リゾームについて。

こないだのチンポムのエントリーでさ、何気にでてきたリゾームの概念だけど自分で書いててなるほどなって思っちゃったんだよね。すげーそれは言えてるなと。でもドゥルーズガタリの原著は読んでないなっつーかドゥルーズニーチェとかカントとかの哲学研究系のやつしか読んでなくて、割とまぁ独立した哲学書っぽいやつは読んでなかったんだけどさ、なんとなくまぁ読みたくなったんよね。


で、まぁ千のプラトーだろってことでビックリしたのが文庫版が出てるってことなんだけど最初はそれを買おうとしたんだけど上中下ってあるんで一冊にまとまってる英語のほうがいいなと思ってまぁ英語版を買ったわけよ。で、読んでみたらさ、思ったより難しくないんだよねっつーか最近ちょっと引っ張りだしてくる機会があってデリダの絵葉書とか読んでたからさ、難解というよりかはただのナンセンスさに辟易してたんだけどさ、まぁそんなのもあって相対的な分かりやすさに面白みを感じたのかもしれない。あと最近はまぁ例によってまぁ前にも書いたけどマッシュアップラッシュのおかげでボードリヤールをちゃんと読んでみようと思ったりして読んだりさ、あとはリオタールとかも読んだんだけど、やっぱああいうポストモダン系の哲学者に感じるのって所詮はまぁ雑誌に寄稿する程度のライター哲学者というかさ、そういう意味だとラッセルなんかもそうなんだよね。


別にレベルは低くないけどライターレベルなんだよね。まぁ評論家か。ボードリヤールのもすげー期待して読み進めてたから中盤からその凡庸さに呆れたんだよねっつーかまぁこんなもんかぁーっていう。所謂まぁ現代思想だねっていうレベルのもんなんだよね。そういう意味だとランシエールとかバデューとかもそうだよね。ああいうおフランス系の連中は大体一緒。でもドゥルーズは少なくとも哲学研究者としては超一級だなって思ってたわけよ。哲学者としてはどうかな?ってところだけど哲学研究者としては超一級って意味では東浩紀なんかも同じかもなっつーか最近デリダ繋がりで「存在論的、郵便的」を読んだんだけど東浩紀の哲学研究者としての手腕に圧倒されたね。サブカル系のしか読んだ事なかったからさ、こんな真面目なやつあんまり読んだ事なかったんだけど大学生の時にあんなの書いてたのか!ってかなり驚いたね。


まぁそれはともかくとしてさ、ドゥルーズガタリなんだが、まぁ入門書の類とか概念が転用されたり応用されたのとかを読んでたりしたから全然初心者というわけではないって意味で理解できる部分もあるだろうけど、やっぱりシンクロ率だよね。ある程度の苦労とか苦悩の経験があるからこそニーチェの思想に共感するみたいなそういう感情のレベルでの理解だよね。哲学の理解ってこういうレベルでしか本質的には理解できないと思うんだよね。それは「分かる」とか「分からない」とかね、教科書的な記述で概念を理解するというよりかは共感するってレベルなんだよね。


そういう意味だとまぁ文学的なのかもしれない。いや、別にその本自体が文学的である必要はないんだよ。ただ感じ方とか共感の仕方って意味でなんつーか所謂文学好きが太宰とか三島にかぶれるというか共感して大ファンになるような感じの学問的ではないという意味での感情的な理解ね。で、それは全てにおいてできるわけじゃないんだよね。それは読み手の経験や性格ってのが影響してくるからさ、だから例えば俺はすげーニーチェが好きというよりかは考え方が似てて他人とは思えないって感じなんだけど、実際、ニーチェって感受性が似ててさ、俺と似ててっていうとアレだけど、やっぱなんつーかショーペンハウエルなんだよね。で、あとスピノザね。過去に同胞がいた!って書いてたけどこの辺とかやっぱ系譜がすげー似てるっていうか痺れるものが似てるんだよね。


で、ドゥルーズにはそのニーチェ的な繋がりというかさ、ベースがニーチェだなって思ったのね。まぁそれ言ったら大抵の現代思想はベースがニーチェとかハイデガーなのかもしれんけど、少なくとも千のプラトーの最初のリゾームの章を見る限りは完全にニーチェの後継者って感じがするんだよね。凄まじいシステムに対するレジスタンスというかさ、かなり過激なんだよね。思弁的というよりかはかなり攻撃的なんだよね。そういうトゲトゲした感じがすげーニーチェだなって思ったしまぁ概念とかもそうだよね。


