マッシュアップ考。

なんでこんなにマッシュアップが楽しいのか?ってまぁ考える暇もないぐらい没頭してたけど、ちょっと思った事があったのでっつーか色々とやり過ぎてて時間が180度変わっちゃってて夜中起きて7時ぐらいに寝るみたいな高木貞治みたいなサイクルになってるんだけどさ、いや、まぁマッシュアップなんだけど、没頭してるのはまぁ言わずもがなだけど、調べてみると色々あるんだよね。別に俺は特にマッシュアップというのを意識してやっているんじゃなくて昔からなんつーかビートが乗っからないものに何でも乗っける癖ってのがあって、んでまぁ結局、トラック作りは全然やらなくてトラック系と言えばマッシュアップっつーかそのままサンプリングみたいなのとかばっかなんだけどさ、マッシュアップって調べてみるともうアレンジと区別がつかないようなのもあるよね。


刻みが細かくて被せてるっつーよりかは素材を切り貼りして乗っけるトラックのアレンジをしてるっていうさ、ああいうのって何か興味無いんだよね。だったらまぁ別に最初から自分で作ればいいじゃん!ってことだし、最初から自分で作る事が不可能だってのは前から書いてるよねっていうか音楽系の話題では前から書いてたよね。色々と。


まぁようは音楽ってcombinatoricsなんだよね。既存のものの組み合わせね。極めつけが中田ヤスタカだよね。カプセルのファーストは歌謡曲でその後はレディメイド系でんで段々とパフュームに繋がるようなエレポップ系になってきててさ、トラックメーカーとしての腕は凄いしまぁ俺はカプセル時代から好きだったし、逆にあんなにスターになっちゃってなんか俺のお気に入りの人が飛び立っちゃったみたいな感じで今はあんまり思い入れがなくなっちゃったんだけどさ、言わばまぁレディメイドの組み合わせだよね。ポップアート的な。いや、小西さんがまぁレディメイドっつってまぁサンプリングで曲を作ってたんだけど、まぁ初期のFPMとかもそうだけど、そっから出てきたポップ感みたいなのをさらにまたサンプリングっつーか素材として組み込んじゃうってのが中田ヤスタカだよね。メタサンプリング的な。


手法的にも音的にも彼のオリジナルというのは実質的にないんだけど、そのサンプリングセンスでやっていたcombinatricsの一番なんつーかブレイクビーツ的っていうか「これだ!」って部分を取捨選択していった結果、彼のスタイルが出来上がったっていう、なんつーかサンプリングからの鋳型っつーのかな?そういう意味で言えば初期の電気とかもそうだよね。色んな曲をサンプリングして曲調を真似したり流行のレイヴの音とかを取り入れてて、んでまぁ聞いてみるとただの真似なんだけど、んでもそこにポップ的な独特の彼らのセンスが入ってきて、んでそれが電気っつースタイルを生み出すみたいなさ、んでやっていくうちに彼らの腕も上達していくからエースみたいなアルバムが出来上がったりさ、トラックメーカーとしてソロでもクオリティ高いのを出すようになるんだよね。まぁまりんはちょっと別格過ぎるけど。


言わばポップアートが電気とかレディメイドだったとすると今はもうポストポップアートでさ、俺が思うのはね、ポップアートの時点だと引用感ってのがあるんだよね。持ってきてるけど上手い使い方をすれば俺のビート!的な感じとかさ、ラップ乗っけちゃえば俺のトラックだ!みたいなヒップホップ的な感じとかさ、まぁこれがようは引用感だよね。でもポストポップアートっつーか中田ヤスタカとかあとは他のマッシュアップ的なセンスで曲を作ってたりバンドをやってたりする人達はなんつーかもうポップアート感がまず自明のものとしてあるので、だからようは引用感がないんだよね。「持ってきてるね」っていう感じがない。ここ10年そこまで新しいスタイルの音楽って無いし、なんつーかいつも書くようにドラムンベースから2stepでんでダブ・グライムぐらいからもうスタイルっぽいスタイルは無くなった気がするよね。


