ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

お前のお母さん、英語であそぼに出てるだろ?

「おんどりゃー!刺し殺すぞ!」とかって言っちゃうぐらい気迫があったやつがいたんだけどさ、いや、小学校の頃ね。いやーでも本当に俺は小学生ぐらいの時は裸の王様だったんだけどさ、このおんどりゃー!のやつを舎弟みたいにしてたんだよね。んでまぁあるときさ、そいつが家に遊びに来るっつーか当時の誘い方としてはこいつに限らず無理矢理誘う感じで迷惑がられてたんだけどさ、んでまぁこいつが始めて家にくる時だったから案内ってのもあってどっかで待ち合わせてんで俺の家に行ったんだと思うんだよね。あ、そいつの家に行ってからだ。ちょうど俺の当時の家とそいつの家が中間地点ぐらいだったんでね、下校のときにそいつの家に寄ってそいつがランドセルを置くだとかまぁ一旦家に帰りましたっつー形式を満たす為にってのもあってまぁ帰ったんだよね。


んで俺の家に向かったんだけど大抵の場合、俺は午後クソがしたくなってたんだけどさ、それはなんでか?っつーと過敏性なんたらっていう腸のアレなんだけど牛乳とかに反応するんだよね。で、すげークソがしたくなるんだけどさ、だったら給食の牛乳飲まなくていいじゃん!ってことになりそうだけど飲み物があれぐらいしかないから飲んでたんだよね。で、まぁすげークソがしたくてさ、んでやっと家についた!って時にさ、俺はクソがしたかったんだけどさ、で、トイレは玄関のすぐ横にあったんだけど、なぜかそいつを玄関で待たせてさ、んでトイレに入ってドアを開けたままウンコしたんだよね。で、大げさに「グぁぁぁ!」とか「いやーん!」とか叫びながらウンコをしててさ、んでそいつは「大丈夫?」って普段そんなこと言わないやつなんだけどさすがに聞いてくるみたいな感じでさ、んで俺はなんて答えたか?っつーとさ、「お前のお母さん、教育テレビの英語であそぼに出てるだろ?」っつー質問だったんだよね。


いや、さっきそいつの家に行ってるじゃん?で、そいつのお母さんの顔を見てるからまぁ似てると思ったんだろうね。でもまぁ同一人物なわけがないんだけどなぜかゴリ押ししたい気持ちになってさ、やたら聞いたのよ。で、そいつはすげー回答に困るんだけどさ、まぁ結局「出てない」っていう否定系のことを言おうとすると「アオーン!!あぁぁぁぁぁ!!」とかって叫びモードになってかき消してケロッと戻って「英語であそぼに出てるよなっ!」って聞くみたいなさ、で、「出てる」って言うまで俺はトイレから出ないぞ!とかって言ってるわけよ。俺が。で、それが10分ぐらい続いたのかな?メタ禅問答みたいなのが。で、そいつがもう観念して「出てる」っつーよりかは「あぁ」って答えて終わったんだよね。


俺なりのプレイだったのかただの肛門期だったのか黄金期だったのか分からんけど家に入れなくてマンションの裏方の庭でノグソしたこともあったよね。で、パンツにウンコがついたんで熊さんが書いてある可愛いパンツをバレないように市のゴミ箱にわざわざ捨てに行ったんだよね。鉄のやつで外からは見えないようになってるやつなんだけど。で、無事パンツを捨て終わってスウィートホームの続きをやってた気がする。で、後日バレたんだよね。そりゃバレるよな。マンションの敷地内に犬じゃなくて人糞があったらそりゃバレるよね。


で、そのタイミングで熊さんのパンツも無くなってるんでどうせウンコでもついたんだろってことでまぁ完全にバレたんだけど俺はシラを切り通したよね。まぁーでも小学校低学年だったと思うんだけどさ、スウィートホームは強烈だったよね。当時からああいうのが大好きですげー世界観にハマってたんだけどさ、「ふらんしたい」とか出てきて「ねぇお母さん"ふらんしたい"って何?」とかってドヤ顔で聞いてたんだけどさ、思うにやっぱこういう個性を殺してしまう日本の環境って良くないと思うんですよ。ええ。俺みたいな子供が問題児になってしまうような環境ですね。ええ。ゲームの攻略と言えば俺!ってぐらい賢い子だったわけで。


