ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

狸さんからの最後の返信。

狸 2011/02/13 01:21 返信ありがとうございます。


色々補足してもらい、さらに理解が深まりました。


「悪を自覚していない連中」=サイコに対しては、今回でいえばアーキテクチャに対応しますね。まさに工学的に排除するシステム。もう一つは、善悪の判断はあるけども、「善の欠如」によって「諦める」人々。これは耳蝉さんが言う善の重要性、配慮に対象になる人々。それで、「悪を自覚している連中」が僕の価値対立の連中。ただ、順序でいうとアーキテクチャの理念も、僕が考えている価値対立による戦いも、耳蝉さんがいう「善」に依存しているわけです。だから、耳蝉さんはイギリスの学生のデモを評価するわけですよね。あれは善の体現であると。天誅的な暗殺もしかり。デモをせず、諦める日本人というのは、善を諦めている。それは社会の基盤を沈下させるという悪循環につながると。


それでまた一つ問題が浮かびあがってきました。僕は善の最も基本の一つとして「生死に関わる」と言いましたが、そこには「金」という項目も設置すべき状況に来ている。というのも、「金」は生死に直結する時代が現在だからです。いや、前からですね。それこそ、サイコ的に金を集める連中が、経済的に人々を苦しめて自殺に追い込むのなら、それはやはり直接的な生死ではないが、「悪」として考えなくてはならない。ただ、これはホント今までの議論とは全く違う展開になってきます。


生死から「善」を引き出すのはわりと簡単ですが、「金」という次元から「善」を引き出すのはかなり慎重な議論が必要になってくる。それは「金」というものが、人間の心臓と違って、ただの「金」でしかないからです。もう、ホントこれこそドストエフスキーが考えた問題ですね。(今、読んでいるので・・・。)。善もへったくれもない19世紀後半のロシアで、それまでの善にかわるものとして、人々の共通の価値としての「金」。その金がそれまでの善と対立する中で、どうするのか。(小説では、だいたい金銭がらみで人が死にます)。それと、豊田商事の事件の動画を見ました。・・・。正直、ショッキングでした。かなり。あの生々しさ。あの善の生々しさは、僕はまだまだ気持ちの整理がついていません。


結果主義との関連を読み、耳蝉さんのいう「僕がポイントとしているのは、そういった善の行いに対して反感があった時の善側の判断ですよね。」というのが本当にベーシックな次元にあるということが再確認できました。ようは、善で行動した結果、それが大惨事になったとしたら、そこから善を修正する、という配慮って当然であり、それに対して、その行動の出発になった善を批判するのは違うだろうということですよね。


「大衆」批判はすごくよくわかります。その「サラリーマン的」というのが、報道やら漫画やら映画やらで、よくあるイメージとして僕の中にはあるのですが、決定的な欠如として、僕の個人的な経験として、そうゆう人と接っした経験は今のところない。繰り返しになってしまいますが。 僕がイデオロギーの性質として思うのは、帰納的な経緯でできたその人の発言を、演繹として捉えてしまうことです。だから、僕がしていることというのは、耳蝉さんに対するその、イデオロギーの批判というよりは、イデオロギーそのものの性質に対する批判です。だから、まぁ自分自身への警戒なんですよね。


それこそ、「雰囲気」だけあるというか。僕が障害者のバイトをしたのも、今はやりの障害者の「アウトサイダーアート」という雰囲気に感じるある種の違和感だからです。自分で全く知らない人たちのことを変に持ち上げるというのが、凄く危ない気がした。だから、現場に入ってみたんです。すると、やっぱり色々雰囲気だけの享受では削がれている事実があったりする。(もちろん、自分の経験なんていうのも凄く曖昧なもんですが、「今日は全国的に大雨です」というニュースがやっていたら、カーテンくらい開けてみる、というくらいです。)
 

ただ、全ての雰囲気やイデオロギーを経験にそくして精査することなんか限界がある。だから、自分が全く経験していないイデオロギーに関しては、絶対的な間接化を図るというか。そうゆうイデオロギーの性質は念頭におくべきだと思うんですよね。それこそここで耳蝉さんがいう「敵としてのイデオロギー」というのは凄くよくわかる。それで耳蝉さんが何もイデオロギー的なものをいってるんじゃなくて、「サラリーマン的」なイデオロギーを中和しようとしている。けども、イデオロギーの性質上、必ずそれは中和を超えてしまう。その辺の配慮を耳蝉さんがしているので、僕がまた言うことじゃないんですけど、そうゆうことです。それこそ、何度も言っている矛盾に強くなる言説を作りたいという。(といっても、耳蝉さんがいっているのはイデオロギーなんて次元じゃなくて、善の必要性と同じものだと思いますが。)


それで「今の状況」というのは、世間一般のことです。イメージとして思い浮かべて欲しいのは、東京ビックサイトでのアートフェスとかです。何だか、サラリーマン的な価値に対して、「わたしたちは好きなことを表現する」というムンムンの雰囲気のもと、人々が二畳くらいのスペースで金を出してアピールしているのを見ると、どっちもどっちだなって。なんか、それは違うだろっていう。たぶん、耳蝉さんが言っている人たちというのは、プロの次元の人たちだと思いますが、ついそのイメージで発言してしまったということです。アートフェスの彼らのイデオロギーになってしまうというか。


