題の先送りも同じくらいマイナスの価値が増えていく。だから、できるだけ早めに沸騰させるという。


あと、僕はまったく育ちは一般的ですよ。多摩の山の中で育ってますし。公立の小中で、都立の高校ですし。大学に入ってからは、ファーストフードで働いたし、不動産屋の事務もしたし、今は福祉と博物館で働いている上での経験の話しだから、そんなに一般的な感覚とずれてないと思ったのです。でも、そこはあくまで主観的なので。まぁ、割と普通の環境で、こうゆう理論の基本を考えてますっていう。あと、何だか自分でいうのもなんですが、僕が善であるのは、ただ単に「悪」の才能がないだけというのもあります。そして善のほうが得意というか。善をつかって利潤を作るほうが僕にとってはよっぽど楽だし、簡単。逆に悪のほうは、徹底的に苦手。反抗期とかに警察に何度か捕まって、身に染みました。


一番苦手なことが悪的な行為です。苦手な理由が基本的な善が働いているかどうかは何ともいえませんが。それで僕は悪的な振る舞いが徹底的に苦手であり、そのため環境で効率的に生きていくことが善を使用するということなんです。だから、耳蝉さんが言うような無垢のものではあまりない。ホント。もし、僕に悪の才能があったら、全力で「生かさぬ殺さぬ」を実践していたかもしれません。いかに見つからないように、贈与の利潤をかすめるか、という。善を装うとか。でも、もう僕は悪ではやっていけないので、全力で善を普及するということです。それこそ、美意識の戦いに近いかもしれません。何だか自分で書いていて、こんなにニヒルな善ってあるかな、とも疑問に思い、自己欺瞞に陥っているかもしれませんが、僕はそうゆう風に考えています。


表現をすることと、食べていくことの関係がでましたが、これもやっぱり商業に潰される人はその程度でしょっていいたくなります。本当に才能がある人というのは、まず自分が前提にあるわけじゃない。自分の可能な条件の中でいかに最上限のパフォーマンスをするか。確かに大変であるとは思いますが、井上雄彦さんや松本大洋などの優れた表現をする人はまぁいます。ベラスケスというスペインの画家は、本当は自分の好きな絵を描きたいけど、そのためには宮廷画家として描きたくない絵も描かなくちゃいけない。それで彼は、注文の肖像画を大量に描き、その中でささやかな自分の自由を肖像画の中に注ぎこんだという人です。そうしたもの凄い葛藤の上で名作を生み出した。そうゆう画家の自伝とかをみると、表現というのは限られた条件の中でどうアピールするか、というのに行き着くと思います。


それで、本当に表現をやっていきたい人は、別に自分が器用に商業ベースを兼ねるじゃなくて、商業ベースを兼ねてくれる適切な人材を捕まえるべきだと思う。大田光なんかは、奥さんのおかげで商業ベースの分業をしている最たる例だと思いますし、僕も大学で一人の商業ベースの人を捕まえました。たまたま語学の授業で一緒だった人ですが、仏の帰国の子で、日本に文化行政の理解を広めたいという人で、アートのマネージメントに関心がある人です。幸いにも、僕の作品を気に入ってくれ、現在はパリの大学に戻っていますが、僕は彼に商業ベースを頼り、分業するつもりです。というか、今も常に商業ベースのアンテナは貼っています。娯楽産業の会社だってスポンサーを常に探している。凄く当たり前のことだと思います。

 
それでまぁ、表現をするというのは、かなり贅沢な行為だと僕は思ってます。それは、一般労働の人々の上で初めてできる行為だからです。そうした行為をする上で、口をあけていればいつか誰かが評価されるみたいな思いは、やっぱり甘いとしか思えない。それでも自分を信じられる人は、続ければいいと思います。というか、ゴッホみたいな人はそうゆうことを考えるまでもなく、ある種病的なまでに執着するような人です。「やっていけない・・・」、というので選択を吟味できるくらい冷静であるのなら、手持ちの札を眺めた上で戦略的にやっていくべきだと思います。