まぁ成績はビリだけどもってこれって結構よくある「個性のある問題児タイプ」だよね。大人になってからそれを上手い形で発揮し続けてクリエイティブな大人になった!みたいな。でもそれって語られるのって成功体験だけですからね。ええ。成功してないとエピソードにもなりえなくてさ、ただの「ダメな子」っていうことになるんだよね。あくまで大人になってからのクラクラするような活躍によって子供の頃のエピソードが半ば伝説みたいになるっていうまぁある意味での神話の体型ですよね。


で、哲学とかってやっぱね、一般的に負け犬とか負け組って言われてるようなやつが考えてたり書いてたりすることのほうが大抵まぁ哲学らしい哲学だったりすると思うんだよね。Armchair pholosopherとかさ、やっぱ地位がある人とかダメだよね。地位がある=ダメとかアカデミックである=哲学ではないってことにはならんのだけどさ、そもそも常に失われているものが哲学だと思うんだよね。形にならないような思索とか思想っつーのかな?


そもそもそれが商品とか論文として成り立ったりしないんで評価のされようが無くて埋もれていくどころか「埋もれる」という概念すらも生まれないぐらいの無であるみたいなさ、いや、別に俺がそうだって言う事ではないですよ。急にまぁこないだまたアナル関連なんだけどウンコしてる時にタレブの話を思い出してさ、ブラックスワンに書いてあったことなんだけど「このやりかたがワークした!」みたいな成功体験って当然成功者しか書かないでしょ?そんな中で失敗体験が金融系だかで語られている希有なものとして挙げられてた本があったんだけどさ、まぁ真理っつーか本当のことって失敗体験者じゃないと書けないこととかも多くあると思うんだよね。


哲学なんて最たるもんでやっぱリア充じゃ無理なところっつーか極め尽くせないところってあるよね。病的なまでに孤独で惨めな境遇じゃないと生まれてこない思想とかってあると思うわけよ。まぁそういう意味で俺は中途半端なんだけどね。別にそんな極貧とかになりたいとは思わんし。


まぁ別に極貧=文学とか哲学ってことではないんだけどね、ただまぁなんかやっぱ色々読んでたりしてもやっぱ病的な人とかさ、異常に不幸な人とか孤独な人とかって良い仕事してる場合が多いよね。まぁ必ずしもそうというわけではないんだけど特に哲学とか恐らく文学とかもそうなんだろうけどリア充ってあんまりいない感じがするよね。多分リア充とかだったら意識が思索とか文章に行かないんだと思うんだよね。目の前に美女がいたりさ、旨い食べ物とか酒があればそれやるもんね。だからまぁすげー哲学とか文学とかまぁ悪く言えば古くさい感じの学問みたいなもんってリア充的なものと水と油なんだと思うよね。まぁ科学とかは違うと思うけどね。


ただまぁなんつーか元々そうじゃないやつが極貧とかに憧れたりさ、「そうじゃなきゃダメなんだ!」とかって思ったらダメだよねっつーかそれは逆にブルジョワがやる趣味なんだよね。これもまぁ俺の持論なんだけど過去のそういう不幸な境遇とか極貧での執筆活動みたいなのに憧れるやつって五体満足のブルジョワが多い気がするんだよね。そいつがあえて実家が金持ちなのに汚いアパートに住むみたいなさ、憧れてる感って出るよね。あとはまぁ能動感ね。貧乏やってます的な感じね。でも本当に貧乏なやつなんてそんなことやる必要ないしやりたくてやってるわけじゃないじゃん?そういうところから出てくるものとかだからさ、もう天然じゃないっつーか素じゃないってところでもうダメだよね。憧れても無理だし憧れるようなもんじゃないわけよ。


なんかすげーイヤなんだよね。特に左翼とかに多い気がするんだけどなんか反ブルジョワだ!っつって極貧を選ぶような感じっつーのかな?別に左翼でもリッチになれたらリッチでいいと思うんだよね。時計仕掛けのオレンジに出てくるすげー豪邸に住んでる反体制の作家みたいな感じでもいいわけで。まぁ奥さん殺されて自身も半身不随とかまぁそういう不幸エピソードとかは別としても。


