狸さんへの返信。その6。

狸 2011/02/11 13:46


返信ありがとうございます。


「障害者には何の責任」がないといいますが、ならば快楽殺人者にも何の責任もないじゃないかというのが、僕の話です。それこそ虐待によって生まれた快楽と、例えばですが、障害者の、まぁ何らかの脳の欠陥で人の血をみることが好きな人がいたら、それはどう考えるのかという。耳蝉さんの善ですと、かなりそれこそ結果主義と思う。それは、快楽が人の生死に関わったら「悪」となるからです。人に迷惑をかえてない限りはいいが、人に迷惑をかけるなら、その人は悪であるというのは、じゃあその迷惑は何かという問題になる。というか、これは何も障害者とかの規定じゃなくて、一見健常者に見える人でも、なぜか殺人が快楽になってしまう人だっていると思う。だから、それは天災として考えるべきだし、虐待で生じた快楽も病気として対処する方がいいんじゃないかと考えたわけです。簡単にいうと、「悪と自覚していない連中」は、今回の僕の「善」の対象から外れると思うわけです。というか、「悪に自覚していない連中」だとしても、その中で人の生死に関わる快楽と、詐欺みたいに社会の法の網目をぬって悪事を働くやつは区別した方がいいじゃないかと。これは一緒にできない。


それで、僕が善を普及させるという時に対象にしているのは、「悪を自覚している連中」です。僕の考えというのは、ほとんど外交の対話みたいなものです。善と善の対立も、片方からみれば悪になる。ただ、そこで外交するというところは共通している。これこそ「価値は相対主義的なものであるが、常に善に対して感心を持つというか、配慮を配るということの必要性」という必要性の部分だと思う。図的にいうと、四角い土地があり、そこに木がはえている。それぞれの木は違うが、土地は一緒だよね、っていう。その土地というか、ルールを前提として話しはじめる。その上で対立する善をどれくらいの妥協点で合意させるか。それはもう、ルールの上での駆け引きみたいなもので、それこそ良心の上での「善悪」の戦いというか。価値の対立というか。この所を僕は前回のコメントで書いていたわけです。


だから、僕が容易に悪になるというのは、どうでもよくて、大事なのはそのルールとか大地に配慮しているか否かなんですね。それで、「悪を自覚している連中」というのは、僕は配慮の中で違法をしている。だから、戦いで捻じ伏せるといったわけです。「悪を自覚していない」というのは、配慮も何もありません。だから、これは「天災」とか「病気」(本当はもっと繊細の定義をしたいですが、)として、カテゴリーするということです。


それとは、別に「悪と自覚している連中」と「悪と自覚していない連中」というか。こうして善を捉えてみると、僕と耳蝉さんの立場がより鮮明になった気がします。耳蝉さんは第一に、カントの定言命法の必要性を説いている。それこそ、「ルールに配慮する」というところ。一方僕は、その上での「価値」の部分での議論をしている。それで耳蝉さんの言説というのは、おそらくこのウォール伝を一つの「教典」にするようなものであり、もしくは教育改革の教科書のような位置です。僕が対象にしているのは、おそらく最初の継起をすでに通りすぎた大人たちです。で、そうゆう大人たちに対しては、「教典」の効果をやるよりは、むしろ彼らの「結果主義」の土台で、大地に配慮している「価値」(善)を対立させるほうが、説得力があると思う。だって、「社会的にダメです」っていうアナウンスが効かなかった人に、「社会的にダメです」と言ったってほぼ無効力ですよ。それこそ、宗教上の争いで、「教典」の解釈を争うよりも、「外交」に訴えたほうが、僕は有効だと思う。だけど、一つの問題をどう考えるかということで、二つは常に関係は持ってるわけですよね。