西洋と東洋の話はとても興味深く読んでしまいました。同じ思想でみるというのは、確かに大事な視点ですね。僕が東洋的なものについて思うのは、「雰囲気」を共有する文化だなぁ、ということです。それこそ耳蝉さんがいう、「言葉にできないような善」や「曖昧的な言い回し」。西洋と東洋の比較で思うことは、中国の圧倒的な大国ぶりです。それこそ、世界1の人口を今でもなお誇る。そうゆう国だからこそ、雰囲気を共有することが可能になったと思う。それは、日本の空気的な感じで、暗黙の了解みたいな感じです。けれど、西洋というのが一番共有の土台に置いたのが「言葉」ですよね。


「この雰囲気よくない?」といえば、間違いなく「どうゆう雰囲気?よくわからない。説明して。」となります。これは美術作品の創作過程の違いで対比できる。今、博物館のアルバイトの関係で自分の全く専門外の中国の陶磁器を調べたりしています。でまぁ、陶磁器に色が釉薬という色をつけるものを陶磁器に塗って窯で焼くのですが、どのように出来るかは窯の熱次第。それこそ、自然に成り行きに任せる。天然のシュールレアリスムになっている。一方西欧が同じようなことをするには、あれだけ過激なパフォーマンスを必要とした。ただ、自然に任せて作品の色をつけるという作業で、西欧と東洋でこれほどの違いがある。


言葉の限界を言葉でしか刷新できないジレンマというのを陶磁器の抜けのよさをみて僕は感じだのですが、確かにこれからは「雰囲気」の時代になるかもしれませんね。というのも、西欧が言葉に依拠していたのは、ギリシャ語、ラテン語、フランス語、ドイツ語という、西欧の歴史が常に言葉の戦いでもあったからです。中国はそれに比べると、ずっと中国語です。言語の変化を考慮する必要はあまりなかった。周りの国が中国語をベースにして作っていくからです。それで現在かつこれからは、おそらく英語の世紀になる。そうした時代なら、「雰囲気」のようなものの方が有効に働く可能性は大いにあると思います。それに「雰囲気」というのは、別に人間を動物的に扱うというわけじゃないですが、「工学的な設計」と相性がいいようにも思いますし。


言葉に関してですが、ここまで議論して、やっと耳蝉さんや僕がいう「善」の輪郭を把握でき、共通の土台を作れたことに凄く驚いています。普段なら、それまでの歴史性をあまりに背負いすぎている「善悪」よりも、「エロス」「タナトス」とか、微妙にずらした言葉を使用するほうがいいと思ってたんですが、一つの単語に拘るというのも、大事なことですね。で、耳蝉さんが僕主導で議論が進んだみたいなことを行ってくれてとても嬉しいですが、これは耳蝉さんが意図的に僕の相手役を勤めてくれているように思ってます。ちゃんとした文章を耳蝉さんが書けないわけがない。それこそ、意図的に矛盾をいくつも作って僕に仕事を割り振ってくれているんじゃないかと。


あと僕の日和見というのは、確かにちょっとマゾ的な発言ですよね。ここまで議論してお前っていう。どうやら僕は、矛盾に対して忍耐強くなりたいんですね。それは耳蝉さんも同じ気がします。矛盾に身を置くという。常に葛藤を自分のエネルギーにする。


それにしても、今回のコメントは自分の経験からの話がそれこそ、引用しすぎたみたいになって反省してます。なかなかバランスが難しいです。たぶんこれでバランスが取れると思います。あと、言語に関する話は今回のやりとりが、それこそ終了したあとに貼っていただけれると嬉しいです。というのも、僕のキャパがですね。色々な意味で、言語についての話をがっつりやるには、もう一度充電する必要があるからという・・・・。