思うにやっぱプライオリティだと思うんだよね。やることが思索ぐらいしかないとか書くことしかないとかさ、でもリア充だったらやっぱ楽しい事をやるから美女とか車とか旨いものとかに行くわけよ。なんであえてそんな小難しいことしなきゃいけないの?的な快楽主義者になるよね。そこでもまぁ最強なのはそういうリア充的な快楽に比べても学問の快楽のほうが勝るから快楽主義的な意味でも学問に没頭できるってやつね。これはまぁ本当に才能だよね。天才とかとはまた違う感じの才能ね。リア充だろうがこいつはこの仕事を成しただろうとかこれを書いただろうとかさ、例えばキルケゴールとかありえないからね。やつがリア充だったらあんな暗い本書かなかったと思うしまぁそれで言えばカフカとかもそうだと思うんだけどね。


そういう意味だとリア充と哲学のバランスが良かったのって古代ギリシャなんだよねぇー。酒飲みながら少年愛語るみたいなさ、まぁキモイおっさんの集まりだけどさ、ブルジョワとかって意味じゃないなんつーかまぁ自由人でなおかつ教養人的な感じっつーのかね?かといっても英国紳士的なスノッブな感じじゃなくてさ、地で好きだから語ってたり書いたり調べたりしてるっていう感じね。なんかとりあえずやっぱよく言われるように必要なのは余暇だよね。lazyっつーよりかはleizyな感じね。busyじゃないけどlazyでもなくてleisureを使いこなすみたいなさ、そういう意味でのleisurelinessね。なんかだからやっぱすげー競争とかイヤなんだよねぇー。なかなか現代って競争的な意味合い抜きで何かをプロフェッショナルにやるのって難しいもんね。余暇的な感じだとやっぱどうしてもアマチュアっぽくなっちゃうっていうかなんていうか。そういう意味だとやっぱ岡潔とかすげーよなぁー。


その人の才能というのも凄く重要だけどそれを心底好きになって苦痛無く放っておけばそれこそニートの2ちゃんとかゲーム並に猿のようにやり続けるっていうさ、その没頭というか三昧感だよね。それも一種の才能なんだよなぁーって最近思うわけですね。凄い仕事を成し遂げた人達って普通にそういう複数の才能があったりするんだよね。天性の才能っつーかそれこそ天才的な部分と没頭しちゃうような別に天才じゃなくても好きになれば誰でもそれはありうるっていう感じの何かに対するobsessionね。あとはまぁそれをやり続けられるっていう環境なんだけどさ、なんつーかやっぱでも好きなことがあるって幸せなことだよね。


リアルが寂しくても好きな事のおかげで全然オッケーっつーかそれはリアルからの逃避という意味ではなくて自分が選びとっているリアルが何かに対する没頭ってことなんだ!ってことになるとそれで満たされている毎日を過ごしているとてもリア充に見えないやつもプラトニックな感じでリア充だよねっつーか物質的なものにあまり左右されないという意味である意味で最強のリア充とも言えるよね。俺がここで書いているオタク最強論ってまぁここなんだけどね。実存の危機とか感じてる暇がないもんね。それが萌えであれ学問であれ没頭できることがあるとそれだけで満たされるよね。まぁ分かりやすい幸福じゃないのかもしれないけどさ、それは本人が自覚してないだけで没頭できることが無い人から見たらそりゃーまぁ幸せそうに見えるんだろうなって思うよね。


ということがなんつーかまぁ俺が最近思う「好き」を極めるってことが即、幸福とか快楽に繋がるみたいなことなんだよね。そこに社会性があってそれで食えればまぁ最強だわな。元々食えてるやつは別に社会性なんて求めなくていいんだよね。俺の場合必要性があるから両立性を求める必要があるけどその必要がないやつはただひたすら快楽に身を寄せるだけでいいんだと思うよね。そのために生きる!ってことがまぁ幸せってことだよね。まぁ家族のため!とか彼女のため!って人もいるんだろうけど、俺にとってはやっぱインナートリップだよね。最強の快楽って。面白いマッシュアップが出来たとか面白い本を読んだとかあとはやっぱ「うわー!」ってなるのは頻度は高くないけどやっぱ数学が多いな。あとたまに物理でも。全く分からなかったことが色々と分かるようになってきてんで例えば分からなかった本とかを読んだ時に「こういうことだったのかー!」っていうまぁプラトニックスパークっつーかアハ体験だよね。そういう時に最高の快楽を感じてるなって自分で思うもんね。最高のズリネタ見つけてイッた時みたいな感じだよね。インテレクチュアル・オーガズムとでも言うべきか。