確かにクリエイターに対する僻みの大衆という図式は、そのまま善の図式に当てはまりますね。 クリエイターへの評価の低さは本当に僕も何とかしたいと思ってます。ただ、これは同時に僕の日本の特徴と矛盾するんですね。クリエイターというのは、基本的に新しい価値を生み出す人のことです。だから、それを評価するというのは、評価する人が「新しい価値」に対して責任を持つということに繋がる。そうゆう価値の起源になることが、日本は徹底的に苦手であるというという。デモをしないことと同じです。この辺はかなりざっくりした日本の捉え方ですが。


今のところの一番有効な手段はだから逆輸入しかないんですよね。 村上隆のおかげで「オタク文化」が外の価値につながり、その土台の上に東浩紀や0年代批評の人たちは、価値の評価を行なってきたと。ってもう、必要性だらけですね。


とまぁ、これで僕の返信は今回で終わりにします。やっぱり糸は切れてしまいました。それと豊田商事の事件の動画をみて、過去のやりとりをもう一回見たんですね。それでちょっと愕然としちゃいまして。あの時の終わりは、僕が死のリアリティを感じることができなく、そして耳蝉さんは、死のリアリティなくしての理論は「机上」なものになるというやり取りをしていました。それで、僕はリアリティの欠如にちょっと行き詰ってしまい、終えたんですよね。


それで、何だか、ここまでやっていて相変わらず自分が死のリアリティなくして議論をしていたんだなということに、豊田商事の動画を見て痛烈に感じたわけです。色々の僕の理解の甘さはここにあったのかと、ここに来てわかった次第です。でも、僕は死のリアリティがない人間ながらも今回必死に自分なりの「善」について考えてみました。だから今回の議論は、死のリアリティがある人間とない人間が「善」について真剣に話すというものだったかもしれませんね。 


「大衆」批判の話は、たぶん耳蝉さんがこれに関して応答があると思いますが、「言葉」同様、また別の機会に。あと、「金」と「善」についても、いつかやりたいですね。といっても、少し卒論や研究やらで時間がいつ取れるかわからないので、気長に待っててください。もしかしたら、その時には別のトピックについて話すことになるかもしれませんしね。 


それにしても、この一週間は本当に驚くべき一週間でした。前期と後期で書いたレポート以上の分量の数倍をこの一週間で書き、かつそれ以上に数倍中身のあることを書けたと思います。耳蝉さんの「熱量」「衝動」をうまく推進力に変換できたからかもしれません。というか、書いていて思いました。耳蝉さんの、これは「才能」という言葉を使わせてもらいますが、「才」は、人に「衝動」を強引にも同期させることだと思いました。ホント、熱量が伝染するんですよね。それも、映像なしの文字だけで。たぶんサブリミナルじゃないけど、文体の中に無意識に染みこんでいるのか。僕じゃ絶対できないです。もう、そう考えないと、この一週間の文章は説明がつかないですね。いやぁ、一度分析して、どうゆう文体なのか研究してみようかな(笑) 途中での叱咤は、今後も訓戒の一つとして心にとどめて置きます。


耳蝉さん。色々失礼なことも書いてしまいましたが、本当にありがとうございました。たぶん、価値も思考パターンも真逆だけども、「善の配慮」を共有しているからこそ、ここまで弁証的な議論が出来たと思ってます。これからも、ちょくちょく覗きに来ますので。


それで、これは耳蝉さんにではなくて、このやり取りを読んでくれた人に書きたいと思います。もしも、読んでくれている人がいたら、本当にありがとうございました。このウォール伝に対する愛情ある人が、僕の他にも絶対いるはずだと思い、僕はずっと文章を書いていました。もしかしたら、一人も見ていないかもしれないけど、でも絶対誰かが見てくれているはずだ、という確信が今回の緊張関係の継続を可能にしてくれたと思ってます。それで、これは本当僭越なお願いで恐縮なのですが、もしもこのやり取りを読んで思ったこととか、ホント何でもいいんです。それこそ、罵詈雑言でも、批判でも、何でもいいんです。一言、何か感想でも、思ったことをコメントしていただけると、僕としては望外の喜びです。ほんとに。


それでは、耳蝉さん、そしてウォール伝の読者の皆様。一週間本当にありがとうございました。


これにて「狸」は失礼いたします。


今回また色々と俺が書くと長くなってしまうし、今も書いていたんだけど、とりあえず今回のやりとりついて思った事を後日色々と考えながらいつもの独白調で書こうと思ってて、まぁそれは後日アップするですね。とにかく本当にあれですよね、本当にこの一週間は凄かったなと。凄まじく濃密な議論ができて、俺としても凄く学べることがあって、あとは自分が書いていることの甘いところとか難点とかもよく分かったし、狸さんの意見にも凄く影響を受けたし、色々とウォール伝名利に尽きる感じで、本当にここまで長いやりとりを狸さんとできたというのは俺にとっても狸さんにとっても凄い財産になったと思うんだよね。思えばこれのきっかけってよかよか書房の件だったわけで、結果良ければ全てよし!っていうと変な言い方になるけど、金では買えない素晴らしいやりとりが出来たってことで、なんかもう感極まっちゃいますよね。本当にまぁ狸さんには感謝ですよね。本当に。


あまりに狸さんの返信がラストにふさわしいものだったので、エンドのピリオドは狸さんが打ってくれたので、俺が変に返信を書く必要も無いと思ったので、今回のやりとりは今日の狸さんの最後の返信で終わりということで、読者の方も狸さんも一週間お疲れさまでした!こういうウォール伝に刻まれるって凄く有益なことだと思うんだよね。それこそウォール伝やってる限りは残るわけだからさ、今リアルタイムで読んでいた人は限られていても、ずーっとこれがネット上にあることでもっと読まれる事ってあるじゃん?そこがいいよね。


ということで狸さん、今回は色々とありがとうございました!