でもそれは定番っぽいね、2stepとかドラムンベースっていう定番の型が無くなったっつーかそこまで目立ったやつってのがなくてさ、例えば2stepだったらまぁ好きな人なら分かるだろうけどもうお決まりの作り方があるよね。ドラムンベース然り。展開とか音色とかさ、んでも今のポストポップアートは全てが引用なんだけど、んでも持ってきてる感が無くて、かといっても型通りのスタイル感もないってことでそれ自体がスタイルになってるっていうか捉えどころが無いスタイルなんだけどでも音を聞くと必ず分かるっていう「節」があるんだよね。まりんとか卓球もそうだけど「節」がある。


ところでちょっと変な例えになるけど小室哲哉なんかも引用だらけっつーかスタイルとか音のパクりだらけなんだけど「節」がある人だよね。そういう意味でなんつーか中田ヤスタカに繋がるようなところがあるっていうかさ、いや、センスは断然中田ヤスタカのほうがいいし音的にもなんつーか歌謡曲というよりかはそういうのを聞かない人っつーか例えば俺とかも普通に聞けるぐらいの歌謡曲とかに寄り過ぎないトラックのクオリティっつーか質感があるっていうかさ、んでも芯は無いっていう意味では小室哲哉と類型は一緒なんだよね。小室は俺は個人的に大嫌いっつーかあの音とか曲調が大嫌いだったけど中田ヤスタカのは聞けるんだよね。まぁカプセルはレディメイドスタイル時代が一番好きで最近はまぁ好きじゃないっつーかエレポップ系って俺ダメなんだよね。昔からなんだけどダフトパンクとかもダメなんだよね。ビデオ作っておいて言うのもなんだけど。


んでまぁダフトパンクで言うとダフトパンクも基本的には全部真似だよね。フランス系ってそういうの多いっつーかデミトリとかもそうじゃん?全部引用とか持ってきてる感じなんだけどんでも節があってんでそれがスタイルになってるっていう。でも中田ヤスタカジェネレーションっつーかまぁ世代的には俺と同じなんだけど、中田ヤスタカジェネレーションはさっきも書いたように引用感がないんだよね。あたかも全てが彼からでてきているような感じを受けるっていうかさ、ジュークボックスみたいな感じだよね。ダフトパンクとかって特にファーストなんてさ、まぁアレはまぁまぁ好きだけど全部真似じゃん?ってしつこいようだけどようはありふれたディスコハウスとかさ、ディスコ調とかテクノ調とかさ、新しさは無いのにんでもなぜかなんつーのかな?彼らのスタイルになるんだよね。


いやね、オリジネーターって意味だと例えばコアになっちゃうけどポール・ジョンソンとかDJファンクとかさ、まぁシカゴ系のやつらってまぁみんなそうだけど勝手に変な曲作りしてんでその天然さみたいなのがスタイルになるじゃん?で、ゲットーハウスみたいなスタイルが出来上がってまぁ定型になっちゃうんだけど、んでもなんつーかまぁ天然だよね。基本的にファンキーなもんっつーか黒人よりのものって天然なのが多いよね。だからまぁいいんだわ。やっぱファンクネスには敵わないなっていう。


あ、んでね、俺が言いたいのはさ、なんつーかポストポップアート世代だとなんつーか引用感が無いから鼻っからなんつーかもうオリジナリティみたいなのは求めてないみたいなのがあるよね。だから実験性とかが一切無いし必要ないんだけどんでもそれがまぁ総合的に見てスタイルになってるんだけどさ、でもなんつーか俺の印象だと90年代って音楽がcombinatorics的でもなんつーかオリジナリティを出そうと色々と工夫してたと思うんだけど今ってもうみんな諦めたのかなんなのかさ、無いよね。本当に。別に批判じゃなくてね、もう分かっちゃったのかな?っていうさ、みんな実は分かってるのかもなとかって思ったりするんだよね。そんな中で俺が行き着いた結論がまぁoval的なメソッドっつーかようは自我を介さないっていうさ、例のノイズのやつのエントリーで書いたやつなんだけど、まぁ前も書いたかもしれないけどさ、マッシュアップって最たるもんなんだよね。