で、まぁそんな感動があったんで色々書きたくなっちゃったんだけど、まぁ最初の章しか読んでなくて色々書くのもどうかと思うけどまぁ書かせてくれ。いや、っつーのはさ、最近書いてた一連のマッシュアップ系のエントリーとかチンポムのやつとかで言いたいことってスッキリこのドゥルーズガタリリゾームの概念に対応するっていうかさ、別に対応させる必要はないんだけど既存のものでこんなに分かりやすい説明があったんだな!って感動したわけね。


ようは俺がメインで言いたかったのはようはリゾームとあとはルートレスな感じだよね。そもそもの既成概念なりシステムの産物といった内部的なものの延長としての創作なり生なりがあるのではなくて、常に特異点として異質なものを作り続けるっていうかさ、まぁそれをあえて狙う必要はないんだけど、そもそもそれを選ぶのがリスキーじゃん?そこをやれ!って言ってるのがズバリ岡本太郎だよね。それでしか生は肯定できないぞ!っていうさ、それこそが生きてるってことじゃないか!ってまぁ岡本太郎も哲学やってた人だしフランス現代思想とか大体読んでたと思うからまぁ親和性があるよね。結果的にそれが異質なもので評価されないものであってもさ、そこから何かが生まれ続けたり派生する可能性があるって言わばリゾームじゃん?で、一連のマッシュアップ系ので書いてきたやつはようはドゥルーズガタリの概念系で言えばようはノマド的でリゾーム的な創作っつーことだよね。


ようは音楽ってもんが所与の資本主義みたいなシステムによってイニシアチブなり細部の音なりコンセプトが規定されるってことがよくあるでしょ?所謂、売れる売れないの二元論で音楽なり創作を規定してしまうっていう。でもそうじゃないじゃん?音圧が異様なパフュームってあっていいと思うし、オケがでか過ぎて歌が聞こえないパフュームとかってあっていいじゃん?それを自己シミュレーションするってのがまぁ俺なりのシミュラークルだってのは書いてきたよね。まぁ一種のシミュレーショニズムだと。


で、その創作のモチベーションがポイントなんだけどさ、それは俺がそれを作りたいとか聞きたいとかこんなのあったら面白いのになっていうまぁ一般的に見れば独りよがりな動機から生まれているというところがポイントなんだよね。売れる売れないとか金になるならないとか関係無い個人的なところで始まってるっていうさ、そこがそもそも資本主義なり音楽産業なりっていう所与のもんに規定されてない音が出てくるんだよね。結果的にだからまぁ異質なものになるしさ、逆に俺はすでにあるようなやつとか誰かがやってそうなやつとかやってもしょうがないと思うしさ、かといっても奇を衒ってるわけではないんだけど、やっぱ一種の異様なもんが好きなんだよね。まぁポリリズムはともかくとして。


そもそも俺はあれで食おうとしてないし作家性も主張してないしっつーかまぁ結果的に主張になってるのかもしれないけどさ、あとはまぁ前に書いた自分の音楽家としての能力を否定するみたいなところだよね。そこを信じ続けると中途半端なものが出来るって前に書いたじゃん?で、俺は1から作ることに関しては残念ながら凡庸なのしか作れないんだよね。まぁ一般的に見ればぶっ飛んでるかもしれないけどぶっ飛んでる領域から見ると凡庸なんだよね。そこまでextraordinaryじゃないわけね。だからもう無理ですって諦めた所から始まる創造性ってのがさ、ようはノマド的でリゾーム的な創作ってところなんだよね。それは超個人的でなおかつ俺が一般的にはニートとかって言われる遊民の類で、まぁ俺の場合高等遊民だと思うけどさ、それっぽい言い方をすれば高等遊民化したノマドが行き詰まった資本主義下においてスキゾでリゾーム的な創作を行うみたいな感じだよね。


ここで俺が少しでも音楽でやっていこうとかって思ってたらもうそれは狙いでさ、それはもう音楽産業なり資本主義ってものに規定されたサウンドになっちゃうんだよ。でもまずまぁ到底食えないっていうかまぁ食える食えないは関係無いんだけどさ、でも本当に食う気ゼロっていうかさ、あと一般受けするような狙い方をしてないっつーかさ、ネタが異様にマニアックだったりまぁバラつきがあるのもあくまで俺の好みでやってるからだよね。