お返事お待ちしてます。


僕が言論一本で食っていけるかどうかは別としてプロになりたいとは思いますが、それに比べて狸さんが大学教授になるというのは現実的でいいですよね!それこそ凄く可能性のあるエージェントというか、まぁだからこそ「構造に飲み込まれたらそれまでだ」とかって思わないで強い意志を持って変化を促していってほしいと思います。


で、快楽殺人とアコギな商売をする連中の違いって分かります。いや、むしろ僕が「サイコだ」と書いたのは両者共にサイコだからなんですよ。いや、全てがそうではないと思いますが、例えば僕がアメリカにいたときに詐欺にあいましたが、まぁこの詐欺師はサイモンって言うんですが、サイモンなんかは完全にsociopathですよ。それが彼のサバイヴ術であると同時にそれが彼の快楽でもあるんですよ。騙すということに快楽を感じているわけです。騙された側で同じようなことを言っている人がいました。ネットで読んだんですけどね。で、サイモン伝みたいなのを見つけたんですが、なぜかジャーナリストが彼にインタビューしてるようなやつだったと思うんですが、サイモンとジョーダンというまぁ双子の詐欺師なんですが、彼らは父親が虐待をする家に育ったそうで、家にいれなかったことが多くて、小さい頃からちょっと人を騙してお金を取るようなことをしてなんとか生きていたそうです。まぁ書くと長くなるんでやめますし、あとは詐欺師の言うことなんで創作の可能性大なんですが、んでもようはこれってでも快楽殺人犯と似てると思うんですよね。


ヘンリー・リー・ルーカスっていう有名なアメリカのシリアルキラーがいますが、同じく凄まじい虐待があった家に育っています。彼の片目が失明しているのは確か家の玄関のつっかえ棒みたいなので母親だったか父親だったかから殴られたからなんですよね。もちろん虐待されて育ったから殺人犯になるとかサイコになるというわけではないのですが、割と多いんですよねというかかなり多いんですよ。そう思うとなんというかかなりがセラピー対象になる気がするんですよね。悪にも悪を分かっていて悪徳な商売をしていたりするやつらもいますが、完全にそういう感覚が欠如している連中もいるわけです。それこそ何回も引用しているプラトンの言葉なんですけど、悪徳は悪徳ということすらにも気がつかないというやつなんですが、これって病気ですよね。本当に。悪だと分かっていれば告発されたりまぁ捕まったりすれば懲りる可能性もあると思うんですが、「いや、俺は何も悪い事をやってない!」って真剣に思ってるやつらっていますからね。


ちなみに障害者達とこういう連中を一緒にするのはダメですよね。僕はそれには完全にノー!と言いたい。なぜなら障害者達は彼らに何の責任もないからなんですよ。先天的だろうが後天的だろうが障害者というのは脳に欠陥を持っていたり障害を持っていたりして、それがようは風変わりな行動としてアウトプットされるんで精神病者とかって言われるんですよね。でもマジックテープを剥がす音に興奮するって別にいいじゃないですか?変わっているけども、それで言えば僕だって同じようなもんですよ。チューニングをめちゃめちゃにした12弦ギターでノイズを出すとかって狂ってますよね。で、僕もそれを数時間やったりします。僕の場合、それを知的にやっている部分もあるので完全な病気ではないと思いますが、でも根本的に異様に長文を書くとか、なかなか寝れないとか不安障害があるとか気分障害があるとか・・・まぁ言い出したらキリがないんですが、全てを病理に還元するのはアレなんですが、まぁでも普通には社会でやっていけないという意味では僕も立派な障害者だと思っています。ただ度合いが違うんですよね。施設に入れられるほどのものではない。でも普通という観点から見ると普通に機能していないという点から見れば障害者ですよね。だって普通の社会生活が送れていないわけですから、定義上一緒ですよね。