ようはアレンジとかじゃなくて、そのまま乗っけるとか、せいぜい構成を組み直すとかさ、そういうまぁなんつーのか切り貼り的な感じっつーのかな?それであたかも曲が一曲のように聞こえる!っていうその感動だよね。なのでそこに俺は介在しないじゃん?だって音作りはしてないでしょ?俺。素材というよりかはトラックの切り貼りとか構成の組み替えしかしてない。それでも結果が全然違うように聞こえたりとかさ、いや、この曲とこの曲合うんだね!的な感動っつーかさ、んで元ネタは何々と何々ですってもうなんつーか数学の証明みたいに書いてあるっていうさ、まぁそのまま同時再生しただけじゃ上手くいかないんだけど、んでもさ、そこで「俺エディット上手いだろ!」的な見せびらかしも無ければ普通に聞いてると別にありものにしか聞こえないぐらいの違和感の無さっていうかさ、そこに魅力を感じるんだよね。あー重ねあわせたのねっていうさ、まぁ自分で言うのもなんだけどそこにはセンスが必ず介在してるしセンス無ければできないとは思うんだけどでもトラックメーカーすげーな!っていう風にならないところがいいんだよね。


あ、んで俺が結局一番好きなのってこういう手法なんだよね。まぁマッシュアップじゃないけど抜いてくるっていうさ、DJ CamのファーストとかDJ Krushの初期とかああいう感じね。ネタのループだったりするんだけど抜いてくる場所とか構成とか音質とかにセンスが全部でてるっていうさ、コンポーザー寄りの人から言うと「ただのサンプリングループじゃねーか!」ってことになるんだけど、逆に俺はコンポーザーのほうにそれを感じるんだよね。作曲とかアレンジっていうスタイルの中でやってるだけっていうかさ、それって全部ありものなんだよね。


それをそれらしくプログラミングしたりメロディを作ったりしてるんだけどオリジナリティなんて大抵無いわけだ。それに比べてサンプリングってのはメロディを書いたりするよりもセンスが出るんだよねって俺は昔から思っててさ、まぁサンプリングが大好きでしょうがなくてまぁストックハウゼン&ウォークマンとかの話とか耳ラボ時代のウォール伝で色々と書きまくったっていうかまぁその辺は昔から書いてたけど、なんつーか今は明文化できるんだよね。ようはその作曲の胡散臭さね。自分で書いてるから作曲でサンプリングだと著作権がどうだのさ、ただのループじゃねーか!的な言い方とかさ、余裕で俺は逆だと思うわけよ。まぁレイ・ハラカミとかコーネリアスとかまりんとかは別ね。小西さんもそれで言うとそうか。あ、んで作曲寄りの胡散臭さで言うとまぁそれこそ小室哲哉なんだよね。


自分でまぁ色んな機材使って曲を書いてるんだけど既製品のつぎはぎだらけだしそれこそ自己流のアレンジしかしてないじゃん?まぁそれが本人の節になったりするんだけどさ、んでもまぁそれが良い方向に向く時もあるってのが中田ヤスタカだよね。バリバリ曲を書いているけどサンプリング以上にサンプリングなんだよね。でもメタ的過ぎてサンプリング感すらないんだよね。凄くこれってまぁ本当にポストな感じだよなっていう本当に次世代の感覚だよね。20代前半の面白い感じのインディーズバンドなんかもそうだよね。オリジナルは無くて大抵が何かの焼き増しなんだけど彼らの若さとか独特の雰囲気ってのがあってそれが結果的にオリジナリティになってるっていうさ、だからまぁようは作曲とかじゃないんだよね。色んな音の組み合わせと作り手の好みと人格とかも含めた色んなものの混合物が結果的に音として出るんだよね。


だからまぁ持論としてはそれがサンプリングだろうが打ち込みだろうがまぁ全然関係ないのね。ただ中途半端なマッシュアップだけは凄く不快になるんだよね。だったらどっちかにしてほしい!って思うわけよ。小室哲哉とか中田ヤスタカみたいなスタイルなのかネタを使いまくる小西さんとか初期のニコラ・コンテとかUrsula1000とかさ、ネタの大使いっていうかループ感がすげーな!っていうね、いや、でもそうじゃないじゃん?中途半端にマッシュアップで中途半端に中田ヤスタカ的なのって本当に気持ち悪いんだよね。だったらもうアレンジャーとか作曲家になればいいのに、でもなぜかスタイルはマッシュアップをキープしてるっていうさ、んでもアクフェンみたいにもならないっていうなんかそのやるせない中途半端な感じっつーのかな。