それこそ、道徳法則を破る(配慮しない)しない連中というのは、最初の段階で善のところを突破してしまった大人たちです。だから、僕はそうした連中には「目には目を」というあれて、結果主義的なアプローチをする方がいいでしょってことです。繰り返しになりますが。これは相手による対処の仕方です。で、その戦いを一歩引いた視点で耳蝉さんが、より抽象的な根本的な善の配慮について説けば、僕は凄くバランスが取れると思います。


だから、ここで僕が家事の話を出したのも、かなり意識的なヒールのためです。完全な善的な価値の行為を結果主義の土台にすることで、つまり相手の土台に立つことで「シカト」は避けられる。僕は、善の配慮がとりあえずありますから、当然当たり前のように家事も送迎もします。ただ、その当たり前を、「当たり前でしょ」っと言ったって、そこは通用しないから、あそこまでクールに言ったということです。この辺は、たぶん僕の思考モデルと効果の話からわかるように、かなり意識的な発言だということはわかっていただけると助かります。もしも、僕に子供がいたら、「当たり前だよね」っていうのを前面にだして、それこそ「雰囲気」だけ作ると思います。


その辺は、あえて敵の陣地に入って中から壊すみたいな作業だと思っていただけると嬉しいです。それこそ、僕が今回の話でずっと言っていた「A→A´→B」という。その時に自分があなたに善を共有して欲しい者です、という手札は伏せておきたい。で、もっと俯瞰的なところで、耳蝉さんがその構造化されそうなのを監視するというか、チェックするという。


「弱者を排除して何がいけないの」ということに関して、絶対的な「悪」みたいなことを言いますが、これには反論があります。例えば、イヌイットの人たちというのは、過酷な環境のために、生まれた時に、健康的でない子はすぐに殺します。生産ができなくなった老人も、姥捨てみたいにします。これも「悪」ですか。やはり、「悪」であるというのは、近代法というわけではありませんが、今の価値にとって「普遍的に悪」であるという一文を入れないと危険な気がする。一見矛盾するこの一文があってこそ、その普遍的な「当たり前」の感覚を目指すという。


それで、耳蝉さんが「根本的な善の欠如」の話をしていましたが、まぁこれなんかも「結果主義」的な価値もうまく取り入れるといいと思うんですよね。それこそ、漫画なんかで、悪い人が、何気なくしたことで感謝されるという定番のシーンがある。それは、道徳法則に配慮したわけでもなく、結果的に人に感謝されてしまったという事態です。そこから、道徳法則への配慮が生じる可能性もある。逆に、いいと思ってやったことが、結果的に人のもの凄い反感をかうこともある。人を殺してしまうこともある。すると、道徳法則が見直されることもある。結果と前提の往復運動によって、よりしなやかな道徳法則はできていくと僕は思いますね。それこそ、シミュレーション技術によって、ある程度結果が予測できるのに、「道徳法則」に縛られるよりは、より柔軟に今の「普遍」に対応させていくという。


表現と労働のところで言いたかったのは、構造的にみると表現行為(労働も表現行為なので、ここではいわゆるアート的な行為のことです)というのは上にあるよねということです。どっちが価値があるというわけではありません。片方がなければ片方もない。それこそ表現物というのも、一種の労働ですが、その質においてはどうしても構造的に上に来てしまう。僕が画家になれたとして、その作品と農家の人が作った農作物を比べると、どうしたって同じ次元のものではない。それこそ、「構造的に」としかいえないですが。何だか、今の状況は、二つが真っ二つになっている。だからどっちもどっちだなというか、まぁまずは自分から相手を評価しましょうという。自分が何かを求めるなら、まず相手に贈与をするというのが、僕の基本態度なので、あぁゆう発言をしたわけです。それで、彼らを「奴隷根性」ということは、確かに的を得ているし、ズバリですけど、その人の中から「商業ベース」を探したりするわけですから、大声でアナウンスしても、まぁほとんど効果ないですよねってことです。ようはどっちもどっち。