でも僕はこれは普通という観点からセラピーを施して無理矢理治すものだとは思っていないんですよ。これは言わば身体的特徴ですよね。まぁ精神的特徴というかなんというか。マジックテープを剥がす音に興奮するとか、永遠と電話帳の電話番号を暗記するとか、別にそれは彼らの特徴だからいいんです。それで周りが被害を被るならまだしも、彼らが楽しんでいるならいいんですよ。それで。サポートは必要ですけどね。こういう人達を全て治療対象にするというのは言わば「普通」からの「狂人」に対するレッテル貼りですよね。それこそ「普通」が基準としての軸なので、彼らはその絶対的基準から見ると異常になる。でも彼らには彼らの世界があるし、僕も度は違えど似たようなものなのでそれはよく分かるんです。


なのでそういう意味でこういう風変わりな連中と快楽殺人者を一緒にするというのには凄く抵抗があります。カテゴライズが雑過ぎると思うんですね。それはそういう現場にいる人だからこそ分かっていてほしいことだと思います。いや、完全に一緒にしているわけではないのは分かりますが、でも大雑把なカテゴライズで言うと似ていますよね。狸さんの定義はかなり危ないものだと思います。だからこそそこに何が必要か?というとやはり善の感覚なんですよ。語弊があるかもしれませんが、同じ異常者でも変なギターで永遠とノイズを出していたり、テープを剥がす音に興奮していたりするのって僕らが理解できるはずである善の感覚から言えばこれは悪ではないですよね。悪ではないということが善であるということにはならないんですが、言わば人畜無害ですよね。ケアは必要でしょうけど悪ではない。


でも同じ異常者でもやはり快楽殺人者とか詐欺に快感を覚えるようなやつらというのは、それが彼らの病理に根ざしたものであったとしても、社会的に受け入れてはいけないものですよね。悪徳ビジネスを平気でやるやつらは合法的な捕まらないサイコだと思うんですよ。そういう意味でタチの悪いサイコという意味では快楽殺人者とかとあまり変わらないわけですよね。なので僕は両者ともにsociopathだと思うわけです。それこそそんな価値観を受け入れたら社会が崩壊しますからね。それが歴史的な恣意的な概念にせよ、その場その場で善を考えながら規定していくのが言わばエロスだと思うんですよ。ようは善に対するエロスですね。そのなんといいますか善に向かう感じです。


原理的にその発生のダイナミズムが同じでも受け入れられるものと受け入れられないものって当然ありますよね?でも僕が言いたいメインポイントは「そんな基準なんて恣意的じゃないか。絶対的なものなんてない」的な価値相対主義が蔓延することで、どれを受け入れるか受け入れないか?ということを積極的に考える思考力を奪うということなんです。言わば価値判断が完全なものにはならないからという諦めからくるニヒリズムですよね。それには絶対、善悪の価値判断には介在させてはいけないんですよ。なので僕は再三、価値は相対主義的なものであるが、常に善に対して感心を持つというか、配慮を配るということの必要性を言っているんですよね。


いや、ちょっと違いますね。相対主義的な価値観をアクセプトした上で絶対的なものを積極的に探していくという姿勢ですね。それが僕の言い続けていたことなので、相対主義的な考えを価値判断に介在させてはいけない!というのは間違いですね。それを介在させた上で諦めないというか、その上に立脚した普遍性を見つけていくみたいなことですね。で、僕の言うベーシックな善から見ればどんな国でも明白だと思うんですよ。ようはそれが精神的なものに原因がある行動によるものであれ、快楽殺人や詐欺というのは悪ですよね。仮に治療対象であるとしてもやはりそれは認めちゃいけないわけですよ。それは逆に人権が行き過ぎているわけです。他人の人権を奪っているのに守られる人権なんて矛盾してますからね。近代的な法は欺瞞的なものが蔓延しやすいものであるし、だからこそ平等主義とか民主主義は危ないところもあると思っているんですね。光市母子殺害事件なんかを見ていても思いますが、ああいうのはもう虫酸が走るんですよね。犯人の人権も守られなきゃいけないのは分かるけど、やはりそこは人間的な感覚でいなきゃいけないんじゃないか?って思うわけですよ。