さっきのovalの自我の話で言えばさ、やっぱ俺にとって魅力的なのはさ、シカゴハウスの連中が適当に打ち込んだのをループさせて「ゲヘヘへ!クールだぜ!」とかって言ってる単純さとかね、レコードのかっこいい部分だけをループさせて曲を作っちゃうみたいな初期のヒップホップとかさ、あとはまぁまりんとかね、あとはTipsyとかもそうだけどまぁシカゴの連中とは一緒にできないけどさ、んでもなんつーかみんな絶妙なセンスが光ってるよね。でもなんかマッシュアップ以上作曲未満なのってどうもなんか中途半端なんだよね。俺も今回アップしたやつでボルティモア・ブレイクス系のやつとか使ってるけど、あれってシカゴハウス的なんだよね。


で、しかもサンプリングそのまんま的でさ、ただループさせてラップ乗っけてるだけじゃん!っていうね、んでもクールなんだよねっていうか異様なグルーヴ感があるんだよね。小賢しさが無いしテクニックに逃げてるところもないし大ネタを使っていたりするんだけどんでもネタに頼りっきりという感じではなくてやっぱ核がビートにあるっていうかさ、いかにビートを生えさせるか?ということの周りにサンプリングとかラップとかリズムマシン的なものがあるっていうね、そこだよね。そのコアが無いのってやっぱダメなのよ。中途半端なやつってみんなそうだよね。


で、俺で言えばさ、自分で最高にクールなのを作れる自信って一切無いんだよね。どうせ作っても2流ぐらいだし何かの真似になるし、かといっても逸脱し過ぎるとわけわからなくなるし、まぁそれはそれでいいんだけどね、んでもまぁ結局俺は手の内でそれこそcombinatorics的なものしか作れないってのがよく分かってるんだよね。だったら別に変にトラックを作ることにこだわるんじゃなくてそれこそマッシュアップでやってるようにさ、意外な組み合わせで異様なグルーヴ感を出したりさ、曲がrebirthするような感じとかね、やっぱそれだよねっていうかもうそれに尽きると思うね。下手にアレンジとかエフェクトをかけて音作りとかをするとダメなんだよね。


そのまんまなんだけど組み合わせとかタイミングとかでかっこいい!ってなるっていうね、んじゃあ原曲聞いてみようってことになって原曲を聴くと「へぇーこんな感じなんだ」ってなぜかサンプリングの元ネタを聞くような感覚になるんだよね。でも別にそれって2曲とか3曲合わせたうちの一曲だからサンプリングでもなんでもなくてそのままの曲なのになぜか原曲って感じがするっていうかさ、なんつーかようは極端な行き過ぎたサンプリング音楽だよね。ようはもう音楽って言えないんだよね。実は結構凝ってたりするのもあるんだけど別にそれをあえていう必要もないしリスナーが知る必要も無い。ただ2曲なりなんなりが同時に鳴っててすげー合っててかっけー!ってなるっていうそれだけでいいっていうさ、その明快さだよね。


そこで俺が変に自我を出そうとするとさ、ようはそこで変なタイプのアレンジャーみたいになっちゃうんだよね。辞めておけばいいのにいじり過ぎてマッシュアップそのままにしとけばいいのに作家性を下手に出そうとしてグルーヴ感が無くなってるとかさ、辞めておけばいいのに・・・っていうその感じだよね。結局なんつーかグルーヴって出せる人はまぁ出せばいいけどさ、なんつーかもう天然のものなんだよね。妙な組み合わせでグルーヴ感が生まれたりさ、微妙に合ってないんだけどちょっとかっこいいみたいな荒さとかね、逆に整合性が保たれ過ぎてるものにグルーヴって宿り辛いでしょ?


クラシックのピアニストとかがジャズ演奏すると大抵グルーヴ感が無いみたいなもんね。やっぱ荒い野蛮だけどセンスだけで勝負してるみたいなそういう天然のところにグルーヴって宿るんだよね。そういう意味でDJ Bold Mushroomのマッシュアップ群は全部かどうかは分からないけど中には奇跡的なグルーヴ感が生まれてるのもあるよね。それは俺ですらも未知のものだったわけよ。んでも思いついてやってみたらすんげーかっこよかった!みたいな作者ですら驚いてます!っていうさ、いや、常に驚いてるんだよね。「もしや・・・」ってのが「やっぱそうか!」っていうかっこよさに繋がるっていうさ、それがまぁグルーヴだったりするわけだよね。