他の人がどう感じようが俺にとってはどうでもいいことなわけだ。「他人」とか「リスナー」って要素すらもリゾーム的な創作には毒だよね。特にYou Tubeの評価なんて本当に薬にもならずに毒にしかならないようなフェアネスを欠いたものだと思うのね。つまりはそういったものに規定されるサウンドが生まれるという時点でその創作自体が独立したモナドにならなくなるし、外部的なものに何らかの要素が規定されているという意味ですでに領域化されたものの中での創作ということになるから特異点足り得ないでしょ?まぁ別に出た音が特異点的だったらまぁプロセスなんてどうでもいいんだけど、まぁそういう意味でプロセスはどうでもいいってのはまぁ俺も思うけどさ、でもまぁ今回わざわざ書いてるのはこういうまぁ細かいディティールだよね。ノマド的な創作って意味での。


で、あとはまぁありがちだしnothing is unusualだけどさ、著作権侵害ってのも著作権っつー領域を侵犯してるってところにまぁ意味があるよね。そのゲリラ性というかなんというか、そこがまぁ前に法なりシステムってのを考えた上での創作なんてすでにリミテーションがかかってるじゃねーか!ってことなんだよね。それが大ネタであれ訴訟起こされそうなものであれ結果的にそこから面白いものが出来るならリスキーでもやるべきだと思うんだよね。そこを上手くタイミング良く体現してくれたのがチンポムなんだよね。だからまぁあれは俺的に超タイムリーで最高だったわけね。だからまぁあんな長く色々書いたんだけど、アートや音楽のイリーガル性というのもまぁ換言すれば領域化されない意味でのアジールというかさ、そこをアートなり音楽って世界がアジールを保証しないと雁字搦めになってつまらないものしか出来なくなるよってのが俺の言いたかったことだよね。


で、そこをようはかつての無法地帯だったYou Tubeみたいなものはアジールどころか脱領域化を地でやっていたから凄いんだよね。しかもそれは個別のエージェントがあって意図的にポストモダン的なネットの世界観の戦略をやっていたとかではなくて半ば自然発生的にリゾーム的なものが出来上がってしまったって意味でアリの巣的というかさ、菌が勝手に繁殖して顕微鏡で見てみたらフラクタルみたいなツリー状になってたみたいなね、拡大しても拡大しても自己同型みたいなさ、そういうのが発生してたってのが面白いんだよね。


それは既存の領域を侵犯したものであったり脱領域化したものであったりしたんだけどそれ自体が既存のコンテンツの再領土化をしていて独自のネット文化みたいなanything goesなもんが出来上がってたっていうね、そこにまぁ近年見られるようにオフィシャルなものがそのルートレスでノマド的でスキゾ的な広がりに着目して意図的に宣伝行為を目的として入ってきたじゃん?言わば再領土化された新たな大地に古い領土のものが入ってきたっていうさ、再領土かされた要素を奪われたオフィシャルのほうがその再領土化された場で取り戻して展開させようっていうまぁ一種のオフィシャルなものの侵略があったわけだよね。で、みんななんとなくそれには嫌な思いをしていたわけだし、パフュームの削除ラッシュとかあとワーナーだったか忘れたけど全部音声がオフになるとかさ、あれこそまぁまさしく古いものの侵略だよね。


オフィシャルなものがオフィシャル性を再領土化された場所で法を武器に主張してその要素を取り戻したっていうさ、それは一見、法的に見れば妥当なものであるし、それこそYahoo知恵袋とかで模範的な回答をするようなやつらから見たら納得がいく行為なんだけど、俺みたいに色んなものが勝手に繋がりあっていくみたいなところに魅力を感じていたやつから見たら最低の行為に見えるんだよね。だからそこは間をとってマネタイズでいいじゃん!って思うんだけどそれは個々のコンテンツホルダーのポリシーに依存するんだよね。