言葉の問題は本当に重要ですね。僕も大学でやると決めてから、英語と独語を毎日シコシコやっていますが、やはり思考のシニフィアンの部分を日本語以外にも持つということは、思考の柔軟性とか善の対応においても絶対的に必要だと思う。ある物事に対して話すときに、二人とも必ず母国語以外で話す、という外交ルールを作ればいいと思ったこともあるくらいです。(笑)


前回のエントリーはかなり荒い状態での話しだったので、今回のとあわせてよりお互いの「善」、そしてその位置、態度が明確になったように思います。障害者とか、狂気については、かなり雑な言葉遣いですが、僕の不誠実な認識のゆえであり、議論において少しずれるためあえてそのままにしました。


キャパのことですが、疲れたとかというよりは、緊張的な毎日が一週間くらい続き、言語のトピックになったらその張り詰めている糸が切れるということです。 それで、このエントリーで僕は一応、満足できる議論の到達点に達したと思うので、議論的な話しの返信はこれで一応一区切りつけたいと思います。でも、耳蝉さんの返信次第でまだちょっと詰めれるとこもあるかもしれないので、返信次第という感じでお待ちしていますね。


買いかぶりでしたか(笑)


ではでは。


とりあえず議論の一段落はついたということで、あまり長く書かないようにしますね。なるべく要点だけ書くようにします。


「「障害者には何の責任」がないといいますが、ならば快楽殺人者にも何の責任もないじゃないかというのが、僕の話です。」というのは僕も分かっているんですけど言わば僕の説明不足ですね。ようは「障害者の責任」も恣意的であれ社会の側から善悪の判断をつけるしかないということにおいての善の必要性なんです。障害者に責任は無いけども、でもテープを剥がす音に興奮する障害者と快楽殺人者って同じ障害者にはできないですよね。いや、それは天災とか病気という意味では同じなのですが、それを天災とか病気の名の下に許せるのか許せないのか?という決断を善、つまりは社会が強いられるということです。


あと詐欺についてなのですが、僕が色々と詐欺にあってきた経験も踏まえて言うと、といいますか、詐欺にあったことで色々と詐欺について調べてみても、それが仮に社会の法の編み目をぬって悪事を働いているように見えても、それが彼らにしたら「合法」という判断しかできないのが、つまりは僕が言いたいsociopathなんです。逆を言えば悪事だと分かっていてやるやつらはまだ救いがある。サイコなレベルの連中はもう無理だと言う事ですね。「いや、何が悪いの?」という感覚ですから、一般的な道徳の乖離が激し過ぎるわけです。それはもう改善が見込めないし、変化も恐らく望めないということで、そういう連中が跋扈してしまうようなシステムを規制する必要があるということです。


快楽殺人者にせよ、それが彼らの責任ではなかったとしても、「それは彼らの責任ではない」と言えるレベルと言えないレベルってあると思うんですよ。障害者であれさすがに100人近い幼女を殺したら呑気なことは言ってられないと思うんですね。それが障害者だとしてもその人は社会にいてはいけない障害者です。障害者だと言ってそれは彼らの責任ではないからといって全ての責任が逃れられるか?というと、つまりはそれにも度合いがあるということですね。別に殺した人数の量ではないんですが、結局、それで言えば性的倒錯などもある種の障害だと思うし、例えば幼女をレイプしまくっている連中というのはそれが障害的なものに端を発するものであれ、それは社会が悪と判断して然るべき制裁を加えなきゃいけないと思うんです。むしろ障害者の名の下に幼女レイプ犯が守られるというのは僕はおかしいと思うんです。それがつまりは善による価値判断なんですよ。恣意的であるし絶対的ではないけど、でもそれを常に判断しようとするのが善だと思うんですね。道徳律的な教典に寄り添って判断するものではなく、それこそ「良心」みたいな問題です。