それは遺族のことを考えると心が痛むというベーシックな善の感覚によるものであるし、僕はこれを絶対的なものだと思っているんです。この事件を肯定するようなやつがいたらそれはいかなる理由でも認めてはいけないと思うんですよ。それを言論の自由だとか人権だとかで守ってはいけない。そこにはやはりモラルのラインがあるわけです。むしろ善や正義の感覚が犯されるような法とは一体どんな法なんだ?って思うわけですよ。それが結果的に人権を守る為に機能しているのは分かりますが、でもそれが社会にとって本当の良いことなのか?ってことですよね。民主主義国家であっても法=善ではない良い証拠だと思うんですよ。もちろん他のシステムに比べればマシですが、常に難点や弱点というのは認めるというか分かっていないといけないし批判的じゃないといけないと思うんですよね。そうじゃないと民主国家は機能しないので、そこには最低限の善が必要だと思うわけです。


ちなみに狸さんが言う善の性質は分かりますが、それは言わば合理性なのであって、僕が言う善とはだいぶ違いますよね。「良い事をしたほうが良い事が自分に帰って来るからやるんだ」というのは言わばカント的な定言的な善に反しますよね。言わばそれは功利主義的な善なのであって、僕が言いたいのはカント的な道徳法則です。いや、功利主義的な善でも狸さんの場合は問題ないかもしれませんが、全く価値が相対的な人間であれば、それはどういう行動が自分にとって一番合理的なのか?ということを基準に物事を考えますよね。その合理性=善になるわけですよ。だから酷い場合だと人を騙してでも金儲けをするほうがいいという、それが一番今のところ儲かる方法なんだからいいじゃないか。合法なんだし何の問題があるんだ?みたいなことを言う人間が出来上がるんですよね。でもそれは言わば悪の始まりなんですよ。僕がそっちのほうが強いと言っているのはこういう理由もあります。


つまりは道徳法則を破って合法的に利己的活動をしたほうが自分に利益がある場合が多いわけです。言わば道徳法律は暗黙知みたいなもので、守るか守らないか、あるのかないのかは任意です。違法で無い限りは任意なんですよね。それが僕はマズいと言っているんです。悪でいたほうが楽だし、悪辣な手段って金儲けに関しては特に小金を稼ぐ場合は便利なわけですよ。そうすると善悪の判断がつかない連中は自ずとそっちに流れますよね。人は易きに流れるものなんです。守り通したところで何も利益が無い道徳を守るより、破ってでも自分が食えたほうがそっちのほうがいいわけですからそっちを選びますよね。で、それを僕は社会的に「ダメです!」って言えるようにしないと道徳なんていとも簡単に崩壊すると思うんですよ。今の日本なんて典型的にそうだと思いますよ。


まともにやってても食えなくなってきているから変な商売とか悪辣な意味でのニッチな商売とか増えてると思うんですよね。セコいものから凄まじく悪辣なものまで。これが言わば人は易きに流れるということなんですよ。食えればいいから道徳法則なんて青二才が言うことなんてどうでもいいってことになるわけです。功利主義的な善は常にこういう危険性を孕んでいると思います。はっきり言わせてもらば狸さんの家事の手伝い方は危ないですよね。いや、そういう利己的な計算が中にあってもいいわけですけど、でもそれだけが理由だと凄くドライじゃないですか?僕は家事と言えば夜の犬の散歩ぐらいしかしませんが、別にこれは自分の仕事だと思ってないんですよ。当たり前のこととしてやっているだけで、なので「やらないと実家に居辛くなる」みたいな理由でやっているわけではないんです。毎日面倒に思うこともあるけど、でもやるんですよ。家族に対して無償で提供しているサービスでもないし、家族がその見返りとして実家に居させてくれるわけでもない。そこに合理的な理由とかをつけるのがバカバカしくなるぐらい当たり前なのが善ですよね。


