人生がむなしいです。その6。

俺がいつも「やりつくしちゃった感」として言っているさ、何をやっても昔ほど何もかも面白くないっていうさ、これは本当に無駄に歳をとりすぎたってのもあるけど、まぁそんだけ好きな事をやってきたり消費をしてきたってことでもあるわけだよね。だから感性の鈍化だとは思わないんだけどさ、なんかでもこのね、「なにかにこらなくてはダメだ」ってのがなんつーかまぁすげーさ、そうだよねぇーっていう。数学の話になっちゃうけどこれをプロパーとしてやっていきたいってのもあるけどさ、やっぱでもすげー凝りたいんだよね。何かに。


それをいつも俺は探しているんだけどやりつくしたり、あとはもう日常になっちゃったりさ、例えば自分にとって哲学書とか思想家の本を読むことって別に特別なことでもなんでもなくてさ、凝るとかっていう「コト」ではないんだよね。最近ではもう学問という感覚でやっているという感じすらないよね。そのぐらい自然だからこそ何か凝りたいことが必要になるっていうかさ、まぁこれは見方を変えれば結局は哲学がプロパーで数学は娯楽なんじゃん?ってことにもなるけどさ、その数学すらも自然なことになっちゃったらまた凝りたいことを探すようになるのかな?って思うんだけど、今はとりあえず数学の読むやつが多過ぎて結果的に没頭してるってことになるかもしれないね。全然はかどってる感じはしないんだけどね。


いやさ、で、話を戻すとさ、加齢と共に「歌」が響くようになるってのはあるよね。それは色々な挫折なりなんなりの人生経験が無いとニーチェは理解できないみたいなもんでさ、いや、哲学ってそうじゃん?死ぬほど悩んでないやつだとやっぱあれは没入できないと思うんだよね。研究対象としてやるならともかく、悩んでるやつは何か心の依りどころが欲しかったり、考えていることに関してのヒントとかさ、何かを死にものぐるいで得たくて、んで哲学書とかに行き着くんだよね。そういう意味でもう実存剥き出しでさ、教養じゃないんだよね。もう魂と繋がるみたいな感じだよね。


それでいうと本当に哲学をしていた人として最近は西田幾多郎三木清をすげー再評価してるんだよね。西田幾多郎って自己流じゃん?まぁ哲学を読んではいたけどさ、自分の哲学は自分で生み出していたよね。三木清なんかも特に人生論ノートなんかだとさ、ショーペンハウエルっぽい感じがあるっていうかさ、随筆なんだけどね、なんかすげー魂がこもってるんだよなぁ。これぞ哲学!という感じの哲学なんだよね。そう思うと哲学者って絶滅危惧種なんだよなぁー。吉本隆明なんかもこれぞ哲学!だね。彼らの思想とかが好きとかそういうのではなくて、哲学的なattitudeが理想的って意味で高く評価してるのね。まぁ三木清は本当に大好きだけどね。


やっぱさ、カントかどうしたとかスピノザがどうしたとか関係無いと思うんだよね。まぁ読まなくていいというわけではなくて、自分の思索をするときに誰々がこういっていたとかさ、理論的なバックグラウンドを用意しておくとかさ、それって必要ないと思うんだよな。特にネグリみたいなさ、あの辺の大著ばっか書くポストモダニストとかさ、ああいうのが哲学って言われてきたけど本当に違うよなって思うのね。文献学者だよね。本当に。で、それのコピペっていう。血で何かを書いてる人って本当に少ないよね。思うに哲学って哲学病的な青年が陥りやすいものじゃなくて、考えちゃう病なんだと思うんだよね。それで言うとデカルトなんかはかなりそうだったと思うんだよね。


リファレンスゼロってのが理想的だよね。引用とか一切無くてただひたすら思索が綴られているっていう。フッサールなんかはなんたらっていう速記法で書いた日記帳みたいなのが大量にあるらしいね。全然まだまとまってないらしいんだけど、まぁこういうのが哲学だよねって本当に最近は思うよね。いや、その能動とか受動とかね、学ぶ学ばないではなくまぁway of life的な意味だよね。哲学のタームを利用した文化批評なんかもまぁあれはただの批評だよね。カルスタっつーかなんつーか。別にああいうのはあっていいと思うし面白いのもあるから文句はないんだけどね。


まぁそういう意味でドゥルーズはまだ途中までしか読んでないけど良いね。もうひたすら永遠と話が続く感じは西田幾多郎のそれに凄く似ている気がして。


なんか書きたい事がもっとあったような気がしたんだけど忘れたんで寝るわ。