ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

狸さんとのやりとり後に思った事。

まぁ告知通り俺なりに色々と思ったことというか、それは最後の狸さんの返信に対してではなくて、今回のやりとりを通して思った事ということで、いつもの独白調で書くですけどもね。


まぁというか結局、狸さんの最後の返信に言及したいわけだけど、いや、狸さんが明確に「金」というものに言及してくれたおかげで自分の中でもクリアになったんだけどさ、言わば俺がいいたいことのウェイトってやっぱこれが大きいのかな?とは思ったね。人間として善くあることの必要性って別に括弧付きの「善人」というわけではなくて、ようは「悪」の方向に振る舞うなってことなんだよね。まぁ具体的な例を出せないんだけど、なんつーかなんでもいいんだけどさ、貧困を撲滅する会みたいなのがあったとして、んでその組織は本当にまぁなんというかピュアな組織だったとするじゃん。ようはやっていることが定言的に今の社会に善いことだと言い切れるような組織ってことね。


んでもその構成員全員が善人である必要があるか?というとそれは実質的に全然問題じゃないんだよね。それは彼らがその組織を通して反映される社会的行動や仕事ってのが定言的に善であるから彼らの人格なんて関係無いわけだ。いや、詐欺とかをやるやつという意味ではなくて、なんつーか嫌なやつであっても関係無いんだよね。ただもちろん個々のあり方が善ければ結局、組織的なダイナミズムは善くなるっていうか、ようはやっていきやすい職場が生まれるのは明白だよね。だからやっぱ俺は個々も善くあったほうがいいとは思うんだけど、まずは俺のベーシックな善というところでいうとこれは入らないなと思ったんだよね。それはちょっとグレードの高い善なんだよな。俺が言いたいのはまず社会的にあからさまに悪なことをやるな!ってことなんだよね。もしくは肯定するな!か。


すげー正義感があるやつでも付き合ってみると嫌なやつだったりしてもまぁいいわけだ。人間的に嫌なやつってのと正義感って関係無いじゃん?まぁ人間的に善ければ越した事はないしさ、ある物理学者がノーベル賞を受賞しているような科学者とか物理学者が集まるような学会だったか集まりみたいなところですんげーそういう人達に憧れていたんだけど、実際会ってみると人間的にどうしようもなかったみたいなさ、それがすんげー失望を生んだって言ってたんだけどさ、これってやっぱまぁ科学とは関係無いにせよ人間的にも善くあったほうがいいに決まってるよね。んでもまず焦点は科学じゃん?その人の凄さというのは科学での業績ということになるわけで、その人の人格によるものではない。でもまぁ人格も素晴らしいに越した事はないけど、それをベーシックな善で求めるには高度過ぎるっていうか、全然ベーシックじゃないんだよね。


すげーフェアな商売やっているけど人間的には嫌なやつだと思わせるような社長とかさ、まぁでもいいんだよね。これは。パワハラとかセクハラとかやってたら問題だけど、社長として凄かったり、社会的にも有益なことをやっていればまず俺の言うベーシックな善という敷居の低い善で言えばこれは余裕で善なわけだ。逆もまた然りだね。すげー良い人だけど悪辣な商売やってたらそいつは悪だよね。ようは人格は関係無いわけだ。でも完全に関係無いわけじゃなくてさ、それも良いに越した事は無いというのはまぁいつも書いてることでしょ?良い人が世の中に多かったらそれはやっていきやすいじゃん?でもこれってなんつーか善っつーよりかは徳みたいな次元に入るから高度なんだよね。だからまずはインフラとしての善なんだよね。


で、その金なんだけどさ、狸さんが言うその生死に直結するのが金ってまさしくこれでさ、いや、これこそがまさしく俺の言いたいベーシックな善に関わることなんだよねっつーかむしろコアはここだろっていう。それをなんで俺は今まで明文化できなかったんだろうな?ようはその金に関わるところでね、利己的になるってそういうことじゃん?その人が良い人であったとしても背に腹は変えられないってことで食っていくために悪辣な商売をしているとかさ、「食っていくためなんだからしょうがない」みたいなエクスキューズを使って悪辣な商売をしたらダメってことなんだよねっつーかなんつーかな、ようはそれこそが悪に無自覚に進みやすいファクターなんだよね。それこそ善人ですらも悪の道に生死をかけていることだからこそ走らせてしまうものがあるというか、それこそ生存権に関わるものになるから、そこでは綺麗ごとは言っていられなくなるみたいなことってあるじゃん?っつーかようはそれが当たり前なことなんだよね。