まぁ犬の散歩が善かと言われれば違うとは思いますが、ようは「当たり前のこと」ということを強調したくてこれを言ってるんですね。善であることに究極的な理由なんてないんですよ。まぁ僕は色々と社会的な理由付けをしていますか、でも根本は究極的な道徳律を社会に通したいと思っているから言っているだけですよね。もしかしたら悪であるほうが社会は回るかもしれない。それこそ障害者は全てガス室送りにしたりすれば福祉のお金とかって相当助かりますよね?でもなんで人々はそれをしないか?ってそれは悪だからですよね。人道に反しているからとか近代法にかなっていないからとかそういう理由じゃなくて、そんなことやっちゃいけない!って感覚的に分かるわけじゃないですか?でも善の感覚が欠落している人間はいるんですよね。別にガス室送りで税金をもっと有効に使えるならそれでいいって考える人とかって別に社会で普通にやっている人にもいると思うんですよ。僕も経験があるんですけどね。


凄く真っ当そうな人から「弱者が淘汰されていくのが何でいけないの?」って言葉を聞いて唖然としたんですよね。それこそ普通に頭が良い人で社会的にもちゃんと機能している人です。そういう人がそんなこと考えるんですからね。まぁそれも言論の自由ですが、そんなところに自由なんてあっていいとは思わないんですよ。僕はこういう根本的な善が欠落している人間を本当に軽蔑しますね。でも社会的な観点から見れば彼のほうが真っ当で僕はダメ人間なんですよね。まぁニートみたいなもんですからね。でも人間的に言えば彼のほうがダメ人間で僕のほうがよっぽどまともだって自信を持って僕は言い切れますね。


ちなみに狸さんの善の感覚はまぁそれでいいと思うんです。悪の才能が無いのはいいことですよ。でも言わせてもらえばそこからさらにもう一歩進んでほしいなとは思いますね。「いや、俺に悪は向いていないから」ではなくて「これがいいに決まっているから」と信念を持てるぐらいの善の感覚を持ってほしいと思うんですよ。動機付けが功利的なことだとはっきり言えば軸は弱いと思うんですよ。悪でしか食えなくなったら悪になる可能性ありますよね?まぁ狸さんにあるとは言いませんが、功利的な善はそういう可能性がありますよね。


もしくは功利的な善であってもいいけど美意識的なものは常に介在していないといけないと思うんですよね。狸さんはそうじゃないと思いますが「善でいたほうが楽だから」という理由はあまりにも善の動機付けとして弱過ぎるものなんですよね。それこそ自分にとって金銭的な意味で言えば非合理的なものであっても価値があるものが善だと思うんですよ。金で買えないものというか、逆に金を理由に捨ててしまったら取り戻し辛くなるものというかなんというか・・・。なんか「社会でやっていくにはちょっと汚くないといけない」みたいなのが賢いことの証みたいになってる風潮ありますよね?これって凄くバカバカしい話だと思うんですよね。凄まじく利己的で思考停止的というか、さっぱり社会のことを考えられていないというか市民としての自覚がないというか、まぁ本当に呆れますね。こういうのには。