で、それは細かいプログラムとか切り刻みとかよりもやっぱ大胆な切り貼りとかそのまんま感の中で出てくる率が高いような気がするんだよね。それこそ一連のIKZOマッシュアップなんかは典型的じゃん?匿名性が高いしさ、ここの作り手の音作りって出てないんだけどでも音作りをしてる人達よりもセンスがでちゃってるんだよね。スパイスガールズのやつとか特にそうだけど。あれだよね。あの感じよ。本当に。ちなみにIKZOを知ったのって本当に最近なんだけどね。


やっぱんでマッシュアップの金字塔はダフトパンクとビースティーとカプセルのやつね。あの「うわー合ってるぅ!」っていう誰もが驚くあのグルーヴ。んでも原曲を聴いても「へぇー」ぐらいにしかならなくてさ、んでそれこそ三位一体になるとあの奇跡的なグルーヴ感が生まれるんだよね。もちろん音のバランスとか構成とかがすんげー上手いんだけどさ、んでも音は一切いじってないじゃん?全部原曲そのまま。でも構成と配置で原曲以上のグルーヴ感が出てるんだよね。ちなみに知ったのは先月ぐらいだけどさ、ビースティーなら俺はもっと前にノベルンベースで使ってたじゃん!俺がオリジンだ!とかって一瞬言いたくなったけどまぁいいや。格が違い過ぎるもんね。


あれって作者が凄いねー!っていう風にもなりきらないじゃん?まるで3つのユニットがコラボしたような音が出ててさ、それを出しているっつーか見つけ出してるのはそれをマッシュアップした人なんだけど、んでも作り手というほど作曲行為とは看做されないっていうさ、でもグルーヴ感はそこらへんの作曲家とかじゃ全然敵わないぐらいヤヴァイのが出てるっていうさ、その奇跡だよね。実際はまぁテクニックとかも凄いんだけど、んでもまぁテクニックすげーな!とかさ、打ち込み細かいなぁー!とかさ、そういうテクっぽい部分とか一切見えないじゃん?まぁ玄人には分かるけど普通の人が聞いたらそれこそ「合ってるねぇ!」っていうその感動しかないっていう。んでも繰り返しになるけどそれを作った人は当然いるわけでさ、んでもそれの元は独立した楽曲っていうさ、だからサンプリング音楽ではないんだよね。それこそマッシュアップ音楽なわけだ。


その微妙な定義できない感じが本当に最高だね。作家ってのが前に出過ぎずにヒーローにもならずに、んでテクニックとか細かさとかで見せるとかでもなしに、かといっても作りが雑か?っていうと実はそのままじゃなくて細かいエディットがあるんだけど音の反映としては「合ってるね!」っていうある種の錯覚を起こさせるエディットをするっていうところに技術がいってるっていうさ、ようは音楽が最高に先行した音楽なんだよね。細かく切ったり上手い事アレンジしてたりしてるやつってどうも「俺凄いだろ感」があるっていうか出て来なくてもいいような無駄な作り手の主張ってのが出ちゃうんだよね。技術ばかりに耳がいっちゃって肝心の音楽は?っていうとそれは実は技術で誤摩化されたグルーヴ感なんじゃね?っていうさ、実際の胡散臭さで言うとそのままのマッシュアップなんかよりもよっぽど胡散臭いんだよね。んでも凄く作曲感はあるよね。モロに作ったっていうか作った人凄い!ってことになる。んでもそれって基本マッシュアップでしょ?ってことになるとさ、だったらなんか最初から作ればいいじゃん!って思っちゃうんだよね。


形式だけ持ってきてなんたらミックスとかいってそれを作曲と看做すっていうそっちのほうが胡散臭いと思うんだよなぁ。ドラムンベースでもダブステップでもいいんだけどさ、それこそ持ってきただけじゃん?形式だけそのまま持ってきて適当に音色変えただけとかさ、それって何なの?って思うんだよね。んでもまぁ1から作るって大変なんだよね。それこそそこには形式が必要になる。ダブステップ風でいくのかさ、ボサとテクノを混ぜるのかさ、まぁそれをハイブリッドで最高のセンスと技術でやってるのがテイトウワとかなんだけどさ、ああいうレベルの人ってテイトウワ未満とかになると本当に悲惨になるんだよね。一気にテイトウワぐらいまでいかないとかっこよくならないんだよね。だからすんげー良い音楽を作るのって難しい。