つまり「悪と自覚していない連中」は善側から一方的なジャッジメントを加えるしかないということです。それは社会の為に必要なことだと思うんですよね。あ、でも根本的な考えはこのトピックに関しては狸さんに異論はありません。狸さんが書いていることは全て理解できますし、僕もそう思っています。その上で善側がどう対処していくのか?が問題なんですね。それは一次元的になりがちですよね。彼らの「悪と自覚していない」という思想の自由はどうなるんだ?と。


でも幼女をレイプしていい自由はないわけです。そんなものは許してはいけないし、仮にそれが障害者であったとしても、それは社会から制裁を受けないといけない。そういう意味では本当に天災ですよね。障害者にも障害者なりがあって、問題ない障害者と社会的に問題がある障害者っているわけですよ。狸さんの「価値」を対立させるやり方は分かりますよ。でも僕が問題としているサイコな連中は価値が判断できないわけですから、そこはもう一方的な善の判断から排除していくしかない。僕は社会に詐欺師や幼女レイプ犯や快楽殺人者がのさばっていてはいけないと思うんです。まぁ当たり前ですよね。でも彼らには善の配慮も悪の判断もできないわけだから、価値の対立はできませんよね。ちなみに狸さんもそれは書いていることですよね。「社会的にダメです」と言ったって無効力なんです。それは僕も分かってるんですよ。


ただ僕が一貫して問題にしてきたのは、そういうやつらがいるのはしょうがない、ただそれを認めてしまう善悪の判断がつくはずの人達の善悪の判断なんですよ。「いや、それってアリじゃない?」って合理性からそう言ってしまう人や「それは騙されるほうが悪いんだよ。社会はそうなってるからしょうがない」と諦める人達ですね。アリじゃない?って言っちゃう人はともかくとして、「社会がそうなってるからしょうがない」的な諦めはしつこいようですが価値判断に関するニヒリズムなんですよ。だから僕はサイコな連中ではなく、そういう諦めの判断をしてしまう人達に関しての善悪の判断の重要性を言っているわけです。結局「社会がそうなってるからしょうがない」的な諦めは言わば容認でもあるわけですよね。「それが社会だ」的な。それって悪徳を認めてるってことなんですよ。根絶しようとする態度がないし、根絶なんて無理だと思っている。それがマズいんです。シニシズムですよ。これは。


あ、んで「狸さんの敵地に入って中から壊す」というのはもう最高過ぎますね。僕が普段から言っている事のある意味そのままですね。いや、凄く良い意味でこういう重要な点で同じ意見を持てているというのが凄く嬉しいし、「破壊」を望んでいる人がいるというのが僕の生き甲斐にもなります。でもしつこいようですがサイコの中に入っていっても話は通じないんですよね。で、意外とサイコ認定されていないサイコは結構多いと思うんです。それが性的逸脱とか快楽殺人とかになる場合、簡単な「狂人」のレッテル張りができますが、気違いのように利己的に動いて利益を上げるけど反社会的な人物っているじゃないですか?これは日本に限らずいますよね。


アメリカなんかは凄まじいデカイ規模でそれをやってるやつらとかが居て北朝鮮とかとは比べ物にならない民間の悪の枢軸の温床だと思うんですが、そういうやつらの懐に飛び込んでも、そもそも会話が成立しないから無理ですよね。彼らは狂人ですから。狸さんのA→A'→Bが通用するのは自覚的な悪だけですよね。狂った悪には通用しないわけですよね。なのでそれは善悪の判断が出来る人達を善に導いて悪を淘汰するしかないと思っているんです。アメリカの場合、悪徳企業に対しての不買運動とか起きますよね?あれが普遍的に正しいかはともかくとして、まぁ凄くdecentな善の感覚が働いているんだなと凄く感じるわけですよ。イギリスの学生のデモ然りです。でも日本人ってああいうのやりませんよね?それはもう厭世的な諦めが蔓延し過ぎてるんじゃないか?って思うわけです。デカイものには逆らえないのか、長いものには巻かれよなのか分かりませんけどね。