表現に関しては特に言う事はないです。もうその通り過ぎて何も言葉が無いです。「やっていけない・・・」、というので選択を吟味できるくらい冷静であるのなら、手持ちの札を眺めた上で戦略的にやっていくべきだと思います」って耳が痛過ぎですよ(笑)ちなみにさっきから狸さんの個人的な話にさっぱり反応していないように見えますが無視しているわけではないんですよ。興味深く読ませていただいていますし、議論がより凄く分かりやすくなっています。あ、でも異論があるのは「一般労働の人々の上で初めてできる行為だからです」ってところですね。今もそうですが労働力なんてもう必要とされていないんですよ。本当に必要な仕事なんて限られている。でもみんな食っていかなきゃいけないので余計な産業とかを作りまくってなんとか金を稼ごうと必死になっているわけです。そんな中でも仕事がなかったり無理矢理人を雇っているわけですからね。労働が尊い時代なんてとっくに終わってるし、今は頭打ちの時代なんで、みんなやりたいことやればいいと思っています。そっちのほうが確実に文化は栄えると僕は信じていますね。


労働なんかより表現行為みたいな人間の活動のほうが尊いし、人間にとっても必要であるのは明白だからですね。必要性による労働なんて社会から必要とされなくなったらいらないんですよ。日本人ってこの感覚が凄く薄いんですよね。必要性による労働が最大の美徳だと思っている。「サラリーマンが世の中を支えている」的な話って僕には吐き気がするぐらい嫌なものなんですよ。消極的にそれしかないからやっているやつらが多いのに、なぜかそういう理由で自分たちを正当化するというか、支えている気になっているというか、まぁリゲイン的なプロパガンダというか、あんなの共産主義の国のバカバカしいプロパガンダだと思いますね。やるなら勝手にやれって話ですよ。そういう意味だとアートも一緒です。やるなら勝手にやればいいじゃないですか?なんでアートがサラリーマン的な労働の「おかげ」みたいになってなきゃいけないのかさっぱり理解できません。それって結局僕は奴隷の理論だと思うんですよね。奴隷が自分の立場を正当化するために使う理論ですね。こういう理論が流布することでゾンビみたいな奴隷が増えるわけですよ。これは凄く害悪だと思います。ゾンビと人間は違うわけで、人間だったら人間らしく生きろ!って僕は思うんですね。だから人間的な活動を僕は必要性の労働よりも上位に置くわけです。


西洋と東洋の話ですが、ようは日本人は両方使えるようになればいいということですね。「この雰囲気よくない?」的なコミュニケーションも可能だし「どういう雰囲気?説明して?」というコミュニケーションにも対応できる。後者に関しては言うまでもなくやはりアメリカで鍛えられたのかな?という気がしましたね。ロジカルに説明することの重要さというかなんというか、日本人がTOEICなんかのスピーキングで上手いこと要約できないのもこういうのを普段からやってきていないからですよね。かといって別に言葉で説明し尽くす事が全てではないし、西洋的なスタンダードが日本的なものに勝っているということでもない。だからまぁ二刀流が一番いいんですよ。西洋人は東洋的というか雰囲気的なコミュニケーションを強いられることがあまりないと思うので、「よくない?」的な感覚を作らなくて済みますよね。カルチャーですよね。


でも日本人は善くも悪くも西洋的なものに侵略されているおかげで実質的に両方のコミュニケーションを使えるようになってると思うんです。英語なんかどうでもいい!日本語を学べ!とか言うのがバカバカしいのもここですよね。まぁまず言語的なベースを作るという意味ではそれは言えていますが、ナショナリスティックな意味だとバカげでいますよね。それでは西洋的なものに抗えないじゃないですか?アメリカがアメリカ的なコミュニケーションやロジックで攻めてきた時に対応できない。それじゃダメですよね。そういう意味でレベルが低いナショナリストというか、2ちゃん右翼的なやつらの内に籠る感じというか、悪い保守的な感じって最悪なんですよね。今の時代に最高に国力を無くす考え方の一つですよ。それこそ日本の事を考えるなら西洋の事を知らなきゃいけないし、マジでやっていこうと思うなら英語ぐらい喋れたほうがいい。それはドミナントなカルチャーに対するカウンターヘゲモニーとして闘うときの共通言語としての英語ですね。別に闘うにせよそうじゃないにせよまずはアメリカに追いつくか超えないと一生属国のままですよね。非常に情けないことだと思います。