で、俺にはそれが出来るとは到底思えないのね。まりんの最近でたアルバムは短過ぎてしかもなんつーか結構ミルプラトーとかのコンピとかにも入ってそうな雰囲気だったんで結構期待値が高かった分、がっかりしたんだけどさ、いや、でもやっぱまぁなんつーかまりんのセンスっていうかまぁサンプリングにしたって90年代のやつとかヤヴァ過ぎるよね。あんなの作れないよね。本当に。真似なら形式だけ模倣できるかもしれんけど、それってもうすでに模倣だからね。だから全然意味ない。


センスで言えばやっぱUFOも尋常じゃないよね。まぁあれはエンジニアの尋常じゃない手腕もあってさ、まぁいつも書くようだけどFPMのファーストなんてあれはエンジニアが凄いんだからね。FPMはまぁ恐らく「これとこれを合わせて・・・」みたいなまぁ原案だよね。言わば監督みたいなもんだ。まぁんでも作曲者になるけどね。アバターのCGとか自然の再現度が凄いっつってジェームス・キャメロン凄い!ってことにはならないのと一緒だわ。まぁ総合であれはまぁ監督が凄いんだけど、でもまぁ色んなものが組み合わさって凄いんだよね。俳優とかCGとかまぁ技術とか脚本とかね、あ、ちなみに別に俺はそんなアバターを高く評価してないけどさ、まぁ別に普通だと思うけど、まぁようは例えとして映画を出したかったわけね。


いや、そうなると作曲とか作るって行為って何なのかな?っていう風にならない?で、やっぱなんかね、それをまぁずーっと前から思っててさ、んで行き着いたのがまぁ例のovalの話なんだけどね。自分がまぁただ音の構成とか配列とかを出すフィルターになるだけっていうさ、ようは自我が介在しない感じだよね。介在してるんだけどんでも聞いてて全然介在してるように聞こえないっていうさ、ovalの初期とかそうじゃん?なんかのネタがあってんでフェルトペン書いてCDで再生してスキップ音でアンビエントみたいなのを作ってるんだけど、んでも結局マーカスポップの音作りの美しさになってるんだよね。CDスキップ音だろ!なんて到底言えない美しさがある。まぁいつも書くようだけど俺はovalのミュージシャンシップの否定が大嫌いでさ、んでまぁ自分なりにovalに行き着いたっていうかようやくマーカスの言いたいことが自分なりに理解できたってことだよね。で、結論としてはまぁ凄く似てるっていうか一緒だなっていう。まぁ俺は彼ほど凄いのは作れないけどね。


まぁでもこれってまりんとか卓球が若い頃に感じてたテクノへの憧れと似てるのかな。人力じゃなくて機械だぜ!的な感じっつーのかな?クラフトワ―クとかもろに人間臭いんだけど人間臭いバンドしか無かった時代にあれだからようはそのマシーン感が凄いっていうさ、まりんがクラフトワークに感じてた魅力みたいなのを俺は今なんつーか機械的に見えるovalだとかただの切り貼りにしか見えないサンプリング音楽とかマッシュアップに感じてるのかもな。まぁかといっても別に人間が全面に出てくる音楽がダサイって思ってるわけじゃないし、それはそれでそういう音楽として好きなんだけど、でもそれはそれで全く別ものだよね。それは。全然なんつーか同じ音楽でも次元が違うよね。で、どっちがレベルが高い低いとかってのは全然無いんだわ。ただ違うのね。


ちなみに前にも書いたかもしれないけどさ、激情型過ぎるアイラーとか阿部薫みたいなのとautopoiesisとかovalみたいなのって反対に見えて実はすげー似てるっつーのがさ、極右と極左が実は繋がるみたいなのと同じような話なんだけど、両者に共通してるのはただ彼らがひたすら音を出すマシーンと化していることだよね。前者は激情型で完全にぶっ飛びながら音を出しまくる音楽生成マシーンになっていて、んで後者はすんげー冷静に音楽生成マシーンになってるんだよね。


autopoiesisはまぁなんつーかいかにもなドゥルーズとかデリダとかガタリに傾倒してるポストモダン系の思想を音楽でやってます感があるインテリ音楽ではあるけど、でもネット上に散らばってる音の断片とか色んな音の素材をただループさせたり加工したりして音を配置するだけっていうさ、ああいうのダメなんです!ってことを言ってた人が3人ぐらい知り合いでいたけど、俺は昔からああいうスタイルが好きなんだよね。匿名性があり過ぎてて何なのか分からないし音の断片の組み合わせにしか聞こえないしってまぁ素朴に聞けばってことね。んでも実はそれが方法論なんですっていうさ、かといっても方法論とか思想に傾倒し過ぎている音楽か?っていうとそうではなくて実に素晴らしい音楽生成マシーンになってるわけだよね。個人的にはSBOTHIなんかはautopoiesis的なものをやりたかったんじゃね?って思うんだよね。70年代後期とか80年代初期に。音だけで聞くと分かりづらいけどね。アヒムはミルプラトーに繋がる人だからまぁ全然普通にそうだと思うけどね。