綺麗ごとを言っててもやっていけないからみたいなさ、これってのが言わば生存権に繋がる話だから凄く説得力があるかのように見えてしまうっていう。俺がブラック企業だと分かってるなら辞めろ!っつーのもここだよね。生存権がそこに依存しているのは分かるけど、でもそんな違法な組織に所属して働いてたらダメじゃん?それこそ分かりやすく言えば悪の組織じゃん?そもそも恐らく大抵が労働法やらなにやらに違反しているわけだから普通にやっていけるのがおかしいわけで、だから俺はまず縦の力を使ってそんなもん政府がなんとかしなきゃいけないだろ!って思うんだけど厚生労働省がああいうの放置してるとか最高に終わってるんだよ。それこそブラック企業とかに勤めてて心労とかになってどうしようもなくなってんで厚生労働省にテロを仕掛けたりすればそれは政治的なテロになるんだろうけど、まぁそういうのはやらないよね。あ、こういうこと書いたらマズいんだっけ?いや、別にやれと言っているわけではないんだけど、ただなんつーかむしゃくしゃするのは分かるけど、もっと政治的にむしゃくしゃしてくんねぇーかな?とはいつも思うところだよね。通行人とか殺したって何にもならないわけだから。


まぁテロが必要なのはまぁ一貫して権力者側に対するものだよね。その辺を爆破するのは言語としてのテロではないわけだよね。ピンポイントでやらないとテロってのは成立しなくて、んで逆にそれが理にかなったものであれば国民の支持を受けるよね。それが結局はまぁ革命とかに繋がるわけだ。なので変化の為の暴力というのは必要だよね。やたら平和的に解決しようとするから言葉が無力になるんであって。それは今回の狸さんとのやりとりで狸さんが言っていた「概念によって行動することも言葉である」というところだよね。で、もちろんこれも狸さんが俺の飛躍を批判していたけど、まさしくそれはその通りで、ようはまず暴力になる前に暴力を使う前にやれることは全てを使い尽くしてやるわけだよね。で、それでも無理だったらテロしかないだろっていうことだよね。テロっつーと言葉が悪いか。まぁようは行動によって言葉を示すということだよね。ちなみに抗議による焼身自殺も言葉だよね。俺は本当に日和見的なさ、やたら民主主義と平和的な理念に犯されたような「平和的解決」みたいなのが大嫌いなんだよね。そんなんで全てが解決できていたらテロも戦争も起こらないだろうっていう。それこそ世の中はそうなってないじゃん?解決できないから暴力しか無い場合もあるわけだ。


いやね、結局、まぁこれも狸さんが書いてたことだけど、その生と死って話なんだけど、生臭いんだよね。血の臭いがプンプンするようなのが言論とか政治ってもんでさ、やたら洗練された学術用語とか言葉を使って何かを語るなんて大抵は嘘くさいわけだよね。むしろそんなもんで変化は訪れないんだよね。血を流さないと訪れない変化はあるでしょ?それは認めなきゃいけない。で、俺が耐えられないのはさ、そういう暴力が完全に禁止されたりしているから我慢しなきゃいけないっていう抑圧だよね。あとは生存権を守りたいという一心から抵抗できないっていうような奴隷的状況っつーのかな?


平和的解決とか言葉による解決とか言ってるから解決できないことっていっぱいあるじゃん?どうにもならないからっつってゾンビみたいな生活をするしかないとかさ、自殺するしかないとかさ、いや、仮にそれが明らかな悪徳な企業みたいなものによってもたらされたものなのであれば、それってそういう悪徳企業が大量の人達を生ける屍にしているとか殺しているってことなんだよね。それが原因で自殺してしまったってことはこれはようは殺人だよ。そうなのね。「社会はそうだからしょうがない」って諦めてるから諦めながら生きるか自殺しかないみたいな絶望的な世界観ってあるじゃん?でもどうにかしてこれに抗わないとゾンビが増えたり悪徳な連中が手を下さない殺人ってのが跋扈するわけだよね。


やたらキツい職場とかさ、全然人間の事考えてないじゃん?いや、なんで考えないの?って話じゃん?人件費浮かしたいのは分かるけど働いている人の生活はどうなるの?っていう。「でも経営のためには仕方が無い」とかさ、そんなんで酷い対偶とか酷い仕打ちだとかをしていいなんてことはないでしょ?そんなのを許しちゃダメじゃん?抗わないと。俺が言うこのベーシックな善ってのは生死に関わることなわけよ。だから俺はここまで熱くなるわけだ。悪徳というものや善の欠如によってどれだけの人が不幸になっていたり自殺してしまったりしているのか?って話じゃん?放置しちゃいけないよね。またどんどんそれによって人が死ぬし鬱病とかになる人も増えるわけだ。