とにかくでもまぁ狸さんも書いているように僕の善の輪郭が把握できたというか、共通の土台が作れたことを凄く嬉しく思います。ちなみに微妙にずらすというのが何気に危なくて、それが言わばコピペ思想を生んじゃうんですよ。エロスとかタナトスについては知識として知っていても、自分なりのそういう知識があった上で「善」って何だろう?って考えるのが言わば哲学とか思想っていうと大げさですけど、まぁ言わば考えるってことですよね。軸をずらしているとそれは考えている風に見えるだけで実は所与の概念に何かを当てはめているにしか過ぎない。それこそコンピューター的な演算ですよね。それをやり過ぎると思考力が鈍るというか、なかなか自分で考える癖がつかないと思います。言わば思考力ですね。数学を暗記でやってきた人間に数学的思考力が無いのと同じ感じになってしまうのは勿体ない気がします。


それは受験的には役立つかもしれないけど社会的には役立ちませんよね。数学が実生活でも役に立つのって言わば数学的思考ですよね。論理的思考とも言えますが。これはただの概念の丸暗記では身に付かない思考力です。狸さんが思っている矛盾に対する我慢強さも思考力の強さから自ずと得られるようになると思うんですよね。それは狸さんがというよりかは普遍的にそうなんじゃないか?ってことですね。特に矛盾というのは一番疲れるんですよ。そもそも僕がウォール伝をやっているのも矛盾だらけだし、それこそ僕が生きている理由だって矛盾だらけなんですよ。もちろん全てが理性で解決できるとは思いませんし、放置しておくほうが良い矛盾もあると思いますが、とりあえず思考停止的にならないようにはしたいです。


あとキャパの話とか充電の話が出てきていますが、疲れてきたらそろそろ切り上げでもいいと思うんですね。というか僕は言われないと永遠と続けてしまうので、なんらかの停止のサインかサジェスチョンは狸さんからくれると助かります。言語の話も別にすぐじゃなくていいですし、また時間を置いてからでいいと思います。とりあえず今回の返信はこのへんにしておきますね。障害者の話とか出てきてしまって、これってまた言語並の1トピックになりうるのでキリがないですね。まぁ善と密接に関係しているトピックなので関係無いものではないんですけどね。ただなんか個人的にちょっと落ち着いたかな?って気がします。僕の善の感じが狸さんにも伝わって、狸さんが考える善の感じも凄く僕に伝わった。それについて今回また色々と書いたわけですが、別に僕は狸さんの善の感覚を否定しようとは思わないので、あくまでそれは意見として見てくださいね。


あ、あと最後に「で、耳蝉さんが僕主導で議論が進んだみたいなことを行ってくれてとても嬉しいですが、これは耳蝉さんが意図的に僕の相手役を勤めてくれているように思ってます。ちゃんとした文章を耳蝉さんが書けないわけがない。それこそ、意図的に矛盾をいくつも作って僕に仕事を割り振ってくれているんじゃないかと。」ってところなんですが、かなり買いかぶり過ぎましたね(笑)これらは全て僕の天然によるものですよ。僕はそこまで色々なコントロールが出来る人間ではないので。失望させてしまってすみません。いや、でも本当のことを言っておきたかったので。逆にあえて議論の為に矛盾を作り出すとかって出来たらすげーかっこいいですね!それこそ狸さんの「耳蝉さん像」は格好良過ぎですね!あと残念ながら僕はちゃんとした文章書けないんです。ウォール伝しか書けませんね。これまた失望ネタを作ってしまいましたが(笑)まぁ書けないということはないんですが、勢いが無くなるのでつまらなくなるし、何も出てこなくなりますね。詰まっちゃう感じというかなんというか。たまにまともな文章があったりもしますが、まぁまぐれですね。


というわけで今回はこのへんで失礼します。