ちなみにVladislav Delayとかね、ベーシックチャンネルとかさ、空間系の音でなおかつただのダラダラとした音響じゃなくてリズムとかもあるものとかってあるじゃん?あれってヤヴァイんですよ。ホントに。音響とかアンビエントなら誰でも作れるけどVladislavとかベーチャンってのはそれこそワンアンドオンリーな音じゃん?それこそまぁあれこそがオリジナリティってやつだよね。どっから来たのかさっぱり分からん音なんだけどとにかくヤヴァイんだよね。何なの?って感じ?あんなの無理だよ。ホントに。凄い人とか音楽を聴いて「俺も頑張ろう!」って思うのもアリだけど「こりゃ無理だ・・・」って諦めて自分が作れる最良のものを作るっていう方向に向くってのも結構重要だと思うんだよね。まぁそれは人生全般に言えるのかな。それは自分を知って弁えるみたいな消極的な理由ではなくてVladislavとかベーチャンとかまりんとかテイトウワとかあんなのは一生かかっても作れないけどんでも俺にしか作れない俺らしいものってのもあるぜ!っていうさ、そのまぁ「らしさ」路線だよね。


そういう意味で自分がマッシュアップなんかを作ってると本当に分を弁えてるなって気がするね。テイトウワとかまりんとかまぁ他でも超一流のコンポーザーなら誰でもいいんだけどさ、彼らのようなトラックを作りたい!って思っててもまぁそれは一生憧れで終わるよね。あとは模倣してやった気になるっていうさ、模倣できてもまぁ御の字かもね。俺なんか模倣すらも無理だよ。仮にテクノロジーが進化してより音楽が作りやすくなってもああいうのは一生作れないね。そもそも俺はメロディとか浮かばない人だしそういう意味で全然音楽に向いてないんだよね。でも音楽って別にメロディとか作曲だけじゃないじゃん?そういう意味での分を弁えるだよね。


俺のオリジナルだけど別に普段聞こうとは思わないってのとさ、いや、俺もそうだし普通の人もね、それとマッシュアップだけどかっこいいから普段も聞こうと思うっていうのがあったら絶対俺は後者を作りたいよね。中途半端な作家性の維持と見せびらかしよりも徹底的な機能主義っていうかグルーヴ主義っていうかさ、俺なんてどうでもいいんだよね。それこそ出来上がったものが既製品のコラージュであれマッシュアップであれかっこよければいいんだよっていうそれね。これって俺は本当に純音楽的な態度だと思うんだよね。コアに音楽性とか音楽の機能性っていうことがあるからこそ捨てられる作家性っつーのかな?まぁんで結果的に作ったやつをああやってYou Tubeのチャンネルとかで一覧で見るとやっぱスタイルとかあるんだけどね。まぁでもほんとジャンル幅広いよな。幅広くほとんど何でも聞くことにかけては俺は本当に自信があるからね。


まぁんで要約すると何でも結局は「俺が俺が!」的な自己中心的っつーよりかは自我中心的なものって大抵のものでまぁダメになるってことなんだよね。俺の作家性を!とか認められたい!とかまぁ何でもいいんだけどさ、そういうくだらない自我中心的な動機で音楽を作るよりかは利他的に客観的にこんなのがあったら面白いし聞きたいよなってのを作るっていうさ、そっちのほうが結果的に良いのが作れるよね。学問でもそうでしょ?やたら「俺俺!」って言う評論家とか自称哲学者とかって大抵ダメじゃん?なんつーか態度としてはやっぱ客観的な真実だよね。