かなり大雑把な言い方をしてしまえば懐に入るかはともかくとしても「壊す」という善の感覚が働いている狸さんみたいな人は社会に対して積極的ですよね。積極的だから「壊す」ということをやろうとするわけじゃないですか?僕はこのやりとりを通じて狸さんは凄く積極的な人だって思いましたし、あとはウォール伝の影響もあるんでしょうが、そういう影響を与えられたならウォール伝冥利に尽きます。で、僕が主に善の欠如だ!と危惧を感じているのは、サイコではない善悪の判断がつくにも関わらず諦めて抵抗をしないとか異議を唱えないとか長いものに巻かれようとする人達なんです。しつこいようですが「社会とはそんなもんだ」という諦めのロジックが働いて悪徳にも抗わないみたいな態度が生まれるわけですが、これが言わば善の欠落なんですよね。それは元々善がある人達だからこそ「欠落」という言葉が成立するわけです。


んでもまぁ僕も散々書いてきましたが啓蒙にも限界があるということで、言わば縦軸にそれを頼るしか無いということで、それは狸さんも書いていましたがやはり善で統治するしかないと思うんです。善であれば動きやすいような功利主義的な善といいますか、社会工学的な善を作るという意味でもです。基本が善であればとりあえずいいんですよ。そこから僕が言うような定言命法に繋がれば理想ですが、これは本当に僕の意見ですよね。「べき論」です。でもそれ以前の段階としては絶対論としてまずは悪が蔓延らない社会を目指す必要があると思うんですね。・・・と書くと些かナイーヴでダサくなるのですが、これを諦めたら善い社会は育めないというのは僕が繰り返し書いてきたことです。悪が蔓延らないというのはサイコな悪に対しては淘汰されていくようなダイナミズムが働く社会という意味も含まれています。啓蒙の対象にならない、助けようが無い悪の自覚がないような悪に対してはどうしていけばいいのか?というのはもう縦軸による抹殺しかないと思うんですね。


あとはまぁ理想を言えば縦軸もそうですが、横軸でもA→A'→Bが積極的に成されている社会なのであれば、善のマジョリティによって悪が駆逐されるというような構図ですね。ちなみに僕は天誅という概念が昔から大好きです。まぁ暗殺ですよね。善悪の判断すらできない本質的な悪徳に対して善側が一人か少人数で命をかけてそいつを潰しにいくというのは究極的に積極的な社会的行為ですよね。豊田商事会長刺殺事件なんかは天誅の良い例です。法的にはあれは殺人にあたりますが、永野会長を殺した犯人は英雄だと思います。「やったことは殺人だけど間違っていない」と判断できるのが善ですよね。逆に「殺人は殺人だ」なんて言うのは善の欠如です。あんな詐欺師が社会に居ていいわけがない。殺人=悪だと一次元的に考えるのが危険だと僕が普段から言うのもこういうことなんですよ。稀ですがこういう良い殺人もあるわけです。


「「弱者を排除して何がいけないの」ということに関して、絶対的な「悪」みたいなことを言いますが、これには反論があります。例えば、イヌイットの人たちというのは、過酷な環境のために、生まれた時に、健康的でない子はすぐに殺します。生産ができなくなった老人も、姥捨てみたいにします。これも「悪」ですか。やはり、「悪」であるというのは、近代法というわけではありませんが、今の価値にとって「普遍的に悪」であるという一文を入れないと危険な気がする。一見矛盾するこの一文があってこそ、その普遍的な「当たり前」の感覚を目指すという」


これは非常に重要なことなのでここで引用させてもらいました。いや、異論は無くて全くその通りで、僕のディティール不足を補うのに最適な部分だったので引用させてもらいました。