まぁすんげー大枠で言えば大抵の場合、悪によって人々は苦しむし嫌な思いをするし、逆の善の場合、人々はそれに感謝するし良い思いをするよね。まぁもちろんそれだけじゃないんだけどね。人々が良い思いをすれば悪でもいいのか?っていうさ、でもまぁあれなんだよね、悪で利益を得られる人ってほんの少数でさ、そこには凄まじい数の犠牲があるわけだ。でも善に犠牲は必要ないとは言わないけどまぁ悪よりかは少ないよね。まぁ強いていえば根っこからの悪人がやっていけないってことで、そういう人達が犠牲になるけど、まぁそれって犠牲って言わないよね。凶悪殺人者が死刑になってもそれって犠牲じゃないじゃん?犠牲者ってのは被害者だよね。死刑による被害者というのは存在しないわけだ。


まぁあれなんだよな、だからなんつーか金ってことが善悪の基準になるとブレやすくなるわけだよね。悪を正当化しやすくなったり、あとは善の必要性が無くなったり。ようは自分が食えればいいっつー必死構造になるからさ、だからまぁギスギスするんだよね。思いやりみたいなのがなくなるし、思いやりとかも全部商売の計算に入ってる功利主義的な善になっちゃう。それって人間疎外だよね。良い行いをして感謝されるとかってまぁすげーベーシックなことだと思うんだけど、「良い行い」ってのが計算づくの場合、それって偽善にもなりかねないじゃん?善基準で振る舞っておけばいいっつー計算的なやり方だよね。まぁ計算的に善のほうが良いならまぁいいんだけど、んでもやっぱ根本的にそういうのではない生き方としての善のあり方ってあるわけじゃん?全てが数値的な計算なんて嫌でしょ?恋愛も人間関係も全部自分のためみたいなのってすげー嫌な構図だよね。そういうのもあるかもしれないけど、そういうのだけじゃないのがまぁ人間関係だし言わば人生じゃん?


やはり軸はそこになくては!ってことですよ。全てが功利主義的な計算じゃマズい。功利主義的なのは社会工学的にシステムとしてそれが内在されていればいいのであって、それはようはシステムの話だよね。んでもやっぱ人に必要なのは善なんだよね。「それって結局なんなのさ?」って言われるようなことじゃないでしょ?今回俺が書いてきたことって。子供にも分かる善だよね。んでコンテキストに現れる善というのをメタ言語的な意味で規定するっていうさ、それが常にメタ的に規定されていれば相対主義には陥らないじゃん?ベーシックな善に普遍性があるのはそこだよね。誰もが共有できる凄まじく初歩的な概念であるという意味においてなんだけど、でもそれは人々が生存のためっていうか、言わば金のために動くようになると初歩的な善の概念ですらも忘れるっつーかさ、むしろナイーヴなものとして捨てるみたいなさ、それってまぁ相当マズいですよねってことだよね。結局それが生き辛い世の中を生み出しているのであれば結局は人々が生き辛い世の中を作り出してるってことになるじゃん?善を捨てるベネフィットなんてないわけよ。金が全てじゃない!なんて特に今なんて分かりきったことじゃん?かといってそりゃーまぁー食っていかなきゃいけないのは分かるけど、んじゃあそれを理由に善に背を向けてもいいのか?ってことだよね。


「やっていかなきゃいけない感」に支配されているからこそ生き辛い世の中が生まれるわけだよ。言わば生きることしか考えないっていう利己的過ぎる原理で動いている人達が多過ぎるって世の中じゃ生きやすい世の中なんて生まれないってことだよね。それは永遠とギスギスしたままでしょっていう。これって自己啓発本とかにも書かれてることなんだけどね。利己的過ぎないほうが成功するみたいなことは大抵のものに書いてあるよね。「与える」ことの重要さとかさ、結局、まぁその「与える」という行為が自分に戻ってくるからっていう利己的な理由でそれをやってても、まずはまぁ一段階上じゃん?それって。奪う行為をするよりかは相当マシだよね。自己啓発本とかに書いてあるのは言わばそういった善的な行いってのが信頼みたいな良い流れを生むからそれが結果に繋がるみたいなさ、お金に対してもそのほうがいいですよってことになるわけだよね。ガツガツし過ぎてるやつには限界があるってことだよ。ギスギスし過ぎている世の中にも当然限界があるよね。だからまずその限界突破を一気にとは言わないけど一段階上からはじめてみたほうがいいんじゃない?ってことだよね。そのほうがいいのは目に見えてるんだから何でやらないの?ってことなわけだよね。


うーん・・・なんかまだ色々あったような。まぁとりあえず今日はこのぐらいでいいかな。結構書いたよね。