真理というと大げさになるし宗教臭くなるけど、んでも知識ってのはやっぱ真理に立脚してなきゃいけないよね。「俺!」とかなんとかって知識の体系とか真理ってことから見れば本当に関係無いことだからね。で、まぁそんな真理なんて無いし分かりませんよっていうさ、まぁそりゃランダム性とか不確定性とか不完全性とか何でもあるけどさ、それも含めた真理だよね。結局は全てを知ることなんてできないけど、んでもそれを分かっていながらもなるべく人間という観点から真理ということに立脚した知識のあり方を求めるっていう姿勢だよね。それこそエロスなわけよ。エロスへの旅が言わば哲学だよね。そういう意味で真理を求めようとする人それぞれがまぁ色んなジャンルの違いはあれ基本的に哲学者というか哲学的な道を歩んでるって言えるよね。


まぁプラトン哲学はさ、まぁタレブとかもplatonicityとか言って批判しまくってたけど、ようは形となるような理解可能な体型とか型みたいなのがあるって思い込むとかそこにformalizeしようとするとかさ、それがダメなんだよね。そういう意味でのプラトンの形があるような意味でのっつーか人間が知覚可能なものとしてのイデアってのがあるってのを措定したらそれはダメなんだよね。それは形も何も無いとりあえずまぁ概念としか言いようが無い真実だよね。ようは「こうこうこういう理由で理解不可能だ」と言い切れることも人間にとっての真実の一つだよね。まぁそこで諦めるということではなくて理論的に無理だから「分からないこと」として「理解する」という意味での人間にとっての真実だよね。かといってもまぁ別に不可知論とか懐疑論とかに埋没するわけではないんだけど、でもまぁ要素として不可知論とか懐疑論なんてのはもう所与のものとして当然のアプリオリのものとして概念の中にあるっていう態度だよね。まずそれが無いと真実には近づけないよね。


前にも書いたけど「俺は何でも知る事ができる!」なんて思った時点でもうそいつは終わってるからね。それを信じて一生を費やして結局分からずじまいで終わるっていうさ、だったら何も分からないし知らないっていうところからスタートする知識の吸収のほうがよっぽど建設的で結果的に前者よりも多くのものを得られると思うんだよね。まぁソクラテス無知の知と一緒だけどね。基本的には。んでもまぁそれにタレブ流のポパー的な反証主義というか懐疑主義というかがミックスされてる感じかな。でもそれは俺が色々と知ることでそんなこと当たり前なんだよねってことを知る事ができたから思えることなんであってさ、知る事で得られるアプリオリだったはずの前提ってのが理解できるようになるんだよね。そこからまた新しいスタートがきれるじゃん?っつーか学習ってのは常にその繰り返しだよね。コペ転というけどもそれは実は真実は知られているものと全然違った!ってことでの主観的な転換じゃん?それは見方が変わるんだよね。これはまぁニーチェの遠近法にも繋がるんだけど。


ってことで久々のエントリーでしたわね。久々なので長いわけで。ハードコアブログだよね。ホントに。んじゃまたね。



いじらなさが絶妙なグルーヴ感を出している成功しているマッシュアップの一例がこれね。これで変にアレンジっぽくしちゃうとただのリミックスとかになっちゃうんだけど、別々の毛色が全く違う曲を重ねてこれになるっていうその驚きこそがマッシュアップの醍醐味なんだよね。だからまぁ思いついたもん勝ちっつかやったもん勝ちなんだよね。



やはりこれが最強と言わざるを得ないよね。ホントに。これも一切いじりが無いじゃん?だからこそのグルーヴ感なんだよね。これで細かく刻んで配置とかするとしつこいようだけどただのリミックスになっちゃうわけよね。驚き感が無くなるし恐らくグルーヴ感も無くなると思うわけよ。もちろんこれはただの同時再生じゃなくてこのグルーヴ感を出す為の細かいエディットってようは構成のエディットがあるわけだけど、そこにまぁマッシュアップ職人の手腕が出るわけだけど、んでも聞いてる限りだと違和感が無さ過ぎてようは「テクが凄い!」っていう風にならないところがいいのね。それが本文中で書いた音楽優位っつーか音楽中心っつーかグルーヴが中心になっているものってことなのよ。人間優位じゃないでしょ?そこがいいわけだよ。それがまぁ言わば本文中で書いたautopoiesis的だったりoval的だったりするってことなのね。



これも良い例ね。マッシュアップ寄りでアレンジにバイアスがかかってない。あくまでトトロとエミネムを重ねるっていうそこにコアがあるところがいいわけよ。