そういう意味でマネタイズしてるというのは凄くネットのリゾーム状のシステムには一番優しいというかさ、お互い殺し合いをすることなく共存してる感じがあるよね。でも削除要請だの音声無効だのってのは再領土化された場をむしろ楽しんでいたものとしてはオフィシャルなものの侵略にしか見えないんだよね。実際、You Tubeが何で着目されたか?ってそのリゾーム的なシステムにあるわけでしょ?それまででは考えられなかったような広がりを展開できる可能性があるってのがアンオフィシャルなものも含んだものによって実証されてきたからこそオフィシャルなものが乗り出したわけじゃん?でもそこでオフィシャルなもんがそもそもの再領土化された場所にわざわざ来た理由を作った要素を法を武器に壊しちゃいけないってことなんだよね。それだとただの侵略になるから迷惑なんだよね。


一方的にコンテンツホルダーとしての権利を主張して他のリゾーム状に張り巡らされたものをどんどん削除しようとするっていうさ、それがまぁ違法コピーとかならアレなんだけどノマド的でスキゾでルートレスなものの最たるものである二次創作系のものも削除するってことになるともうさ、しつこいようだけど侵略にしか見えないんだよね。あと相当感じ悪いわけだ。それはまぁパフュームの件で色々書いたよね。自分で自分のクビを締めるようなことを徳間がやってるっていうさ、ホント意味ないどころかマイナスだからもっとネットっていう性質を理解してYou Tubeに来ないとダメだねっていう典型例だよね。古いタイプの人間がああやってコンテンツホルダーとしての権利を主張してイリーガルなものは一切認めないっていう保守性を発揮することで侵害されるリゾームの広がりがあるわけでしょ?


そこはそれこそオフィシャルなものが侵犯してはいけない領域なんだよね。だからこそそれを再領土化されたものとかアジールって意味で黙認するっていうさ、実際、それ自体がコンテンツの宣伝になってることが多いわけだからとりあえず向こう見ずな削除なり権利の主張はやめてくださいってことだよね。まぁジャスラック然りなんだけどね。そりゃ法的に見れば妥当だけど音楽ってのを中心に考えた時にやたら著作権を主張するってどうなの?ってことだよね。バーでビートルズの曲をハーモニカで吹くような個人の表現の自由が奪われていいのか?ってことじゃん?まぁ最低だよね。本当に。


そこをまぁ従順で飼い馴らされていてなぜかイリーガルなもんに異様に反応しつつ頭ごなしに否定する日本人は法的な観点から見てむしろその権利の主張こそが妥当だとかって地で思ってたりするのが相当マズいってのもこないだ書いたよね。いやいや。そこはシステム側の仕事なんであってさ、むしろ個々はおかしいところにはおかしいよって言わなきゃいけないしさ、違和感があるところには是正をするっていうさ、そういうのをやらずに法の行使=妥当みたいなことやってるとそもそもシステム側に批判的になれないしそんなの権力者の思うつぼになるじゃん?ってことなんだよね。


だからこそまぁ飼い馴らされてるんだよね。飼い馴らされることにconformityを感じていたりpeer pressureという名の空気を作り出すっていうさ、そこが結果的に個人個人の息が詰まるような監視のやり合いを生み出すことになってるし、それが生き辛い社会を作り出している原因の一つだってのも前に書いたよねっつーか今回書いてることはここ一ヶ月ぐらい色々書いてきたことのサマリーになってるのかな。まぁドゥルーズガタリ千のプラトーの最初を読んでまぁ勝手に頭の中でまとまった感じか。


ちなみに岡本太郎は凄くプラクティカルな形で抽象的にならずにその重要性を説いていたよね。勝手に俺の中で自分の最近のマッシュアップラッシュと岡本太郎とチンポムが繋がった感じだわ。で、俺的に言わせてもらえばそれは個人の生もそうだけど結果的にvitalな活力があるような風通しの良い社会を育むことになるってことが言いたいんだよね。固まり過ぎなわけよ。それがもうイヤ!って思ってる人とかも結構でてきてるんだけどpeer pressureなり空気なりってもんでなかなか抗えないという日本独特の雰囲気が出来てるっていうさ、そこを打破する考え方の一つがドゥルーズガタリの諸概念だと思ったってことですね。今回書きたかったことは。そういう意味でまぁ凄くドゥルーズガタリの本はレジスタンスの本っていうかさ、それはマルクス主義だとかの党派性があるものではなく右左ではない本質的なレジスタンスの魂みたいなのがニーチェをベースに込められてる感じがするんだよね。だからまぁ最初の一章だけで凄く共感したってことです。で、まぁ凄く見くびってたなと。あんま読まずに言うもんじゃないなってのは凄まじく反省しているところですね。


ってことでまぁ今日はこんな感じで。