結果主義的な価値を取り入れるということなのですが、確かにまぁ頑にならずに善であるならば善の多様性ってあったほうが広がりやすい気がするし、そのほうがいいとは思うんですが、よかれと思ってやったことが物凄く反感を買うことって確かにあるけど、でもそれがですよ、仮に道徳法則にかなったものであるのなら反感する側がおかしいわけですよね。言わば僕が大衆的なものとして批判しているものの中にこれがあります。ようは善が分かっていない人達によるポイントレスな批判とか反感ですよね。そういう反感があったとして、それを基準に道徳法則や善のあり方を変えてしまったら、それこそ社会が大衆化しますよね。それは最高に危険だと思うんです。だからこその1000万人が相手だろうが一人で立ち向かう言論が必要なんですよね。民主的なダイナミズムは非常に危険な部分が多いんですよ。Tyranny of Majorityですね。


ようは僕がポイントとしているのは、そういった善の行いに対して反感があった時の善側の判断ですよね。反感があったからといってそれが道徳法則的におかしかったのか?と言えば必ずしもそうではない。むしろこういう危機的な状況にこそ普遍的な善の感覚というのは必要とされると思うんです。まぁまぐれで道徳法則への配慮が発生する場合はそれはそれで取り込んでいけばいいし、それを否定する必要はありませんが、やはり根本の軸には絶対的な道徳法則が無くてはダメで、だからこそ僕は善の普遍性を主張しているわけですね。で、現実に上手く対応していく方法としての結果主義的なアプローチは場合によってはいいこともあるとは思いますが、根底に普遍的なベーシックな善が無いと、つまりは善のクライテリオンが無いとそれは日和見的なTPOによって善が変化してしまう、その場所にとっての相対的な善になってしまいます。普遍的な強い善ありきの現実に対応する結果主義的な価値も取り入れるというのは、それこそ政治についてもマキャベリアン的な意味で、アリどころか必須だと思います。


僕はインフラとしてのベーシックな善さえ担保されてしまえば、それこそ狸さんが言うような「結果と前提の往復運動によって」というような、それこそ民主的な善が育めると思っています。言わば根底に僕の言うようなベーシックな善が無ければそれは必ず価値相対主義に陥るというか、それに負けてしまうということですね。つまりはまぁニヒリズムが蔓延するということなのですが。


あと表現と労働のところなんですが、狸さんの言いたいことはよく分かりました。贈与の基本態度がある種一貫しているなと思いました。異論はありません。ところで「なんだか、今の状況は」というところなんですが、ちょっと細かくてアレなんですけど、それは僕の議論の状況なのか世間一般ということに対する状況なのかを教えていただけると幸いです。どっちもどっちって凄く分かりますが、日本ってクリエイターに対する評価が異様に低いと思うんですよ。それこそ世界的にヒットしているアニメの原作者とか漫画家でもなんでもいいのですが、僕の主観では、日本って必要性の労働が価値の優位に立ち過ぎていて、彼らを「好きなことをやって金儲けしてていいよなぁー」みたいな目で見る人達が多いですよね。


これって才能が無いただの村人の僻というか、凄く村社会的というかアホな村人根性みたいなのを凄く感じるんですよ。それこそ日本人が村人同士で足を引っ張りあうのもこういう精神性があるからだと思うんですよね。いや、むしろクリエイターって凄い人達じゃないですか?クリエイターはあれが出来るからあれでやっていけるんであって、それは評価しなきゃいけないことですよ。僕がサラリーマン的な意見を嫌うのはそこなんです。彼らには彼らの世界しかなくて、それがスタンダードだと勘違いしているので、サラリーマン的じゃない人達に対して批判をするわけですよね。あとは排除するとか。言わば日本の村人達は烏合の衆になって独特の陰険な攻撃性を発するわけですよ。それが僕は凄く気に食わない。