それをまぁ昔は色々なもので感じられたんだけど、そこまぁおっさん化っていうか、感受性が無くなったとかじゃなくて自由過ぎる人に特有の慣れだよね。好きな事の大抵なことには手を出しているしむしゃぶりつくしているから結構慣れちゃってたり飽きちゃってたりまぁ普通の生活とあんま変わらないってことみたいになってるっていうさ、そこでやっぱなんつーかイレギュラーなオーガズムを得られるのが今の所はもう数学か物理しかないんだよね。世の中色々あるんだろうけどまぁーつまらんわな。大抵の事はもうつまらん。仙人モードですな。消費とかもさんざんやったからね。あっちで。で、数学に逃げるというよりかはもう数学から快楽を得るしかないっていうことになってるんだと思う。数学で食っていくか?というのは別にしてもやっぱやめられないのは快楽なんだろうなって思うよね。でも読んでるときがずーっと面白いか?っていうとそうでもないことのほうが多くてさ、分からないことだらけなんだけど、いつも書くようにそれが分かった時ににね、芋づる式に他の事も一気に分かるようになったりさ、あのガーッ!と何かが開けていく感じがちょっとニルヴァーナチックなんだよね。


そういう意味で俺が無知というのもあってか知的刺激はやっぱ数学から得られるよね。哲学とかは本当にもうディティールって感じだしさ、あとはまぁ読んでないやつを読む感じだけど、分厚い研究書とかどうでも良くなってきてるんだよね。マキャベリの分厚い研究書とかあるんだけどさ、やっぱ俺がやりたいのって政治学研究じゃなくて政治学とか政治思想から何かを得てんでそれを活かしていくっていうかまぁ自分の思索の材料とかカンフル剤にしたりするってところだから、あまりに細かい歴史的なディティールがどうみたいな研究になると本当にどうでもよくなっちゃうんだよね。あとは解釈学的な細か過ぎるところとかかなりどうでもいいんだよねぇー。決して哲学に興味が無くなったってことではないんだけどさ、ただもう読みたいやつはかなり読んじゃったってのはあるよね。まぁそりゃーそうだわな。ここ4年ぐらいずーっとそうだったわけだからさ、そりゃー興味あるやつは一通り読んじゃうよね。


あともう一つね、認識がどうのってやっぱそれはもう認知科学とかの仕事だと思っててさ、過去に哲学のカテゴリだったものが今はもう脳科学とかサイエンス系の分野で研究されるサブジェクトになってるって意味でまぁ別に俺は科学主義者ではないんだけど、あとは哲学の問いとかで時間とは?とかってのもあるけどこれもやっぱ物理学的な知識なり吟味が無い上でただ哲学的な思索だけ続けててもしょうがねぇーんじゃね?って気がするんだよね。最近はちょっと科学的なものにも手を出しているからずいぶんと哲学が古くさいものに見えちゃうっつーか時代遅れな感じは否めないってのがあるよね。そんな中でももちろん最近ようやく好きになったドゥルーズとかあとはまぁニーチェとかシュトラウスとかは科学とか関係無しに読めるっていうかまぁこれぞ哲学!って感じのしかもう興味ないよね。


意識がどうのとか認識がどうのってさっきも書いたけどやっぱもう哲学でやっていくような分野じゃないんだよね。まぁ哲学者と物理学者の交流があってもいいと思うけどさ、ただやっぱなんつーかもう科学の仕事だよねぇーそれはってのが結構多い気がするよね。そういう意味でサンデル先生が扱う題材って正義とは?とか道徳とは?とか倫理とは?みたいなさ、それこそ哲学で思索しながらディスカッションもして考えていくこれぞ哲学!といった感じのものを扱っていて、まぁある意味でアカデミックな世界での哲学で言えば凄く哲学らしい哲学だよね。社会や世界にとって有意義な題材っていうのかな?そこはもう別に貧乏とかさ、書きなぐるしか無い!とかっていうまぁ実存系みたいな哲学者とか作家向きじゃないっつーと語弊があるけど、サンデル先生みたいなエリートが哲学を扱う場合に適した題材って気がするね。だからまぁそういう意味で別にアカデミックな哲学って頭ごなしに否定していいわけではないんだけどね、ただやっぱ自分の中で哲学っつーとイコール実存みたいなところになるんだよね。それはもう俺の哲学観なんだと思う。


あーもういいか。なんかダラダラしてきたしこの辺でやめるわ。まぁそんな感じで今日はこの辺で。