どっちもどっちで勝手にやっていれば僕は何も思いませんが、変にこういう村人的な人達が他を批判したり、それこそニート批判もそうですが、やたら社会人ということにこだわったり、社会的責任だのなんだのという言葉を振り回して彼らの生活を正当化したり標準化するようなイデオロギーが大嫌いなんです。だったら僕も言いたいわけですよ。「お前らはただの奴隷だろ?」と。好きでやってんだから文句言うなってことですよね。勝手にやってるわけだからかってにやれ!ってことですよ。僕が大声で言いたくなるのは啓蒙ではなくて、そういうイデオロギーに対する攻撃です。あとはそういうイデオロギーに犯されてほしくないという願いもあります。言わば僕にとってはこういうイデオロギーは完全に敵のイデオロギーです。資本主義側が共産主義側のイデオロギーをやたら敵だと批判するのと同じぐらい明白な敵ですね。


これは別に僕の才能あるなしは全然関係無い話です。「そんなこと言ってんじゃあお前は天才かなんかなの?」とかって言われるのが怖いから大衆批判はしないとか、とりあえず迎合しておこうとか、まぁこれもイデオロギーですよね。ルサンチマンの吹きだまりをそのまま受けてしまうようなことを言うのは避けようとする心理です。「大衆」というと上目目線であるとか、社会を担っている人達に失礼だとかっていう意見もありますが、これは本当に危険ですね。それこそオルテガが批判していたような「大衆」を認めてしまうことで、民主社会が大衆社会になることを認めてしまうことになってしまいます。むしろ大衆が「そんな大衆にならないように気をつけねば」と日々、そうならないように配慮することこそが社会にとって必要なことなわけですよ。なので僕が言いたいのは大衆批判ではなくて、善の話と同じで、それは社会的にマズいですよってことが言いたいわけです。社会的という意味で善の話と一緒でこれについて言うことが無駄なことだとは全く思いません。人畜無害な人達がどうしようが興味無いわけですよ。社会に悪影響を及ぼすものに僕の感心は向くわけですね。


「それで、彼らを「奴隷根性」ということは、確かに的を得ているし、ズバリですけど、その人の中から「商業ベース」を探したりするわけですから、大声でアナウンスしても、まぁほとんど効果ないですよねってことです。ようはどっちもどっち。」ということですが、例のパリの大学に戻った彼は当然、奴隷ではないですよね。狸さんのアートが評価されるのは必然的だと思うんですよ。だってクオリティが異常に高いですからね。でもそういうのを評価してくれる人とか、娯楽系の乗せられるかもしれない人達とかって、同じ商業ベースの人達でもレベルが違いますよね。僕は商業ベースで仕事をしている人全員を奴隷だと言うつもりはなくて、ようは村社会的な感覚を持っている他人を足を引っ張りあうような、助けようがない連中のことを言ってるんです。リアル社会で商業ベースでやっている人達だって凄い人はいるわけだし、奴隷ばかりではないですよね。それはレベルの問題なんですよね。ただ少なくともルサンチマンの吹きだまりみたいな連中は凄く大衆的で低俗だと思うので僕は軽蔑していますが、こういう人達はそもそも狸さんのアートは理解しないと思うんですよ。ちょっとかなり大雑把な言い方ですけどね。でも言っていること分かりますよね?僕の批判は何も社会人全般に向けられたものではないということです。酷い村人的な島国根性を持っているどうしようもないサラリーマン達のことを大衆だと思っているわけです。


あまり長く返信を書かないつもりでいたのですが、相変わらず長くなってしまいました(笑)でもまぁこのやりとりにしたら短いほうですよね。今回の返信は大半が僕の説明不足の補足という感じだったと思います。まぁ最後のほうに大衆論みたいなこのやりとり内においてはニュートピックが出てきてしまいましたが、興味無かったらスルーしてくださって結構です。あ、あと思考の柔軟性という意味で色々な言語を学ぶことが重要というのは本当に言えていますね。そういう意味で日本の内向き加減がヤバいのは言うまでもないですね。